「『連合赤軍は新選組だ』なんて言ってる人がいるが、とんでもないですよ。全く違います」と、開口一番、杉村和紀さんは言う。
杉村さんは新選組・永倉新八のひ孫だ。ひいお爺さんを侮辱されたと思ったのだろう。
「そんなことを言ってる人がいるんですか。とんでもないですね。でも、攻撃や粛清が内にばっかり向いていたとか。似てる部分はあるんじゃないの」と私が言ったら、「似てるとこなんて、ないです!」と杉村さんは断言する。
「新選組は天子さまを守り、京都を守って闘ったんですよ」。
そして言う。「連合赤軍には〈義〉がありますか?」と。
会場の人々も驚いていた。激しい言い合いから始まるなんて今までなかったからだ。温厚な杉村さんも、これは許せなかったのだろう。
「この前、板橋に行ってきました。その前は、岡山で永倉新八のお墓参りしてきました」と話を外らした。それでなんとか、話はスムーズに進んでいった。
長い間、新選組は「悪党」だった。「悪」の代表だった。明治維新になってからずーっとそうだ。
徳川幕府と、それに味方した新選組は〈悪〉で、それを討った薩長は「官軍」となり、〈正義〉になった。
薩長に味方した者たちは皆、「官軍」になり、〈正義〉になった。「勝てば官軍」という言葉も生まれた位だ。
戦前、戦中も勿論、新選組は〈悪〉だ。じゃ、日本が戦争に負けて、全ての価値観が変わった戦後はどうか。不思議なことに、それでも「新選組=悪」は変わらなかった。
私らの子供の頃は、まだチャンバラごっこをやっていた。皆、官軍になりたかった。
西郷隆盛とか、桂小五郎とか。今なら坂本龍馬だろうが、龍馬はまだデビューしていない。
1960年代中頃になって、司馬遼太郎などが小説に書き、NHKの大河ドラマで取り上げられて一気に人気が出、そこで「生まれた」のだ。
実際にいた人ではあるが、目立たない人間だった。それほど大きな仕事をしたわけではない。
でも、小説家が書いてから、一挙に知られた。世にデビューした。そして、明治維新の大功労者になった。
でも、なぜ、いくつもの「時代」を超えて、新選組は見直され、評価されてきたのだろう。
多分、日本人に最も訴えるものを持っていたのだろう。不屈不変の「男の生き方」だ。そして、「誠」だし。杉村さんが言う〈義〉だったという。
そうだ。明治、大正、昭和、平成と時代は変わったのに、日本人の気持ちは案外ずっと同じなのかもしれない。
五稜郭で闘い、榎本武揚、大鳥圭介は捕まった。普通なら、即刻死刑だが、ずっと生き延びた。
黒田清隆は、榎本武揚の救出には、並々ならぬ努力をし、苦労した。そして、数年、獄に入れただけで釈放し、ロシアとの外交交渉に当たらせた。
その他諸外国との交渉も任され、親しくなることにより、日本の防衛にもなる。
榎本武揚は、函館で敗れ、捕らえられた。しかし、数年後は釈放され、新政府軍の大臣として、腕を振るう。
これは、世界中から見て、まさに「奇跡」なんだ。つまり、恥を忍んで国のために尽くしたのだ。
「裏切り者」「売国奴」だと言われながら、これだけ国の為に闘い、尽くした人はいない。〈国家〉にとっては大きな貢献のあった人だ。
ところが、余り、人気がない。五稜郭に行っても、榎本武揚、大鳥圭介は全く人気がないし、その反対に、函館では敵に突っ込んで殺された新選組の土方歳三はもの凄い人気なのだ。
私は3回ほど行った。「歳三ネクタイ」「歳三Tシャツ」「歳三下敷き」などを買ってきた。ブロンズ像で土方像があった。30万円だ。ちょっと高い。それだけはあきらめた。
土方歳三のような生き方が日本人は好きなのだろう。
もはや最期と思った時、あっさりと散る。それが男らしい。日本人らしいと思う。日本人の散り際はこうでなくちゃ、と思う。
それに、残された歳三の写真。あれがいい。洋装だし、実にいい男だ。
あれが一枚あったために、どれだけ酷いことをやったとしても、歳三は英雄として人々の記憶に残っているのだ。
