おっ、5日連続で新幹線に乗ったよ。と言ったら、「毎日、富士山を見てたんですか。さすが愛国者ですね」と下中さんに言われました。
そうか、5日間、毎日、東海道新幹線に乗ってた。だから毎日、富士山を見てたことになる。
11月16日(日)は名古屋に行って、そこから四日市だ。
森田必勝氏の地元で映画とトークをやった。若松孝二監督の映画「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の上映だ。
そのあと、必勝さんのお兄さんと私のトークだった。
ところが、何と、映画で「森田必勝」役をやった満島真之介さんが来てくれたのだ。
急遽、舞台に上がってもらい、3人で話をした。司会は御手洗志帆さんだ。
その話は、少し後でしよう。
5日間、新幹線に乗った話だ。16日(日)、映画とトークの後は二次会で遅くなり、四日市に泊まった。
翌、17日(月)は朝早く起きて東京に帰る。11時から、門田隆将さん(ジャーナリスト)の話を聞く。
夜は小野寺五典さん(前防衛大臣)の話を聞く。詳しくは、「写真」と「だいありー」を見て下さい。
11月18日(火)は朝早く出て、姫路へ。「飛松塾」だ。
松本サリン事件の冤罪被害者の河野義行さんが来て講演してくれた。
これは凄い話だと思ってたら、他にも被害者の人を3人、ゲストとして呼んでいた。飛松さんが取材した事件の関係者だ。熱い「飛松塾」になった。
そして二次会。最終で東京へ帰る。
翌11月19日(水)朝、東京から京都へ行く。それから橿原神宮前へ。水平社博物館に行き、西光寺、朝鮮学園に行き、6時から奈良県人権センターで講演。
この日は、橿原に泊まる。
そして、翌20日(木)は、朝早く起きて、東京に帰る。
だから、5日間、連続して新幹線に乗った。又、5日間、連続して富士山を見た。こんな体験は初めてだ。
書くことが余りに多すぎる。だから今回は四日市を中心に書こう。
若松プロから映画を借り、映写した。
そして上映会の2日前に、「もしかしたら満島さんが来るかも知れない」というビッグニュースが飛び込んで来た。
でも、今や人気スターだし、スケジュールが一杯で無理だろう。と思っていた。
だから、「今日、来るかも…」と言っても、無理だと思っていた。
ところが、来てくれた。「これは奇跡です。急に、今日のスケジュールが空いたんです!」と言う。凄い。
映画の時も、控え室で一緒に観た。森田必勝氏が自決するシーンでは、うなだれて、涙ぐんでいる。
「自分が死ぬシーンは、辛いですか」と失礼なことを聞いちゃった。「ここにいるのは自分じゃないです。森田さんです!」と満島さんは言う。キッパリと言う。
映画が終わり、壇上に上がってからも凄かった。
「この映画は四日市から生まれたんです」と言う。
実は森田必勝役に決まった時、満島さんは、1人で四日市に来たのだ。そして、アポもなしに森田さんの家を訪ねた。
若松監督は、出演者全員に言っていた。「事前に事件のことを調べようなんて思うな。自分のままで、自分を出してやれ!」と。
しかし、満島さんは、森田必勝氏について書かれた本を読みまくった。「鈴木さんの本も読みました」と言う。
そして、ぜひ、必勝氏の生まれ育った四日市を見たいと思い、監督には内緒で、四日市に行った。
本に出ていたので、町名は分かってるが、番地は分からない。
その町名のところで、近くにいるおばさんに聞いた。
「あっ、まさかつちゃんの家ね。そこですよ」と教えてくれた。亡くなって40年以上も経つのに「まさかつちゃん」と呼ばれている。地元の人にも愛されているんだと思った。
森田さんの家を探し、ベルを押した。
お兄さんが出てきた。満島さんを見るなり、絶句し、立ちすくんでしまった。固まっている。
その時の話は私も何度も聞いた。なぜ、立ち尽くしたのか。
「弟が帰ってきた!」と思って、何も言えず、動けなかったという。
でも、必勝氏が亡くなったのは40年以上前だ。今生きていたら60代後半じゃないか。
お兄さんは言う。「いえ、私にとって弟は、ずっと25才のままです」。
そしてお兄さんは満島さんを家に上げ、かなりの時間、話してくれたという。
必勝氏の子供の頃、学生の頃、「楯の会」に入った頃のこと…と。
この時の話も不思議だ。「森田必勝」氏は神格化されている。「烈士」として崇め、訪ねて来る人もいる。何十人といたようだ。
