本屋に行ったら、私の本が並んでいた。
平積みにされてるのもある。
『連合赤軍は新選組である』(彩流社)が並んでいる。
その隣りには、『歴史に学ぶな』(dZERO)がある。新刊書コーナーに私の本があるのか!と嬉しい。
でも、ちょっと恥ずかしい。いいのかな、こんなタイトルで。なんて思ってしまう。
「いいんですよ。このくらい断言しなくては」と、出版社は言う。
「バチッ!と言って、さあどうだ。どう考える!」と問題提起する。それがいいんですよ、と言う。
「こうも言える。ああも言える。でも、どうなんでしょう…」と逡巡し、謙虚に言ってる人では本のタイトルになりませんよ、と言う。そうなのか。
「連合赤軍は軍というけど軍人はいない。軍になろうとして無理をしてあんな事件を起こした。
武士でなかった人間が作った新選組も同じだ。武士になろうと焦って、隊規を厳しくして次々と切腹させた。
そこが似てるという人もいるけど、どうなんでしょう。その点は、あるいは言えるでしょうけど…」という「迷い」を表に出した長いタイトルでは本の題名にならない。
うん、それはそうだ。「“歴史に学べ”とはよく言われる。でも、どう学べばいいんだろうか。
もしかしたら、“歴史に学ぶ”というのは、ある意味、危険なことかもしれない。
じゃ、それを考えてみましょうか」。これも謙虚だが、本の題名にはならない。
だから、あえて、ズバリと言ってるんですな、『歴史に学ぶな』と。
私の本には、こういう「断定」「言い切り」が多いな。
又、喋っていても、時々、こういう「断定」をする。話の中に、「小見出し」を付けて、あえて強調してるのかもしれない。
「右翼のテロはミニスカートで、左翼のテロはキュロットだ」「山が好きな人間は左翼になり、海が好きな人間は右翼になる」…などと、言い切っている。
それで、「全て」は言い尽くせないにしても、一面の真理は衝いているのかもしれない。
これは何と言うのだろう。これが何百年も言い続けられると、「格言」とか、「諺」になる。あるいは、「箴言」となる。
でも、私の言葉は、そんなに長い生命はない。だから、格言にも、諺にもならない。
では、どんな言葉が「格言」として残るのだろう。多くの人が、「それは言えるよね」と納得するからだ。
又、その言葉が、今度は、人々の心の中に飛び込み、その人間を支配し始める。そうなると「格言」になるのだろう。
「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する」
「人民の、人民による、人民のための政治」
「100人の真犯人を逃しても、1人の冤罪を出すな」
…皆、政治的な言葉だ。格言であり、スローガンでもある。
この言葉のもとに運動をする。安倍さんの「日本を取り戻す」という言葉もある。短い言葉で、人々を惹きつける。うまいですね。「格言」になりつつある。
私たちも、こういう言葉(格言)で突き動かされて生きてきた。いろんな格言、箴言の支配下にあったのだ。
「時は金なり」とか、「今日できることを明日に延ばすな」という言葉があり、強迫されたように、この言葉を守ってきた。
夜、仕事をしていて、どんなに眠くても起きていて、終わらせる。ずっと、このスタイルでやってきた。
でも、最近は、眠い時は、すぐ寝ることにしている。少しでも寝て、夜中に、あるいは朝早く起きて、仕事をする。その方が能率が上がる。今は私もそうやっている。
しかし、それをやるには勇気がいった。何せ、「格言破り」をやるんだから…。
それに、格言、諺は大昔に作られたものだ。江戸時代とか鎌倉時代とか。そんな昔だから、旧い価値観を背負っている。
「犬も歩けば棒に当たる」。イヌだって、フラフラと歩くと、棒で叩かれる。だから、女や子供なんかは、フラフラ、遊びに出かけてはいけない。ちゃんと家にいろ。という意味だ。旧い時代に作られた旧い道徳観だ。
だから今はもう使うことはない。
でも、真の意味を知らない人は、間違って使っている。セールスマンにハッパをかける上司は、「1日に百軒は飛び込め! そうしたら、必ず買ってくれる人はいる。犬も歩けば棒に当たる、と言うではないか…」。
これは間違いだ。だから、こんな旧い諺は捨てたらいいのに。じぶんの都合のいいように「解釈」を変えて使っている。これも、「解釈改憲」だ。
旧い時代に出来た旧い格言、諺は、使わなくていい。無理に使おうとすると無理がある。
