〈史上初の対談! 日教組委員長と右翼。
森越康雄vs鈴木邦男〉
が、月刊『論座』(2005年6月号・朝日新聞社)に載り、反響を呼んだ。
それから9年。2014年12月6日(土)、再び、2人が会い、革命的対談を行った。
9年前は東京の朝日新聞社で対談したが、今回は岩手県盛岡市の「岩手教育会館」だ。
興奮し、緊張した。それ以上に、9年ぶりに森越さんに会える。それが嬉しかった。
9年前の『論座』革命的対談」について、話してみたい。
よく実現したものだ。不可能を可能にした。その辺の事情を聞いてみたい。又、その後の反響やら批判についても…。そう思っていた。
初めの予定では、盛岡では森越さんとの対談はなかったようだ。
それに、元々は、佐高信さんから話があった。「佐高塾を盛岡でやるから来てよ」と言われていた。「いいですよ」と即答した。
佐高塾は、佐高さんが主に東北各県をまわって講演・対談をしている。僕も3回ほど出た。鶴岡、仙台、山形だ。
佐高さんが講演し、僕が話し、そして2人でトークをする。
だから、今回も、そういう型でやるのだと思った。それで安心し切っていた。このブログの「お知らせ」にも、〈12月6日(土)、盛岡で、佐高信さんとトーク〉と書いていた。
盛岡行きが迫った10日ほど前。佐高さんに電話した。佐高さんの乗る新幹線を聞くためだ。私も同じ新幹線に乗ればいい。
ところが、佐高さんは行かないという。「鈴木さん1人だよ。よろしく」と言う。
エッ!と驚いた。知らなかった。後で聞いたら、「佐高塾」でやってるが、時々、佐高さんが行けない時もあるという。それでも、どこも満員盛況だという。
最近では、菅原文太さんの講演会をやったそうだ。これは凄い。私も聞きに行きたかった。
主催する岩手県教職員組合の中央執行委員長の砂金(いさご)さんからも電話があった。「そうなんです。講演は鈴木さん1人なんです。よろしくお願いします」と言う。
エッ、「佐高塾なのに佐高さんがいなくて、私だけだったら、『約束が違う!』と言って、抗議されるんじゃないの」と私は心配して聞いた。
「それは大丈夫です」と言う。「よかったら前日に盛岡に来ませんか。森越さんも会いたがってますし。森越さんの美術館も見てもらいたいですから」。
嬉しい。ありがたい話だ。それで前日の昼に盛岡に行った。
9年ぶりに森越さんに会った。ご自宅にあるギャラリーを見せてもらう。
又、小岩井農場を案内してもらい、翌日は県立美術館、原敬記念館、「盛岡先人記念館」…などを案内してもらった。
私らは、岩手県と聞くと、宮沢賢治、石川啄木を思い起こす。しかし、原敬がいる。米内光政がいる。又、美術館が多いし、伝統の職人技がある。
岩手県では金が採れた。だから「砂金(いさご)」という苗字もある。又、南部鉄を使った製品が沢山ある。木工品、竹細工なども多い。美術館も多いし、「盛岡はアートな街なんですね」と私は言った。
そうだ。今回は、「宮沢賢治記念館」に行こうと思っていたのだ。
でも、花巻だ。盛岡からは離れている。じゃ、5日(金)の朝早く東京を出て、花巻に行こう。そこを見てから、昼に盛岡に行けばいい。
そう思って、ネットで調べたら、何と休館中だ。改修のために、来年の春までお休みだという。
それで、5日は、森越さんの美術館や小岩井農場などに行き、夕方、食事会。
翌、6日(土)も、朝早く起きて、森越さんが美術館をいくつも案内してくれる。
実によく見て回った。「美術王国・岩手」を感じた。
「いやー、とても勉強になりました。ありがとうございました。じゃ、私はここから帰りますので」と言ったら、「何言ってんですか。これからが本番ですよ」と言われた。
そうだった。アートの街に酔いしれて、講演のことをすっかり忘れていた。いけない。
