仕事が立て込んでいるし、今年は無理だな。と思って断念した。
7月5日(土)の函館だ。60年安保闘争の時の全学連委員長・唐牛健太郎さんの墓前祭だ。
「今年は、ちょっと行けません」とメールした。そしたら当人からメールがあった。
「おいおい、鈴木君、冷たいじゃないか。1年に1度なんだから来いよ」と。
あれっ、唐牛さん本人からのメールかな。あるいは、誰かの「なりすましメール」かな。
どっちでもいいや。「分かりました。行きます」と返事した。それに、皆に報告したい大事なことがあるし。
雑誌の対談や、インタビューなど入っていたが無理を言って変えてもらった。
原稿の急ぐものは、朝まで、必死で書いた。延ばせるものは延ばしてもらった。5日(土)に「ザ・ニュース・ペーパー」に行く予定してたが、これも、無理を言って6日(日)の夕方に変えてもらった。
他にも、いろいろあった。忘れていて返事をしなかったものもかなりある。申し訳ない。
今月は2日(水)に神戸に行き、内田樹さんと対談した。
そして、5日(土)、6日(日)は函館だ。報告することが3つあるし、皆と話し合おうと思っていた。重大なミッションだ。
だが、帰ってきてからが大変だった。これは今夏最大のミッションかもしれない。最大の危機であり、挑戦だった。
一度は断念した「函館行き」と同じで、こっちのミッションも初めは断念した。面倒だ。もういいかな。車の運転も、もうしないだろうし…と。
そうなんですよ。車の「免許書き替え」だ。
「そんなのが大問題かよ!」と思われるだろう。それは若い人の考えだ。
70才になったら、ともかく大変なのだ。高齢者には超厳しい社会なんですよ、この国は。
1969年に私は車の免許を取った。学生運動から追われて、仙台の実家に帰り、本屋のアルバイトをしながら、生活していた。
「もう運動に戻る事もないだろう」(俺の人生はこれで終わった)と思っていた。まだ20代後半だったのに。
その時、どうせ時間があるんだから、車の免許でも取ろうかと思い、黒松の自動車学校に通った。
担当の指導員は皆、厳しくて、それに口が悪い。
「あんだ。にぶいね。もうやめた方がいいんじゃないの」「いぐらやってもダメだよ、あきらめろ」なんてズケズケと言う。カーッとなって、殴りそうになった。
でも、我慢に我慢を重ねて、やっと取った。
苦労に苦労を重ねて取った免許だ。更新は、だから毎回キチンとやっていた。
翌、1970年に、縁があって産経新聞に入った。
11月に三島事件があった。昔の仲間たちが再び、集まってきて、2年後、一水会を創る。
しかし、会社は続けていた。販売局で宮城県担当の〈助手〉になった。
宮城県内を車に乗って毎日回り、販売店を訪ねて、部数を少しでも取ってもらうように交渉し、集金をし…。そんな毎日だった。
仙台の親に中古の車を買ってもらい、それで毎日、宮城県の販売店回りをした。車は、スプリンターだった。結構、乗りやすかった。
その前に、書店のバイトをしてた時、パブリカを貸し与えられ、それに乗って仙台中を配達して回った。
産経を辞めて一水会専従のようになった時、運動の先輩から中古のブルーバードをもらった。
だから、今まで3台、乗り回したわけだ。
当時は毎日のように車に乗っていた。ところが、ここ20年位は全く運転をしたことがない。でも、免許の書き替えは毎回、やっている。
書き替えをしなかったら、免許はなくなる。今さら取るのは大変だ。あんなに苦労して取ったんだ。
それに、「免許証」は「身分証明書」になる。頻繁に使う。
たとえば、TSUTAYAの会員になる。カードの書き替え。ネットカフェの会員。
いろんなカードを作る時、いつも、「身分を証明するものを」と言われる。
その時、車の免許証を出す。他にはない。会社に勤めていないから社員証もないし。もう一つ、パスポートがあるが、これは毎日持って歩くわけにもいかない。
