大変な事件が起こった。
日本人ジャーナリストが2人、「イスラム国」に捕らえられ、身代金を要求された。解放のためあらゆる手を尽くすと安倍首相は言う。
前に、イスラム国へ行こうとした学生が止められ、その仲介人の人が警察に調べられた。中田さん、常岡さんたちだ。
この2人も、「交渉に当たる用意がある」と言っている。このパイプも含め、積極的に使って、交渉すべきだろう。
まずは人質の奪還・解放だ。そのために全力を尽くすべきだ。「テロとの闘い」は、その後のことだ。
ずっとテレビやネットを見ていたので、頭が朦朧としている。朝、目が覚めたら、外は雪だ。もの凄い吹雪だ。
「あっ!ヤバイ。今日、札幌に行かなきゃ」と思ったのだ。
さらにマズイ事に、東京—札幌間は、全て運休だ。飛んでない。
1月20日(火)の朝だ。どうしよう。手がない。今日は札幌で時計台シンポジウムだ。
こんな時、「瞬間移動」が出来たらよかったのに。そう思ったら…。あれっ?どうしてだろう。外を見た。あっ、札幌だ。吹雪いている。
テレビをつけると、「飛行機は全て運休」だという。列車やバスも止まっている。
大変だ、大変だ。でも私は札幌にいる。「瞬間移動」したのか。
いや、札幌に来ているようだ。そうだ、前日から「待機」させられていたんだ。
「冬の北海道は天候が不順で飛行機が飛ばないことがあります。だから、1月は1日早く来て、待機して下さい」と柏艪舎から言われていたのだ。
そんな事までする必要があるのか。と思ったが、言われる通りにした。
驚いた。それがドンピシャリと当たった。前の日に来ておいて、よかった。
今回のゲストは逢坂誠二さんだ。函館に住んでる。列車で札幌まで来るという。3時間ほどかかる。じゃ、逢坂さんも来られなかったら、どうしよう。
それに、こんな吹雪の日に、時計台に来てくれる人がいるのだろう。「列車も運休してるし、『来れない』という電話が随分とありました」と柏艪舎の可知さんは言う。
大変だ。私だけは来たが、あと、誰も来てない。そうなかったら困る。どうしよう、どうしよう。…と心配しちゃいました。
でも、杞憂でした。逢坂さんは来てくれました。人も沢山集まりました。参議院議員の徳永エリさんも来てくれました。
ここで、逢坂誠二さんのことだ。
「おおさか・せいじ」と読む。「大阪」ではない。「逢坂」だ。珍しい。
坂に逢うと言うが、この「坂」は何なんだろう。『古事記』に出てくる坂なのか。神に出会う坂ではないのか。
生まれはニセコ町だ。ニセコの名前なのか。でも、お父さんは青森県出身だという。
そこで納得がいった。青森はミステリアスな県だ。
なんせ、「キリストの墓」があるし、「キリスト祭り」もある。
又、ピラミッドもある。死者が集まる「恐山」もある。
文学者も多い。太宰治、寺山修司。そして美術館も多い。
巨大な犬があったり、巨大なオバちゃんの像があったり。三内円山もある。海猫の集まる島もある。不思議一杯の県だ。
だから、神の「坂」もあるだろう。そこに集まって、逢う人たちもいるんだろう。
…と、逢坂さんに会った時、説明してあげました。「ほう、そんないわれのある名前だったんですか」と驚いていた。
この日のために、私は逢坂さんの本を随分と読んだ。10冊以上、著書があるが、6冊は読んだ。
一番新しい本の「著者紹介」を見てみよう。「衆議院議員。元ニセコ町長」と書かれている。昭和34年生まれ。今、55才か。若いですね。
子供の頃は天文学をやりたかったという。いつも空を見上げていた少年だったのだ。
でも、それでは生活出来ない。就職もない。とお父さんに言われ、北海道大学薬学部に入る。
卒業後、北海道ニセコ町役場勤務。総務課財政係長などを経て、平成6年11月から17年8月までニセコ町長(3期)。
当時、日本で一番若い町長だった。町役場のトップまで登りつめて町長選に出たわけではない。係長だ。それで辞めて町長選に出た。「誰も当選すると思ってませんでした」と言う。
でも、あらゆる所で演説し、ニセコ創生を訴えた。2期目、3期目は無投票で、ニセコを「世界のニセコ」にした。
もう誰も対立候補として出ようという人がいない。絶対的人気・絶対的信頼があったのだ。
そして、町長3期目の途中で、民主党から声がかかり、町長を辞めて、衆院選に出る。そして当選。
これも凄い。国会議員で、元知事という人はいるが、(元市長もいるかもしれない)。でも、「元町長」というのは他にいない。
それに、現職の町長が、途中で辞めて衆議院議員になったという例は他にない。それだけ、「全国区」の町長として有名だったのだ。
