「あっ、鈴木さん。今日は会えると思って楽しみにしてたんですよ。ブログ読んでますよ。それに、『秘伝』も読みました。よかったですね」と言われた。
驚いた。僕のことを覚えていたんですか、と言った。
だって、会ったのは一度だけ。大スターと、一人のファンだ。
俳優の榎木孝明さんだ。パーティの席で私は酒を飲んでいたら、榎木さんの方から、わざわざ挨拶に来てくれたのだ。ファンとしては感激・感動だ。
それに、月刊『秘伝』の話が出た。格闘技の雑誌だ。
今、出ている6月号は、「富木合気道」の特集だ。そこに私も出ている。
私は学生時代から習い、3段だ。その後、柔道を習い、これも3段だ。
合気道は富木謙治先生、大庭英雄先生に習い、お二人から得たものはとても大きい。自分の生きる上での基盤や指針になっていると思う。
大きな本屋の格闘技コーナーに行ってみたら分かるが、格闘技の雑誌、単行本、ビデオ、DVDはかなりある。柔道、剣道、合気道、ボクシング、空手…と。
そして、プロレスの雑誌だ。かつてはプロレスの月刊誌、週刊誌がもの凄く多かった。
子供の頃からプロレス好きだったので、よく見てたし、「東スポ」「週刊ファイト」「週刊プロレス」は読んでいた。プロレス会場にもよく行っていた。
そのうち、『プロレスファン』『格闘技通信』『ゴング格闘技』に時々原稿を書くようになった。鹿砦社からはプロレス、格闘技の本を5冊ほど出している。
でも、最近は、なかった。プロレスの黄金時代も終わったし、私もプロレスや格闘技について書くこともなくなった。
ただ、最近出した2冊の本で、合気道について触れた。『反逆の作法』(河出書房新社)で、合気道の大庭英雄先生について書いた。
それに内田樹さんとの対談本『慨世の遠吠え』(鹿砦社)で、合気道の話をした。
内田さんは合気道の先生でもあるし、内田さんの道場で、稽古をつけてもらい、投げ飛ばされ、固い畳に叩きつけられた。
その2冊を読んで、月刊『秘伝』の人が、「ぜひ、合気道の話をしてください」と訪ねてきた。だから、本当に久しぶりに格闘技の雑誌に出た。
それに、『秘伝』に出るのは初めてだったので感激した。光栄だった。
『秘伝』は、格闘技というより、武道・武術の専門誌と言った方がいいのか。
とても権威のある雑誌だ。内田さんも読んでるし、武道家は皆、読んでる。俳優の榎木孝明さんも読んでるという。
それで思った。「あっ、榎木さんは俳優であると同時に、武道家なんだ」と。剣道の達人であることはよく知られているが、実は、柔術の達人でもある。
前に榎木さんと京都で会った時は、私は、ポンポンと投げ飛ばされた。
飲み屋さんで、武道の話になり、体の動き、体の使い方の話になった。
その時、「じゃ、説明しましょう」と榎木さんは立ち上がり、飲み屋の狭いスペースで、何人かを相手に〈実験〉してみせてくれた。
いかに強く手首をつかまれても、振りほどける。相手がいくら頑張っても、崩せる。倒せる。といって、実際にやってみせる。
相手が素人だから赤子の手をねじるように倒せるのだろう。実際に武道をやってる人にはかからないはずだ。と思った。私もそう思った。
隣りにいた花房東洋氏が煽り立てた。「じゃ、鈴木さん、出て下さいよ」と。「鈴木さんは合気道3段、柔道3段ですよ」と大声で言う。
緊張して榎木さんと対峙した。榎木さんの手首をつかんだ。簡単に外された。
こんなはずはないと、力一杯握った。でも同じだ。
「今度は、私が手を握りますから、こらえて下さい」と言う。
こらえた。しかし、ちょっと突かれると簡単に投げ飛ばされる。
おかしい。何度やってもダメだった。ポンポンと投げ飛ばされた。
この時の体験は2年前の今頃だ。このHPにも書いたし、写真も出している。
この時は、他にも「センゴク」さんも立ち合った。
元・海上保安庁の人で体はデカイ。本名は一色正春さんだ。中国の船が尖閣の近くで、海上保安庁の船に体当たりしてきた。その瞬間を撮ったビデオを外部に公表し、その件で、海上保安庁を辞めたんだ。
体もデカイ。中国船に立ち向かうような覚悟で榎木さんに向かう。
でも、結果は同じだった。コロコロと投げ飛ばされてしまった。
「一体、どうなってるんですかね」と一色さんも首をひねっていた。
ウーン、私も分からない。合気道なのか、いや、柔術か。もしかしたら、武術家・甲野善紀さんの術かもしれないと思った。
