「寺山修司記念館」に行った。5月31日(土)だ。
寺山修司は好きな作家だし、気になる作家だ。前々から、この記念館には行ってみたいと思っていた。
しかし、遠い。青森県三沢市にある。
5月4日(日)、寺山修司の元奥さんの九條今日子さんの葬儀に行き、すぐに行かなくては、と思った。6月1日(日)は、「キリスト祭」もあるし、じゃ、その前の日に行ってみようと決断した。
寺山修司の小説、評論、短歌は随分と読んでいる。「全集」にも挑戦してみたい。
と、思ったが、「全集」は出ていない。著作が余りに厖大だし、多岐にわたっている。だから、「全集」にまとめ切れないらしい。
「寺山修司記念館」に行って、その理由が分かった。
寺山修司は1935(昭和10年)生まれだ。
生きていたら78才。まだまだ若い。「朝生」で頑張っている田原総一朗さんよりも若い。まだまだ仕事をやれたのに。惜しい。1983(昭和58年)、47才で亡くなっている。
天才だった。18才で早稲田大学に入学し、23才でラジオドラマを書き、24才で、長編戯曲「血は立ったまま眠っている」を書き、劇団四季で上演。篠田正浩の映画「乾いた湖」のシナリオを書く。
27才で九條映子(のち今日子)と結婚。「家出のすすめ」を書く。
1967(昭和42年)31才。横尾忠則、東由多加、九條映子らと演劇実験室「天井桟敷」を設立。
1970(昭和45年)34才。「あしたのジョー」の力石徹の葬儀を“喪主”として行う。
この年、「よど号」ハイジャック事件が起き、赤軍派との関係を疑われて、公安に調べられている。
このことに関しては、三島由紀夫との対談(三島事件の半年前)でも語っている。
1974年、「田園に死す」。
1982年、「さらば箱舟」で沖縄ロケ。
1983(昭和58年)47才。絶筆となったエッセイ「墓場まで何マイル?」を書く。
5月4日午後0時5分、肝硬変と腹膜炎のため死去。享年47歳。
寺山修司47才。三島由紀夫45才。余りにも若い。生き急いだ人生だ。
寺山と三島の対談は、両方の対談集に入っている。『寺山修司対談選・思想への望郷』(講談社文芸文庫)。三島由紀夫『尚武のこころ』(日本教文社)だ。『潮』(70年7月号)に載った。発売されたのは6月だ。自決の半年前だ。
今読んでもこの対談は興味深い。
三島は自決を決めているから、達観し、それでいて、寺山とは、真正面から真剣勝負の対談をしている。
この対談は二人のエールの交換から始まる。
〈三島 寺山さん、あなたが主宰する「天井桟敷」。芝居はなかなかおもしろいじゃないか。ぼくも何回か見ましたがね〉
〈寺山 ぼくは少年時代に三島さんにファンレターをなんども書きました。返事はきませんでしたが…〉
二人ともお互いを認めていたのだ。寺山は10才年上の三島を尊敬していた。ファンだと言ってるし。
高取英の『寺山修司=過激なる疾走』(平凡社新書)には、こう書かれている。
「寺山修司が先行する文学者で最も意識したのは、ほぼ10歳上の三島由紀夫(1925〜1970)である。二人は、1970年に『潮』で対談している」
そして、対談の様子を紹介し、さらにこう書いている。
「寺山修司は二十代頃は、三島由紀夫の名フレーズを大学ノートにいくつも抜き書きしている。また、三島由紀夫本人のサインの真似もうまかった。(他に川端康成、大江健三郎のサインも真似ることができた)。ファンレターを出したのも理解できる」
これは意外だった。少年時代から三島が好きで、ファンレターも出してたんだ。これは残ってないのだろうか。
又、三島のサインを真似た、というが、それはないのだろうか。寺山修司記念館にはなかったようだが。
『寺山修司=過激なる疾走』を書いた高取英さんは、寺山修司のスタッフを経て、月蝕歌劇団を結成。
