1冊の本が日本を揺り動かした。
50年前だが、今でもはっきりと憶えている。知らない人はいない。
日本人の皆が読み、皆が涙した。と言っても過言ではない。
東京オリンピックの10ヶ月前。昭和38年(1963年)の師走だった。
『愛と死をみつめて』が出版された。アッという間に150万部のベストセラーになった。それまでの出版のトップだ。
さらに、ラジオドラマになり、テレビドラマになり、レコードになった。この年の「レコード大賞」に選ばれた。
そして、映画になった。吉永小百合、浜田光夫が主演だ。観客動員数1000万人以上。動員数のトップだ。全ての分野で記録を塗り替えた。
「マコとミコ」の物語は日本人の皆が読み、見て、聞いて、涙した。
1963年の8月7日に、ミコ(大島みち子さん)は亡くなった。21才だった。
残されたマコ(河野實さん)も21才。
3年間の2人の愛の手記をまとめたのが、『愛と死をみつめて』だ。
それから50年。まさか、その当人に会えるとは思わなかった。
2月24日(火)、会えた。感動した。この人は、「生きた歴史」だ。「伝説」だ。
この時の対談は近く発売の『紙の爆弾』に載る。
対談のキッカケは、河野さんの本だった。
紀伊国屋書店で本を見ていた時だ。1冊の本が目についた。
あれっ、マコは今も元気なのか。そして、本も書いてるのか、と驚いた。
河野實『マコは生きた!=ミコとの別れから50年』(展望社)だ。2014年2月に出た本だ。
すぐに買って読んだ。〈昭和の戦後史を生きた男たちに!!〉と本の帯には書かれている。
そうだよな。戦後史を生きた人なら、皆、読んだ。そして涙した。
自分たちの〈青春〉でもあり、〈悲哀〉でもある。
帯にはさらにこう書かれている。
〈あの『愛と死をみつめて』のマコとミコの3年1ヶ月の恋はふたりの21歳で絶たれた。昭和38年8月7日だった。それからの50年を、マコは生きてきた〉
この出版社の「展望社」という名前を見た時、あれっ知ってる。どこかで会ったんじゃないのかな。と思った。
この出版社からは河野さんは、『「愛と死をみつめて」その後』という本も出している。これは2006年に出している。
河野さんの「著者略歴」を見たら、随分と本を出している。
大和書房から『菜園バカの独りごと』『メダカはどこへ』『いま企業は何をなすべきか』などを出している。
カメラマン、ジャーナリストとして生きてきたのだ。
ベトナムなどにもよく行ってるし、詳しい。『素顔のベトナム』(同文社)という本もある。又、『日本の中のオランダを歩く』(彩流社)という本もある。
アッと思った。彩流社からは僕も何冊か本を出している。彩流社と展望社。急に、近い存在に感じられた。
「日本の歴史」だし、「レジェンド(伝説)」だ。雲の上の、遠い遠い存在だと思ってたのに。近い所にいるのか。と思った。
そして、連絡をして、会わせてもらうことになった。
会った時は緊張したし、感動した。
本は何度も読んだ。テレビも見たし、映画も見た。僕らの〈青春〉でもある。
本の主要なところは憶えている。
歌なんて、今でも歌える。「マコ、元気になれずにごめんね。ミコはもっと生きたかったの…」と、本人を前にして歌ってしまった。私も、完全にアガっていた。
そしたら、「鈴木さんとは前に会ってるんです」と言う。
驚いた。ある人のパーティで、同じ会場にいたという。それで憶えているという。
でも、誰も紹介してくれないし。「あのマコがいる」と私だって気が付かない。そんなことがあったのか、とビックリした。
そして、「あの時代」について聞いた。こっちが次々と質問をする。
私は、大ブームになった「表の世界」「光の世界」しか知らない。
ところが、その裏には、何倍もの厳しい世界があった。批判、中傷で叩かれた「闇の世界」があったという。
特に、本が売れて大金を手にしたと知ってからのマスコミの対応は一変したという。凄い報道だったし、生きた心地がしなかったという。
でも、強い人だ。耐え抜いた。そして生きた。
生まれたのは1941年8月だ。私よりも2才上だ。
この歴史的対談は「紙の爆弾」の次の号に載る予定だ。
河野實さんと対談したのは2月24日(火)で、その前の2月21日(土)、22日(日)は、新潟県新発田市に行ってきた。