国のために尽くしたという点では榎本の方が貢献したし、仕事をした。でも、こういう人間は日本人は嫌いなのだろう。
かつては、「悪の代名詞」だったのに、新選組は、1960年代中頃から、その評価が変わってきた。
子母澤寬の「新選組始末記」や司馬遼太郎の「燃えよ剣」の影響が大きい。そして、NHKの大河ドラマで新選組をやる。
それで、「新選組ブーム」になった。歴女もドッと増えた。前に書いたように、右翼学生の中にも「土方派」が生まれた。
「でも、不思議なことに、清河八郎や芹沢鴨は、ずっと一貫して悪人なんです」と杉村さんは言う。
「新選組が悪」だった時は、清河、芹沢も悪だ。しかし、1960年代中頃、新選組が評価され、ブームが来ても、清河、芹沢はずっと悪党なのだ。豪商を脅して金を巻き上げる。金を出さないと大砲を撃ち込む。酷い話だ。
「新選組まつり」や「新選組サミット」には、新選組隊士のご子孫も集まる。近藤、土方、永倉…のご子孫たちだ。
でも、清河、芹沢のご子孫は来ない。「ちくしょう、近藤、土方め」と今でも怨みに思っているのか。
これは不思議だし、奇妙だ。
新選組が「悪の代名詞」だった時も、又、評価され、ファンも多くなった時でも、清河、芹沢は悪のままだ。
「これは不思議です」と杉村さんは言う。本当は、学識も高い人物だったという話も聞く。斬られずに生き延びたら、大人物として評価されていただろう。
「そうなんです。永倉は、2人に対しては常に尊敬の気持ちを持ってました。最後まで、清河先生、芹沢先生、と言ってましたから」。
そうか。やはり、永倉は違う。もしかしたら、新選組で一番、人間の器が大きいのかもしれない。
それに、永倉は松前藩出身の武士だ。実は、新選組に武士出身はいない。ほとんどいない。近藤、土方などは日野のお百姓だ。
ところが、剣道場を中心にして、新選組を作り、京で治安活動のために闘う。
そこで、「俺たちは武士だ!」と思った。武士出身ではないが、武士になったのだ。
「辺境」から出てるから、かえって「中心」を求める。私はそう思った。
だからこそ、さらに厳しくした。自らにも他人にも。「武士だ!」ということを強調した。
武士でなかったが故に、かえって「武士道」を強調したのではないか。こんな時には闘うべきだ。こんな時には切腹すべきだ…と。
街を見回っていて、敵と遭遇し、負けて逃げ帰ったら切腹だ。背中に敵の刀を浴びたら切腹だ。敵を取り逃がしたら切腹。つまり、切腹、切腹だ。これこそが〈武士〉だと思ったからだろう。
そんな時、永倉はどう思ったことか。
生まれた時から武士だった永倉にとって、こんな命を懸けた「武士ごっこ」は異様に見えたのではないか。「おい、おい、そんなものは武士道じゃないぞ」と思ったはずだ。
しかし、言わない。ただ、早い時期に、近藤が天狗になり、組織を自分の勝手にしていると、訴えている。会津藩に仲間と共に訴えたのだ。
これは会津藩のとりなしで、事なきを得た。
それにしても、そんな危ないことをやったもんだ。普通なら、即、切腹だろう。いや、即、斬り捨てられる。
しかしまだ、それほど新選組のまとまりが強固ではなかったのか。あるいは、「真の武士」の永倉に対し、遠慮していたのか。
戊辰戦争のあと、永倉は、近藤、土方と別れる。
「自分は近藤の家来ではない」と言って別れ、松前に行き、そのあと小樽に行く。
明治を生き、大正まで生きる。本当は、戦闘で華々しく死にたいと思ったことだろう。
しかし、忸怩たる思いのまま、生きる。
ただ、その間に、大量の記録を残す。それが司馬遼太郎などが新選組ものを書く上での大きな参考になった。
それに、永倉は、他の隊士とは違う。生まれた時からの武士だ。武士としての素養、教養もある。本を読み、書ける。それが大きかった。
もし、永倉が、近藤、土方のように死んでいたら、新選組の記録は伝わらない。「新選組ブーム」はなかった。今でもずっと「悪役」のままだったのかもしれない。