昔、「朝まで生テレビ」に出ていたら、美人の評論家が、いきなり激昂して、こう言い切った。「そんな議論は、ミソもクソも一緒にするようなものだ!」と。
いくら喩えとはいえ、これは、汚い表現だ。こんなきれいな人が、こんな汚い表現をするのかよ、と驚いた。
又、ある番組で、きれいな女性が、こう叫んだ。「そんなケツの穴の小さいことでどうする!」と。ビックリした。
「目クソ、鼻クソを笑う」なんて諺も汚いな。死語にしたらいい。何でも守る必要はない。それは誤った保守主義だ。
長く行われたものは、習慣、伝統、文化かもしれない。だからといって、それを全て守り、受け継ぐ必要はない。
切腹、仇討ち、お歯黒…。これらは長い間、行われてきた。だからといって、「守る」必要はないだろう。伝統や文化でも、なくなるものはある。それでいいのだ。
いろんな辞書を持ってるが、本棚に、こんなのがある。『成語林=故事ことわざ慣用句』(旺文社)だ。
巻末に「世界の名言・名句」が載っている。「人生」「家族」「趣味」「政治」…と項目ごとに書かれている。世界の文学者、政治家などが語った言葉だ。
そして、どんな時にそれを活用すべきかも書かれている。「結婚式の時に言いなさい」「お葬式の時に言いなさい」と。たとえば、
「いかに長く生きたかではなく、いかくに良く生きたかが問題である」(セネカ)
セネカは帝政ローマ時代の文豪だ。この言葉は「賀寿の祝い」に活用するといいと言う。
しかし、80才、90才のお祝いの時、この言葉はお祝いになるのだろうか。ちょっと皮肉にも聞こえる。
ただただ、長く生きたこと、そのことが素晴らしい。と言えばいいのではないか。
「平凡なことを毎日平凡な気持ちで実行することが、すなわち非凡なのである」(ジイド)
アンドレ・ジイドは昔、読んだな。『狭き門』『田園交響楽』とか。
毎日、本を読む。ノルマを決めて、ひたすら読む。そのことを言っているのかな。
「活用」は朝礼だという。朝礼そのものが平凡の連続だ。
「無知を恐れるなかれ、偽りの知識を恐れよ」(パスカル)
『パンセ』で有名なパスカルだ。情報過多の現在こそ言える言葉だ。これは「活用」例はない。
「読書をして考えないのは、食事をして消化しないのと同じである」(バーク)
バークはイギリスの保守主義の代表的理論家だ。でも、よく分からない。全く考えることなしに、次から次と読書だけしている、ということがあるのだろうか。何かしら考えるだろう。だから、どんどん読めばいい。わざわざ「消化」の時間を取る必要はないと思うね。
「言論の自由を殺すのは、真理を殺すことである」(ミルトン)
ジャーナリズムの力は大きい。世界を説得しうるような編集者は、すべて世界の支配者ではなかろうか。
革命とは「編集作業」かもしれない。と私は松岡正剛さんに言ったことがある。
大きなタイトルをつけて、そこに人々の関心を集中させる。そして、見出しをつける。不要なものは捨て、有能なものだけをピックアップする。校正では、さらに不要なものを切り捨てる。
革命こそ、この世の「編集」だ。だから、若い時に革命運動をやった人は、編集者になっている人が多い。松岡正剛、松岡利康(鹿砦社)、椎野礼仁…と。
「才能があっても、胸くその悪くなるようなやからもいれば、いくつも欠点をもっていて、快感を与える人もいる」(ラ・ロシュフコー)
これはあるよね。才能のある人は才能を見せびらかすことによって嫌がられる場合もある。
要は、「謙虚な人」の方が好かれる。ということだ。
才能を見せびらかすのも不愉快だが、本当は才能がないのに、威張る人。これも嫌だ。
「俺はいかに才能があるか」と大声で、長々と言い立てる人。これも嫌だ。
又、他人の欠点を見つけて、嫌味を言う人。人を不愉快にさせる天才などもいる。「人の悪口を言わない人」がいい人かもしれない。知識や才能とは関係ない。そういう人と友達になったらいい。
なお、この言葉には「活用」例が出ている。朝礼、部課会、忘年会、卒業式で使うといいと。
でも、こんなことを社長が朝礼で言うと、「お前がそれだ! 早く辞めろ」と皆、思うのではないか。
それよりも、「連合赤軍の総括」の場ですよ。
植垣さんによると、リーダーの森さんは「人の欠点を見つける天才」だったという。
どんな人でも、瞬時にして、欠点を見つけ、どこまでも食いついて批判する。