でも、その誰に対しても「弟が帰ってきた!」とは思わない。どうして満島さんだけが…。
「そうですね。不思議ですね」とお兄さんも言う。「弟はこんなにいい男じゃないし…」と。
眼の光りだったのか。それに、いきなり訪ねてもお兄さんがいるとは限らない。
又、今回も、とてもダメだと思っていたのに、急にスケジュールが空いて、来てくれた。
「守られてるんでしょうね」と満島さんは言う。
その時、満島さんは、帰りに必勝氏のお墓参りをした。その時の写真を前に見せてもらった。
必勝氏のお墓の上には丸い石が置かれている。中は刳り抜かれているので、向こうが見える。
満島さんの写真を見て驚いた。その墓石の穴から人の顔が見える。
「あっ、必勝氏だ!」と私は叫んでしまった。満島さんも驚いていた。
きっと、必勝氏も喜んでいるのだろう。
だから、守ってるんだ。そんな気がする。
去年は、11月にお兄さんと宮崎正弘氏と私のトークをやった。
「来年は映画もやりたいですね」という話になった。とても実現は無理かな、と思われたが、出来た。
さらに満島さんまで来てくれた。当日、会場に来た人たちも皆、ビックリしていた。
「若松監督も来たかったんですよ」と私は言った。
私はこの映画を作る時に、「楯の会」の人を紹介したり、資料を集めたりした。
映画が出来て、それを見たお兄さんが感動して、「ぜひ監督に会いたい。お礼を言いたい」と言う。
「じゃ、四日市に私が連れて行きますよ」と言った。
若松監督も大喜びで、「じゃ、四日市に行くよ」と言ってくれたからだ。
そうだ。「若松監督が来るんだから、お二人で会うだけでなく、会場を借りて公開トークもしてもらったらいい」と思っていた。「いいね」と監督も大いに乗り気だった。
ところが、急に亡くなられてしまった。それで去年はお兄さん、宮崎氏と私でトークをした。
元「楯の会」の人や、一緒に学生運動をやった人たちも沢山、来てくれた。その時、「来年は、ぜひ映画も上映したいですね」という話になった。
そして実現出来た。必勝氏が守ってくれたのだろう。
「この映画は四日市から生まれたんです」と満島さんは言った。四日市に来たので、必勝氏のことが分かり、「必勝」役をやれたという。
迫真の演技だ。若松監督には、しごかれまくって耐え抜いてやった。
それまで、満島さんは、映画も芝居も全く出たことがない。全くの素人だった。
それなのに、どうして若松監督は見つけたのだろう。
実は、何年も前から、「森田必勝」役を探していたという。
他の役は全て決まった。でも「必勝」役はいない。いないうちは映画は作れない、と延び延びになっていた。
そして、満島さんに会った。「この男だ!」と思った。
どこに魅せられたのか。お兄さんが「弟が帰ってきた!」と思ったと同じような思いが監督にあったのか。眼の光りだったのか。
ともかく、よかった。満島さんを得て、映画の撮影は始まった。
本当に素晴らしい映画だ。皆、真剣だ。命懸けだ。「必勝さん」役をやったので、私は役者になれたのです。と満島さんは言う。
他の映画だったら、1本出ただけで終わり。それだけの役者で終わっていただろう。「必勝さんをやれたので、役者になれたんです」と言う。
そして、今は超多忙の人気俳優だ。
若松監督も、よく、この映画を撮ってくれた。本当に感謝したい。
又、三島由紀夫役の井浦新さん。森田必勝役の満島真之介さん。そして他の役者さんたち。皆、いい。
映画の中で、私たちは、三島さんや、必勝氏に会えた。再び会えた。
この日は、必勝氏と同期の学生運動仲間も何人か来ていた。
私は必勝氏の2年先輩だ。年は先輩だが、必勝氏に対しては、ずっと申し訳ないと思っていた。
先に運動に参加した我々は、森田必勝氏を誘い、運動の世界に入れた。
ところが、1970年11月25日。必勝氏は三島さんと共に自決した。
必勝氏を誘った我々は、皆、企業に就職したり、大学院に進んだり、郷里に帰って家業を継いだりしていた。運動から離れた者が多かった。私もサンケイ新聞に勤めていた。
誘った先輩たちは、運動を辞めていたのに、誘われた必勝氏は運動を続けていた。
そして三島さんと共に自決した。
「疚しさ」を感じた。申し訳ないと思った。
当時の学生運動をやった人間なら全員そう思っているはずだ。
そんな「疚しさ」の中で、就職も出来ず、あるいは結婚も出来ず、悶々として40年を過ごした人もいる。
