9月20日(土)は姫路だった。「飛松塾in姫路」だ。〈日朝・日韓問題を考える〉だ。
翌、21日(日)は大阪だった。大阪ロフトで、〈オウム・警察・社会の真相〉を話した。両方とも超満員だった。
どうしても、朝日新聞の誤報問題、慰安婦問題が話題になる。
姫路では、朴一さんにかなり突っ込んで話を聞いた。
又、大阪では上祐さん、飛松さんと、「国松長官狙撃事件」についてかなり詳しい話をした。アッと驚く話もあった。
ロフト席亭の平野悠さんも、わざわざ東京から来てくれた。前回、大阪ロフトでやった時は余り人が集まらなかったので心配して来てくれたのだろう。
ありがたい。満員だった。
初め、平野さんが挨拶した。それを聞いていて、思い出した。
ロフトプラスワンで千田夏光さんと「対決」したんだ。あの時のことを思い出した。
朝日の誤報では、吉田清治氏が済州島で200人の女性を力づくで連行し、慰安婦にしたと証言。それを朝日に書いた。
これで慰安婦問題はクローズアップされたように思えるが、実は千田夏光(せんだ・かこう)さんがいる。
この人が、『従軍慰安婦』(三一新書)を書き、最初に「従軍慰安婦」という言葉を使ったんだ。つまり、この人が「従軍慰安婦」を作ったのだ。だからこの人こそ「元凶」だと思われていた。
そこで、「千田さんをロフトプラスワンに呼び、鈴木邦男と対決させよう」と平野さんは考えた。あの時も、お客は満員。「世紀の一戦」を見ようと見守っていた。
そして実に意外な、衝撃的な話を聞いた。
その時の衝撃については、当時「週刊SPA!」に連載していた「夕刻のコペルニクス」に書いた。これは後に、扶桑社から単行本になり(第2巻だ)、文庫にもなっている。だから今でも読める。
大阪ロフトでは、この時の話をした。前日、姫路で朴一さんと話したときも、この千田さんの話をした。
9月11日(木)にBS朝日「激論!クロスファイア」に出た時も、その話をした。
嘘の「吉田証言」ばかりが話題になってるが、その前の千田さんの話も、もっともっと聞くべきだ。千田さんの本は今も手に入るし、ぜひ読んでみたらいい。
今、産経新聞の9月8日(月)を見ている。4面は、〈慰安婦問題偽証「吉田証言」とは何か〉という大特集だ。
「朝日新聞はどう報じたか」を検証する。そして、「吉田清治とは何者か」を書く。「証言も経歴も虚構」と断じる。
この大特集の中に、年表が入っている。「慰安婦問題をめぐる経緯」と題されている。実に分かりやすい。
今から30年前の1982年(昭和57年)の9月、朝日新聞が「若い朝鮮人女性を『狩り出した』などとする吉田清治氏の講演記事を掲載した。
これが、「吉田証言」で、〈慰安婦問題〉に火をつけた。翌83年7月には吉田氏が『私の戦争犯罪』を刊行した。
この「吉田証言」は全ての新聞で取り上げられた。そして大問題になる。
でも、この「吉田証言」の前に、「従軍慰安婦」問題を取り上げ告発してる人がいた。この産経の「慰安婦問題をめぐる経緯」にも、トップで出ている。
驚いたことに、「吉田証言」(1982年)の9年も前だ。1973年(昭和48年)だ。
この表のトップだ。こう書かれている。
〈元毎日新聞記者の千田夏光氏が『従軍慰安婦—“声なき女”8万人の告発』を刊行〉
つまり、この本が事件の発端だし、「従軍慰安婦」という言葉はこの人が作ったのだ。その言葉を作ることによって日本の戦争犯罪を告発し、糾弾した。
「慰安婦」という言葉は昔からあったし、慰安所は世界中にあった。世界中の軍隊が「利用」した。
だから、「どこの国でもやられてることじゃないか。何をガタガタ言うんだ。世界の他の国々が全て謝罪したら、日本も謝罪してやってもいい」と放言していた人もいた。