だから車の免許は大切だ。これだけが〈私であること〉を証明してくれる。
だから毎回、ちゃんと書き替えはやっている。府中の運転試験場まで行ってやっている。
今は、警察署でもやってくれるらしい。でも、ちょっと嫌だ。行ったら、「おっ、鈴木か。やっと自首してきたか」と言われそうで。
もう悪いことはしてないし、何も怯えることはないのだが。ちょっと警察に行くのは…と思う。
それで、いつも府中まで行ってる。
行って、書類を出し、目の検査をして、安全運転の講習を受けて、それで終わりだ。これを読んでる皆もそうだろう。
ところが。70才を過ぎると、いきなり厳しくなる。
高齢になると、「とっさの判断が出来ないのではないか」「動作が鈍くなるから、本当に運転出来るかどうか検査しなくては…」と思うんですな、国家は。
70才までは、「ペーパー・ドライバー」は沢山いる。
何年、何十年も運転しなくても、書き替えだけはやって、「免許」を持ってる人たちだ。
でも、ほとんど運転が出来ない。こんな、「ペーパー・ドライバー」は沢山いる。
しかし、70才以上の人に対しては、この「ペーパー・ドライバー」を認めないのだ。
「不公平だ」「高齢者差別だ」と言っても、仕方はない。
70才以上には、「本当に運転が出来るかどうか」の適性検査をする。又、実地に運転させてみて、「合格」か否かを検定する。
つまり、免許の書き替えの前に、車の教習所に行って、高齢者用の講習と検査を受けてこい。この「修了証」を持ってきたら、「免許の書き替え」をさせてやる。というシステムなのだ。
最近始まったことだろう。「こんな面倒なことなら、もういらない!」と言って、行かない人もいる。実は、国としてはそれを期待してるわけだ。
田舎に行くと、90才以上でも車の運転をしてる人がいる。バスや電車はないし、他に「足」がないので、車を運転するのだ。
これでは100才になっても120才になっても運転する人が出る。危ない。といって、「80才以上は車の運転禁止」とい法律は作れない。
(いつかは出来るかもしれないが、高齢者の保守票を逃したくないから、当分はやらない)。
だから、70才以上の人には、本当に運転出来るかどうか」検査することになった。
「こんな面倒な手続きがあるんなら、もういらない」と言う人も出る。そうなれば、かえっていい。
でも身分証明書代わりに車の免許を使ってる人が多い。他に身分証明書になるものはないのだし。
そのために、今は、「免許を返納しても、身分証明をしますよ」と言っている。「この人は、車の免許を持ってましたよ」という証明書だ。
「それを出すのだから、70才以上の人は安心して免許を国に返して下さいね」というわけだ。
ともかく、高齢者からは全員、免許を取り上げたいのだ。
でも、私としては、シャクだ。これをもらえても嫌だ。
よく、「元国会議員」とか、「元アナウンサー」「元」どこそこの雑誌に連載してたとか。そんな名刺を持ってる人がいる。あれと同じようで嫌だ。
「元、免許を持ってました。それを証明します」「でも今は年寄りで、車の運転は危ないから免許を国に返してもらいましたよ」と言われているようで。
だから、持ち前の反逆心がムクムクと湧き上がったんですよ。「よし、やってやろうじゃないか!」と。
再び、国家との闘いだ。反体制の闘いだ。戦後レジームとの闘いだ。
大体、免許の書き替えとか車検なんて、日本にしかない制度なんです。
どこの国だって、一度免許を取ったら死ぬまである。だって、その人のものだから、車だって、調子が悪かったら、自分で修理に出す。
自分の車、自分の命だ。自分で守るべきだ。そういう考えだ。日本だけが、こんなことをやっている。
