近代国民国家は、独立戦争や革命などを経て成立した。アメリカ、フランス、ソ連、中国…皆、そうだ。
その時、戦いの歌があった。その歌のもとに革命や独立戦争が戦われた。
だから、その歌は「軍歌」だ。(革命歌だって、戦いの歌だし、軍歌だ)。
そして国民国家が出来ると、その戦いの歌が「国歌」になった。
だから、アメリカにしろ、フランス、中国、ソ連にしろ、「国歌」は元・軍歌だ。だから勇ましいし、やる気を起こさせる。
ところが、日本の国歌「君が代」は成り立ちが違う。
明治維新の後に出来たのだから、「徳川幕府を倒した!」「新しい世を創るのだ!」と勇んで、いきり立つ歌を作ってもいいはずなのに、作らない。
大体、官軍は余り歌を作らない。せいぜい、「宮さん、宮さん、お馬の上でヒラヒラするのは何じゃいな」といった歌くらいしかない。
どうも、「戦う歌」ではない。西欧のように、軍楽隊が出て、勇ましい歌をうたいながら行進し、戦うというスタイルはない。
「でも近代国家になるんだから、国旗・国歌は必要ですよ」「それに、憲法も作らなくては」…とお雇い外国人たちに言われ、急遽、作ったのだ。
憲法は伊藤博文がプロシアの憲法を参考にして作った。
国歌「君が代」は、昔々の和歌を元にして、それにお雇い外国人が曲をつけてくれた。非常に、穏やかな、平和的な歌だ。
「国旗」は、徳川幕府が使っていた国旗「日の丸」を、そのまま使った。自分たちが戦い、滅ぼした「賊軍の旗」だ。それを継承したのだ。
こんな国は世界にない。ユニークな国歌であり、国旗だ。
ところが、これから日本は大きな戦争を体験する。日清戦争、日露戦争、そして大東亜戦争だ。
でも、平和的な「君が代」では、戦争を戦えない。それで、急遽、「軍歌」が作られた。もの凄く大量に作られた。世界一多い。
外国では、そんなことはない。さっきも言ったように、「国歌」そのものが戦う歌だし、これさえあればいい。わざわざ「軍歌」を大量に作る必要もない。「国歌」ではあるが、「軍歌」なのだし。
その点、日本だけが違う。国歌では戦えないから。それで、「軍歌」が大量に作られた。そして、「軍歌大国」になった。
私は右翼学生の頃は、軍歌をよく歌っていた。大学を卒業し、プロ右翼の世界に入っても軍歌を歌っていた。
「俺はこんな歌も知ってる」「俺はこれだけ知っている」と、軍歌の質と量を競ったわけだ。私の友人で、軍歌を200曲知ってる人がいる。又、何と300曲知ってる人もいる。
では一体、日本には、どの位の軍歌があるのだろう。〈大体600位かな〉と私は、ずっと思ってきた。
ところが、「いや、1000曲はありますね」と白井伸幸さんは言う。
エッ、そんなにあるのか!とビックリした。戸ノ下達也さんも、「その位あります」と言う。
8月6日(水)、「軍歌・戦時歌謡とその時代」というシンポジウムに参加した時だ。池袋の自由学園明日館講堂で行われたのだ。
一緒に話をした白井さん、戸ノ下さんは、軍歌にはやたらと詳しい。とても教えられた。
白井伸幸さんは元ビクターレコードのディレクターで、『鶴田浩二・同期の桜』『軍歌戦時歌謡大全集』を作っている。
又、戸ノ下達也さんは、近代日本音楽史研究家。本も何冊も出している。この日、『音楽を動員せよ=銃剣と娯楽の15年戦争』(青弓社)をもらった。とても詳しいし、学問的な本だ。
他にも、『戦時下音楽界の再編統合』など多くの著作がある。だから、てっきり大学の先生だと思っていた。
ところが、民間企業に勤めている人なのだ。仕事のかたわら、近代音楽や軍歌の研究をやり、厖大な著作をしている。
この日は、だから、2人の大先生を前にして、生徒である私が、講義を聞く形になった。