実は、そのことをメインに書くつもりだったが、河野さんとの対談が余りに衝撃的だったので、先に書いた。
21日(土)は、「大杉栄メモリアル2015」だ。
毎年のように行っているが、今年は、私も講演した。
大杉栄が虐殺されて90年だ。その時代に戻って考え、「大杉栄なら今の時代をどう見るか」を考え、話した。
関東大震災の混乱の中で大杉は殺された。
さらに朝鮮の人たちも多く殺された。弁解の余地のない事件だ。
「朝鮮人が井戸に毒を流した」…などとデマも飛び、自警団が「朝鮮人狩り」をし、殺した。酷い話だ。
この集団的・連続的虐殺事件は、ある日、突然起きたのではない。広く根強く蔓延していた民族差別・民族排外主義があったからだ。
大震災の混乱と不安の中で、無責任な噂・デマが飛び交い、〈敵〉を求めて襲いかかったのだ。
こうした差別・排外主義のムードは今もある。そして何かあったら爆発する。注意しなければならない。
それなのに、「朝鮮人虐殺」はなかったと言う人がいる。あるいは、「あったとしても、正当防衛だった」と言う人もいる。
それほどまでして、「日本人は常に正しかった」「日本人は常に冷静だった」と言いたいのか。
アメリカとの戦争だって「日本は正義の戦争をやったのだ。アジアの国々は皆、感謝している。文句を言ってるのは中国と韓国だけだ」と言う人がいる。
「もっと日本に自信を持て」と言う。
「南京大虐殺はなかった。従軍慰安婦もいなかった」と言う。
「日本の兵隊さんは世界一、道徳的で倫理的な兵隊さんでした」と言う。
そこまでして、「日本の誇り」を守りたいのか。これは歴史をゆがめ、歴史に直面する勇気がないだけだ。
我々、一人一人の人間だって、胸に手を当てて考えたら、恥ずかしいことは沢山ある。
思い出したくもない失敗も沢山ある。「何であんなことをしたのだろう」と思うことも沢山ある。
「自分の人生は常に正しかった。間違ったことは一つもない。誇るべき人生だ」などと豪語できる人はいない。1人もいないだろう。
そうした「不完全な人間」が集まっているのだ、国家は。
だったら、国家にだって、間違いや失敗は沢山ある。当然だ。
それなのに、「我が国家の歩みには一点の過ちもない」「常に正しかった」と言う。
それが「愛国心」であり、日本への誇りを持つことだと言う。
違うだろう。個人と同じように国家も、間違うし、失敗もある。それは謝罪し、二度も同じ過ちを犯さないようにする。
ところが、過ちを言うと、「反日だ」「お前には愛国心がないのか!」と批判される。
失敗や間違いを覆い隠し、いい点だけを見つけて、それだけを言うのが愛国心ではない。
間違いも、失敗も素直に認め、謝罪する。その上で、愛しいと思い抱きしめるのが本当の愛国心だろう。
2月21日(土)の新発田では、そんな話をした。
その日は新発田に泊まり、翌22日(日)は、まず瑞雲寺に行き、田宮高麿さんのお墓参りをした。「よど号」グループのリーダーだった人だ。新発田に来た時は、いつも行っている。
「よど号」関係者も、来る人はいるようだ。一度、皆を集めて、ここで墓前祭と集会をやったらいいのに。
それから、「蕗谷虹児記念館」に行く。ここも、何度も来ている。
三島由紀夫の豪華限定本『岬にての物語』が陳列されている。
これは貴重だ。この本の表紙、挿し絵を蕗谷が描いている。
三島が母に残した贈り物だったのだ。三島の母は、「大正ロマン」の雰囲気あふれる蕗谷の絵のファンだった。それを知って、三島が、母のために作ったのだ。
これを見るだけでも新発田に行く価値はある。
「大杉栄メモリアル」を毎年、主催している斉藤徹夫さんが、田宮さんのお墓と、蕗谷虹児記念館を案内してくれた。
「じゃ、新発田から帰ります」と言ったら、「そんなに急ぐことはないでしょう。鈴木さんのルーツに案内します」と言う。
エッ?と思った。そうだ。前日の集会の時も、斉藤氏は私を紹介する時、「鈴木さんは半分は、新潟県人です」と言っていた。
新潟によく来てるからかな、と思ったら、「実は鈴木さんのルーツは新潟県の五泉市なのです」と言っていた。
だから、22日(日)も、「その五泉市に行きましょう」と言って、車を出す。
新発田から1時間ほどだ。五泉市の駅前に行く。そして、市内を回る。
「どうです。思い出しましたか。懐かしいでしょう」と言う。