「交通安全」のためだ、と言うが、いろんな人間が天下ったり、〈仕事〉を作るためだ、とも言われている。いつか、行革の対象になるかもしれない。
しかし、今はこの「二重の関門」がある。嫌なら、免許を返せ、と迫られる。
普段、運転してる人ならいいが、私は20年ほど全く運転してない。
それに20年前も、クラッチのあるマニュアル車しか乗ってない。オートマ車には一度も乗ったことがない。
だから、レーニンさんの車を借りて、少し練習しようかな、と思ったが、時間がない。
それで、「エーイ、一発勝負だ」と思って、金町の自動車教習所に行ったんですよ。
別に金町でなくても、都内ならどこでもいい。
しかし、「予約状況」を見たら、都心は皆、予約が一杯だ。比較的空いてるのは葛飾区とか墨田区だ。同じ東京都だから、八丈島や大島でもいいのだが、ちょっと遠すぎる。
それで金町に電話して、予約を取った。「はい、高齢者講習ですね」と…。
いちいち「高齢者」と言われる。いきなり年を取った感じになる。
それで、行ったんですよ。函館から帰ってきた翌日、朝6時に起きて。8時半集合だというし。
この日は7人ほどの高齢者がいて、講習を受ける。
「講習」といっても、やたらハードだ。
交通法規、安全運転の話を聞き、それから、車に乗って「さあ、運転して下さい」と言われる。
さらには、コンピューターの車の前で、いろんな状況に直面した時、判断が出来るか…の検査がある。
合計4時間以上だ。それを耐えたんですよ、私は。
初めに言いましたよ。「免許はほしい。国に返納したくない。でも20年も運転してない。オートマ車は初めてだ」と。
そしたら、係官は優しく教えてくれる。「はいはい。これがスイッチ。これがアクセル。これがブレーキですよ」と。
クラッチはない。「クラッチのある車は今は、ほとんどないです。9割はオートマ車です」。
「えーと右足でアクセル、左足でブレーキかな?」
「いえ、両方とも右足だけで操作して下さい。左足は使いません」。
そうか。イザという時に、両足踏み込んじゃ危ない。必ずアクセルを離して、ブレーキを踏むんだ。
「これがニュートラル。これがドライブ、これがバックです」と教えてくれる。
「ウインカーはどこですか?」
「これです」
「ワイパーは?」
「これです」。
おっ、面白い。水も出るよ…と感動しながら習ってる生徒でした。
「じゃ、動かしてみましょう」と動かす。ウワー!20年ぶりに運転してるよ私は!と感動と緊張の体験でした。ともかく緊張しまくりでした。大変でした。
そして無事、修了。合格でした。「修了証」をもらいました。45年前に初めて免許を取った時のような感動でした。
翌日は、さっそく、府中の試験場に行き、書き替えをしました。検査も余りないし、こっちはスムーズに行きました。
免許を「返納」しないでよかった。やっぱり、やるだけは、やってみなくっちゃ。
70才を過ぎると、いきなり社会の対応が過敏になる。
そうだ。民生委員が突然訪ねて来た。「70才以上の独居老人」を心配して回ってくれるのだ。
「一人で買い物行けますか」「介護が必要ですか」と聞かれる。
「何か、お困りのことは?」。
「今の“右傾化”の状況が心配です。それにヘイトスピーチも」と言ったら、「?」。となりました。
こんなことも言われる。70才以上の人で寝た切りになったら、立ち上がれなくなる。だから、カゼや転倒に気をつけて下さい。ついつい寝たままになる。そして起き上がれなくなる。だから転ばないように。又、カゼは万病の元だ。カゼをひかないように。それに、ストレスをためないように…と、いろんな注意事項がある。でも私は、全部当てはまるよ。大変だ。
カゼはよくひいて、よく寝込んでいる。でも薬は飲まないで、厚着をして汗を出して、自分で治している。
ストレスはたまってる。鬱っぽい。引きこもっている。