「でも右翼をやってたんだから、軍歌は詳しいでしょう」「それに、街宣車といえば軍歌ですから」と言われた。
確かに、「軍歌と共に運動していた」し、「軍歌体験」は長い。でも、1千曲の軍歌の十分の一も知らない。
又、軍歌の成り立ち、政治的意図なども知らない。お二人の先生に、実に丁寧に教えてもらった。
実は、「軍歌の数」だが、もっと驚いたことがある。8月6日の軍歌を考える集いの後に読んだ本だ。辻田真佐憲さんの『日本の軍歌=国民的音楽の歴史』(幻冬舎新書)だ。
辻田さんも、在野の学者らしい。戸ノ下さんも「知ってます。いい本です」と言っていた。プロフィールにはこう出ていた。
〈中学生の時から世界中の軍歌を収集し、大学生の時にその成果をまとめたウェブサイト「西洋軍歌蒐集館」を開設。以後、独立研究者として「軍歌を中心とした、世界のプロパガンダ」を研究テーマとする〉
凄い人だ。ぜひ会ってみたい。「独立研究者」というから、民間の、在野の研究者なのだろう。偉い。
この本で、辻田さんは、「軍歌」という(我々が持っている)固定観念を吹き飛ばす。「はじめに」で言う。
〈今日、軍歌というと、多くの人が戦時中に軍部が民衆に押し付けた退屈な音楽と思うのではないだろうか。あるいは、街宣車から鳴り響く物々しい音楽を思い浮かべる人もいるかもしれない〉
多分、国民のほとんどはそう思っているでしょう。そういう固定観念を作った責任の一端(大半)は「右翼の街宣車」にある。その点は当事者として反省したい。
辻田さんは、軍歌は、決して「押し付けられた歌」「右翼の歌」ではない、と言う。
〈しかし、戦前の日本では軍歌は単なる「軍隊の歌」でも「右翼の歌」でもなかった。むしろ軍歌は今で言えば、ポップスであり、演歌であり、洋楽であり、映画主題歌であり、アイドルソングであり、人々の生活と密接に結びついた娯楽であった。すなわち、軍歌は民衆の歓迎するエンターテインメントであったのである〉
だから、「国民の歌」として取り戻す必要がある。もう一度、見直し、検討する必要がある。と言うのだ。
本のカバーには、さらにこう書かれている。
〈軍歌は、日本史上、最も国民の心を掴んだ音楽だ。初めての軍歌「来(きた)れや来れ」が登場した1885年から終戦の1945年までに作られた曲は1万超〉
エッ?と思った。誤植ではない。他のとこにも出ている。「1万超」と言っている。
ビクターの白井さんは「1千」と言ったが、辻田さんは「1万超」と言う。数え方に差があり、戦時歌謡や、民間に出回った歌も含めたり…とかで違うのだろう。しかし、「1万超」というのは驚く。
それに、この「来れや来れ」は作詞者が外山正一。作曲者は伊沢修二。
外山は東大文学部長。のち東大総長。伊沢は文部省音楽取調掛部長。のちの東京音楽学院校長だ。
〈つまり、今風にいえば、「軍歌」は、東大文学部長と芸大音楽部長がコラボして作った曲ということになるだろう。外山も伊沢も、米国留学から帰国して間もない当時の知的エリートだった。明治初期、軍歌はこのようなエリートたちが携わる「知の最先端」だったのである〉
そうだったのか。だから、「質」も高かった。
外山正一は「来れや来れ」を作る前に、1882年(明治15)5月、『東洋学芸雑誌』第8号に「抜刀隊」という詞を発表した。
後、これをシャルル・ルルーが作曲し、一躍有名になる。(曲を作ったのは早いのだから)こっちの方が「軍歌第1号」だと言う人もいる。
外山は、これを作詞するにあたり、フランスの「ラ・マルセイエーズ」やドイツ(プロイセン)の「ラインの誇り」を意識し、参考にしたと言っている。〈世界に通じる歌〉を意識したのだ。