私は、そこで寺山の芝居を随分と見た。そして、寺山の小説を読み、映画を見る契機になった。
寺山修司の元奥さんの九條今日子さんとも今年の2月に紹介してもらった。一緒に元気に酒を飲んでいた。それなのに急に亡くなられ、5月に葬儀が行われた。
高取英さんは他にも、『寺山修司論=創造の魔神』(思潮社)がある。両方ともいい本だ。
ライターの中森明夫氏は言う。「寺山修司について書かれた本は多いが、高取さんが一番正確だし、一番いい」と断言していた。
2月に九條今日子さんと会った時、中森明夫氏もいた。そして九條さんに言っていた。
「死後、何十年も経って、忘れられないし、それどころが、逆に人気が高まり、いろんな発言・証言が出る作家は、この二人だけですよ」と。
なるほどそうだ。二人は生前、意識し合った。競争した。
そして、死後も、競い合っている。そんな気がする。
寺山は三島のファンであると同時に、左翼過激派にもシンパシーを持っていた。
1972年の連合赤軍事件では、「森恒夫論」を書き、「犯罪者」ではなく、敵との戦いに敗れた「戦死者」と書いていた。
高取さんは著書の中で、こうも書いている。
「寺山は、革共同中核派の北小路敏の選挙運動を手伝ったことがあり、その頃、政治に行こうか、迷ったことがあった、と私にいった」
又、元「べ平連」の小沢遼子さんの選挙にも手伝いに行っている。小沢さんに今度会ったら、聞いてみよう。
高取さんの本には、さらにこんな事実も紹介されている。
〈77年9月、日本赤軍が日航機をハイジャックし、拘留中の赤軍派メンバーや反日武装戦線のメンバー釈放を要求していた時、寺山修司が感動していたことを思い出す。彼は私に向かって叫んだ。
「和光(晴生)がやった!和光に負けてはいられない。和光がやった!」
赤軍派の和光晴生は、さそり座(新宿文化の地下にあった映画館兼劇場)でバイトをしていたことがあり、寺山修司と面識があったのである〉
そうだったのか。じゃ、和光さんにも聞いておけばよかった。
和光さんは、日本に帰って裁判を受け、無期懲役の判決を受けて今は徳島刑務所にいる。面会も、手紙のやりとりも出来ない。
ただ、東京拘置所にいる時、私は何回か面会に行った。裁判にも出た。
その時、「さそり座」でバイトしてる時の話を聞いた。
ここでは三島由紀夫の「憂国」も上映されていて、その縁で、三島のお葬式の時は、「さそり座」館主から頼まれて、会場整理係として、三島の葬式に出たという。
不思議な因縁だ。面会が出来るようになったら、寺山のことも聞いてみたい。
高取英さんの本で、もう一つ、ショックを受けた箇所がある。
〈『二十歳の原点』を残した高野悦子(立命館大学生の時、全共闘運動に参加し、69年4月に自殺)は、『二十歳の原点序章』(新潮社・1974年)としてまとめられた日記で、寺山修司の『街に戦場あり』を読み、自慰したことを書いているが、寺山修司はそのことに驚き、「俺のあの本のどこを読んで、そういう風になるのか」といったものである。けれども、寺山の書いたものには、どこかそのようなエロティシズムが含まれているのだろう〉
これはショックだった。
今月、23日(月)に劇団「再生」で、〈高野悦子『二十歳の原点』〉を演るし、その前に、高木尋士氏と私は、高野悦子についてトークする。だから、その時に聞いてみよう。
…と書いてたら、「寺山修司記念館」の話が、出てこない。出てこないままに終わりそうだ。少し書いておこう。
5月31日(土)朝7時30分・東京発の新幹線に乗って、10時31分、八戸に着く。そこから、「青い森鉄道」に乗って、三沢で降りる。
そこからバスがあるのだが、時間が合わない。1時間か2時間に1本しかない。
