「あっ!」と叫んでしまった。岸田秀さんだ。
『ものぐさ精神分析』『唯幻論物語』で有名だ。
どうして…。まさか、ここで会えるとは思わなかった。「いやー、会いたかったんですよ。嬉しいです」と言った。
傍にいた平田竜二君(見沢知廉の書生だった男)も、感動していた。「『ものぐさ精神分析』は好きで、何度も読み返したんです」と。
岸田さんも大喜びだった。「久しぶり。ここで会えるなんて嬉しいね。又、一緒にロフトでトークをやりたいね」と言う。
そうだ。松尾貴史さんと大阪で会った時も、「又、ロフトでやりたいね」と言っていた。
松尾さんは、毎日、テレビのワイドショーのコメンテーターをしている。忙しい。「でも、時間をつくるから、ロフトで又、やりましょうよ」と言っていた。
「じゃ、又、3人でやりましょう」と言った。
「でも、彼女がいないからな」と岸田さんが淋しそうに言う。
若くて、チャーミングで、聡明な女性がいた。和光大学の学生だ。彼女が3人を結びつけ、司会をやり、全てをプロデュースしてくれたのだ。
「岸田さんがツイッターやフェイスブックで呼びかけて下さいよ。そしたら又、出てきてくれるでしょう」と私は言いました。
そしたら又、出来るでしょう。岸田秀、松尾貴史の「夢の共演」が。ついでに私も。
そうだ。元々は、この学生のおかげで岸田さんと知り合ったのだ。
もう10年前になるのかな。岸田さんは和光大学で教えていた。彼女は、そこの学生で、岸田さんの授業をとっていた。元河合塾コスモの生徒だったので私は知っていた。
あの有名な岸田さんに習っているのか。うらやましいと思い、それで、授業に潜らせてもらった。
大教室が満員だった。もの凄い人気だ。私のように外部から潜ってる人も多い。
終わって、岸田さんを紹介してもらった。すぐ仲良くなった。
教授を退官する時の記念の授業にも行かせてもらった。歴史的な授業だ。感動した。その授業は確か単行本になっている。
和光大学には何度も行った。岸田さんが辞めた後も、「麻原問題」をめぐるシンポジウムがあって、何回か行った。
麻原彰晃の娘が和光を受験し、試験に受かった。ところが、「麻原の娘」と聞いて、大学側は入学を取り消した。マスコミが殺到するし、信者たちも来るし、「平和な学園」の秩序を守れなくなる、と判断したようだ。
その処分に反対する教師や生徒が、シンポジウムを開いた。私もそこに呼ばれて話をした。
又、岸田さんとの付き合いは、大学を辞めたあとも続いていた。
ロフトで何回かトークをやった。又、岸田さんの教え子たちが開く、飲み会にも私は呼ばれた。
しかし、最近は、ずっと会ってなかった。「今の日本の現状をどう思っているのか。聞いてみたい。ちゃんと対談したい」と思っていた。
でも、なかなか会う機会もない。電話するか、手紙を書くか。そう思っていた矢先だったので驚いた。「思い」が通じたのかな、と思った。
「でも、どうして?」と聞いたら、「窪島さんは飲み友達だよ」と言う。
「随分前に、一緒にテレビに出た。子供の時に、他の家に預けられた。その境遇が似てるんだ。それですっかくり仲良くなった」と言う。
窪島誠一郎さんは、他に預けられたが、実の父親は作家の水上勉だ。後に再会し、そのことを本に書いている。
でも、岸田さんも同じような体験を持っていたとは、知らなかった。
そうだ。岸田秀さんとどこで再会したかだ。
7月27日(日)、上田東急インだ。長野新幹線で、軽井沢からもう少し先だ。そこで行われたんだ。
〈「信濃デッサン館」開館35周年記念の集い〉が。
その「信濃デッサン館」の館長が窪島誠一郎さんだ。
「信濃デッサン館」のすぐ隣りに、1997年、戦没画学生の絵を集めた「無言館」を建てた。
私も新聞で、このことを知っていた。そしてJR東労組の集まりで、窪島さんに会い、「ぜひ行きます」と言ったのに、ずっと行けずにいた。去年、やっと行ってきた。
〈「信濃デッサン館」開館35周年記念の集い〉の方から報告しよう。
午後5時30分より開会。ちょっと早く着いたので、1階のロビーで椅子に座っていた。
そこでバッタリ、岸田秀さんに会ったのだ。懐かしくて、嬉しくて、話し込んでしまった。