「抜刀隊」の〈世界性〉に触れて、もう一つ、興味深いことがある。
フランス人のシャルル・ルルーはフランス式軍楽を教えていて、この「抜刀隊」を作曲する時、オペラ「カルメン」を意識したという。
ビゼーのオペラ「カルメン」の第2幕でドン・ホセが歌う軍歌。それが「抜刀隊」に影響を与えたという。
これは、倉田喜弘の『「はやり歌」の考古学=開国から戦後復興まで』(文春新書)に書かれていた。
凄い話だ。「日本最初の軍歌」ともいうべき「抜刀隊」は、「ラ・マルセイエーズ」と「カルメン」を意識して作られたのか。〈世界音楽〉を目指して作られたのだ。だからこそ、あの素晴らしい歌になった。
皆も知ってると思うが、敵を倒すための歌だが、敵を罵倒してない。むしろ、敵を讃えている。1番はこうなっている。
〈吾は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将なる者は 古今無双の英雄ぞ
之に従ふ兵は 共に慓悍決死の士
鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を
起しゝ者は昔より 榮えし例あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし〉
初めに、はっきり宣言している。自分たちは官軍で、敵は朝敵だと。
しかし、「敵」を罵倒し、口汚く罵るのではない。(後の軍歌にはよくある)。
何と、「敵の大将」を「古今無双の英雄」と讃えている。そして、従う兵士(敵兵)も「慓悍決死の士」で「鬼神に恥ぬ勇ある」と讃えている。
こんな「軍歌」は、世界にもない。相手を、これだけ立派な人間と認め、讃えたら、戦う気がなくなるのでは…。志気が衰えるのでは…。と思うが、そうではないらしい。
この歌は西南戦争を歌ったものだ。だから、ここで言われている「敵の大将」とは西郷隆盛のことだ。
じゃ、この歌をうたいながら官軍は西郷軍を討ちに行ったのか。
そう思われるかもしれないが、違う。
大体、西南戦争が終わった後に作られた曲だ。西南戦争には間に合ってない。
西南戦争は明治10年(1877)だ。ところが、「抜刀隊」は、明治18年(1885)、陸軍軍楽隊に雇用されていたフランス人・シャルル・ルルーによって作曲された。
つまり、西南戦争を思い出しながら、これから来る戦争に備える歌を作ったのだ。
晋遊舎ムックの『日本の軍歌』では、抜刀隊をトップに紹介している。〈東大教授が作った「日本最初の軍歌」〉と紹介されている。
日本が世界に出てゆく中で、考えられたことだろう。国歌、国旗、憲法と同じように、軍歌も必要だと思った。外国人たちにそう教えられたのだろう。「独立日本としては必要ですよ」と。
又、これから外国との戦争もあるかもしれない。そのために「軍歌」を作ろうとした。
外国の例も参考にした。フランス人は、フランス革命の時、「ラ・マルセイエーズ」を歌って進撃し、プロイセン人は普仏戦争の時に「ラインの護り」を歌って愛国心を励ました。
ところが明治初期の日本は、そんな戦いを経験していない。そのため「日本人」という国民意識も希薄だった。
〈しかし、そんなバラバラの状態では西洋列強に対抗できない。国民全体として戦争に臨むためには仏独のような国民的な軍歌が必要だ。海外経験豊かな外山は、日清戦争が起こる前から既にそう見抜いていた。すなわち、外山は近代化の一環として軍歌「抜刀隊」を作ったのである〉
〈外山は国民的な軍歌を作ろうとした。ただ当時の日本にはまだ軍歌のテーマになりそうな近代戦の経験がなかった。そこで、最近起きた西南戦争のワンシーンをヒントにして軍歌の試作品を作った〉