榎木さんに投げ捨てられてから、甲野さんに会う機会があったので、聞いてみた。
「私が教えたわけじゃない。元々、榎木さんは示現流をやってるし、強いんですよ」と言っていた。
そんなことがあったので、榎木さんに会えると思い、京都に行ったのだ。
5月18日(月)だ。ウェスティン都ホテル京都だ。午後5時から、パーティがあったのだ。
映画「輪違屋糸里=京女たちの幕末」の企画発表会があった。そこに行ったのだ。
私は直接の関係はない。ただ、昔からの友人である花房東洋氏がこれに関係し、企画に加わっている。それで誘われたのだ。
この映画制作を進めている人は、「時代劇復興を熱く願う人々」だ。
そして、「銀幕維新の会」を立ち上げた。その第1回目の映画が、この「輪違屋糸里」なのだ。
「わちがいや・いとさと」と読む。浅田次郎の原作で、これを映画化しようとしている。
時代劇がなくなって淋しいという感傷だけではない。「時代劇の中にこそ日本人が忘れかけている大切なものがある」と言う。
時代劇復興プロジェクトは、「日本復興プロジェクト」でもある。
俳優や監督、作家など、多くの人が集まって「銀幕維新の会」は出来た。
この会が出来たのは一昨年だ。その時は、まだどんな映画を作るかは発表されてない。〈志〉の表明の場だった。
そこで榎木さんと初めて会い、二次会の席で、「センゴク」さん共々、投げ飛ばされたのだ。
榎木さんと古武術の関係は、ネットにも書かれている。玄人、達人と書かれている。
あるいは、俳優である前に、「サムライ」なのかもしれない、と思った。
会って話してみて、そう思ったし、ネットの中の、あるエピソードを読んで、さらに、そう思ったのだ。
榎木さんは鹿児島県伊佐郡菱刈町(現・伊佐市)。身長180cm。職業は、「俳優・画家」と書かれている。絵はプロ級だし、個展もやっている。こう書かれている。
〈幼少の頃は、独りで絵を描くのが好きな目立たないおとなしい泣き虫だった。しかし、そんな息子の軟弱さを許せない父親から厳しく鍛えられたという。そのひとつとして習った薩摩示現流は玄人の域。流派の教えは芸能界に入ってからも生きており、「どんな仕事でも決して手抜きはしない。いいわけはしない。たとえ自分が悪くなくても全て自分が引き受けよう。たとえ損をしても後からくる得が大きい」という心構えで仕事に臨むという〉
うーん、やっぱり、サムライだと思った。
絵が好きで武蔵野美術大学に入ったという。そうか。武蔵美か。
そこなら知り合いの先生も多いし、何度か講演もしている。「鈴木をウチの講師に」と働きかけてくれた人もいた。ありがたい話だ。
榎木さんはその大学で勉強し、アルバイトで体験した芝居にのめり込んだという。
1978年、劇団四季の研究生になり、1984年、連続テレビ小説『ロマンス』でテレビデビューを果たす。
以来、舞台やテレビ、映画、ラジオ等あらゆる分野で活躍している。
〈北海道美瑛町・大分県九重町・鹿児島市にアートギャラリーを持ち、画集を出版するほか、日本各地のみならずインドやネパール等の国を旅して数々の絵を手がけている〉
〈特技は上述のとおり古武術。現場では共演者・スタッフを気功にて一瞬のうちにひっくり返してみせるというお茶目な一面もあり、絵画個展のファンクラブ会員限定の茶話会でも、実技を行ったことがある。テレビ番組で介護に古武術の体術を応用した「古武術介護」を実演したこともある(インターネットでも画像による解説を行っている)〉
ここでは、「気功」で、ひっくり返したと言ってますね。気功にも通じてるんでしょうが。柔術、そして示現流そのものの応用かもしれない。
富木合気道は、柔道から出ているが、一面、「剣」の原理からも出ている。
手を剣に見立てて、襲う。それを体さばきでかわす。腕を取る。極める。
これは相手の刀を取り、無力化することだ。だから、示現流も、剣を持っていても、持ってなくても出来るのだろう。
今度、会ったら聞いてみたい。
榎木さんは、剣術の達人だから、武士の役が多い。「真田太平記」などに出ている。と同時に、現代劇にもよく出ている。
一番、皆が見て、知っているのは「浅見光彦シリーズ」だ。
普段は、ルポライターだが、取材先でよく事件に出くわし、心ならずも、巻き込まれ、取り組み、解決する。素人探偵だ。