その放言現場に私もいた。詰めかけた各国の記者たちも、呆れて会場が凍り付いた。
でも、これじゃ「万引中学生」の理屈だ。「万引なんか、皆やってるじゃないか。何で俺だけを捕まえるんだ」という「反論」と同じだ。やってる事は事実なんだから、謝る。それが第一だ。
以前は、日本映画の中にも慰安婦、慰安所はよく出てきた。「二等兵物語」とか、岡本喜八の「独立愚連隊」などだ。
慰安所に兵隊がズラリと並び、順番をめぐって喧嘩している。そんなシーンがよく出ていた。
今、映画を作ったら、こんなシーンは撮れないだろう。「慰安婦はいなかった」「これは嘘だ!」と糾弾される。「反日」「売国奴」「非国民」と言われる。
では、千田夏光さんの話だ。とても物静かな作家だった。
(後で知ったが)、毎日、近くの喫茶店で原稿を書いている。終日、隅の椅子に座って、せっせと書きものをしている。当時は、そんな人が結構いた。又、そんな客をも容認していた喫茶店があったのだ。
千田さんは毎日、朝からこの喫茶店に行き、原稿を書いたり、本を読んだりしていた。ご飯もここで食べる。取材や打ち合わせも、ここでやる。電話の取り次ぎも多い。
毎日10時間以上も、喫茶店にいて原稿を書き、本を読む。
「慰安婦はいたが、従軍慰安婦というのはいなかった」と強弁する人もいる。
それに対して、まず千田さんはこう言った。
「もし、慰安婦が軍隊に勝手に付いてきて、(業者が)慰安所を開いたのなら、又、(軍隊が潔癖で、慰安婦を認めたくなかったら)、軍隊が追い返せばいい。
軍隊に脅されたら、付いては行けない。軍隊は黙認し、あるいは堂々と、慰安所を開かせていた。
それどころか、兵隊が性病に罹らないように、慰安婦を軍医が検診していたのだ。
又、軍隊が移動する時は一緒に連れて行き、船にも乗せて移動している。
これでは「従軍慰安婦」と言われても仕方ないでしょうという。
さらに、こんな衝撃的なことも言っていた。
「日清・日露戦争までは慰安婦はなかったのです。初年兵いじめや捕虜虐待もなかった」という。
それは、日本にはまだ武士道があった。卑怯な振る舞いをしてはならない、と思っていた。
又、日本は野蛮国から脱却しなくてはダメだ。早く、西欧列強の仲間入りしたい。
それで、必要以上に国際法規、戦争法規を守った。
「野蛮国と思われたくない」「西欧列強に追いつきたい」…と思う。「背伸び」だ。
私はこの「背伸び」はよかったと思う。
又、日露戦争の時は、ロシアの捕虜が随分と日本に送られてきた。
松山を初め、全国で何十ヶ所と捕虜収容所はあった。そして、どこでも厚遇した。
捕虜なのに外出は自由だったという。凄い話だ。これは世界の戦争の歴史の中でも、第一級の美談だ。
ところが、日露戦争に勝つと、途端に傲慢になる。
「中国、ロシアもやっつけた。日本はもう世界の一等国だ」と思ったのだ。
又、大国・ロシアを相手に勝った。これは日本が正義の国、神国だったからだ。と思った。
元寇の時も、迫り来る元の大軍は、「神風」によって海に沈められた。神風が吹いたのだ。そう思った。
そして、国民にも、この「神話」を押し付けた。
又、「兵隊」の質が全く変わったのだと言う。
日清・日露までは、まだ武士道が残っていた。だから、何百年も続いた武士道の精神が兵隊に残っていた。どんな突発事態にも対応出来る。
ところが、日露戦争のあとは、徴兵制になる。そして驕り高ぶった日本軍になった。
又、血が高ぶる兵士のために、慰安所が作られた。
慰安婦が出来、南京大虐殺なども起こった。その後、それらが、30年前は大々的に糾弾された。暴露された。「日本の戦争犯罪」を暴くのだ、という特集がよくやれたようになった。