つまり、過去の、終わった戦争を回顧しながら作った「軍歌」だ。だからこそ「敵」をも立派に「理想化」して書けた。
敵も立派、勇敢だ。大将も英雄だ。でも〈朝敵〉だから、あえて討つのだ、という苦衷が表現されている。
個人的憎しみや、罵りはない。「理想的な軍歌」だ。これほどレベルの高い軍歌は、世界を探してもない。
8月6日に、元ビクターの白井さんや、研究者の戸ノ下さんと話した時も、2人とも「抜刀隊」を絶賛していた。「最高のレベルの歌」だと。
日本にも精神の余裕があったから、こうした歌が作られたのだろう。ところが、大正、昭和になり、絶望的な戦争になり、敗色が濃くなると、レベルの低い軍歌が量産された。ヤケッパチの歌も多い。ただ悲壮なだけの歌も多い。
たとえば、「比島決戦の歌」がある。ここでは、
〈出てこいニミッツ、マッカーサー。出てくりゃ地獄へ逆おとし!〉
などという。まるでゲームか、劇画だ。ただ、言葉だけが過激になり、悲壮になり、ヤケッパチになる。
また、
〈無念の歯噛み堪えつつ 待ちに待ちたる決戦ぞ〉
という「嗚呼神風特別攻撃隊」などもある。
又、「荒鷲の歌」の中では、こんな詞もある。
「見事、撃沈した敵艦を 母に写真で送りたい」。母は喜ぶのだろうか。たとえ敵でも、その兵士たちにも母がいるだろうに。
「抜刀隊」だったら、そうした〈視点〉で書くだろう。たとえ、それで「志気」が萎えたとしても。
でも、敗色濃くなってくると、やたらと過激な言葉だけがエスカレートして、ただ、悲壮感に浸る。
今のヘイトスピーチの人々と同じだ。又、中国・韓国への憎悪を煽る右派文化人、右派マスコミと同じだ。多分、これらも、下卑た「軍歌」なのだろう。
「じゃ、『抜刀隊』は最高の軍歌で、『比島決戦の歌』は最低の軍歌ですかね」と私は、白井さんに聞いた。思わず聞いたのだ。
「いや、そう極端に言っちゃまずいかもしれないけど…」と言いながら、完全否定はしなかった。
こうした状況を辻田真佐憲さんは『日本の軍歌』の中で、〈「決戦歌曲」という断末魔の叫び〉だと言っている。
そうか。「断末魔」か。「迫る鬼畜の米英を、太平洋に叩き込め」と叫ぶ。大政翼賛会選定の「突撃喇叭鳴き渡る」などだ。
先に私があげた「嗚呼神風特別攻撃隊」も、あげられている。(全6番のうち、1、4番はこうだ)
〈無念の歯噛み堪えつつ 待ちに待ちたる決戦ぞ
今こそ敵を屠らんと奮ひ立ちたる若桜
大義の血潮雲染めて 必死必中体当り
敵艦などて逃すべき 見よや不滅の大戦果〉
確かに「断末魔の叫び」だ。
実は、この歌には思い出がある。右翼運動を先鋭的に闘っていた頃、皆で、よく軍歌をうたった。
「俺はこんな軍歌も知ってるぞ!」「こっちの軍歌は凄いぞ!」と各自、発掘し、披露し合った。
ある時、この「嗚呼神風特別攻撃隊」を歌った若者がいた。歌い出しから、悲壮だ。それで心が揺さぶられた。〈そうだ、俺たちも国のために死ぬんだ!〉と思った。
それ以来、自分でもよく歌っていた。歌によって自分に喝を入れ、「もう後戻りは出来ないんだ!」と思い込ませたのだ。自分に自分で。
どんな文章よりも、他人の話よりも、こうした〈歌〉の方が、人間を駆り立てる。そして死地に飛び込ませる。そう痛感した。
あの当時は、かなり危ないこともやった。非合法もやった。
その時、心の中で、この歌をうたいながら、ミッションを遂行した。私も1人の兵士、1人の軍人だった。
そんな昔を思い出した。「軍歌」はそれだけ、影響力が大きい。
軍歌がなかったら、あるいは戦争は起きなかったかもしれない。いや、あれほど悲惨な断末魔は迎えなかったのではないか。そんなことも考えた。
8月6日の「軍歌」を考えるシンポジウムは、とても勉強になった。考えさせられた。