「でも、この映画で必勝さんは生き返ったんだ」と思った。満島さんの肉体を借りて、必勝氏が活動している。演説している。
なんか、羨ましさを感じた。そんな不思議な感情を持った。こんなことは初めてだ。
映画は2時間半だ。それ以外に若松監督、新さん、満島さんなどもトークで出ている特別編もある。トークの方が長いから、全体で5時間以上ある。
少々高いが、それだけの価値はある。ぜひ見てほしい。買うか、あるいは借りて。
そうだ。四日市だけでなく、全国を回ってこの映画の上映会をやってもいい。お兄さんや満島さんにも行ってもらって。
そして今の若者たちに、必勝氏の〈生き方〉を見せたい。この男の生き方を考え、そして感じてもらいたい。そう思った。
11時、ザ・キャピタルホテル東急。「第33回 経営塾フォーラム例会」に出る。
今回の講師はジャーナリストの門田隆将さんだ。テーマは〈朝日新聞はなぜ謝罪したのか〜私に送ってきた驚愕の抗議書〉。これはぜひ聞かなくちゃと思い、四日市を早く発って帰京したのだ。
朝日新聞の東電・吉田調書報道について、いち早く「虚偽」を見抜き、5月31日付のブログで朝日新聞に対して「誤報」を訴えたのが門田さんです。
門田さんは吉田さんの生前にインタビューを行い、100人近い福島第一原発の関係者の実名証言をもとに、『死の淵を見た男—吉田昌郎と福島第一原発の500日』(PHP研究所)を著しています。
これに対し朝日新聞は抗議書を送り、法的措置を辞さない姿勢を取ってきました。
ところが「誤報」「虚偽」が明るみになってくると、一転、謝罪しました。その経過、実情、朝日報道の問題点について詳しく語ってくれました。日本のジャーナリズムを考える上で、実に貴重な講演でした。
終わって、挨拶したら、すぐに、「あっ、ルマタンで会って以来だね」と言われました。私は初対面だと思っていたのに、凄い記憶力です。凄いジャーナリストです。
このあと、他の打ち合わせがあり、6時に、千駄木の全生庵に行く。そこでやっている企業人の勉強会に出る。
講師は、小野寺五典さん(前防衛大臣)。とても教えられる講演でした。日本の防衛について実際の前線て闘い、決断を求められてます。その厳しい現状を話してくれました。
終わって挨拶しました。小野寺さんは宮城出身です。その話もしました。
帰ってきて朝方まで原稿を書く。
午後2時から、じばさんビル9Fで「飛松塾」。松本サリン事件の冤罪被害者・河野義行さんが第1部で講演。
第2部は、さらに犯罪被害者・冤罪被害者に3人出てもらい、「全国被害者大会」を開く。
釜ヶ先で殺された女医さんのお兄さん・矢島敏さん。秋田で息子さんの豪憲君を殺された父親の米山勝弘さん。高校の時、集団リンチされた小西史晃さん。テレビなどで事件が大々的に報道された人ばかりだ。
その人たちに話してもらい、その一つ一つの事件について、河野さん、飛松さん、私を含めて、話し合う。とても濃い話になりました。4人の一人一人について、じっくり話を聞き、質問してました。
終わって、駅前の居酒屋で二次会。私は最終の新幹線で帰りました。家に着いたら、1時近くでした。
着いたのがお昼。それからお好み焼き屋さんで昼食。時間を予約してあったようで、着いたら、ちょうど焼き上がっていた。
それから御所(ごぜ)市に。「水平社博物館」に行く。前から、ぜひ行きたいと思ってたので、夜の講演の前に案内してもらった。
差別と闘う歴史の資料が、写真が、展示されている。その中で、協力して闘った弁護士や「国粋運動関係者」の写真・資料もあった。
私がお世話になった「新勢力社」の毛呂清輝先生も入っていた。水平社運動を起こした西光万吉さんと毛呂先生は親友で、一緒に運動もやっている。
このことは私の『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)にも書いた。
奈良の「水平社博物館」にはそのことが書かれていて、毛呂先生の写真もあるそうだ。と前から聞いていた。
今回、やっと来て、確認出来た。嬉しかった。博物館の学芸員さんとその話をしました。
そのあと、向かいの西光寺に行き、さらに朝鮮学校に行く。
そして、橿原市に戻り、人権センターへ。午後6時開場。私が1時間、講演して、そのあと、質疑応答。
