「鶴岡で講演会をやるから一緒に行ってよ」と佐高信さんに言われた。「あっ、いいですよ」と答えた。3ヶ月ほど前だ。
佐高さんは東北では「佐高塾」という講演会を自分でやっているし、他から呼ばれて講演することも多い。そのどっちかだろう。
10月3日(金)午後1時40分東京発の上越新幹線に乗る。佐高さんも乗り込んできた。
あっ、一緒の新幹線で行くのか。「山形県の鶴岡に行くのに、どうして僕らは新潟に向かっているんですか?」と聞いたら、山形新幹線はかえって不便だし、時間がかかると言う。
15時17分に新潟に着き、羽越本線の特急に乗り換える。15時32分新潟発の秋田行きだ。17時17分に鶴岡に着く。
だから、全体で4時間もかかった。大阪や神戸に行く方がずっと早い。「飛行機だと1時間もかからないんだけどね」と佐高さん。
でも台風が来そうだし、そうなると飛ばない。それで、新幹線+在来線特急になった。
「そうだ。あの時は飛行機でしたね」と言った。
もう6年ほど前だ。衆議院議員だった加藤紘一さんの家が放火された。
加藤さんは地元が鶴岡だし、ここが選挙区だ。家族が住んでいる。90を過ぎたお母さんもいる。
その家を放火された。靖国問題などについての加藤さんの発言が許せない。「国賊だ!」「非国民だ!」と怒った右翼の人に放火れた。
その問題について、加藤さんを含め、「緊急討論集会」が鶴岡で開かれた。加藤紘一さん、佐高信さん、早野透さん、小森陽一さん、そして私だ。
「右翼が放火したんじゃないか。なんで右翼を呼ぶんだ」と地元では反撥が強かったらしい。当然だ。
「いや、鈴木さんはテロを否定している。冷静な討論が出来ると思う」と加藤さんが説得してくれて、この討論集会は実現した。
もの凄い人が集まった。警察のガードも厳しかった。右からも左からも抗議された集会だった。
放火事件の直後、私は山形新聞に取材されて、それが記事になっていた。
「加藤さんの政治姿勢や発言に対して反対ならば、言論でやるべきだ。加藤さんだって受けて立つだろう。それなのに、家族が住む家に火をつけるのは絶対にまずい」と言った。
人を傷つけたり、家に火をつけるのは悪い。当然のことだ。「それに、“八紘一宇”に火をつけちゃダメでしょう」と言った。
加藤さんのお父さんは実は、石原莞爾の又いとこだ。思想にも共鳴していた。それで息子に、「八紘一宇」から取って「紘一」と付けた。その話を聞いていて、言ったのだ。
その新聞を加藤さんが読んで、「おう、話が出来る右翼もいるんだ。来てもらおう」となったのだ。
でも、どんな人間か分からないし、地元でも大反対があった。それを押して呼んでくれた。勇気のある人だ。
それと、私もかなり覚悟をして行った。実は、同じ日、東京では「国賊・加藤紘一邸焼き討ち支援集会」が行われていたのだ。それに、多くの右翼が集まっている。
それなのに「国賊」の故郷・鶴岡で一緒に集会に出る奴がいる。「許せん!」「こいつも国賊だ!」…となった。全く孤立無援だ。
「あの時は緊張しましたね」と佐高さんに言った。「帰りも飛行機だったの?」。と佐高さん。
いや、帰りは宮城県の塩釜に行ったのだ。仙台に住んでいたが、家の墓は塩釜にある。
翌日は親の法事で昼までに塩釜まで行かなくてはならない。列車やバスを調べても、皆、便が悪い。
「じゃ、私が車で送りましょう」と地元の人が送ってくれた。
ありがたい。鶴岡から月山を越えて塩釜に行った。時間もかかったが、それが一番早いという。本当にありがたかった。
「だから、列車で鶴岡に行くのは初めてなんですよ」と佐高さんに言った。
新潟までは結構、来ている。先月も「大杉栄メモリアル」で新発田まで来ました、と言ったら、「その新発田を通って行くんだよ」。
エッ、そうなのか。新潟から秋田行きの羽越本線・特急に乗ったら、2つ目が新発田だった。ここまでは何回も来たことがある。このあとは初めてだ。
その初めての体験が素晴らしかった。新発田から鶴岡までの景色が凄いのだ。
荒々しい日本海に沿って、特急は走る。ウワー、凄い!と、ついつい見とれてしまった。
それにグリーン車にはわざわざ、「展望スペース」が、作られている。