岩手県教育会館は、実にいい場所にある。お城の城跡の隣りだ。城はないが城壁がある。そこに雪が降り積もる。教育会館の大きなガラス窓からそれを見る。
いい。幻想的な雰囲気だ。そこで森越さんと写真を撮った。
日教組が造った会館だ。全国、いくつもある。岩手県教組ほか、いろんな団体が入っているし、一般の会社も入っている。
早めに行って、打ち合わせをした。「今日の案内チラシを下さい」と言って、もらった。
やはり、「佐高信文化塾」となっている。講師は私1人だ。その後、対談があると書かれている。
〈鈴木邦男さん×森越康雄さん(元日教組委員長)〉
私の講演だが、「集団的自衛権を考える」になっていた。
そして主催者の名前が出ていた。「平和環境岩手県センター」と書かれている。
あれっ、佐高塾は主催してないの。あるいは日教組か岩教組かと思った。
この「平和環境岩手県センター」って何ですか? と聞いたら、いろんな団体、個人が集まって環境問題、平和問題を考え、行動するのだという。
岩手の県教組、それに自治労や他の組合、団体も入っている。この「センター」の代表は岩教組委員長の砂金さんだ。岩教組が中心になって頑張っているようだ。
午後6時半、「佐高信文化塾」は始まった。
大きな部屋が満員だった。ほとんどが学校の先生かと思ったら、そうではない。
自治労の人もいたし、一般のサラリーマンもいた。「私も“生長の家”にいました」と言う人もいた。
まず私が1時間話をする。集団的自衛権を中心に、安倍政権の話をした。そして、「愛国心」論争についても話をした。
それから休憩を挟んで、森越さんとの対談だ。
この日、聞きに来た人には、既に資料として配っていた。9年前の『論座』のコピーだ。
あの時は、日教組が出来てから58年だ。その間にたった一度も、こんなチャンスはなかったんだ。
お互いが「不倶戴天の敵」だと思っていた。お互い抗議するが、話し合うことはない。又、警察が〈対談〉をさせない。公開討論会でも、テレビや週刊誌でも、どこもやらない。「話し合いなど出来ない」と決めつけていたのだ。
又、警察(公安)は、「絶対、話が出来ない連中です」と両方に言って回った。
でも、58年間の間に、「秘密で会ってみたい」と思った人もいただろう。それも実現出来なかった。
もし、会っていて、それが後から分かったら大変だ。多分、警察は暴露するだろうな。そうしたら、「裏切り者だ!」「敵と会うとは何事か!」と大騒動になっただろう。そんな危険もある。危険を冒してまで「右翼」と会うメリットはない。
ところが、森越さんは、「堂々と、誰とでも話し合う」と宣言した。
委員長になった途端に言った。「誰とでも話し合います。たとえ右翼の人たちだって…」。「たとえ右翼の人でも」と言った。この発言は話題になる。
それが新聞にも載った。それを聞いて、『論座』の人が、「よし、この企画をやってみよう」と思い立った。
2人とも承諾した。どちらにしろ、「命懸けの決断」だ。私は即断で決めた。
しかし、日教組はそうはいかないだろう。皆に反対されたんじゃないか。
「会議で皆に話してみたら、皆、驚いて凍り付いてました」と言う。「そんなこと信じられない」という顔だ。58年間、誰一人として、考えたこともなかったのだ。
最後は、「私の決断で決めました」と言う。そして、「革命的対談」は実現した。
対談の10日ほど前に、日教組の本部を訪ねた。『論座』編集部の人と、「敵の本拠地」に乗り込むのだ。
緊張した。そして聞いた。「ここに入った右翼は私が初めてですよね。58年間で」と。
そしたら、「正式に招待されて入った人は、そうです」と言う。「正式でない」「招待されてない人」って誰だ?