新聞や本も特集した。そんな集会もよく催されていた。この時の「時代の空気」に乗って、新聞も「戦争犯罪」を暴いた。
ただ、「吉田証言」は、何も朝日だけが書いたのではない。毎日も他の新聞も書いた。
ただ、時間が経つにつれて、この吉田氏、そして告白証言に、疑問を持つ人が多く出てきた。
そして、そこから離れた。つまり、この件については、書かないようになった。
ところが、朝日だけがずっと続けた。多分、〈使命感〉、あるいは〈正義感〉があったからだろう。
少し位、ウサン臭いことはあっても、慰安婦はいたのだし、疑う点はない。
もしここで、「大ゲサでした」「間違いもありました」と認めたら、他も全て否定される。「慰安婦そのものがなかった」と言い張る右派・保守派の天下になる。
それではまずい、と思ってたら、謝る契機を失ってしまった。
そして30年も経った。これではジャーナリズムではない。まるで「運動家の理屈」だ。
姫路でも、大阪でも、そんな話をした。
朴一さん(大阪市立大学教授)も、「それはあったでしょうね」と言う。又、「慰安婦だったと名乗りを上げた人の中でも何割かは嘘でした」と言う。そこまで認めていいのか、と思ったほどだ。
だからといって、従軍慰安婦はなかったわけではない。厳然としてあった。
ただ、その時代の「興奮」の中で、名乗りを上げた人の中には、何割かは、違う人もいた。
あるいは、金のために身を売った人もいた。
あるいは、親にだまされて売られた人もいた。
これらの人は、何も軍人が銃を突きつけて連れて行った人ではない。ただ、戦時下に起こったことだ。
「戦時下でなかったら、あんなことはしなかった。戦争が追い込んだのだ、と思っているだろう。
そんなことも考えずに、「金目当てで働いた売春婦だ」と切り捨てるのは、冷たい。情けがない。いろんなケースがあったし、それはキチンと検証したらいいだろう。
そして、戦争犯罪がなぜ起こったか。戦争を避けるにはどうしたらいいか。それを考えるべきだ。
それなのに、中国や韓国と何かあると「戦争も辞さずに戦え」と言い、戦争を賛美する。そして、「日本は正義の戦争をした。悪いことは何もしていない」と居直る。
これでは、「これからも、何度でも戦争をするんだ」と言ってるようではないか。悲惨な戦争から何も学んでないことになる。
姫路では、朴一さん、飛松さんと一緒に、その辺のことを考えた。
そして、日朝、日韓の友好はどうしたら出来るのか、考えてみた。かなり内容のある話になったと思う。
翌、21日、大阪ロフトでは、上祐史浩さん、飛松さんと3人で話をした。オウム真理教、そして警察の不祥事を中心に話をした。
上祐さんは、「オウムの失敗は、大日本帝国の失敗と似ている」と言っていた。
日清・日露で勝って、驕り高ぶり、日本は神国だ。だから、どんな敵と戦っても勝てるのだ、と思った。
その驕り高ぶりの中で、慰安婦や南京大虐殺も起こり、敗戦になった。
オウムも世の中から持てはやされ、傲慢になった。いろんな犯罪も起こしたが、初めのうちは、立件されなかった。内部での殺人や、坂本弁護士殺人事件も、切り抜けた。
少なくとも、その時はそう思った。そして自分たちは正義だし、神がついてるのだと思って暴走した。最後はサリン事件までいった。大日本帝国の暴走、自滅と似ている…と。
これは多分、自らの中に頑なな「正義感」や「使命感」を持っている左右の政治勢力にも言えることだ。
私らだって体験がある。オウム・大日本帝国の暴走・自滅から学ぶことは余りに多い。
国松長官狙撃事件についても、かなり詳しく話し合った。とても考えさせられる2日間だった。
カルガリ博士の悪夢の世界に。ナチス、葛飾北斎とその娘・お栄がからむ。