1台まるまる「展望車」にするわけではないが、全体の何分の一かを、「展望スペース」にしている。海に正対しながら、見る、楽しむ。それが、1時間半だ。
今までは新発田までしか来なかった。実は、その先が凄い風景だ。それを知らなかったのだ。
17時17分。鶴岡駅に着く。迎えの人が来ていた。「鶴岡は初めてですか?」「2度目ですけど、列車で来て鶴岡駅で降りたのは初めてです」と言った。
車で会場に向かう。市の公会堂とか、ホテルかと思ったら、違う。
「鶴岡まちなかキネマ」と大きな看板が出ている建物の前で降りる。まさか、映画を見るわけじゃないだろう。じゃ、ここが会場なのか。
入ったら、驚いた。大きく看板が出ている。
〈「市民と共に考える教育講演会」。
【講師】佐高信×鈴木邦男
【演題】「日本の教育と政治」〉
えっ、教育についての講演会だったのか。と、初めて知った。
佐高さんが、政治・経済の時局問題について講演し、その前に前座で私が10分ほど喋るのかと思っていた。
「何言ってんですか。2人で1時間半、対談をやるんですよ」と佐高さん。
この時、初めて今回の集会のチラシをもらう。
主催を見て、又もや驚いた。「山形県教職点組合 田川地区支部」となっている。県教組と高教組だ。つまり、日教組の集会なのだ。
そうか。日教組が呼んでくれたのか。ありがたい。と思った。
先生方と打ち合わせをして、「鶴岡まちなかキネマ」の人にも紹介される。
鶴岡で一番大きな映画館で、ここには4つのスクリーンがある。そのうちの一番大きな部屋だ。普段はロードショーをやってるが、この日は特別に講演会に貸してくれたのだ。
「じゃ、人が入らなかったら、映画を上映するんですか」と聞いたら、「それはいいですね」と笑っていた。
しかし、そんな心配をすることもなく、満員になった。
午後7時から始まる。佐高さんと1時間半、話をする。
朝日の誤報問題から始まり、ヘイトスピーチ、すぐに相手を「国賊!」「反日!」と批判する空気、改憲問題などについて話す。
「それにしても今日は、日教組が主催なんですね。昔は、抗議や妨害に行ったこともあります。すみません」と謝った。
今でも、黒い右翼の街宣車には、「日教組打倒!」と大きく書かれたものもある。
かつては日教組は右翼にとっての「主要敵」だった。日教組大会があると全国の右翼が抗議に殺到した。何百台という街宣車が集まった。
オリンピックは「民族の祭典」であり、「参加することに意義がある」と言われた。日教組大会への抗議は、「(右翼)民族派の祭典」であり、「参加することに意義がある」と言われた。
それだけの強力な組織と思われていたんだ、日教組は。今は、街宣車のボディに消し忘れた「日教組打倒」はあったとしても、実際の反対運動は、ない。
むしろ淋しいことだ。頑張ってもらいたい。
今は、時代が変わった。数年前にも、新潟の日教組に呼ばれて話をした。それに何と、日教組の委員長と対談したのだ。
その話をしたら、鶴岡の人たちも皆、ビックリしていた。朝日新聞社で発行していた『論座』の2005年6月号だ。今からもう9年前か。
それに、今はこの『論座』もない。今、本棚から取り出してみたが、表紙にこう出ている。
〈史上初の対談。
日教組委員長と右翼。
森越康雄×鈴木邦男〉
この号のメインの特集は「クール!に論じる。憲法改正」だったが、〈日教組vs右翼〉の方が評判を呼び、話題になった。
「日教組と右翼」は、14頁の対談で、二段組みだ。かなりの長さだ。タイトルは、
〈日教組vs右翼。
この対談は革命的だ!〉
リードはこう書かれている。
〈対極にいた二人が初めて一対一で向き合った。教育を語り、「君が代」「日の丸」を語り、憲法や自衛隊を語り合った。そしていま、58年続いた「vs」の関係の中から、「&」を築こうと一歩を踏み出した〉
そうなのか。「58年間の対立」だったのか。初めての対談か。誰も考えなかったのか、「対談」をさせようと…。
もしかしたら、話があっても、「周り」が止めたのだろう。
又、お互い、「そんな奴らと話し合いなど成り立つはずがない」と初めから思っていたのだ。
又、会っただけでも、「裏切り者!」「許さん!」という雰囲気もあっただろう。