テーマだが、「核も戦争もない平和な世界を作るために」。水平社博物館に行ってきた話から始め、今の世の中をどう見るか。どう変えるべきか。について話しました。
人権問題に関心があり、運動をしてる人も多いので、かなり突っ込んだ、刺激的な話になりました。
私の講演会じゃ、人も集まらないと思ったら、250人も集まり、超満員でした。二次会でも、ずっと質問され、話しました。
かなり遅くなってホテルに帰り、寝ました。
第1章「バカは民主主義が好き」。
第4章「B層社会の反知性主義」。
第6章「民主主義か哲人政治か」…。
その中に、「選挙免許制度のすすめ」という見出しも。
バカが皆、選挙するとますますバカな政治家ばかりになる。だから、投票する人、選挙に出る人には試験をして、免許制にしろ。という。凄い。
投票出来る人は半分以下になるよ。本を読んでいたら、いきなり私の名前が出てきた。昔、福田恆存に会って、叱られた話が紹介されていた。
私は昔も今も「愚民」だ。きっと選挙権も取り上げられてしまうよ。と怖くなりましたね。
夜は、ファンが集まって飲みました。
①11月16日(日)森田必勝氏の地元・三重県四日市で映画とトークの集まりがありました。森田必勝氏のお墓参りをして、森田家にお伺いし、それから会場に行きました。
6時半から映画「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」(若松孝二監督)の上映。8時半から、森田治さん(森田必勝氏のお兄さん)と私のトークです。
そこに、サプライズゲストが来てくれました。映画で「森田必勝」役をやった満島真之介さんです。驚きました。トークに加わってもらいました。貴重な話が聞けました。
(左から)満島真之介さん、森田治さん、鈴木です。
⑤中央は、いつも大きな蛇の指輪をしている女性です。「蛇田です」と自己紹介してますが、本当は瀧沢さんらしいです。皆に、蛇の指輪を見せてます。
そしたら、「わしも蛇年なんじゃ」と森田治さん。「えっ、僕も蛇年ですよ」と満島さん。それで、「蛇」一族で写真を撮りました。貴重な写真ですね。
⑧映画、トークが終わって、9時半頃から二次会です。
(左から)岩井さん、鈴木、満島真之介さん、森田治さん、飛松五男さん、山本之聞さん(元・日本学生同盟委員長。森田必勝氏と早大で同期。一緒に活動しました)。
⑩そのあと、3人の犯罪被害者の方も加わって。「全国被害者集会」。
(左から)矢島敏さん(釜ヶ先で殺された女医・さっちゃんのお兄さんです)。米山勝弘さん(秋田の連続児童殺人事件で、息子の豪憲君を殺された)。小西史晃さん(高校の時に集団リンチにあった被害者)。そして、河野義行さん、鈴木、飛松五男さん。
⑮飛松五男さんが挨拶。右側の美女を紹介しています。ネットで知り合ったのかと思ったら、違います。「街を歩いてたら、美しい人がいたので、声をかけた」と飛松さん。若いですね。不良高校生のようなことをする。
「その街は、どこですか?」と聞いたら、「あいおい」と言います。姫路の近くです。「愛生い」かな。愛が生まれたのかな。と思ったら、「相生」と書くそうです。
⑯東京から、わざわざ来てくれた寅次郎さん(右)。中野区上高田4丁目のひかり荘に住んでるそうです。私は上高田1丁目のみやま荘です。近いです。
でも東京で会ったことはありません。姫路、西宮、大阪、札幌で会いました。遠くまで来てくれてるんです。「独身だから、どうですか」と隣りの美女に紹介しました。飛松さんは、カッコいいけど、もう奥さんがいるし…。
㉑民族派運動の先生の毛呂清輝先生の写真がありました。水平社運動を起こした西光万吉さんと毛呂先生は親友だったのです。そして一緒に運動をしてました。
そのことは師岡佑行さんの『西光万吉』(清水書院)にも詳しく書かれていました。私も『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)に書きました。「奈良の水平社博物館には毛呂先生の写真も飾ってあるよ」と前々から聞いてました。本当にありました。感動しました。
㉔屋上で。正面は西光寺。西光万吉さんはここで生まれました。それで、ペンネームを「西光」にしたそうです。
このあと、西光寺にお参りに行き、そして、朝鮮学校に行き、人権センターに行きました。6時から講演し、奈良で泊まりました。