中森明夫さん、寺脇研さんも見に来ていた。この2人と、終わって、高取英さん、劇団員を加え、打ち上げ。
そのあと、九條今日子さんと一緒に飲んだ店にも行く。今年、2月にここで九條今日子さん(寺山修司の元奥さん)と会い、飲んだ。元気だった。しかし、2ヶ月後、亡くなられた。「あの時、寺山の話を随分としましたね」と中森さんと話し合った。
バロン吉元さんは、かつて一世を風靡した大河漫画「柔侠伝」を描いた人だ。左右を問わず、多くの人に影響を与えた。連合赤軍の植垣康博さんも熱心に読んでいた。
それで、自分がやっている静岡のスナックの名も「バロン」にしたのだ。
「今度、静岡のバロンに行きましょう、案内しますよ」と言いました。
夜は、雑誌の取材。
3時、現代文要約。
5時、「読書ゼミ」。1968年に三島由紀夫が早稲田大学で講演したテープを聞く。学生の質問にも実に丁寧に答えている。私の知ってる人も質問していた。
この後、車でホテルニューオータニへ。「恵観塾」に出る。池口恵観さんが月に1回やっている勉強会だ。私は途中から参加した。
面白かったです。終わって高取英さんたちと話をしました。
それから、6時半。文京区民センターへ行く。〈第2次インティファーダ(9.28)14周年。9.27パレスチナ連帯集会〉に出ました。
②上祐史浩さん(中央・ひかりの輪代表)。飛松五男さん(右・元兵庫県警刑事)と。「オウム・警察・社会の真相」。国松長官狙撃事件を初め、未解決事件について。
オウムの「闇」。警察の不祥事について熱く語りました。
③東京からロフト席亭の平野悠さん(左)が駆け付けて、初めに挨拶しました。そういえば平野さんに言われて、『従軍慰安婦』を書いた千田夏光さんと対談したっけ。と思い出して、慰安婦問題、さらには今回の朝日誤報問題について話しました。
⑪「サラリーマン柔道技」が書かれてました。展望階に。「背負い過ぎ」「丸投げ」「仮払い」「巻き込み」「月末締め」「抱え込み」「価格抑え込み」…と。面白いですね。「右翼技」「左翼技」も考えたら面白いですね。
⑫9月20日(土)午後2時から、「飛松塾in姫路」。駅前の「じばさんビル」4Fで。テーマは「日朝・日韓関係を考える!」。
(左から)司会の岩井正和さん。パネラーの飛松五男さん、朴一さん(大阪市立大学教授)、鈴木。司会の挨拶のあと、主宰者挨拶(飛松さん)、そして私が問題提起。
⑰高校生アイドルの藤波心ちゃん(歌手)も駆け付けてくれました。姫路に住んでるそうです。マネージャーも一緒でした。
心ちゃんは脱原発のデモや集会にも出て、歌ってました。文化放送でも私は一緒に出ました。「マガジン9」の「マガ9学校」でも出てもらいました。
㉑「飛松塾in姫路」は2時開始。その前に「大河ドラマ館を見ましょう」と岩井氏の提案があって、私は、9時半に姫路に着いて、まず姫路城へ。来年3月に完成し、中に入れるそうです。4月に桜も咲きます。「じゃ、4月に飛松塾をやりましょう」と私が提案。
㉒「ひめじの黒田官兵衛。大河ドラマ館」で。去年は会津若松に行き、「八重の桜。大河ドラマ館」を見ました。八重さんになった気分でスペンサー銃を撃ちました。薩長と戦いました。
来年は山口県の「大河ドラマ館」に行かなくてはなりません。
㉛祈祷師のびびこさんと。白い服を着た、変わった人がいるので、ジロジロ見てたら、「あーら、鈴木さん」と言われました。
「びびこよ。もう忘れたの?」。どこで会ったんだっけ。「ほら、キ○○さんに紹介されたわよ」元刑事の本名を言っちゃマズイよ。でも、どうして本名を知ってんの? 「だって、昔から、そういう深い仲なのよ、私たち」と言ってました。