森越さんとはそんな話もした。本当に「革命的!」だったと思う。
この対談は、朝日新聞社で行われた。極秘裡に行われた。
その前に、『論座』の人と、日教組の本部を訪ねて、打ち合わせをした。
「ほう、ここが日教組の本部ですか」と私は、キョロキョロと見回していた。
そして、「ここに入った右翼は私が初めてですか? 58年間で」と聞いた。「そうです」と言うと思ったら、「正式に招待されて入った右翼は初めてです」と言う。
エッ? じゃ、「正式に招待されないで入った人はいたの?」「はい。いきなりピストルを撃って入ってきたり…」。
大変だ。そんな襲撃があったんだ。「これがその時の傷です」と、足を見せてくれた人もいた。ピストルの弾が当たったのだ。
「すみませんでした」と、つい謝ってしまった。
この『論座』の対談は、反響も大きかった。危険を冒して対談し、かなり踏み込んだ話が出来たと思った。
しかし、お互い、内部からの反論・突き上げも多かったようだ。
いつまでも「天敵」にしておいた方がいいと思う人たちがいるのだ。警察も含めて…。
この対談は、〈革命的〉であるにもかかわらず、私のどの単行本にも入ってない。
2年ほど前、私の「対談集」を出そうという話があって「これも入れましょう」と言っておいたのだが。話が進んでないな。
ここで鶴岡に話は戻る。映画館で行われた佐高信さんとの対談だ。
佐高さんは、この鶴岡の隣り、酒田の出身だ。「実は、私も日教組の活動家だったんですよ」と佐高さん。
そうか、学校の先生だったとは聞いていたけど、日教組の活動家だったのか。
庄内農業高校と酒田工業高校で教えていた。合計5年いた。
そして、よんどころない事情で故郷を後にして、上京。業界紙に勤め、その後、ジャーナリストとして独立。有名になる。今は『週刊金曜日』の発行人だ。
「故郷に錦」を飾ったんだ。地元では絶大な人気がある。その秘密などについても聞いた。
又、この日のテーマは、「日本の教育と政治」なので、「日の丸」「君が代」「愛国心」の押し付けの話。学校教育では何を教えるのか…についても話し合った。
又、最近、言論の自由が危機的状況だ。何か言うとすぐに「国賊だ!」「反日だ!」とレッテルを貼って、その人間そのものを潰そうとする。酷い話だ。
そして、朝日の誤報問題と、その後の異常なバッシングについて話し合った。
「朝日の言ってることは全て嘘だ。従軍慰安婦はいなかった。南京大虐殺もなかった。日本は正義の戦争をしたんだ」という声が世を覆っている。「朝日は謝っただけでは済まない!」とも言う。
じゃ、どうすればいいのか。「朝日は廃刊しろ!」というのだろう。廃刊したら、もっと「言論の自由」はなくなってしまう。
又、そんな冷え切った言論状況に対し、あまり言及しているマスコミはない。
新聞、週刊誌は、取り上げないで、逃げるか。あるいは、この時とばかり、「朝日バッシング」に加わり、「日本は悪いことは何一つしてない」「正義の戦争だった」というキャンペーンに加わるか。
どちらにしろ、だらしがない。
と思っていたら、『週刊朝日』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などは、「自由な言論」目指して頑張っていた。月刊『創』も、この問題を特集していた。
それから、『東京新聞』も特集してましたね。と言った。
実は、今朝、新幹線に乗る前に、たまたま、『東京新聞』を買ったら出ていたのだ。
だから、鶴岡でも紹介した。『東京新聞』 (10月3日)の「こちら特報部」だ。〈朝日バッシング、深層を読む〉と題し、かなり詳しく現状を報告している。
こういう見出しが並ぶ。
〈「売国」「反日」見出しは売れる。
「戦争受け入れる下地づくり」
新たな「戦前」の序章?〉
今の状況をズバリと指摘している。今、朝日新聞に対するバッシングが盛んだ。朝日の、この記事はおかしい。ここはダメだ…というのではない。いきなり、「国賊!」「反日!」だ。
こんな汚い罵声がネットの世界だけでなく、活字メディアでも「市民権」を得つつある、とリードでは言う。
敵を排撃するためには、あらん限りの罵詈雑言を浴びせる。これではまるで戦前・戦中の言論統制だと言う。こうも言う。