それにしても、日本の軍歌は1千どころか、1万もあったのか。
それも、国歌「君が代」が余りに平和的で、戦いに不向きな歌だったからだ。
世界の国歌は、ほとんどが「軍歌」だ。でも「君が代」は平和的だから、これで戦えない。だから、軍歌が量産された。1万も。
その中には、「抜刀隊」のような素晴らしい歌もあった。しかし、下らない歌もあったし、単なる「断末魔の叫び」もあった。戦争中の「標語」もそうだ。それは又、考えてみよう。
そんなことを考えていた時だったので、つい書いてしまった。日本で最大の反戦歌は「君が代」ではないか、と。
何を言ってるんだ、と言われるかもしれない。「軍歌」を考えていたら、そう思ったのだ。
『Rolling stone』(9月号)は特集が、〈30人の声明とみんなの反戦ソング〉だった。私も書けと言われて、「好きな反戦ソング」3つをあげた。
最大の「反戦ソング」は「君が代」だと書いた。「3つあげてくれ」と言われたので、もう2つあげた。
何だったろう。高田渡の「自衛隊に入ろう」と軍歌「戦友」だったかな。軍歌や反戦歌については、又、考えてみたい。
8月14日(木)にやった『戦場体験キャラバン』の出版記念トークの話も書こうと思ったが、余裕がない。次にしよう。
それと、8月15日(金)の靖国神社、高須さんの〈終戦記念日トーク〉の話も、次にしよう。
戦争は、一部の人間だけが、突出してやり、嫌がる国民を無理矢理駆り出したのではない。むしろ、国民も新聞もこぞって、「戦争やるべし!」と煽ったのだ。
そして、「戦争標語」も随分と乱暴なものも含めて、ドッと集まった。又、軍歌だって、1万以上も作られた。
熱狂的な戦いの時代だ。いつ又、そんな〈熱狂〉を思い出し、引き戻されるかもしれない。
そうならない為にも、「タブー」にしておくのではなく、全て公表し、その〈魅力〉と共に〈危険性〉をも、キチンと検証すべきだろう。
生き残りの兵士たち、2500人の話を聞いて回って本『戦場体験キャラバン』(彩流社)を作った田所さん、中田さんの努力、苦労には、本当に頭が下がる。
安易に「歴史」に学ぶな。そうした人々の「体験」に学べ、と言いたい。そんなことを痛感した8月だった。
ところが、「よど号」リーダー・田宮高麿さんの死去後、「よど号」グループと高沢さんは訣別した。そして高沢さんは『宿命』(新潮社)を書き、「よど号」グループを告発。一体どうなったんだろうと思っていた。
今年の春、「唐牛健太郎30周年」で、高沢氏と再会。「ぜひ話を聞かせてほしい」とお願いし、『紙の爆弾』(8月号)で実現。大きな反響を呼んだ。
その後、高沢さんは体調を崩して入院。今、リハビリをしている。それでお見舞いかたがた、又、話を聞かせてもらおう。と行ったのだ。
とても元気でした。髪、髭も切って、さっぱりしていた。長時間、話を聞いた。「俺も『宿命』を書いたんだから、鈴木さんも赤報隊のことをちゃんと書きなよ」と言われた。「わかりました」と返事をした。
「連れて来てくれ」と言われ、テレビ局と新聞社の人も一緒に会った。
北朝鮮、そして「よど号」問題も、これから大きく動くだろう。夜、家に帰って原稿。
小沢さんとは昔から知っている。「朝生」での「歴史的な闘い」があるし、TVのコメンテーターになっても、ズバズバ、発言している。
浦和市議をやってた時は、何と、寺山修司も選挙の応援に来たという。私は元々は小沢さんを竹中労さんに紹介された。又、小沢さんのパーティで、桐島洋子、淡谷まり子、松田妙子さん…などと知り合った。