それに、よく転ぶ。危ない。自分では転ばないようにしてるのに、他人に転ばされる。
「危ないじゃないか!」と言っても、相手は手加減しない。突き飛ばす。投げ飛ばす。あっ、柔道の話だけど。
でも、「よく転ぶ」のは事実だ。
70才以上の独居老人は友達がいなくて、「2週間以上、誰とも話したことのない人」が半分以上なんだという。
そうか。私も、この2週間、誰とも話してない。(少しは話しているかな)。
それにしても、変だよね。ちょっと前までは、警察が、(それも警視庁、中野警察、公安調査庁)が、「危ないことを計画してるんじゃないのか」と聞き込みに来た。
尾行された。張り込みもされた。今だって、時々あるんだろう。
それなのに、今度は、民生委員が訪ねて来て、「一人で生きてますか」「買い物行けますか?」と心配して、見回りに来る。
なんか、寂しい気もする。まだまだ免許を返納しませんよ。もっともっと挑戦してみたい。
車のロードレースにも出てやる。冬になったら、スキーやスケートも再度、挑戦しよう。
本のノルマだって、さらに上げてもいいな。その上で、〈全集〉にも次々と挑戦して、読んだ人たちと対談しよう、と欲張りなことを考えている夏です。
あっ、函館の話を書かなかったな。
詳しくは、「マガジン9」の連載に書いたけど、急遽、行ってきたんですよ。報告することが3つあったし。
1つは、唐牛健太郎さんのいとこのご婦人に会ったこと。
2つ目は、今年の唐牛さん追悼集会で、高沢皓司さん(作家)に会って、その後、インタビューしたこと。
それが、今発売中の『紙の爆弾』に出ている。これは衝撃的な話を聞けた。
そして第3は、今、紀伊国屋書店の新宿本店3Fで、「鈴木邦男が選ぶ連合赤軍ブックフェア」をやってること。
それらを報告しました。皆、驚いていた。
「何でお前なんかがやるんだ」「連赤関係者は一杯いるのに…」「世も末だ」と嘆く人も…。勝手に嘆いていろ、と思いました。
でも、佐野眞一さんや、花房東洋氏、高橋公さん、唐牛真喜子夫人、秋山さん、三島さん、金さん…。たちに会って、いろんな話が出来たし、行ってよかったと思いました。
又、短い時間だったけど、函館の夜景も見ることが出来たし。堪能しました。ヘミングウェイの愛したキューバの酒も飲んだし。
じゃ、と思い立って講道館へ。ガンガン稽古をしました。
「車の免許。寅さん。柔道」。…と、今日は実に充実した一日だった。
それから両国に行く。江戸東京博物館でやっている「軍師 官兵衛」展を見る。よかった。
それから、ここの最上階レストランで、「官兵衛ご膳」を食べた。眺めがいい。贅沢をして、ビールも飲んだ。本も読んだ。
「あっ、いけない。これからラジオだ」と思い直し…。夜8時からJ WAVEの「JAM THE WORLD」に出る。ヘイトスピーチについて。
そのあと、恵比寿へ。東京都写真美術館へ。「スピリチュアル・ワールド」展と、「世界報道写真展」を見る。よかったですね。
それから、地下鉄で千駄木へ。禅寺・全生庵へ行く。
ここで毎月、「谷中政経塾」という勉強会が行われている。以前、私も講師で出た。そのあと、今度は私も、時々、聞きに行っている。
元警察庁長官の國松さんなどの講演会に行き、紹介してもらった。多くの人を紹介してもらった。
この日は、前総理大臣の野田佳彦さんだ。「ぜひ、聞かなくちゃ」と思って行った。超満員だった。
テレビで見る野田さんと違う。2時間ほど、喋る。凄い人だと思った。政治哲学を持ってるし、「決断力」がある。
「これは国家のために、やらなくてはならない」と思ったことは、先送りしない。「党内融和」や「選挙対策」で、税の問題など先延ばししてきた総理が多いが「私はやる」という気概でやった。
消費税など、困難なことは野田さんにやらせて、その成果の上で、安倍さんは、「アベノミクス」や、「日本を取り戻す」と言っている。