〈「嫌韓本」で一線を越えた出版界には、もはや矜持もタブーもないのかもしれない。安倍政権が「戦争できる国」へ突き進む中、「売国奴」呼ばわりの横行は、あらたな「戦前」の序章ではないのか〉
そして、青木理氏、前田朗氏、百田尚樹氏…などの発言を紹介している。
あっ、私の発言も紹介されていた。
〈愛国者気取りで「売国」「国辱」などと口汚く他者をののしるのは「エセ愛国者」だと断じる〉
愛国心があるというのなら、「日本のこんなとこが好きです」と謙虚に言ったらいい。
「俺は愛国者だ! でもこいつらは愛国心がない」と言って、必ず他人を口汚く罵る。これでは「愛国心」ではないと思う。
テレビ討論会の影響かもしれないが、「大声で怒鳴り」「口汚く相手を罵る」。そのことでしか、「自分の正しさ」を証明出来ないと思っている人が多い。違うだろうと思う。
相手を罵倒しなくても、あるいは、心の中で思っているだけでもいい。「心」なんだから、それでいい。「愛国心」は。と思う。
鶴岡では、そんな話を佐高さんとした。1時間半はアッという間に過ぎ、会場からの質問も受けて、9時に終わる。
終わって、近くの居酒屋で、日教組の先生方と打ち上げ。大いに飲み、大いに話しました。
翌日は、地元の人が、鶴岡、酒田を案内してくれる。南洲神社、土門拳記念館、荘内神社、藤沢周平記念館…などを見て、夜の特急で帰りました。
〈純粋で硬直化している頭には「タメ」がなく一気に過激に変貌する。純粋と傲慢は紙一重なのである〉
なるほど、それは言えますね。プロレス好きな人は、オウムにも連合赤軍にも入りません。プロレス観戦は最強の「護身術」になる。面白いし、教えられる本です。
午前中、原稿。
午後1時、喫茶店「ミヤマ」の会議室。『紙の爆弾』の対談。矢島一夫さん(73才)と対談する。
強盗殺人で刑務所に40年も入っていた。さらに少年時代は少年院、少年刑務所に10年ほど入っていた。シャバにいる時間の方が圧倒的に短い。凄まじい人生を聞いた。
そして、人間はこんなに変われるのか。と驚くほど変わった。どうしたら人間を更正させられるのか。その方法は…といった話を聞く。驚きの連続だった。
番組が終わって帰ろうとしたら、大竹まことさんに会った。これから夕方の番組なのだ。少し、話をしました。
それから新宿3丁目に。「新宿SPACE雑遊」に行く。愚安亭遊佐さんの独り芝居「人生一発勝負」を見る。
よかった。感動的なお芝居だった。本人のお母さんをモデルにして作った壮絶な人生の芝居だ。終わって、近くの居酒屋で一緒に飲みました。
実に興味深い話だった。60年安保のリーダー唐牛さんの話から始まり、企業人、山口組、右翼フィクサーが登場し、激動の戦後史を語る。とても興味深い話でした。
終わって、近くの居酒屋で二次会。全学連副委員長だった小島さんや、元『文芸春秋』編集長の堤堯さんなども来てくれて、「あの時はこうだった」と、秘められた事件史を語ってくれる。
5時「読書ゼミ」。斉藤先生が選んだ中島敦の本『弟子』と、そのテープを聞き、勉強。中島敦はいいですね。私も全部読まなくっちゃと思いました。
これも又、衝撃的な話だったので、「病気見舞い」のついでに、又、取材させてもらった。凄い話が聞けました。
それから新宿に戻り、6時半、外国の政治家。記者の人たちとの話し合いの会に出る。
10時近くに終わる。急いでロフトプラスワンに行く。「金正日の料理人」藤本健二さんが出ている。まだやっていた。間に合った。久しぶりに会う。
そのあと、椎野礼仁さんと担当編集者が来ていたので、皆でゴールデン街と「猫目」に行く。そこで飲み、騒ぎ、喧嘩した。
㉓10月5日(日)3時、松元ヒロさんのライブ「松元ヒロ ひとり立ち」を見に行きました。紀伊国屋ホールです。面白かったです。
楽屋に挨拶に行ったら、立川志の輔さん、有田芳生さんに会いました。久しぶりでした。
㉖「アエラ」(10月13日号)に書きました。プチ鹿島さんの『教養としてのプロレス』(双葉新書)の書評です。
この写真もいいですね。本をリングの上に立ててます。小さなリングを作ったんでしょう。撮影用に。凝ってます。