㉕11月11日(火)午後6時、『紙の爆弾』の対談。「日本鬼子(リーベンクイズ)」の監督の松井稔さんと。
14年前の映画ですが、今月、DVDになり、それを記念してネイキッドロフトで対談しました。この日は、その続編です。詳しく聞きました。
㉗参加した出版社の人が何と、レーニンのTシャツを着てました。左はレーニン(礼仁)さんです。
「日本のレーニン」と言われた塩見孝也さん(元赤軍派議長)の本も近々、出るようです。そしたら、「レーニン」つながりで写真を撮りましょう。「蛇」つながりで写真を撮ってた人もいましたね。
㉘11月15日(土)代々木第二体育館。大道塾の北斗旗・空道世界大会に行きました。東孝先生と。
東先生は、高校生の時に「楯の会」に入りたくて、三島由紀夫さんに手紙を書いたそうです。「高校生はダメ。大学生になったら来なさい」と言われたそうですが、三島さんは亡くなってしまいました。
東先生とは昔、『ゴング格闘技』で対談しましたね。それも単行本にまとめたいですね。
㉙大会に来ていた松原隆一郎さん(東大教授)。そして、生島隆さん(右)。松原さんは大道塾のビジネスマンクラスの指導者で、柔道もやってます。3段で、今度、4段を受けると言ってました。「アエラ」にも、「最強の大学教授」と紹介されてました。
生島隆さんは生島ヒロシさんの弟さんで、生島プロの社長です。
㉚世界中から集まった選手によって熱戦が繰り広げられてました。北斗旗の大会副委員長の小池百合子さんにもお会いしました。「久しぶり。こういうとこにも来るの?」と。
私は格闘技は好きだし、東先生は宮城県出身なんです。それに、憂国の士で司馬遼太郎の『竜馬がゆく』全巻を5回も読んでます。
㉛「朝日新聞社長の首をとった男」と言われています。作家の門田隆将さんです。11月17日(月)、経営塾フォーラムで講演があったので、聞きに行きました。
東電の吉田さん初め、100人もの人に取材し、本にしました。それを朝日は「撤回しろ、謝罪しろ」と言ってきました。ところが、門田さんの方が正しくて、朝日も誤報を認め、謝罪したのです。
これはぜひ聞きに行かなくちゃと思って行ったのです。「初めまして」と言ったら、「あっ、鈴木さん、ルマタン以来だね。30年前だよね」。驚きました。ゴールデン街の「ルマタン」で会ったそうです。30年前に。それを憶えているというのも凄いです。並みの作家ではありません。今度、ゆっくり話を聞きたいです。
㉜前防衛大臣の小野寺五典さんと。全生庵でやっている勉強会で講演してました。これもぜひ聞きたいと思って行きました。
いかに防衛大臣という職は大変なのかが分かりました。小野寺さんは、宮城県出身です。「私は東北学院榴ヶ岡高校の一期生です」と言ったら、「私の伯父も一期生です」。えっ、そうですか。今度、同窓会で会ったら、話してみよう。
㉝河合塾コスモの先生だった小田原紀雄さんを偲ぶ会がありました。池袋のサンシャインシティ文化会館で。11月15日、沢山の人が参列しました。
予備校関係の人だけでなく、キリスト教関係の人、左翼運動関係の人たちも。小田原さんは自分で教会を持っているキリスト者です。同時に反天皇制の活動家でもありました。
㊱大口昭彦さん(弁護士)と。コスモ生が、「2人は早大の同級生ですか。仲良かったんですか?」。すかさず大口さん、「敵です!」。
そうです。早大全共闘議長だったんです、大口さんは。怖かったです。我々、弱体な右翼学生はいじめられてました。森田必勝氏のこともよく知ってました。「爽やかな男だったね」と敵ながら評価してました。
㊲三上治さんは中央大学で学生運動をやってました。リーダーでした。「明日、四日市に行くんだって? 治さんによろしく言ってよ」。
えっ?と思いました。三上さんは四日市出身で、実は中学の時に、森田治さん(必勝氏のお兄さん)に英語を習ったんだそうです。
最近、三上さんのお兄さんが亡くなり、四日市に帰ってきたのですが、時間がなくて治さんには会えずに電話だけで話したそうです。だから、この写真を翌日、治さんにあげました。喜んでました。
㊴最後に皆で肩を組んで、「インターナショナル」を歌うんです。キリスト者も、予備校講師も。生徒も多いのに。
でも〈革命家〉が常に集会をリードするんです。このあと、デモをしながら二次会に行きました。青春です。