「あっ、いけない。始まるよ」と、あわてて、3階の会場(クリスタルホール)へ。
広い。満員だ。イスが並べられている。500人ほどがいる。
まずは、〈天満敦子ミニ・ヴァイオリンコンサート〉。
有名な人だから名前は知っている。生演奏は初めて聴く。トロイメライ、月の砂漠…などを演奏する。素晴らしかった。窪島さんの長年の友人だという。
それから、今度は、NHKアナウンサーの石澤典夫さんが登場し、「朗読」だ。
窪島さんの最新刊『蒐集道楽=わが絵蒐めの道』(有限会社アーツアンドクラフツ)の一節を朗読する。さすがはプロだ、と感心した。
プロの「朗読」にも感心したが、窪島さんの文章もいい。本当にいい文章だ。
黙読した時は、「いいな」と思っても、声に出して朗読すると、それほどでもない、と思う文章が多い。
でも、窪島さんの文は、黙って聞いていても、人々の心を揺さぶる。凄いと思った。
美術館を建て、維持するために、金に困り、借金をし、又、所蔵の美術品を売らなくてはならない。そんなことが何度もあった。
その苦しい、身を切るような体験が書かれている。聞いている人々も涙ぐむ。その事実に、体験に心を揺さぶられる。
それに、文章がいい。実にいい。後でパーティの時に聞いたみた。「どこで文章の勉強をしたんですか」と。「してませんよ」と言っていた。
じゃ、父親・水上勉から受け継いだものか。DNAなのか。岸田さんは、「そうでしょう」と言っていた。
石澤典夫さんの「朗読」のあとは、〈公開対談・「美術館」の明日〉。酒井忠康さん(世田谷美術館館長)と窪島誠一郎さんの対談だ。
本格的な対談だ。パーティの前のちょっとしたトークではない。これだけで時間を十分にとった。堂々の美術対談だった。
その前の「朗読」だって、かなりの分量を読む。後でこの本を買って読んでみたら、「絵と借金と美術館」の章で、何と、34頁もあった。それを40分以上かけて、ひたすら朗読する。
5時半に開会したが、ヴァイオリン・ミニコンサートがあり、朗読があり、対談があり。
懇親会が始まったのは、7時半を過ぎていた。パーティは9時半まで続いたようだが、9時18分の新幹線に乗るので、9時ちょっと前に失礼した。
いろんな人が来ていた。窪島さんと対談した酒井忠康さんは世田谷美術館館長だ。私は、ここにはよく見に行っている。酒井さんとはそのことを話しした。
又、上田市長の母袋創一さんともいろいろと話しをした。映画監督の篠田正浩さんの花輪があった。会えるかなと思ったが、欠席だった。残念だ。
そうだ。受付で、「懇親会ご出席者一覧」をもらったんだった。絵や美術館の関係者が多い。
岸田秀さんは、初めから9番目に出ていた。早く申し込んだのだろう。
岸田秀(精神分析学者・和光大学名誉教授)。あっ、名誉教授なんですか。じゃ、「特別授業とかあるんですか」と聞いたら、「ないです」。勿体ない話だ。
私は、つい2、3日前に申し込んだ。来れるかどうか分からなかったからだ。だから、名前を書き入れるには間に合わなかったんだろう。
そう思っていたら、平田君が、「鈴木さん、出てますよ」と言う。「でも、ちょっと変ですね」と言う。
こう書かれていた。後ろから5番目だ。
鈴木邦男(みやま荘主人)。
えっ、何だ。これだと、みやま荘の管理人みたいだ。私は、木造アパート「みやま荘」の住人だ。6畳一間の部屋を借りてる人間だ。
「いや、待てよ」と思った。ここは美術の関係者ばかりだ。だから、月光荘などのように、「みやま荘」をギャラリーと思ったのかもしれない。ギャラリー「みやま荘」の主人だ。
うん、きっとそうに違いない。今度から私も、この「肩書き」を使おう。「はい、みやま荘の主人ですよ」と。
そうだ。水上蕗子さんにも紹介してもらい、写真を撮った。「懇親会ご出席者一覧」には、こう書かれていた。
水上蕗子(館主窪島の妹・故水上勉氏長女)。
窪島誠一郎さんは実の父・水上勉について何冊か本を書いている。『父 水上勉』『母ふたり』(白水社)などだ。
読んだが、とても感動的な本だ。又、『信濃デッサン館日記』(平凡社)、『無言館ものがたり』(講談社)、『無言館への旅』(白水社)など多数の著書がある。
「私は、絵描きでもないし、学芸員(キュレーター)の資格もない。全く素人が美術館を作ったのです」と窪島さんは言う。