仕方なく、タクシーで寺山修司記念館に行く。3千円位だ。
そこに現れたのは、壮大な、きれいな記念館。
手前には、寺山修司の大きなパネル。つい握手してしまった。
館内は、いろんな工夫がされていて、寺山の「作品群」を見ることが出来る。
1階のロビーには、寺山の競馬について書いた本が沢山置かれている。
そこだけで、厚い本が7冊ほどあった。パラパラとめくってみるが、全く分からない。馬の名前、データ、表が続き、寺山の文章が載っている。
そうか。「全集」を作るとしたら、こういう本も全て入る。大変だ。とても読めないよ。それに、映画、芝居、歌、…それらも全て入るのだろう。大変だ。
受付のところにお菓子が売っている。「家出のするめ」。するめだ。寺山の「家出のすすめ」からとったのだ。
そして、「田園に歌詩集(カシス)」というお菓子も売っていた。買った。
このお菓子のパロディは寺山もパロディが好きだったから、喜んでいるだろう。あるいは、生前から本人が考えていたものなのか。
又、寺山の歌が書かれた鉛筆も売ってたので買ってきた。今、その鉛筆で、この原稿を書いている。
「家出のするめ」は学校に持って行って、生徒に食べさせた。するめなんて、おっさんの酒のつまみと思ってる人が多い。「生まれて初めて食べた」という人も。
「乙女にするめ、なんて恥ずかしい」と言いながら、「でも、おいしい」と食べてる女子生徒も。
話は5月31日(土)に戻る。寺山修司記念館は、ともかく立派だ。きれいだ。
演劇、映画の世界がリアルに再現されていて、見飽きない。
展示室で、アレッと思ったのは、「机」が多いことだ。中央コーナーは、机ばかりだ。
寺山は「田園に死す」などでも、机に特別な思い、こだわりを持っていた。「テーブルの上の荒野」という歌もある。
記念館でもらった案内には、こう書かれていた。
〈…そして1983年5月4日、その寺山修司は、何もかもを机の引き出しに置き忘れたまま、じぶんの存在を不確かなものとして旅立っていったのです。この記念館はそんな寺山修司を「探す」ことを展示構成の基本としています。詩に、短歌に、俳句に、映画に、演劇に、写真に、スポーツに、メルヘンに…。旅立っていった寺山修司の足跡はさまざまなところにさまざまな形でたくさん残されています。みなさんどうぞ「机の引き出し」を開けてみて下さい〉
そうか。そのための「机」か。
この記念館全体が「机」であり、私たちは、いろんな「引き出し」を開けてみてるのだ。
天才の「引き出し」を開けて、「消えていった寺山修司を探して下さい」と言う。そして…。
〈かつて、さまざまな所に寺山修司はいました。寺山修司は多くのものに興味を抱きました。そして、これだけたくさんの足跡を残したのです。これだけ多くの足跡を残した寺山修司は本当に一人だったのでしょうか? 本当に消えてしまったのでしょうか? いや…〉
そうですね。皆の心の中に生きています。寺山修司は生きています。
さて、一日中いたかったのですが、午後、帰りました。
バスの時間を見て、帰りは、三沢駅まで行きました。何と、無料バスなんですね。
そして、三沢駅から青森観光電鉄に乗って、十和田市駅に降りる。そこからテクテクと歩いて20分。「十和田市現代美術館」に行く。現代アートが中心だ。
入ったらすぐに、「巨大なおばさん」がいる。これもアートだ。5メートル位のおばさんだ。ガリバーの巨人の国に来たような錯覚を持つ。
いろんな作品があって楽しめた。他にも巨大な馬や、いろんな作品が…。まるで寺山修司記念館の続きのようだ。
さて、それからだ。その「十和田市現代美術館」の前からバスに乗って、1時間。八戸まで戻る。
JR八戸線に乗り、サメに行く。「鮫(さめ)」という駅名なのだ。
そして、歩いて20分。蕪嶋(かぶじま)に行く。