相手は、最後には、「私は反革命でした。生きている資格はありません」と認めてしまう。まるで、冤罪を作り上げる刑事のようだ。ラ・ロシュフコーのように、皆が、〈寛容〉の心を持ってたら、連赤のような悲劇は起きなかっただろう。
では、そろそろ、終わろうかな。最後に、2つほど取り上げる。
「人間が賢くなるのは、経験によるのではなく、経験に対処する能力に対してである」(バーナード・ショー)
成人式、卒業式で「活用」するといいと出ていた。
「自分の経験は、どんなに小さくとも、百万の他人の経験より値打ちのある財産である」(レッシング)
これも、卒業式、成人式で使うといいと、ある。
しかし、ビスマルクのあの有名な言葉は入ってない。
「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
今挙げたいろんな言葉よりも、これの方が、グッと格言ぽい。愚者、賢者を対照しているし、「大きな視野」に気づかせてくれる。昔から、知っていたし、いい言葉だと思っていた。ただ、最近になって、これは危険じゃないのか。と思った。大きく歴史に学ぼうとして(戦争を体験したような)個人の「体験」を無視している。
そんな疑問、反撥から始まって書いたんですよ。5月22日に全国で発売された私の本だ。『歴史に学ぶな』(dZERO・1500円)だ。
じゃ、目次を紹介しよう。
これは目次をつけた編集者がうまい。編集こそが〈革命〉なんですよ。
第4章の言葉もいいが、凄いのは第3章だ。
「全部『自虐』のおかげ」? まァ、〈自虐〉こそが日本文化だ! むしろ誇るべきだと、この人は言っている。
では、ここの小見出しだ。
「武士道」は中国に学んだ。世界最大の首狩り族。明治人のコンプレックス、ロシア軍に流布した噂。「思い上がり」が生んだもの。刷り込まれた「神風」。日清、日露戦争とオウム真理教。「自虐」という美徳。
うーん、「自虐」は美徳なのか。よくも、思い切ってこんな本を書いたもんだ。
でも、「変わった視点で面白い」と、本屋には平積みになってたな。友人は、電車で読んでたら、皆に覗かれたというし。大阪の書店からは、「面白いから、ぜひ、書店トークをやってほしい」と依頼があったし。
じゃ、この第2弾を書こうかな。
この『ヤマトタケル』は現代書館の「フォア・ビギナーズ・シリーズ」の1冊だ。「このシリーズを全部読む、という目標もいいですね」と高木さん。
この読書会に出席してる人は皆、「全集を読む」という野望に挑戦している。志を持っている人々だ。「三島全集を2年かかって読む」「高橋和巳全集を読む」と。私は「三浦綾子全集を読む」に挑戦している。
それと同じように、「フォア・ビギナーズを読む」。「よりみちパン!セ・シリーズを読む」というのもいい。と高木さんは言う。
この「パン!セ」シリーズからは私は『失敗の愛国心』を出している。イラスト、漫画も沢山あり、楽しい本だ。パラパラ漫画も入っている。又、こういう本にも挑戦してみたい。
そうだ。この読書会に初めて出た人が、『失敗の愛国心』を読みました、と言っていた。ここに参加してる人だとは思わずに買ったという。これは面白い。本はいいね。こういう出会いもある。
前にも何冊か、朗読してテープになった本がある。目の不自由な人のために、耳で聞いてもらうのだ。それと同じかと思った。
でも、ちょっと違った。「朗読ではなく、音訳です」と言う。「週刊誌・単行本の音訳CD版を製作してます」という。週刊金曜日も毎週、音訳されてるという。書いてる「文章」だけでなく、「表」や「写真」もちゃんと「音訳」するのだという。
これは凄い。苦労が多いだろう。こっちの方がインタビューする形になった。
それが終わって、6時から、神田の料理屋さんに行く。辛淑玉さんに呼ばれたのだ。佐高信さんと私だ。
道が分かりづらかったので、「金曜日」の赤岩記者に連れて行ってもらう。
洒落たお店だ。高級そうだ。「のりこえネットなどで佐高さん、鈴木さんにはお世話になってるので、今日は慰労を兼ねて、お礼です」と言う。
「いや、こちらこそ、辛さんの“核の傘”に守られて自由な発言をして…」と佐高さん。なるほど、うまい表現だ。
辛さんが矢面に立って闘っている。このおかげで私らも後ろから付いて行って、発言してるようなものだ。
辛さんの「核の傘」か。いい言葉だ。いいお店だ。いい酒だ。料理も旨かったし、酔いました。「右傾化をどう阻止するか」「ヘイトスピーチとどう闘うか」…といった話もしたようです。酔っていて、よく分からなかった。