えっ、そうだったのか。と思って、本を開いてみたら、確かにそうだ。
〈1941年、東京生まれ。印刷工、酒場経営者などをへて、1964年、東京世田谷に小劇場の草分け「キッド・アイラック・ホール」を設立。1979年、長野県上田市に夭逝画家の素描を展示する「信濃デッサン館」を創設。1997年、隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開設。2005年、「無言館」の活動により第53回菊池寬賞受賞〉
窪島さんの『蒐集道楽』には、信濃デッサン館の開館の時の言葉が出ていた。
〈私にとっては、この美術館は好きな女と暮らす安普請のアパートのようなものです。これからは、だれにもじゃまされず、好きなときに好きなだけ好きな絵をみていられる。朝から晩まで、絵たちを独占できる。だから、この美術館は、私が一番のお客さんなんです〉
いいですね。「安普請のアパート」か。
だったら、いっそのこと、「ギャラリーみやま荘」にすればよかったのに。「みやま荘主人」になればよかったのに。
みやまは「深山(みやま)」から来ている。長野県に多い名前だ。長野は深い山の中だ。だから、「旅館みやま」「食堂みやま」などが多い。「みやま」という名前が多いからだ。
実は、私の住んでいる「みやま荘」も、大家さんが元々は長野出身だ。だから、「みやま荘」と付けたという。高田馬場の喫茶店「ミヤマ」も長野出身だ。
さて、窪島さんだ。安普請のアパート「みやま荘」じゃなかった「信濃デッサン館」の開館では、こんな喜びの挨拶をしたが、現実は厳しい。こうはいかなかった。
連日、借金、金の工面。建設費を払い、絵の買い入れのために、持っている絵を手放すことも多い。
「新しい絵」を買うために、今まで持っていた好きな絵を売るのだ。悲痛な話だ。
「新しい女と一緒になるために古い女を下取りに出すようなものだね」と、ボソボソ、会場で言ってた人がいた。
そんなことはないだろう。そして、絵を手放すことよりもさらに辛いことがある。たとえば…。
〈絵を手放して、何が一番ツライかといえば、手放したあと何かの拍子にその絵と出会ってしまうことである。譬(たと)えるなら、幼い頃涙ながらに離別したわが子と、何年も経ってからバッタリ出会ってしまった母親の心境といったらいいだろうか〉
これは、何とも身につまされるたとえだろう。かつて自分は「離別したわが子」だったのに、絵については、「母親」の気持ちになって書いている。ウーン、それが凄いな、と思う。
そうだ。岸田秀さんも、そんな体験をしたという。
子供の頃に、親と離別したという。「でも、窪島さんと違って、僕の場合は、隣りの家にもらわれたので、よく実の父母とも会ってました」。
えっ、そんな「離別」もあるのか。今度、会った時に詳しく聞いてみよう。
岸田さんは、日本とアメリカとの政治的問題についても「精神分析」していた。じゃ、今こそ、もっと詳しく聞いてみたい。
又、〈言葉〉が生まれることによって、かえって病気や犯罪が増えることがあるのではないか。そんなことを聞いた。
「それはありますね」と岸田さんは言う。よく分からなかったが、病名を付けられて、「そうか、これはウツだったのか」。と納得してしまう。
「日本人は、いつも集団で行動する」「日本人は引っ込み思案だ」という〈日本人論〉を読んで、「そうか、俺は日本人だから、消極的なんだ」と納得してしまう。
本当は、「積極的」になるように努力すればいいのに。「日本人だからこうだ」と思い、そこでじぶんの消極性を認め、満足してしまう。よくないことだ。
又、「ストーカー」「無差別殺人」「誰でもよかった」…などの言葉が、新聞、テレビに出ると、「俺もそうだ」と思う人が出てくる。そして「納得」する。
昔はいなかったのに。いても例外中の例外なのに。今は、ちゃんと「社会現象」だと認めてくれる。
「それはありますね。それと、男はプライドがなくなった」と岸田さんは言う。
「女にふられたらオワリだ。そんな自分を認めたくない。誇りを傷つけられた」と思いつめる。
そうか。我々の若い時は、いくらでもフラれましたよね。岸田さんもそうでしょう。「そうですよ」。