「ドアを開けたら、いきなりピストルで撃たれたことがあります」「これが、その時の傷です」と足を見せてくれた人がいる。何とも凄まじい話になった。
そんなことがあって、なんとか対談は実現した。
その中で、右翼が抗議に来て、森越さんが青年部長の時に対応した。と話していた。
それがよかった。怒鳴ってくる人がほとんどだ。赤尾さん、深作さんにも怒鳴られたという。
ご夫妻で来て、夫が抗議文を読み、奥さんがテープを録り、写真を撮る。そんな「家内制手工業」のような右翼もいる。
深作清次郎さんは、抗議し、そのあとで、「何か言うことはあるか!」と聞いた。
森越さんは、「体に気を付けて頑張って下さい」と言ったら、深作さんはポロポロと涙を流したという。
実にいい話だ。右翼の人は激しい行動をするが、純情な人も多い。深作さんは、そうだった。「敵」から、思いもかけずに優しい言葉をかけられて涙を流したのだ。
又、森越さんは岩手県出身で、本当に純朴な人だ。「闘士型」ではない。美術の先生だったし。「私の渾名は『田舎っぺ大将』と言うんです」と、自ら披露する。
そんな純朴な人から言われたから、深作さんもグッと来たのだ。
「その時のビデオはないんですかね」と私は聞いた。右翼側、日教組側のどちらかが撮ってるはずだ。
でも、多分、両方とも発表しないのだろう。警察だって撮っている。誰かが公表したらいいのに。それで、全体の抗議活動をテレビ化映画で流す。
勿論、右翼の激しい抗議活動も入れる。全国から何百台と街宣車が来る。右翼が激しい演説をする。機動隊が出る。そして、日教組の前で抗議文を読む。怒号、大音響、憎悪のぶつかり合いだ。
その中で、ワンシーン、「深作さんの涙」が入る。ドキュメンタリーとしても最高のものになる。
誰かやってほしい。日教組も資料を集めて作ってほしい。「激闘! 右翼vs日教組」で映画にして全国上映してもいい。
これは貴重な歴史だ。その上で、日の丸、君が代、そして日本の教育を考える。いいじゃないか。
この盛岡での講演会には、9年前の『論座』を持って行って、皆に見せた。
それと、もう1冊の本を見せた。1985年に出た本だ。29年前に出た本だ。『5時間闘論 教育は変えられるか』(未来社)だ。
この中で、元日教組委員長の槙枝元文さんと話している。
といっても、テレビでやったもので、何と20人以上が参加している。KBS京都、サンテレビなどが制作し、3局を結んでの大闘論番組だ。
秦野章、穂積隆信、丹羽健夫、山本コウタロー、灰谷健次郎…といった人々が出ている。
そこに、日教組元委員長が出てきて話し合ってるのだ。でも、槙枝さんは元だし、森越さんはその時、委員長だった。
「えっ、そんなことがあったんですか」と森越さん。砂金さんたちも驚いていた。
そうだ。映画『激闘! 右翼vs日教組』を作る時は、この5時間闘論も一部、貸してもらって入れたらいい。
そんな話もしたし、今の「愛国心」「排外主義」の問題も、森越さんと話し合った。
今回は2日間にわたり、盛岡の美術館、記念館、手づくり村、小岩井農場…と精力的に見て回った。とても勉強になった。驚いた。
岩手・盛岡の文学的、美術的な力を痛感した。多くの芸術家が出ている。工芸品も生まれている。東北6県の中で、ずば抜けている。
それに政治家も多い。総理大臣は岩手県から5人も出ていて、他の東北5県は誰も出ていない。
どうして、岩手だけが突出しているのか。金や銀が採れたからか。そのことをいろんな人に聞いたが、よく分からない。
県立美術館で、ある説明文があって、「これかな?」と思った。手帳に書き写してきたので、紹介しよう。
「芸術・文化に生きた人々」と題し、こう書かれている。
