1月4日(日)、新年恒例の「読書対談」をやりました。「平成の読書王」といわれる高木尋士さん(「劇団再生」代表)と私です。
今年は他にも読書好きの人に声をかけて、10人ほどで、「読書座談会」になりました。
午後3時から6時まで。高田馬場の喫茶店「ミヤマ」の会議室です。
まず、各人に「去年読んだ冊数、反省」を言ってもらい、「今年の目標」そして、「全集」への挑戦を語ってもらいました。
「私はOLなので月にたった5冊しか読めません」と発表する人には、「よくやった!」。「いや、それではダメだ」「それで革命戦士といえるのか!」という叱咤の声も。「俺が援助総括してやる」という人も。
読書ノルマを達成出来ない人のためには、傍で読み聞かせてやる。それでノルマを達成させる。いいですね。読書革命の同志愛です。
「ツイッターをやめて、月に10冊に挑戦したい」という人には、「異議なーし!」という声が。
「月30冊」を実行してるのは高木さんと私だけですね。ここで、高木さんから緊急動議。「これだけは読んでおかないと恥ずかしい」という本を発表して、読ませよう」。
いいですね。「30代でこれを読んでおかなくては恥ずかしい」。40代、50代…と、決める。
たとえば、ドストエフスキーの『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』。高橋和巳の『邪宗門』…などだ。そのうち高木さんがリストアップしてくれるでしょう。
焼肉屋に勤めるOLは、「夏目漱石の全集に挑戦してます」。
他にも、「高橋和巳を全部読みます」。「谷崎潤一郎を全部読みたい」。
中には凄い人もいて、「熊楠を全部読みたい」。偉いですね。太田竜、平岡正明、竹中労という人はいないな。
そうだ。内田樹さんは、平岡正明が好きで、ほとんど読んだと言っていた。意外だったし、嬉しかった。「ありがとうございます」と礼を言っちゃった。
私は平岡は親しくお付き合いをさせてもらった。『山口百恵は菩薩である』が有名だが、『あらゆる犯罪は革命的である』など、挑発的・戦闘的な本も沢山書いている。
私は、内田樹さんの本を全部読もうと思ったのだ。
去年、1年間、いろんな所で対談した。ホテルの部屋。内田さんの自宅。合気道の道場。映画館…と。今年はそれをまとめて本にする予定だ。
「対談するんだから、全部読んでからやろう」と思った。内田さんの本は200冊ほどある。
でも、出来なかった。まだ50冊しか読んでない。でも、今も挑戦している。対談しながらも読み、終わってからも読んでいる。
この人の本は、どれもが凄い。どんな本にも全力でぶつかり書いている。書き飛ばすことはない。
校正も徹底している。第三者になったつもりで、書いた人(前の自分)と対談している。そんな覚悟をもって校正してるなんて他にいない。ちょっとした手抜きもない。
その厳正さは、三島由紀夫と似ている。たとえば、『こんな日本でよかったね—構造主義的日本論』(文春新書)なんて、軽く書いたエッセーと思って読んでみた。
ところが違う。ガーンと頭を殴られた。
今、勉強している「格差」についても驚くべきことを言う。
これは1月4日の「読書座談会」でも話をした。そのことについて今週は書いてみよう。
今は、「格差社会」だ。「格差社会はいけない」とよく言われる。「そうだ。我々も格差社会の犠牲者だ!」と思っている人が多い。
そうか。格差社会が一番悪いのだ。これを打倒しなくては。と思ってしまう。新しい「階級史観」のようだ。
我々プロレタリアは団結して、ブルジョア階級を打倒しなくてはならない…と。
昔、そんな運動をした人が、今、「格差社会」反対の運動をしている。そんなケースも多い。でも、よく分からない。
「何言ってんだ。現実を見ろよ。格差社会だということは事実じゃないか!」と言われると、「はい、そうですね」と思ってしまう。誰もが各自の不満を持っている。
貧乏だ。なぜ自分は認められないのか。恋人がいない。友人がいない。世の中がつまらない…と。
これは、「格差」があるからだ。それをなくさなくては…と、漠然と思っている。
〈格差がどんどん拡大しているから、これを何とかしなければならないという現実的な(あるいは非現実的な)さまざまの提言がなされている〉
と、内田樹さんも言う。そして、何とかする「提言」にばかり、皆、関心を寄せる。
しかし、内田さんは、もっと根本的なところから疑問を持つ。皆が当然だと思うところから、「問い」を始める。
〈どなたも、「格差がある」ということについてはご異論がないようである。だが、私はこういう全員が当然のような顔をして援用している前提については一度疑ってみることを思考上の習慣にしている〉
そうか。じゃ、「格差」って何だ、と考えたことはない。私もない。何とか分かった気になっている。
「人を差別しちゃいけないよ」というのと同じで、「格差社会はいけないよ」と思ってきた。