人生は負け続けだ。それが当たり前だった。それなのに、「自分をフルなんて許せない」「フル女なんて生かしておけない」と思いつめる。
〈男〉が小さくなった。誇りもなくなって、すぐ、凶行に走る。
そんなことで全てを失ってもいいのか。そんな小さい存在。小さい誇りだったのか。…と、岸田さんは言う。
「じゃ、その話をしましょう」。「そうしましょう」ということになりました。
じゃ、「徹底対談・愛について」ですね。
そうだ。上田の東急インに来る前は、軽井沢の「セゾン現代美術館」に行ったんだ。「堤清二/辻井喬 オマージュ展」だ。
随分と広い敷地だし、館内も広い。だって、「西武ですよ。土地だってあるし、財閥ですよ」と平田君。
そうか、でも辻井さんと会ってる時は、そんなことを全く意識しなかった。
宮崎学さんと3人で池袋の、ゴチャゴチャした安い居酒屋で、飲んでいた。
学生時代の話や、革命運動の話をしていた。学生時代と変わらないな、と思った。
つまり、作家としての辻井喬さんには会ってるが、経営者・企業人としての堤清二さんとは会ってなかったんだ。と思った。
三島の話を含めて、一緒に対談して本を作ろうと言っていたのに、亡くなられた。何とも残念だ。
上田の東急インに行って、「信濃デッサン館」開館35周年の記念大会に出た。
その時、受付で、〈「信濃デッサン館」沿革〉をもらった。最後に書かれた窪島誠一郎さんの言葉がいい。
〈人は「美」を愛し狂うのではない。
愛し狂う人の心にのみ「美」は生じる〉
うーん、凄い言葉だな。そうだ。「ヨコハマ・トリエンナーレ2014」には、こんな言葉があった。
「芸術」とは、忘却世界に向けられたまなざしの力のことをいう。私たちが知らないふりをしていたり、うかつにも見落とししていたり、まったく眼中になかったり、そういう忘れものに敏感に反応する超能力のことをいう〉
これも凄い言葉だ。この「ヨコハマ・トリエンナーレ2014」のアーティスティック・ディレクターの森村泰昌さんの言葉だ。
政治は、忘れている。忘れたふりをしている。だから、俺たちが思い出させてやるのだ。という熱い思いがある。それが芸術だ。
政治や社会、経済を含めて、「忘却めぐり」をするアートなのだ。そして、いろんなコーナーがある。
「世界とささやきに耳をかたむける」
「非人称の漂流」
「光にむかって消滅する」
そして、こんなコーナーも。
「たった独りで世界と格闘する重労働」
そうか。それが芸術なのか、と思いましたね。
そのコーナーでは、余りに大きな球体を持ち上げようとして自分が飛ばされて、天井にぶつけられた。そんな人間をイメージした作品もある。
いいですね。この「世界と格闘する重労働」という表現は。
芸術だけでない。読書するのも、闘うのも、生きていくことも、「世界と格闘」しているんだ。又、見に行ってみよう、と思った。
話も、内容が濃くて、とても勉強になった。
打ち上げに誘われ、近くの居酒屋に行く。赤坂さんの旦那さんも来ていた。そして、いろんな出版社の人も、酒を飲みながらも、かなり、高度な話になる。楽しかったです。
その特別内覧会とオープニング・レセプションが行われる。私は、森村さんから招待状をもらった。今回は、森村泰昌さんが、企画、責任で開かれる。
4時頃、横浜美術館に着いて見ていた。巨大なカラス、作品のゴミ箱や、子供のおもちゃ…など、巨大で斬新な作品が所狭しと並べられている。今回の展覧会のテーマは、
〈華氏451の芸術・世界の中心には忘却の海がある〉
その「忘却」は、日常生活もあるし、文化もあるし、政治もある。横浜市も協賛しているし、そんなところで「政治的」なものは出しにくいが、「忘却」の一コマとして、いろんな〈政治〉が作品になっている。なかなか面白い。
見て回っていたら、「あっ、鈴木さん!」と声をかけられた。あっ、ドイツに行ってた渡辺真也君じゃないか。「今月、一時帰国したんです」と言う。7年前に私をニューヨークに呼んで「憲法シンポジウム」を開いた青年だ。
さらに、ベアテ・シロタ・ゴードンさんも参加していた。画期的な集まりだった。