〈盛岡藩は、きびしい風土のため経済的には恵まれなかったが、幸いに領内には鉱物・林産資源が多く、それらを素材とした手工業が発達し、幾多の人々を通して伝統が築かれた。また、盛岡の地は、その景観とともに四季の移ろいが美わしく、詩情をそそり、多くの文人・詩人を育んだ。こうした盛岡の風土が、手工芸を基調にした美術家を育て、盛岡の自然が、文芸家を育ててきた〉
そうか、と思いましたね。森越さんにも、「見て下さい。これですよね」と言ってしまった。
今回の写真でも紹介したが、たとえば小岩井農場に行く道。雪が木々に積もって、実に美しい。又、お城の石垣に降り積もる雪。メルヘンだ。
これなら、皆、詩人になる。詩情が湧く。と思いましたね。「盛岡の自然が、文芸家を育てた」のだ。又、行ってみたい。
今度は宮沢賢治記念館も行きたいし、「遠野物語」の遠野にも行きたい。カッパの棲む沼にも行ってみたい、…と詩情をそそられました。
教育や愛国心、そしてアートについて語る。そのあと関野さんとトーク。学生からも活発な質問が出て、緊張した。
新宿で、週刊誌の人と会う。取材。
午後7時から一水会フォーラムに行く。ホテルサンルート高田馬場。
講師は馬渕睦夫さん。駐ウクライナ兼モルドバ前特命全権大使。演題は、「国難の正体〜世界最終戦争へのカウントダウン」。
興味深い話で、勉強になった。終わって、二次会でも、いろいろと聞きました。馬渕さんの本は何冊か読んでたので、さらに詳しく聞きました。
この日は、地方から聞きに来た人も多かった。福島から、和歌山から、茨城から…と。元「楯の会」の伊藤邦典氏とも久しぶりに会った。
5時、高田馬場・「ミヤマ」の会議室。『紙の爆弾』の対談。ベストセラー『テレビに映る北朝鮮の98%は嘘である』(講談社+α新書)。シリーズ累計で15万部も売れている。その著者に話を聞く。
終わって、7時から、「土風炉」。そこに白井さん、高木さん、塩田さん、出版社の人たちが合流。「忘年会」のようになりました。
〈土井たか子さん、ありがとう!
思いを引き継ぐ集い〉
永井憲一さん、内海愛子さん、保坂展人さん、樋口恵子さん、落合恵子さんなど、多くの人が「お別れの言葉」を語りました。又、追悼DVD、テレビCMなども流れました。本当に偉大な人を亡くしました。
残念です。私も随分とお世話になりました。何度も講演を聞き、お話をしました。話を聞いて、ぜひ、本を作りたいと思ってました。
又、憲法24条を書いたベアテ・シロタ・ゴードンさんにも紹介されました。土井さんが日本に呼んで、講演会をしたのです。
それが縁になり、ニューヨークで、ベアテさんたちが出るシンポジウムに私は呼ばれて出席しました。
ベアテさんとも「日本国憲法」について話を聞き、本にしたいと思ってたのに。ベアテさんも亡くなられました。
この日は、土井さんに「ありがとう!」という日でした。多くの人が土井さんの思い出を語っていました。会場は超満員でした。
終わって、佐高信さん、早野透さんたちと、飲みました。
長い間、土井さんの秘書をしていた五島昌子さんからは貴重な話を聞きました。カメラマンの大石芳野さんからは「初めまして」と挨拶されました。「私は大石さんの写真展に行ったんです」と言いました。
それに、大石さんの弟さんが、早稲田で私の後輩でした。一緒に運動をしてました。だから、目黒の自宅にもよく遊びに行ってました、と話したら、思い出してくれました。皆から、「不思議な縁ですね」と驚かれました。
午後2時、開始。孫崎さんと私の『いま語らねばならない 戦前史の真相』(現代書館)の出版記念トーク。