海猫の群生地だ。産卵の季節には、この小さな島が4万匹の海猫で溢れる。
島といっても陸続きだ。遠くからでも、島が白くなっている。海猫だらけだ。
その島の頂上に「蕪嶋神社」がある。
急な石段がある。でも、途中も、海猫ばかりだ。
登り口にビニール傘が積んである。海猫が飛んでくるし、フンもする。それを避けるためだ。
思い切って傘をさし、登る。
海猫は、体にぶつかってくる。まるでヒッチコックの映画「鳥」の世界だ。ここにも、あそこにも海猫ばかりだ。
卵を抱いている海猫もいる。かえったばかりのヒナもいる。そこを注意深く進む。
うわー、まるで「ダーウィンがきた!」(NHK)の世界だ。と思った。感動でした。
しかし、山の上の神社(蕪嶋神社)に勤めている人は大変だろう。
一日中、ミャーミャーという声を聞き、仕事をする。それに、窓は一切開けられない。海猫が飛び込んでくるからだ。
そのうち、日も暮れ、あたりは真っ暗になる。
あわてて駅に戻り、八戸に帰りました。
今日は1日、歩き回った。朝、東京を出て、青森に来て、寺山修司記念館を見て、十和田市現代美術館でアートを見て、そして蕪嶋で4万匹の海猫に出会い…。
感動的な1日だった。たった1日で、これだけの芸術と自然に出会ったのだ。
駅で地元の人たちと食事し、宿に帰って横になったら、そのまま、爆睡してしまった。
明日は朝早いのだ。「キリスト祭」に行くんだし。目覚ましをかけたら、あとは、夢の中だった。
「キリストの墓」「キリスト祭」は先週アップしたよね。順番が逆になったけど、そちらを先に書いた。
東京から来たマスコミ陣、大阪から来た大学の先生、研究者…など多くの人たちと会え、多くの発見があった。(今、発売中の『女性自身』(6月24日号)に、この「キリスト祭」の記事が出ていた。この日、来た記者が書いたのだ)。皆とは、「では又、来年」と言って、別れました。
来年と言わず、又、来たいな。青森は、まだまだミステリアスな所が多い。恐山も見たいし…。
そうだ。高取英さんの『寺山修司論=創造の魔神=』(思潮社)を読んでいたら、恐山について、こんなことを書いていた。
〈寺山は、『青蛾館』の中で、恐山の口寄せで、死んだ妻を口寄せしてもらった夫が、巫女を殺した事件があったことを紹介している。妻がのりうつった巫女が、ほんとうに好きだった男は隣の正造さんだったといったためである〉
ウッ、凄い。本当の話なんだろうな…と思いました。
この前、NHKでも恐山のルポをやっていた。こりゃ、行って見なくっちゃと思いましたね。
そうか。連合赤軍の「史跡めぐり」をしてる人たちがいる。彼らに企画してもらったらいいか。
「あさま山荘」「印旛沼」そして恐山だ。森恒夫や永田洋子を呼んでもらい、今、何を思うか聞いてみたい。
「連合赤軍化する日本」になっている、と憂えるかもしれないな。あるいは、「俺たちは新選組ではない!」と言うかもしれないな。
「いや、新選組だ!」と強弁する人との間で激論になり、そして…。と、なるかもしれない。第二の連合赤軍事件になるかもしれない。
そこへ、芸人の「おしどり」さんが来た。その場で漫才と、ハリガネ細工をやってくれた。何と今井さんの顔を作る。今井さんも大喜びだった。
そこへ、女子柔道チャンピオンの福見友子さんが来る。今月からイギリスに留学し、向こうで柔道のコーチもするという。
又、航空自衛隊で柔道を教えている人、大学院でスポーツ医学をやっている人なども来て、話を聞く。勉強になった。
300人ほどの教室だが、人がどんどん来る。後ろや横では人々が立って聞いている。通路には座って聞いている。凄い熱気だった。
各現場で闘っている人々、グループの報告。国会議員などのビデオメッセージ。