でも、自分には記憶はない。別に認知症になったわけではない。「私のルーツ」といっても遠い遠い昔の話だ。私が生まれる前だ。私の母も生まれる前だ。
写真説明でも書いたが、こういうことだ。
我が家の「ファミリー・ヒストリー」を紹介する。
父親の生まれは宮城県塩釜市だ。ここにお墓もある。母は福島県坂下(ばんげ)町だ。会津若松の近くだ。広田という家だった。
母親は会津坂下で、肥料や雑貨を扱う店をやっていた。
だが店の名が「新潟屋」だ。なぜ福島県なのに「新潟屋」なのだろう。ずっと疑問だった。
おばさん(母の妹)が去年亡くなったが、亡くなる直前に聞いた。
実は、何代か前に新潟の五泉市から来たという。
ヘエー、私のルーツは新潟県か。と驚いた。
でも、母の父のさらに何代か前だ。明治時代か、さらに前かもしれない。100年以上前の話だ。あるいはそれ以上かもしれない。
この話を斉藤氏にしたら、これが気に入ったらしくて、「鈴木さんは実はルーツが新潟県五泉市なんですよ」「鈴木さんも我々と同じ新潟県人なんですよ」と言う。
それで、22日には、私を五泉市まで連れて行ってくれたんだ。
でも、記憶はない。思い出せない。自分の生まれる何十年も前のことだ。
明治かあるいは江戸時代かもしれない。そんな頃の記憶はない。遺伝子が憶えているかもしれないが、何も言ってくれない。
それに、「あっ、ここを憶えている」「ここに誰々さんがいた」なんて、憶えていたら、それも怖いだろう。
ともかく、遠い遠い時代にタイムスリップしたようだった。2月は、まるで「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だったな。
50年前大ヒットした『愛と死をみつめて』のマコ(河野實さん)に会ったし。
90年前に虐殺された大杉栄のメモリアルに出て、「今、大杉が生きていたら」という視点で話をした。
さらには100年以上前の私のルーツ「五泉市」を訪ねた。
あっ、そうだ。母の故郷、会津坂下町にも行ってみなくては…。
私の「ルーツ探し」の旅は続く。
4月には又、新発田に行く。
今度は、「ルーツ探し」ではない。斉藤さんが新発田市の市議会選挙に出るのだ。
東京の清瀬市では塩見孝也さんも市議選に出る。両方とも応援に行かなくちゃならない。
田宮さんのお墓や、蕗谷虹児記念館…などでも、斉藤さんは「今度、市議選に出ます」と挨拶していた。
斉藤さんは地域では、知り合いも多いし、大杉栄のイベントなどをやっている。それに、面倒見がいい。
瑞雲寺のご住職さんに会った時も、「息子さんがまだ結婚されないんですね。心配でしょう。私に心当たりがあるので連れて来ますから、お見合いをさせましょう」と言う。親切だ。
県外の人なんですが、とても美人で、仕事も出来る人です。それにおばあさんが柏崎の人ですから、新潟県とも縁が深いです。本もよく読んでるし、勉強家なんです。だからなのか、会社では余り友達もいなくて、お酒を飲んでばかりいて。
食費にも困っているようで、それで私が時々、お米を送っているんです。と言う。
ほう、そんな人がいるのなら、ぜひ、結婚させたらいい。
そして、ここで、「よど号」支援集会をやりましょう。「大杉栄メモリアル」も市主催にしたらいい。
「大杉栄記念館」も造り、「ハイジャック記念館」も造る。
駅には、「アナキズム宣言都市」と大きな主体塔を建てる。
いいじゃないか。明るい未来、明るい新発田だ。
そのあと、高田馬場の喫茶店「ミヤマ」の会議室。5時から、「紙の爆弾」の対談。
『愛と死をみつめて』の河野實さんだ。会ってても、信じられない気持ちだった。日本中の人が読み、聞き、見た作品だ。〈伝説〉の人だ。
ブームの表。その裏。そして、ブームから50年。…を語ってくれた。本当に貴重な話だった。
そのあと、「土風炉」に行って飲む。
6時半、ホテルニューオータニ。「恵観塾」に出る。池口恵観さんと久しぶりに会いました。
それからタクシーで新宿へ。河合塾コスモの科学の前川先生の送別会。
この先生には、沢山教えてもらった。東京校は辞めて、名古屋だけになる。でも、休みの時には来てもいいというので、ぜひ休み中に「合同ゼミ」をお願いしますと頼みました。
5時、「読書ゼミ」。今週は私が選んだ本を皆で読む。山中恒の『靖国の子=教科書・子どもの本に見る靖国神社』(大月書店)を読む。