ただ、今までのように書店のスペースや部屋でやるのではない。500人も入る会場だ。500人入る所に、もしかして5、6人しか来ないんじゃないのか、と、心配した。ところが満員。ホッとしました。嬉しかったです。
孫崎享さん、岩上安身さんと私の3人でやる。緊張したが、楽しかった。「紀伊国屋ホール」は、今まで、何十回と来ている。お芝居、落語、講演会を聞きにだ。今回のように壇上から話すことになるとは、思ってもみなかった。光栄です。
3人でかなり突っ込んだ話をした。終わって、サイン会。本が100冊売れました。サインも大変だった。
その後、スタッフの人たちと打ち上げ。本当にお世話になりました。
家に帰って選挙速報を見る。自民党圧勝ですね。でも大阪の辻元さんが当選した。よかった。選挙の応援に行ったので、「責任」を感じてました。ホッとしました。
①12月6日(土)、午後2時より。岩手県教育会館で。「佐高信文化塾」が行われ、講演しました。佐高さんは来ません。私が1時間講演をしました。日本の教育について、政治について。又、日教組との闘いについて。
④お城のすぐ隣りに、会場(岩手県教育会館)はあります。ここの中に、県教組や自治労などが入ってます。大ホールもあります。そこからはとても眺めがいいのです。ちょうど雪も降っていて、城や木に積もっててきれいでした。
⑤これが、9年前の対談です。朝日新聞社で出していた『論座』(2005年6月号)です。〈日教組vs右翼。この対談は革命的だ!〉と書かれてます。〈58年続いた「vs」の関係の中から、「&」を築こうと一歩を踏み出した〉とリードに出ています。
⑫森越さんの奥さんも教員でした。定年になってから、「絵日記」を始めたそうです。これは翌日(6日)、行った時に見せてもらいました。その瞬間に盗撮しました!
〈12月5日(金)。鈴木邦男さんがいらっしゃるので、ギャラリーにも火をつけた。ゆらゆらときれいな炎。オルゴールや絵もカメラにとっていらっしゃったよ〉
そして、「写真をとる鈴木さん」の絵が右側に描かれています。私も小学生の頃は「絵日記」をつけてました。でも、定年になってから絵日記をつけてる人は初めて見ました。偉いです。日本で1人でしょう。「これはぜひ、本にして出して下さい」と森越さんに言いました。
⑬12月5日(金)は、午後1時に盛岡に着いて、森越さんの自宅・ギャラリーに行ったんです。絵やオルゴールを見せてもらい、それから、小岩井農場、手づくり村などを案内してもらい、その後、食事会でした。
盛岡は、金、銀が採れ、いろんな技術、匠の技が伝えられました。「手づくり」の力を感じました。
森越さんの自宅は、国道から少し入ったところ。場所がいいですね。モーテル、ラブホが多いんです。「子づくり村」と言われてるそうです。いいですね。「ギャラリー・もりこし」も、大きな看板を立てられない。「間違って入ってくる人がいたら困るので」と言います。
いいじゃないですか。どんどん入れて、絵を見てもらったら。そして、カップルに、「お絵かき」を教えたらいい。「盛岡・絵日記道場」を作ったらいい。
そうだ。この写真は、12月6日(土)ですね。朝、8時40分に森越さんがホテルに迎えにきてくれました。そして、講演会まで、記念館、美術館を精力的に見て回りました。
ここは原敬記念館です。
㉒テレビの「グレート・ジャーニー」で出ていた関野吉晴さん(左)が、今、武蔵美の教授です。それで、私を呼んでくれたのです。
関野さんは、徒歩、自転車など、「人力」だけで世界一周をしたんです。お医者さんでもあります。又、空手もやってました。何と三島由紀夫と同じ道場で、一緒に稽古もやったそうです。
この日は私が1時間話しをし、その後、2人で対談しました。学生からも活発な質問が出ました。