真也君はその時、30才前だ。そして、今は、ドイツの大学で教えている。「じゃ、現代アートの解説をしてよ」とお願いした。
彼は、ニューヨークでは美術館のキュレーター(学芸員)をしていたので、絵のことなら何でも分かる。安さんという韓国のカメラマンと一緒だった。
「鈴木さんの本は随分と読んでます」と安さん。えっ、そうなのか。「坂本さんとの対談は安さんからもらったんです」と真也君。そうなのか。
ゆっくり美術館を見て回って、それから、オープニング・レセプションの開かれるホテルへ行く。横浜ロイヤルパークホテルだ。
会場のホールは、千人ほど入る部屋だ。満員だった。「森村泰昌さんと会えるかな」と心配だった。横浜市長や横浜美術館館長に続いて、森村さんが話す。
終わって、下りてきた時、待っていて会った。久しぶりでした。さすがは世界の森村さんだ。日本の現代アートだけでなく、世界中のアーティストを集めている。
「あっ、ニューヨークで会いましたね」と何人かのアーティストに声をかけられた。私自身も世界的なアーティストになったように錯覚する。
又、いろんなアーティストと話をした。市役所の人、文化庁の人、美術館の人…たちと。
8時過ぎにオワリ。「次に行きましょう」と真也君に誘われてBank Artへ。昔、会社の倉庫だったものを改造して、ギャラリーにしている。
1階では、ビールを飲む所もある。ここも、奇抜なアートが沢山あった。
12時頃帰る。今日は、よく歩いたし、よく見たし、よく勉強した。
高田馬場でJRから東西線に乗り換えるとこで、若者に声をかけられた。『失敗の愛国心』を読んだという。嬉しいな。「それで感動して、早大に入ったんです。大学を出たら新聞社に入ろうと思います」。
これは嬉しいね。私の本を読んで、必死に勉強して、早稲田に入った。
じゃ、私の本も、何かの役に立っているんだ。こっちの方が感動した。私なんて、親類も含め、人には迷惑ばかりかけていると思っていたのに。この青年のように、本を読んで勉強し、早稲田に入った人もいる。
私なんかでも生きていていいのか。人の役に立つことがあるのか。と思い、涙が出た。感動でした。
①7月27日(日)、上田でバッタリ会ったんです。岸田秀さんと。元和光大学教授で、『ものぐさ精神分析』などのベストセラーで知られてます。
右は、長野在住の平田竜二君です。作家の見沢知廉の書生をやってました。本人も作家志望で、書いてるようです。
『「右翼」と「左翼」の謎がよく分かる本』(PHP研究所)を買いました!と平田君。前日、上田のコンビニで売ってたので、ビックリしたと言います。
あれっ、東京じゃまだ売ってないよ。上田の方が早いんだ。東京では30日(水)にコンビニで見ました。
③パーティは凄い人でした。このパーティの前に「35周年の集い」が5時半から行われました。天満敦子さんのミニ・ヴァイオリンコンサート。石澤さんの朗読。酒井忠康さんと窪島誠一郎さんの対談。そして、7時半から、パーティでした。
⑦真田十勇士の根津甚八です。十勇士の像が街のそこかしこに建ってます。猿飛佐助とか霧隠才蔵とか「真田十勇士」は有名です。ぜひ、十勇士も大河ドラマに出してくれ、と要望があるそうです。「でも、あれは小説だから」とNHK側は言います。どうなるのでしょう。
⑧真田の六文銭が入った陣羽織も売ってました。16200円です。安いです。買おうかな、と思ったんですが。
他にも「六文銭」という列車も走ってました。又、「ビール列車」も走ってました。これは真田幸村とは関係ないですね。
⑱会場の千駄ヶ谷区民会館は、JR原宿駅で降りて、左にずっと歩いて行くんです。途中に、「生長の家」の本部があります。ところが、大きな囲いをしてました。そして、「『生長の家』原宿会館解体工事」と出てました。解体して地方に移すそうです。
何か淋しいです。学生時代に毎日のように通いました。「ああ、私の青春が取り壊されている」と思いました。
㉑7月30日(水)午後7時。池袋リブロ。赤坂真理さんの『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)の出版記念トークがありました。内田樹さんとのトークです。内田さんから聞いてたので、行きました。とてもよかったです。