貧乏な人がいつまでも貧乏な社会。どんなに頑張って働いても報われない社会。それが今だ。日本は格差社会だからだ。と思ってきた。
日本は格差社会だからいけない。そうだ、そうだ。それを是正し、打倒しなければ…と、いろんな「提言」はされるが、じゃ、「格差社会」そのものについてはあまり論じられることはない。
「今がそうじゃないか」「お前には見えないのか」「お前がその犠牲者だ」と言われると、何となく分かった気になる。
だが、その〈正体〉はよく分からないが、これが現代日本の〈最大の敵〉のようだ。正体がつかめない。あるいは、はっきりと「定義」出来ないが「諸悪の根源」のようだ。
でも、言葉にしてはっきりとは定義出来ない。その霧の中に内田さんは分け入って、定義してみせる。
〈「格差」とは何のことなの? メディアの論を徴する限りでは、これは「金」のことである。平たく言えば年収のことである。年収数億の人もいるし、年収数十万の人もいる。年収が低い階層のヴォリュームがこのところ急増している。パラサイト・シングルというのも、フリーター、ニートというのも、ネットカフェ難民というのも、過労死寸前のサラリーマンも、要するに「金がない」せいでそういう生活状態の選択を余儀なくされている。そういう説明がなされている〉
この「説明」でいいんじゃないの。それなのに、「そういう説明がされている」と、少々突き放して書いている。
一般ではそう思われてるようだが、私は決して、単純に、「その『説明』に同意するものではない」。そう言いたいようだ。
実際、次に、こう言っている。
〈ここから導かれる結論は、論理的には一つしかない。「もっとお金を」である。しかし、果たして、この結論でよろしいのか〉
ちょっと乱暴な括り方だが、そうなるのかな。
でも、とりあえず金は必要だろう。仕事もない。チャンスもない。だからお金もない。そんな人に対して、まず「生き方を変えよ」「スキルを身につけなさい」と言っても、応急処置にはならない。
救いはお金だ。これは分かる。それが「全て」ではないが。
「お金」の問題は大きい。「しかし、果たしてこの結論でよろしいのか」と言った後、内田さんはこう続ける。
ちょっと長くなるが、ハッと思ったので書いておこう。
〈私自身は、私たちの社会が住みにくくなってきた理由のひとつは「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できる」という拝金主義イデオロギーがあまりにひろく瀰漫したことにあると考えている。
「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ「金の全能性」が過大評価され、その結果「人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会」のことではないのか。
人々はより多くの金を求めて競争する。
競争が激化すれば、「金を稼ぐ能力」の低い人間は、その能力の欠如「だけ」が理由で、社会的下位に叩き落とされ、そこに釘付けにされる〉
これこそが「格差社会」の本当の説明じゃないのか。
そうか、「拝金主義イデオロギー」の社会か。やっぱり思想闘争だ。階級闘争だと思ってしまう。
しかし、「その先」が違う。内田さんは、こう言う。
〈その状態がたいへん不幸であることは事実であるが、そこで「もっと金を」というソリューションを言い立てることは、「金の全能性」をさらにかさ上げし、結 果的にはさらに競争を激化し、「金を稼ぐ能力」のわずかな入力差が社会的階層の乗り越えがたいギャップとして顕在化する…という悪循環には落ちこまないのだろうか〉
ウーン、これは難しい。でも金のないことだけで不幸になってる人に対し、「お金だけが全てではありませんよ」と説いてもダメだろう。
飢えてる人には、『聖書』や『論語』を与える前に、パンだろう。
少なくとも、石をあげてはいけない。私などは、そう考えてしまう。
しかし、それは甘いのだろう。内田さんは、もっと根本的なことを問う。
〈私は刻下の「格差社会」なるものの不幸のかなりは「金の全能性」に対する人々の過大な信憑がもたらしていると思う。
であるなら、あらゆる不幸は「金の全能性」によって解決できるという信憑を強化することは、文字通り「火に油を注ぐ」ことにひとしく、ますます格差を拡大し、固定化する結果にしかならないだろう〉
うーん。そうなのかな。我々の、そして世間一般の「常識」、「思い込み」に対し、内田さんは、「ちょっと待て!」と言う。ストップをかける。
そして、こう斬り込んでくる。
〈私自身は人間の社会的価値を考量するときに、その人の年収を基準にとる習慣がない。
どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気づかいが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きのよい声で話すか、どれくらい身体の動きがなめらかか…そういった無数の基準にもとづいて、私は人間を「格づけ」している〉
凄い!私だって「格づけ」している!と言う。
「格づけ」が悪いのではない。人間を年収からだけ「格づけ」しているのが悪いのだ。
又、それを否定とようとして、その論理の中だけでやる。「金の全能性」の中で、皆、考えている。あがいている。
その世界から離れてみませんか、と内田さんは言うのだ。
それにしても、私だって「格づけ」している。この言葉は衝撃的だった。
「格づけ」について、さらに言う。
〈私がご友誼をたまわっている知友の中には資産数億の人から年収数十万の人までいるが、私が彼らの人間的価値を評価するときに、年収を勘定に入れたことは一度もない。
私にとって重要なのは、私が彼らから「何を学ぶことができるか」だけだからである。
同じ基準を自分にも当てはめて、以て規矩としている〉
最後の行がいいですね。内田さんとは最近よく会った。
本も読んでいる。50冊ほど読んだ。「学ぶこと」は大きかった。
そうか、私も「格づけ」しているのか。
「学ぶとこがある人」「凄い体験を持ってる人」などをトップに格付している。又、「本を読む人」を上にし、「本を読まない人」は、最低に格付けしている。
(たとえ大学生であっても)月に1冊も本を読まない人は、「会う必要がない」「話が通じない」「人間じゃない、もう猫だ」と思ってしまう。
「格づけ」する私が傲慢なんだろうか。でも、斬り捨てないで、「猫だと思って、可愛がり、付き合っているのだから偉い」と高木さん(平成の読書王)に言われた。
そうかな。もしかしたら、この世は、もう猫だらけなのかもしれない。「猫の惑星」だ。
電車の中でも、猫が並んで、メールをしている。だからといって、「人間に戻れ!」と怒鳴って、猫たちの携帯を叩き落としたら、私の方が「狂人」として猫に逮捕される。
だから、じっと我慢して、猫に同化している。人間であることを隠して生きている。
そんな「猫の惑星」に住んでいても、時々、殊勝な人がいる。
「猫であることに耐えられません。今、三浦綾子を読んでます!」と言う人がいた。
又、「人類の知的遺産」の『マルクス』を読みました! という人がいた。
偉い。こういう人は国家か表彰すべきだよ。こういう本を読んでいる人こそ、「人類の知的遺産」だよ。
このシリーズはぜひ全部読んだらいい。完全な人間になれる。そして、さらに大きくなれる。
内田さんの本を読み、自信を持った。これからは、私も「格づけ」して生きてゆこう。
内田さんの文はさらに続いている。
〈私は個人的な度量衡で人間を格づけしている。だから、私の眼から見れば、この世界は「ウチダ的格差社会」である。勝手に格差をつけるのをやめろ、みんなひとしなみに扱えと言われても、こればかりは譲れない〉
これも凄い。自分が格付けしてるのに不服の人は、その人たちが勝手に「格づけ」すればいいだけだ、という。
〈私がしているように、みなさんもてんでに固有の度量衡を以て他の人々を評価し、同じ基準で自己を律するならばよろしいかと思う。そうすれば、いうところの「格差社会」などというものは存在しなくなるだろう〉
そうか、これが「格差社会」をなくす最短の道か。
そうだ、声を大きくして言わないし、書いたりもしないが、人は内心で、この世の人々を「格づけ」して生きている。
これを読んでる皆さんだって、そうでしょう。受験生ならば、成績の順に格付けして、自分の心の中に「ベストテン」を書き入れている。
又、格闘技をやってる人ならば、「強いか、弱いか」で格付けしている。
宗教をやってる人ならば、どれだけ信仰的か、どれだけ祈っているのか、で格付けしている。
だから、本当は、何十、何百という度量衡があって、皆、勝手バラバラに「格づけ」しているんだ。入り組んだ、厖大な格差社会なのだよ、日本は。
でも、一番、分かりやすいから「年収」で格付けしてものだけが、まかり通っている。
それに、内田さんは年に20冊も本を出している。お金もあるだろう。だからこんなことを言ってられるのだ。貧乏人の苦しみが分からないのだ。という反論もあるだろう。失礼ながら私もチラッと、そう思った。
それに対し、内田さんは答えている。
〈私は長い間、同年齢の人々の平均年収のはるか下、底辺近い「貧困」のうちにあった。だが、私はいつだってたいへん陽気に過ごしていた。ご飯を食べる金がないときも、家賃を払う金がないときも、私はつねにお気楽な人間であり、にこにこ笑って本を読んだり、音楽を聞いたり、麻雀をしたりしている〉
そして結論だ。
〈「金持ち」とは、ある人の定義によるならば、「お金のことで心を煩わされない人間」のことである。私は「自分の不幸はおもに金がないせいであるというふうに考えない人間」という定義をこれに付け加えたいと思う。その意味でなら、私は貧乏なときもずっと「金持ち」であった〉