それに、野田さんといえば、「いつ辞めるんだ!」と言って攻撃されてるシーンだけがテレビに流される。こういう形で、きちんと野田さんの考えを聞けたのは、多分初めてだ。その意味で貴重な講演だった。聞いていた人々も皆、感銘を受けていた。
帰り際、「初めまして」と言ったら、「あっ、鈴木さん。どうして来たの」なんて言われた。知っててくれた。そして写真を。じゃ、私も、と何人かが一緒に入った。「今度、ゆっくり話しましょうよ」と。
野田さんは中学・高校で柔道をやってたし、強いんだ。その話も聞きたい。前日会った龍まんじさん(バロン吉元さん)も、中学・高校で柔道をやっていた。黒帯だ。じゃ、バロンさんとも柔道の話をしたい。実際、乱取りをして、そのあと対談でもいいな。
①7月5日(土)午後3時より、函館。60年安保の全学連委員長・唐牛健太郎さんの墓前祭が行われました。亡くなって30年です。全国から多くの人たちが集まりました。左は高橋公さん。中央は秋山祐徳太子さん。お墓は秋山さんが造りました。
⑩「唐牛さんの逮捕された時の写真です」と、参列した人が見せてくれました。
「咆哮の声をあげて不服従の意地を貫く唐牛の決定的瞬間」と書かれてます。サバンナのライオンのように暴れ、疾走し、両側の警察官は引きずられたそうです。
㉔7月9日(水)今日で終わりなので慌てて見に行きました。バロン吉元さんの個展です。「柔侠伝」で有名な人です。
連合赤軍の植垣康博さんは、この漫画の主人公に似てたので、皆から「バロン」と呼ばれていたそうです。出所後、静岡でスナックを開き、「バロン」と名付けました。
一度、植垣さんを紹介しました。バロン吉元さん、今は名前を「龍まんじ」と変えて、本格的な絵画に挑戦しています。後ろの絵は、まるで、ピカソの「ゲルニカ」のようです。
㉖この後、両国に行きました。「江戸東京博物館」です。「NHK大河ドラマ特別展・軍師官兵衛」を見ました。よかったです。
50年後には、連合赤軍も大河ドラマになって、江戸東京博物館で「特別展」が開かれるでしょう。
㉗江戸東京博物館の最上階にあるレストランに入りました。「官兵衛ご膳」を食べました。2000円です。
ビールを飲みながら、食べ、そして本を読みました。贅沢な一時です。左にあるのが内田樹さんの『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)です。再読ですが、とても教えられます。
㉘7日(月)は金町自動車教習所で、「高齢者講習」をマスターし、8日(火)は府中運転試験所で、無事、免許証書き替えが終わりました。苦闘した鈴木君へのごほうびですね。
9日(水)は龍まんじさん個展。江戸東京博物館での「官兵衛」展。そして、この日、10日(木)は上野で「故宮博物院」を見ました。感動的でした。実は私は「故宮博物院」には両方とも行ってるんです。台北と、北京と。これで3回目ですね。
㉙10日(木)は、上野で「故宮博物院」を見て、それから恵比寿の「東京都写真美術館」に行きました。「スピリチュアル・ワールド」と、「世界報道写真展」を見ました。
そして、千駄木に。7時から全生庵で行われた野田佳彦さんの講演を聞きました。とてもいい話で、感動しました。今まで、これだけ、時間をとってゆっくり話す機会がなかってんですね。惜しいです。
㉜前に、ポレポレ東中野で映画を見てたら、ご婦人に声をかけられました。「昔、生長の家の学生運動をしてました。その時のリーダーの鈴木さんですよね」と。
懐かしかったです。「昔の写真を探して送ります」と言ってました。そして届きました。皆、爽やかな若者たちですね。右から2人目が私らしいです。その左が、写真を送ってくれた人です。小山さん、江副さん、川島さんなどがいます。