赤坂さんとは初対面です。「『アエラ』で書評してもらい、ありがとうございました」と言われました。いや、こちらこそ、とても勉強になり、教えられました。トーク会場はかなり大きい。でも超満員でした。300人は入っていたでしょう。
㉓これは、7月31日(木)です。8月1日(金)から11月3日(月・祝)まで、横浜で大々的な現代アートの展示会が開かれます。
〈ヨコハマ・トリエンナーレ2014〉
=華氏451の芸術・世界の中心には忘却の海がある=です。主会場は横浜美術館、新港ピアです。全体の企画は森村泰昌さんです。
開会前日、特別内覧会とオープニング・レセプションがあり、招待されました。千人ほどの人がいました。大盛況でした。6時からパーティで、その前に横浜美術館を見て来ました。
㉕森村泰昌さんと。渡辺真也君と。この少し前に、横浜美術館を見ていたら、バッタリ、真也君と会いました。「あれっ? いつドイツから」。「最近、一時帰国です」。
真也君は、かつてニューヨークの美術館でキュレーター(学芸員)をやっていた。この時、日本の「憲法9条」を考えるシンポジウムを開きました。24条を作ったベアテ・シロタ・ゴードンさんや、アメリカの学者。それに何と私も呼んでくれました。7年ほど前です。私もニューヨークに行きました。
そのあと、真也君は、ドイツの大学で教えてます。去年、日本に一時帰国した時は、『紙の爆弾』で対談しました。
㉖韓国の写真家・安さん。織部さんと。安さんは初対面。でも、「坂本龍一さんや前田日明さんと鈴木さんの対談読んでます」と言ってました。織部さんは、「ニューヨークで会いましたね」。そうなのか。パンフレットの私のメッセージを英訳してくれた人だ。お世話になりました。他にも、「ニューヨークで会いました」というキュレーターもいて、やけに国際的な雰囲気でした。
㉗東北大学教授で建築評論家の五十嵐太郎さんと。五十嵐さんの本は結構読んでます。御厨貴さん、五十嵐太郎さんと共に、「皇居美術館」についてのシンポジウムをやりました。かなり危ない話でしたが、それは本にもなってます。
㉘凄い格好の人がいる。面白いと思って、「すみません、写真撮らせて下さい。通りすがりの者ですが」と言ったら、「あら、鈴木さん。久しぶり」。
えっ、全く覚えがない。10年前に、庚芳夫さんたちとよく会ってたらしいです。ヴィヴィアン佐藤さんです。アーティストです。
㉙「電飾男」さんです。「電源はどこ?」と言ったら、股間を指さしてました。自家発電をしてるのか。クリーンエネルギーだ。
「この格好で家から電車に乗って来たの?」。「じぶんの車で来ました」。車も電気で動くんでしょう。クリーンエネルギーでしょう。
㉚(写真ではちょっと分からないのですが)左の人は、薪を背負ってます。「ほう二宮金次郎か」と言ったら、「よく分かりますね」
「あっ鈴木さん」。えっ、私、知り合い? 「武蔵野美術大学で鈴木さんの講演を聞きました」。あっ、そうか。「グレート・ジャーニー」の関野吉晴さんに呼ばれて講演したんだ。そこの学生なのか。
「今度、国立奥多摩美術館で展示をやるんです」と案内をもらった。9月13日からだ。じゃ、行ってみよう。
㉛「鈴木さん、久しぶり」と言われ、名刺をもらいました。お茶を教えている北見さんです。「俺、お茶を習ってたかな?」。「いえ、15年前、講道館で一緒に柔道をやってました」。
そうか。傍にいた真也君が、「鈴木さんは強かったですか?」「というよりも、ズルイし、技が汚かったです」。え?
「足を踏んづけて、痛っ!と叫んだ時に、技をかけるとか」。そんなことしたっけ。「猫だましとか。拳固でグリグリえぐって、それで技をかけるとか」。いや、それも技のうちじゃないのかな。その研鑽のおかげで今は3段だよ。「君は?」「初段を取って、やめました」。
㉞パーティのあと、夜8時過ぎ「Bank Art」に行きました。日本郵船の倉庫だったとこを改造し、美術館にしています。
黒い廊下があって、上がろうとしたら、「あっ危ない。それは作品です」と言われました。コールタールを流し込んでるんです。全く分かりません。足を踏み入れたら、もう抜けません。危ないところでした。