ちょっと座りなさいよ」と、ジュースをご馳走になり、「自民党の中にかつてはハト派がいて、かつては元気だった。今はあまりいない」と田原さん。
そうだね。キチンとした政策論争も出来ないし、皆、タカ派的なことを喋り、そうしないと当選出来ないと思っている。「国民のムード」がそうなっている、という。
そんな話をしていたらあっ、時間だと思って、慌ててタクシーに乗って、学校へ。3時2分前に着いた。危ない。
3時から「現代文要約」。
5時から「読書ゼミ」。佐高信vs佐藤優の『喧嘩の勝ち方』(光文社)を読んで、生徒と考える。
読んでたら私のことも出ていた。「喧嘩がうまい」と。驚いた。
最近は喧嘩をやってない。たまにやっても負けてばかりいるのに。「この前、鈴木さんの兄貴にあったら、鈴木さんは全く頭が上がらないの」と佐高さん。
仙台で佐高さんと私の講演会があって、そこに兄貴も聞きに来たので紹介した。その時の印象を語っていた。こんな個人的なことまで語ってもらい、ありがたいです。ちょっと恥ずかしいです。
コスモのフェローの人が言っていた。私の『歴史に学ぶな』を電車の中で読んでたら、表紙を覗かれたと。5人に覗かれたという。
「歴史は学ぶべきものなのに、『学ぶな』と書いてるからでしょう」と言う。それで、「何だこれは」「不思議な本だ」と思ったのか。
それとも、大体、電車の中では、本を読んでる人が少ない。いや、いない。皆、スマホ、携帯ばかりだ。
それで、若い女性が本を読んでると目立つのだ。「おっ、今頃、本を読んでる人がいる」と。
それでタイトルを見たら、『歴史に学ぶな』だ。一体、これは何だ。と不思議に思って、皆が、ジロジロと見たのだろう。
そうか。そういう人をバイトで雇ってもいいな。1日、10人位、若い女性を雇って、電車の中で読んでもらう。それを見た人がツイッターやフェイスブックに載せるだろう。いい広告になる。
①5月25日(日)午後2時より。第2回「飛松塾in姫路」。飛松五男さんが主宰する塾です。姫路城のすぐ前の「イーグルひめじ」で開かれました。ゲストは植垣康博さん(元連合赤軍兵士)。そして私です。3人でトークをやり、活発な質問も受けました。この日のテーマは何と、
〈連合赤軍は新選組だ!
=あさま山荘事件の真実を追求!〉
⑥タレントの愛ちゃん。そして飛松五男さん。愛ちゃんは、藤波心ちゃんと同じプロダクションです。地元ですので、来てくれました。
前に東京で会ったんですよ。愛ちゃんと。クニオ君と、心ちゃんと、3人合わせて、「愛国心」だ!と言われました。
⑩あっ!タバコを吸ってるんですね。普段、人前では絶対にタバコを吸わない人なのに。よほど疲れていたんでしょう。つい、吸ってしまったんですな。そこを撮られてしまった。
そういえば、忙しくて、新幹線の中でも、つい、ノートパソコンを出して原稿を書いてしまいました。知り合いの人に見つかり「パソコン出来ないって言ってるくせに。嘘つき!」と言われました。参ったな。
⑱劇団「再生」のお芝居。「スーザンナ・マルガレータ・ブラント」を上演。千歳船橋の「APOCシアター」で。
5月24日(土)は、芝居の前に高木尋士氏(劇団「再生」代表)と私のプレトークがある。政治活動、右や左…を超える美術、芸術について話し合った。
㉗土風炉で打ち合わせをしました。5月28日(水)。そしたら、「そばの刺し身」がありました。そば粉をまとめて、「刺し身」にしたんでしょう。ナスやキュウリなどを薄く切って「刺し身」といって出す。あの感じですね。おいしかったです。
㉘5月17日(土)「東北学院榴ヶ岡高校」の同窓会に行きました。仙台に。
「ジョジョの奇妙な冒険」で売れに売れている漫画家の荒木飛呂彦さんは第17回生です。私は1回生ですから、随分違います。前に2回ほど会ってますが、この日は来れませんでした。
本体の「東北学院」は創立125年です。その記念のバッグなどは、荒木さんがデザインを引き受けたそうです。無料で。
偉いです。
㉜次の飛松塾in姫路です。6月24日(火)14時開始。場所は、「姫路キャスパホール7F」です。テーマは、〈終わらないオウム〉。ゲストは上祐史浩さん。そして、飛松さんと私です。
問い合わせ、参加を希望する人は、以下に。
(飛松塾 080-5702-8405)