竹中労さんには遠藤誠さんや千代丸健二さんなども紹介された。そんな〈昔話〉もした。そして、べ平連時代の活動についても。又、「これから、どう闘うか」という問題も…。
6時に終了し、小沢さんは次の仕事があるので帰られた。
我々は居酒屋「土風炉」へ。椎野礼仁さん、白井基夫さんを中心に、「8.2生誕祭の慰労会」をやった。
来年は、8月1日が土曜日なので、その日にやりましょう。こんな人たちをゲストに、又、新たな企画も容れてやりましょう。…と、もう1年後の計画を話し合いました。
ツールは急激に進化、進歩するのに、「人間の心」はそれに付いて行けない。そんな気がする。
夕方、6時、ジュンク堂池袋店に行く。打ち合わせ。7時半より、『戦場体験キャラバン=元兵士2500人の証言から』(彩流社)の出版記念トーク。4F喫茶店。
超満員だった。この本を作った田所智子さん、中田順子さん(戦場体験放映保存の会)、そして私の3人でトーク。こんなにも多くの人に、それも、何度も取材し、〈証言〉としてまとめている。大変なご苦労だ。
この中から見えてくる〈戦争〉。そして人間について語ってもらった。映画やTV、小説に出てくる戦争の〈物語〉ではなく、戦争の〈真実〉、〈体験〉こそ聞くべきだと思った。
その上で、自分の頭で考えなくてはならない。そのことは来週、又、書いてみたい。今週は、その時の写真をまず紹介しよう。
質問も活発に出た。又、関係者も何人か来てたので発言してもらった。
終わって、「手羽先」の店〈世界のやまちゃん〉で打ち上げ。帰ってきたら12時を過ぎてました。お疲れさまでした。
夕方、ロフトプラスワンに行く。始まるまで高須基仁さんたちと話をした。
7時半、開始。高須基仁さんプロデュース「終戦記念日企画。平和だからできること」。聞きに行ったのに、「映画のあと、鈴木さんを入れてトークします」と言われて、帰れなくなった。
第1部は、フィクサー朝堂院院大覚さんが出演。ドイツ人の娘(17才)を連れて来た。世界各地に子供がいて、100人近くいるという。驚きだ。
芸能・出版界のタブーについて暴露し、獅子吼。「今は骨のあるマスコミはなくなった。私が闘っている問題でも、どこも書かない。書けない。書いてるのは、『紙の爆弾』『週刊金曜日』『サイゾー』ぐらいだ。この3つは頑張っている」と。司会はローバー美々さん。
第2部は、キックボクシングチャンピオンの谷山俊樹さんが登場。格闘技界の現状について語る。
第3部は団鬼六さんの奥さん、黒岩安紀子さんが登場し、歌をうたう。そしてトーク。そこで休憩。
第4部は、午後9時から憲法をテーマにした映画「太陽と月と」(福原進監督)の上映(ダイジェスト版で40分)。それから、立正大学の金子勝さん、高須さん、私の3人で憲法について語り合った。10時半まで。
かなり濃い話が出来た。「今日は、お客は少なかったけど、とても有意義な話が出来た。又、憲法について、真面目に考えよう」と高須さん。終わったのが11時過ぎ。
それから、ちょっと打ち上げ。お疲れさまでした。
⑧この前は、新文芸座で、「新藤兼人平和映画祭」が行われました。午前9時半から、夕方までです。映画の後、トーク。加藤登紀子さん、森達也さん、立花珠樹さん。加藤さんは所用で前半で退席。そのあと、パンタさん(右)と私が壇上に上げられました。
㉖次の『紙の爆弾』の対談を小沢遼子さんとやりました。8月13日(水)、喫茶店「ミヤマ」会議室です。
小沢さんは、元べ平連。その後、浦和市議をして、テレビコメンテーターをやってます。「朝まで生テレビ」では、とても過激な発言をし、騒ぎを起こしてきました。市議選の時は、何と寺山修司が応援に来てくれて、宣伝カーで挨拶し、小さな路地にも入って応援演説してくれたそうです。凄いですね。