「ニセコ町」は人口5000人弱。でも、ホテル、温泉などの「宿泊出来る人数」は軽く6000人を超える。
海外からの観光客も年間10万人を超える。「世界のニセコ」だ。
「ニセコ」とカタカナで書く。元は「狩太村」だった。今も狩太神社はある。それを「ニセコ」に変えた。
そして、スキー、観光の「ニセコ」として、世界にも有名な町にした。
カタカナの町名は、滋賀県の「マキノ町」に続いて全国で2番目だという。
さて、ニセコ町長時代の逢坂さんだ。毎朝5時に役場に出勤して、「町長日記」を書く。それをブログにして全職員に見せる。
又、全国初の自治基本条例の制定や情報公開などで注目を集める。「情報公開と参加」がモットーだ。
平成17年。衆議院議員に初当選。内閣総理大臣補佐官(地域主権、地域活性化、地方行政担当)、総務大臣政務官として地域主権改革をリードしてきた。
この頃、テレビにもよく登場していたので、憶えている人も多いだろう。
逢坂誠二さんの本だが、私は6冊読んだ。以下だ。
あれっ、5冊だ。もう1冊は、探して見つけたら書こう。どれも素晴らしい本だし、教えられた。
2004年に、柏艪舎の山本社長がニセコ町長だった逢坂さんを訪ねて、本を書いてもらった。それが『町長室日記』だ。
初対面で逢坂さんは決断した。10年前のこの出会いがあって、時計台シンポジウムになるわけだ。
それに2003年のイラク戦争について、かなり触れている。
私も、関心があり、発言し、行動した。1999年の日の丸・君が代の法制化の時は、私も随分と書いたし、発言した。
2003年は、実際にイラクに行った。その頃を思い出しながら、話をした。
『逢坂誠二の決断』では、私も知っている人々と対談している。
坂本龍一さんとは「〈9.11以降〉の世界の危機と希望」。
香山リカさんとは「当たり前のことを当たり前にできるリーダー論」。
橋爪大三郎さんとは「東京だけではない。地方にもエンジンがある」。
田中康夫さん、橋本大二郎さんとも対談している。
「坂本龍一さんとは私も対談して本を作りました」と言ったら、「あっ、読みました」と言っていた。
でも私のは大音楽家に対し、こっちは小学生のような質問をしている。
でも、坂本vs逢坂対談は二人ともレベルが高いし、話も高尚だ。
又、香山リカさんとの対談では、若き日の反逆・反体制的な気分に触れて、逢坂さんは、こんなことを言っている。
〈ありました。私もだから背伸びしていて、高橋和巳と柴田翔とか樺美智子を読みました。私が小学校高学年か中学校の頃に流行ったのは、高野悦子の『二十歳の原点』です。ああいうものを読んでいると、何か「体制」というものをすごく感じることがあります〉
この辺を読んで、嬉しくなりましたね。
「じゃ、今度、高橋和巳、柴田翔、高野悦子…といったことだけで対談しましようよ」と思わず言ってしまいました。「いいですね」と言ってました。ぜひ、実現したい。
それにしても、小学校か中学で高野悦子を読むとは凄い。凄すぎる。これじゃ、ついてくる友達がいないんじゃないのかな。と思っちゃいました。
『町長室日記』の表紙には「本書の内容」としてこう書かれていた。柏艪舎の山本社長が書いたのだろう。
〈逢坂誠二ニセコ町長の「町長室日記」は、1997年以降、2004年7月現在まで実に1400回を数えている。四季の別なく毎朝5時50分ごろに町長室入りしてから新聞8紙に目を通し、日記を書いて全職員に発信し、自分のホームページにも公開する。逢坂町長は、職員に「より一歩でも、たとえ一センチでも成長してもらいたい」という強い思いをもって、この営為を続けてきた〉
この本が出たのが2004年8月14日。そして、「完結編」が出たのが、2007年2月1日だ。「日記」もさらに書き継がれている。
〈逢坂誠二・元ニセコ町長の「町長室日記」は、1997年11月以来、2005年8月に辞職するまで実に1697回を数えた。この日記は、ニセコから世界を見据えた視点、本質を捉えた思考から、インターネット上で多くの読者を獲得した。(アクセス数は100万件を突破)。衆議院議員に就任した現在も、日記の公開は続いている〉
時計台シンポジウムでは、いろんなことを聞いた。又、会場からも、いろんな質問が出た。
ニセコ町長時代の話。国会議員になってからの話。民主党の将来。排外主義的な日本の現状について…などだ。
その中で、一番印象的な話を紹介しておこう。
中学・高校の社会科で、私たちは「民主主義」について習ってきた。昔、アテネや、最近ではスイスの州などでも行われてるというが、本来の民主主義は住民が全員参加して討議して決めるものだ。それを「直接民主主義」という。