そして、寺脇研さん、石坂啓さん、八木啓代さんのシンポジウムが始まる。司会は辛淑玉さん。その中で、私も呼ばれて、話をした。
凄い熱気だった。
終わって、お茶の水駅近くの居酒屋で打ち上げ。60人ほどが入り、こっちも満員。
いろんな人たちと話をした。こんな人もいた。ヘイトスピーチに怒り、でも、何をしたらいいのか分からない。
大久保にヘイトのデモを見に行ったら、沿道で、抗議の声をあげる人がいた。「あっ、味方がいるんだ」と思い、話しかけた。そんな人たちが集まったグループだという。そして、この日の集会に来た。
新しい運動だ。そんな、バラバラな人たちが、今日は一堂に集まった。凄い。
午前11時半の約束だから、ちょっと早いかなと思ったら、「遅い!」と椎野さんに叱られた。「さっき、メールを入れたんです」と言われた。「約束時間」は11時だったようだ。変だ!手帳には11時半と書いてるし、そう思い込んでいた。いかんよな。きちんと確認しておかなくちゃ。
昼過ぎから、河合塾コスモ。自習室で勉強。
3時、「現代文要約」。
5時、「読書ゼミ」。今週は私が選んだ本、浜井浩一さんの『罪を犯した人を排除しないイタリアの挑戦=隔離から地域での自立支援へ』(現代人文社)を読む。
浜井さんの本は前に、『2円で刑務所、5億で執行猶予』(光文社新書)を読んだ。感動した。京都で一度、会ったことがある。これも面白い本だった。読んで、生徒と考えた。
〈丸腰で紛争地域へとび込む〉
ゲスト・トークは大畑豊氏。学習院大学卒業後、フリーで長年NGO平和活動に関わっている。「非暴力・平和隊」理事。民族紛争の激しい地域に出向き、話し合いで問題を解決する活動を続けている。これまでスリランカ、アメリカ、オーストリアの「平和の旅」に加わった。
その実地の体験を聞いた。勉強になった。
終わって、講師、ゲストと飲む。
⑨これも、おみやげのお菓子です。「2013年寺山修司没後30年記念」と書いてます。これは、「田園に歌詩集」と書いてます。「歌詩集」にカシスと仮名をふってます。「甘酸っぱいカシスとほろ苦いビター。40コが綴る味わい深い一冊」と書いてます。
⑩寺山修司記念館の後は、バスを乗り継いで、「十和田市現代美術館」に行きました。入って、すぐに出会うのは、この巨大なオバさんです。ロン・ミュエクの「スタンディング・ウーマン」です。
これは美術館で買った写真です。左は見物客です。まるで巨人の国に行ったかのようです。
⑳粕谷さんは元「中央公論」編集長。後、退社して「東京人」を創刊します。前に『論座』で粕谷さんと対談しました。「風流夢譚」事件について詳しく聞きました。
そのあと、「東京人」では、1972年をめぐる座談会に出ました。又、お墓についての原稿を書かせてもらいました。もっと、いろいろ教えてもらいたかったのに、残念です。
㉑6月8日(日)阿佐ヶ谷ロフト。午後2時から。
〈佐村河内守事件。メディアの検証〜歴史的虚構はいかにつくられ、メディアはそれをどう報じたのか〉
興味があったので、聞きに行きました。始まる前に、控え室で。私の隣りが、(佐村河内守さんのゴーストライターだった)新垣隆さん(作曲家)。後ろは、この事件を報じた人々。(左から)塩田さん。水島さん。青柳さん。
㉕神山典士さんの本は随分読んでいる。「初めまして」と挨拶しようとしたら、その前に声をかけられた。「あっ、鈴木さん。久しぶり。17年ぶりですね」。エッ、そうなの。神山さんの本を書評して、その後、会ったのかな。
㉖6月9日(月)7時、「土風炉」。白井基夫氏から、今井紀明さん(左)を紹介されました。10年前、イラクで人質にとられた人(3人)の1人です。
いろいろと当時の話を聞きました。右の2人は、お笑い芸人の「おしどり」です。