私も好きで、テレビでは必ず見ている。
ところが、最近は、「浅見光彦」が他の人に代わってしまった。
榎木さんの当たり役と思っていたのに。何故だろう、と思っていたら、このウィキペディアに出ていた。多分これが本当の理由だろう。
そして、榎木さんは凄い人だな、と思った。ちょっと他の人には出来ない。「現代のサムライだよ」と思った。
こう書かれている。
〈1995年より、フジテレビ系ドラマ『浅見光彦シリーズ』に主役の浅見光彦役として出演する。この浅見光彦役は周囲から当たり役であると評されたといい、同シリーズの原作者である内田康夫も榎木を「新作を書くたび、榎木くんの顔が浮かんで邪魔をする」と高く評価した。2002年に年齢を理由として榎木自ら浅見光彦役から退くことを表明した際(後任の浅見光彦役は中村俊介)、内田の希望により2003年からは光彦の兄で警察庁刑事局長である浅見陽一郎役として、引き続き同シリーズに出演している〉
エッ、そうだったのか。と、驚きましたね。「年齢を理由として」自分から退くことを申し出たという。謙虚な人だ。こんな人、他にいない。俳優は年齢を超える。年齢を利用に退くことなんかない。少なくとも、自分から言い出すことはない。60才や70才でも、20代、30代の役をやっている。1人で、女の一生を全て演ってる人もいる。
内田康夫の原作では、「浅見光彦」は30代後半か、40位だろう。
榎木さんは50代だが、全く不自然ではない。ピッタリの当たり役だ。実際の30代の役者よりも、ずっと似ている。
それに、「年齢を理由に」と言うのなら、原作の「浅見光彦」の年齢を上げたらいいじゃないか。「それから10年経ちました」とか言って。
又、浅見役に復帰してほしいですよね。
でも、これも武道をやってるからでしょうね。普通なら、どんなことがあっても、その役を降りない。しがみつく。必死に若作りをして、「まだ大丈夫だ」とアピールするだろう。
それなのに、自ら、退くことを申し出る。こんな人はいない。サムライだと思った。
我々だったら、「仕事を奪うな!」「人権問題だ」と騒ぎ立てて、記者会見でも開くだろう。
「俺の方が30代青年に似つかわしい。心身共に30代は一体どっちだ」と言って勝負を挑む。
そして30代青年たちを、次々と投げ飛ばす。ほら、俺こそが本当の30代だ、と証明してみせる。そこまでやってもいい。
でも、榎木さんは、やらない。実力があるのに、やらない。周りの人たちが止めるのに、「いや、年ですから」と謙虚に退く。凄い人だ。
もしかしたら、日本人の謙虚さとは、こういうことかもしれない。我々凡人ならばとても出来ない。
だが、出来る人はいる。一昨年、投げ飛ばされた時以上の衝撃を受けた。京都まで行って、本当によかったと思った。
又、剣、居合い、空手の演武なども行われる。花房東洋さん、須藤久さんなどと話しました。
終わってからも、実行委員の人たちと会議。
夜、遅く、ホテルに帰りました。
太田さんは、常に先へ先へと進み、皆もそのスピードに付いて行けなかった。長い間の同志だったのに、「君はイルミナティだ!」と言われて絶縁された人もいた。
又、太田理論にドップリとつかって、捕まったり、危ない目に遭った人も多い。
その点、私などは、初めから「味方ではない」と思われていたから、「いい距離」を保って勉強させてもらった。
一水会の合宿に来て、右翼思想の革命性について話してもらったこともある。挨拶では、こういった話を私もした。
そのあと、一度、家に帰って仕事。6時、上野に行く。東京文化会館大ホール。「国立モスクワ音楽劇場バレエ」を見る。
この日は、「エスメラルダ」(全3幕)。6時半から9時まで。世界一のバレエだし、素晴らしかった。一水会の木村三浩代表と共に招待されたのだ。
そのあと、文化会館1Fホールでパーティ。「ロシア文化フェスティバル2015 in Japan」のオープニングセレモニー&パーティだ。「日露修好160周年記念」「ロシア文化フェスティバルin Japan 第10回記念」だ。
ロシアの国会議員や大使館の人。バレエ団の人が出席し、挨拶。日本からは森喜朗、鳩山由紀夫、鈴木宗男さんなどが出席。女優の栗原小巻さんも挨拶していた。
木村氏から、ロシアの人々やマスコミの人々を紹介される。