何百人とか千人くらいなら、皆が一堂に集まって、話し合うことが出来る。「全員参加」「情報公開」だ。
でも、人はどんどん増えるし、決めることも多くなる。だから、「直接民主主義」にかわって、「間接民主主義」になった。今、世界のどこの国でもそうだ。
つまり、一人一人の住民は自分たちの声を代弁してくれる者(議員)を選ぶだけだ。あとは、この選ばれた代議士が政治をやる。
これが「間接民主主義」だ。本当は「直接民主主義」がいいのだが、人も多いし、仕事も多いので、「次善の策」として、「間接民主主義」を選択したのだ。そう教わった。
でも、それでは、まだるっこしい。ということで、いろんなところで「住民投票」を要求する声が出、実施されている。たとえ一部でも「直接民主主義」を求める声だ。
そこで、私はヒラめいた。思った。
そうだ。人口5千人弱のニセコ町なら、完全なる「直接民主主義」が実行出来るのではないか。
アテネや、ジュネーブでやってたように、全住民を一ヶ所に集めて、討論し、採決して決める。これこそ民主主義の原点ではないのか。「夢の民主主義」ではないのか。
「確かに、やれるかもしれませんね。完全な“直接民主主義”が」と逢坂さんは言う。
ただ、5千人の住人が、毎日、集まって会議をするわけにはいかない。
それに、全員が集まって、短時間で決着をつけようとすると、感情的な意見に引きずられる。そんな危険性があるという。
つまり、テレビの討論番組の巨大化したものになる。激しい意見、過激な意見が勝つ。その傾向がある。
その点、「間接民主主義」は、そうした暴走に対して、ブレーキをかけ、チェックする役目を果たす。というのだ。我に返って、冷静に考える時間を与えてくれる。という訳だろう。
「皆の意見」を「直に」聞く。それがいいと思われがちだが、ちょっと待てよという〈時間〉も必要だ。
そうか。私は、そのことについて考えたことはなかったので、「なるほど」と思った。
これは「言論の自由」についても言える。昔は、「間接・言論の自由」だった。マスコミしか、本当の「言論機関」はない。個人が投書しても、載せてくれるかどうかはマスコミの側の問題だ。
だから、「我々の側には言論の自由はない」と思った左右の活動家は、「街宣車で激しく訴える」「直接行動に訴える」…といったことをする。
それによって、自分たちの「主張」を国民に届かせようとする。
だが今は、ネットも出来た。ツイッター、フェイスブックもある。
たとえどんな過激な意見でも、差別的な意見でも、自由に発表出来る。「間接・言論の自由」ではなく、「直接・言論の自由」になった。
ただ、それによって、言論の質が向上したか。逆だ。差別的な言論、罵詈雑言が溢れた。そんな下劣なことを「言論の自由」だと思う愚かな人々も増えた。
又、そんな差別的なことを書く人に対し、昔は、「そこまで言ったら終わりだ」「やめろ」という自制心があった。今はない。
むしろ、「本音で言っている」「勇気がある」「いいね、いいね」と拍手する人も多い。嘆かわしい状況だ。
「言論」の質は劣化したし、「民主主義」も劣化している。ネットなどのツールの進化に人間の理性が付いていけないのかもしれない。…と、いろんなことを考えた。
猛吹雪の中で、時計台ホールで話し合い、そして考えた。多くのことを学んだ。
⑲「週刊アエラ」(1月26日号)発売。中村文則の『教団X』(集英社)の書評を書きました。ここ10年で最高の本でした。600ページ近くあります。必死で読みました。凄い迫力です。そして、考えさせられました。
⑳『サイゾー』(2月号)は特集が〈人気マンガの危ない裏話〉。凄いです。力を入れた特集です。「反戦マンガが超えた一線」「右翼化するエンタメ」と「天皇をめぐる表現問題」。ギリギリのところまで取材し、問題提起しています。勇気ある特集です。
㉑「週刊読書人」(1月9日号)に書きました。猪瀬直樹さんの『さようならと言ってなかった=わが愛、わが罪=』(マガジンハウス)の書評です。とても感動的な本でした。あの失意の時に、よくこれだけの〈文学〉が書けたと思います。「作家・猪瀬直樹」が帰ってきた!と思いました。
㉒2月18日(水)午後6時半より、八重洲ブックセンター本店・8階ギャラリー。孫崎享さんとの対談本『いま語らねばならない戦前史の真相』(現代書館)の刊行記念トークです。テーマは〈70年目の積極的平和論〉です。参加申し込みは八重洲ブックセンターへ。03(3281)8201。