この最後の行が凄いですね。興味を持ったら、読んでみたらいい。
内田樹『こんな日本でよかったね=構造主義的日本論=』(文春文庫)だ。〈ウチダ先生と一緒に考えるこの国の過去・現在・未来〉と書かれている。
私たちも、そうなりたい。精神的には、「金持ち」なんだ。6畳のアパートに住んでいても、本当は「精神の王国」に住んでいるんだ。
じゃ、精神の「金持ち」ベストテンを作ってもいい。高木さんにやってもらおう。月に何冊読み、どんな全集に挑戦しているか。それで「格付け」してもらいたい。
去年1年は、この「知の巨人」内田さんに取り組み、本を読み、対談し、合気道の稽古をつけてもらった。その集大成とも言うべき本が今年出ます。お楽しみに。
①田嶋陽子さんの歌を初めて聞きました。素晴らしかったです。うまいし、声量があります。「雪が降る」「リリーマルレーン」など、シャンソンを10曲ほど歌ってました。四谷にあるシャンソン・ライブ・サロン「蟻ん子」です。
田嶋さんは「朝まで生テレビ」「テレビタックル」「そこまで言って委員会」によく出てます。私も「委員会」で何度か一緒に出ました。
「コンサートをやってるのよ。聞きに来て」と言われてたのですが、なかなか日程が合わず、1月3日にやっと行けました。店は満員でした。ファンが多いのです。素晴らしいコンサートでした。
⑮去年です。菅原文太さんと最後に会った時です。「月刊日本」と村上正邦さんたちの主催の講演会の時です。
文太さんは仙台一高から早大に行きました。「私も仙台です」と言ったら、「一高ですか?」「いえ、二高を落ちて学院榴ヶ岡に行きました」と言いました。そして仙台の話をしました。もっともっと話をしたかったです。
⑳1月4日、午後3時から、「ミヤマ」会議室で、読書座談会をやりました。去年何冊読んだか。今年の目標は。何の全集を読もうとしているか。それで「格付け」しあっています。読んでない人は皆に「総括」されます。「連合赤軍化する読書会」です。
㉑参加者が「くらげカステラ」を買ってきて、皆に食べさせてくれました。おいしかったです。あっ、「偶然の一致や!」と参加者。私のネクタイが「くらげ」だったんです。
拡大して見て下さい。沼津の「深海魚水族館」で買ったものです。「お前はポリシーがない!」「信念がない!」「骨がない!」と皆に馬鹿にされるので、「どうせ私はくらげですよ」と自虐的に買ったのです。
㉗年末に安田弁護士の忘年会で、アレフの広報部長・荒木浩さんに会いました。その時、「鈴木さん、オウムのことを書いてましたね。宗教雑誌に」と言われました。エーと、何の雑誌だったかな、と思って探したら、ありました。『宗教問題』(6号 10月25日号)です。巻頭は森達也さんで、
〈われわれは「内なるアレフ」との“共存”を模索しなければならない〉
なかなか、凄いことを書いてます。
㉚なんと、「そらまめ公園」というんですね。ビックリしました。村上春樹の『1Q84』に出てきそうな公園です、。あるいは、そらまめの好きな人だけが集まるのでしょうか。「えだまめ公園」はないのでしょうか。探しています。
㉛新幹線の乗った時、よく「ゴルゴ13」を買って読んでます。疲れていても、1冊読むと元気になります。この「31」巻(独裁者の晩餐)を読んで、「ああ、面白かった」と思い、ついでに「解説」(杉森昌武)を読んでました。ゲッと驚きました。
〈『ゴルゴ13』の最終回について、ファンの間に流布している伝説に、「最終回の結末のコマ割りまでできていて、金庫の中にしまってある」という話がある。それについては『THEゴルゴ学』(小学館)のさいとう・たかを氏へのインタビューの中で、聞き手の鈴木邦男氏が質問しているが、「金庫の中にしまっている」という部分は嘘であることが、さいとう氏によって明らかにされている。ただ、さいとう氏の頭の中では結末のコマ割りまでできているというのは本当で、…〉
のっけから私の名前が出てたんで、ビックリでした。
㉜本棚を探したらありました。これがゴルゴのオフィシャルブックです。『THEゴルゴ学』(小学館)です。ゴルゴ13に関する全てが記録されてます。どれだけの人間を狙撃したか。その場所・時間。又、ゴルゴのライバル。抱いた女。出生にまつわる謎。…など〈全て〉が書かれています。
〈20世紀の最大の謎であり続けたGは、存在そのものが現代の神学である〉と書かれてます。さいとう・たかをデビュー40周年&「ゴルゴ13」400話記念出版。この巻末に、私が選ばれて、2時間半、インタビューしました。何で私が? だって、「人生に必要なことは全てゴルゴ13から学んだ」と言ってるでしょうと編集者。それで、マンガ喫茶に1ヶ月通い、全400話を読破して、インタビューに臨みました。