7時に終わって、タクシーで六本木ヒルズへ。日露のシンポジウムを昼からやっていて、6時半から、懇親パーティ。そこだけ出る。
51階の眺めのいいホールで、ロシアの政治家、文化人、ジャーナリストと話をした。
それから、木村三浩氏、マスコミの人と共に車で新宿へ。ブッチー武者さんの店に行く。
たけしの番組で、懺悔室で懺悔をして水をかぶるのがあった。あれをしてたのが、このブッチーさんだ。もう20年近く前だ。よく見ていた。
①5月18日(月)。午後5時から、ウェスティン都ホテル京都。映画「輪違屋糸里=京女たちの幕末=」の企画発表会が行われました。
〈時代劇を通じてもう一度、本来の日本人らしさを取り戻そう〉と、作られています。
②俳優の榎木孝明さん。この映画を作る「銀幕維新の会」の特別相談役です。榎木さんの提言で作られたそうです。
榎木さんは、絵はプロ級。そして剣道の達人。さらに、柔術の達人です。2年前に会った時は、何度も投げ飛ばされました。月刊『秘伝』で合気道のことを私は書いてますが、「読みました。よかったですね」と言ってました。
⑧花房東洋氏です。岐阜の大夢館代表です。私が「生長の家学生道場」にいた時、花房氏は、生長の家「飛田給道場」にいました。だから、もう50年前からの知り合いです。この「銀幕維新の会」の立ち上げにも参画しています。
⑨「鈴木さん」と呼びかけられました。懐かしかったです。学生運動をやっていた頃の仲間です。私よりも4才位、下です。石田昇司さんです。
「今、どうしてるの?」と聞いたら、「ブトウをやってます」。凄いですね。今でも武闘派か。権力や左翼と殴り合い、石を投げてるんだろう。偉いですね。「いえ、違うんです」と名刺をくれました。〈一般社団法人・日本創作新舞踏協会会長〉と書かれてました。
⑩5月15日(金)、岡山一水会の「レコンキスタ読者の集い」。午後6時半から、岡山市市民会館大ホールで行われました。
メインの講演は木村三浩・一水会代表。「改めて問う、新右翼運動=ヨルダン・クリミア・ロシア帰国報告(鳩山氏との同行について)」。
㉑「ひの新選組まつり」に出た時に、「永倉新八のお墓が岡山にある」と聞いたので、「レコン読者の集い」の前に、探して行ってきました。番家氏が事前に調べていてくれました。
6月9日(火)は札幌時計台ホールで、新選組永倉新八のひ孫・杉村和紀さんと対談するので…。杉村さんとは「ひの新選組まつり」でも会ったし、何か、他人とは思えません。私も関係者のような気分になって、永倉新八の墓にお参りしました。
㉓5月16日(土)。午後5時から、仙台ガーデンパレスで。「第41回東北学院榴ヶ岡高等学校同窓会」が行われました。総会のあと、懇親会があり、オープニングは吹奏楽部の演奏でした。ヒット曲、新しい曲が演奏され、最後は校歌でした。胸が熱くなりました。
㉕厳しい高校で、よく先生に殴られてました。ところが途中から、「服装は自由」「男女共学」になりました。「青春を返せ!」と言いたいです。私は1回生ですが、もう51回生、52回生もいます。この女性たちです。50才の違いがあるんですね。
「1回生は何人出席してるんですか?」と聞かれ、「4人です。あとは皆、死滅しました」「まあー!」「絶滅危惧種です!」。
㉘同窓会に行く前に、兄貴の家に寄りました。そうだ。同窓会に出たら、「鈴木さんのお兄さんと一緒に勉強してます」という人がいました。生涯学習のクラスだそうです。「英語は達者で1人でロシアやイタリアにも行ってるし、凄いですね」と言ってました。
そうですね。私は、日本語もロクに喋れないし、韓国に行くのでも、慌てて、大変でしたよ。
㉙翌日朝、教会に行って礼拝に出ました。仙台広瀬河畔教会です。そのあと、仙台市内を散歩しました。「東北学院中学校・高等学校跡地」という碑が建ってました。(我々の学校の)本校の跡です。1905年〜2005年まで、ここにあって、そのあと、移りました。
東北学院のモットーが書かれてます。「LIFE LIGHT LOVE」です。生命、正義、愛でしょうか。今は、ここは巨大なビルが建ってます。仙台一です。
㉝『永遠の革命家・太田龍追憶集』が出ました。まとめる人は大変なご苦労だったと思います。ありがとうございます。私も書きました。
この出版を祝う会が、5月19日(火)6時20分から、明治大学の中にあるカフェパンセで行われました。