私はこの人には会っている。JR東労組のパーティで会った。1931年生まれだから84才か。
『ボクら少国民』シリーズ(辺境社)は有名で、私も読んだ。その他、戦争に関する本が多い。
この『靖国の子』は、戦争で亡くなり、靖国神社に祭られた兵士の子供たちの話だ。讃えられてるだけでなく、「靖国の子」だから、こうしなくてはならない。国民の規範になれ…といった〈任務〉〈義務〉が多いのだ。
驚いた。とても貴重な本だ。
終わって、急いで北浦和に行く。私がとてもお世話になった青木證司さんの「生誕祭」。
もう亡くなられたが、生きていたら75才。若い。
その後家族、後輩たちが集まって、青木さんを偲ぶ。
店もレトロな店で、インベーダーゲームやジュークボックスもあった。酔いました。
終わって、一緒に食事をしながら、さらに詳しく話を聞きました。
①50年前、一大ブームになった『愛と死をみつめて』。本、ラジオ、テレビ、映画、歌…と、日本中の人々が感動し、涙しました。あれから50年。「マコとミコ」のマコ(河野實さん)と対談しました。2月24日(火)です。
②あのブームについて。その裏側について。さらに、その後の50年について聞きました。河野さんが手に取ってるのは、私の『失敗の愛国心』(イーストプレス)です。2人とも「赤尾の豆単」で勉強したのです。そのことを書いてます。河野さんは、「全部暗記した」と言ってました。
③対談が終わって。喫茶店「ミヤマ」の会議室です。「河野さんを一目見たい」という人たちと。『マコは生きた! ミコとの別れから50年』『「愛と死をみつめて」のその後』を出した展望社の社長さんも来てくれました。
⑳近くに「忠犬タマ公」のふるさとがありました。これが私のルーツかもしれません。この犬は偉いんです。
渋谷の「忠犬ハチ公」はご主人の帰りを毎日、待っていたんですが、このタマ公は雪崩に遭って、雪に埋もれて死にそうになっていたご主人様をかき出して、救ったのです。命の恩人です。
あっ、今度、その「忠犬タマ公のふるさと」に行ってみなくちゃ。私の記憶も甦るでしょう。
㉑新潟駅から帰ろうとして思い出しました。確か今日は、福島みずほさんが新潟で講演会をやってると。それで急遽、駆け付けました。
〈護憲フォーラムにいがた 第6回憲法学習会。憲法を取り巻く状況=平和と男女平等〉
熱く語ってました。新潟市自治労会館で。
㉘稲川淳二さんと。松木けんこうさんとは古くからの友人だそうです。「怪談の会も来てくれてます。鈴木さんもぜひ」。「行きたいんですが、もの凄い恐がりなんです。ジェットコースターも乗れないんです」「それでも右翼?」「すみません」。
㉙松木さんのパーティの前。20日(金)の昼、経営塾セミナーに行きました。
近畿大学のクロマグロ養殖に成功した研究者の講演です。宮下盛さん(近畿大学水産研究所所長)です。
この「クロマグロ効果」で今年、近大の入試の出願者は日本一でした。凄いです。
1970年から、長い困難な研究があり、試行錯誤があったといいます。今、他の魚の養殖もやってます。「全滅寸前の左翼は養殖できませんか?」と聞いたんですが。無理のようです。
㉚2月24日(火)お昼から、辻元清美さんの勉強会に行きました。「当選おめでとうございました」と言いました。「鈴木さんのおかげです。わざわざ応援に来てもらい、ありがとうございました」と言われました。いやいや、辻元さんの力ですよ。それに、地元の熱い支援があったからですよ。行ってみて、肌で感じました。
㉜2月25日(水)恵観塾に行きました。池口恵観さんと。久しぶりです。「又、北朝鮮に行きましょう」と。このあと、新宿に行って、河合塾コスモの前川さんの送別会に出ました。化学の先生ですが、私は沢山、教えてもらいました。
㉝2月26日(木)学校が終わって駆け付けました。浦和でやってました。青木證司さんの「生誕祭」です。生きていたら75才でした。とてもお世話になりました。野村秋介さんともとても仲がよかったです。奥さん、娘さんと。
㊲3月14日は、和歌山カレー事件の集会です。午後6時、文京区民センターです。
〈彼女のことは嫌いでも、彼女の無実は知ってください〉。
これはいいですね。佐藤優さん、河合潤さん、神田香織さん。そして私も挨拶します。