それと、面白い話を聞いた。杉村さんは永倉のひ孫だ。杉村さんのお父さんは、もう亡くなっているが、永倉の孫だ。
じゃ、お父さんの兄弟は何人だろう。5人という。お父さんともう1人、亡くなった。あとの3人は生きている。凄い。「永倉新八の孫」は3人も元気で生きているんだ。
「これには秘密があります。家の系統は長生きの家系です。それに皆、晩婚です。だから、家では3代目です。ところが他は、早く結婚し、6代目という人もいます」。
そうか、永倉家(=杉村家)は、長生きの血があるようだ。
そして、永倉家のことを、かなり詳しく聞いた。真摯に答えてくれた。何か、新選組がグーンと身近なものに感じた。
この日の札幌時計台は、実に楽しかった。
産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジ、サンケイエクスプレス、フジサンケイビジネスアイ…と、一つの新聞社内で複数の新聞媒体を発行しているのは産経だけだ。インターネットにも積極的に進出している。
又、『正論』を初め、月刊誌も多く出し、〈主張する新聞〉として支持されている。
話を聞いていて驚いた。こんなにも多くの分野に進出し、業績を伸ばしている。嬉しかった。元産経にいた者として、文句なしに嬉しい。
講演が終わって熊坂社長に挨拶しました。私のことを知ってくれてました。
私が入社したのは1970年。熊坂さんは1971年。私の方が1年早いのだ。
販売局に2年、広告局に2年いた。熊坂さんは勿論、編集。会うことはなかったが、同じ時代に産経にいたんだ。
当時は鹿内社長で、「学生時代は何をやってもいい。学生運動で捕まっても、うちでは入社させる。社の中で、治してみせる」と言っていた。
実際、早大の革マルや、他の大学の社青同解放派の人などもいた。
でも、入社して、真面目に仕事していた。左翼が治ったのだ。凄い会社だと思ったし、自由な雰囲気があった。熊坂社長とは、そんな思い出話をしました。
今まで「経営塾」では、いろんな人の話を聞き、勉強になった。特に今日は、一番感動した。又、心待ちにしていた講演だった。とてもよかった。
この後、午後3時、高田馬場で四国から来た新聞社の取材を受ける。
そして6時、木村三浩氏と打ち合わせ。
7時、一水会フォーラム。ホテルサンルート高田馬場。植草一秀さん(経済評論家)が講師で、テーマは、「対米隷属を排し、自主独立を確立する」。
とてもいい講演だった。満員。その後、居酒屋で二次会。
植草さんは、冤罪事件で捕まり、その裁判も続けている。「その裁判では鈴木さんにも協力してもらいました」と言ってました。
そうだ。この日は、植草さんの中学の同級生が10人も来てくれた。
何でも今月末に、40年ぶりに中学同窓会を開く。でも、その日は植草さんが仕事があって出れない。ネットを見たら、一水会で講演するという。「じゃ、皆でそこに行きましょう」となったわけだ。
江戸川区立松江第4中学校だ。ずっと一番だったという。そこから両国高校、東大へ行ったのだ。
ただ、青白い秀才ではない。生徒会長もやってたし、引きこもりの同級生には親身で付き合い、救い出したという。
「それを中学生用の本に書いたらいいのに」と言いました。ちくまや、イーストプレスが出てるし、そこで、やってみたらどうですか。
帰って、原稿。遅れて、せかされてるのが沢山ある。朝方まで仕事をする。
ヤバイ! 遅れちゃうよ。午前10時15分、羽田発だ。これじゃ、乗り遅れるな。次の便に変えてもらうのか。キャンセルして新しい切符を買うのか。「遅れる」と札幌に電話しなくっちゃ…と、パニックになった。
走って行って、5分前に飛行機に駆け込んだ。間に合って、あとは安堵して、爆睡。11時40分、千歳着。そこからバスでホテルに。
午後1時半、柏艪舎の山本代表、可知さんと打ち合わせ。
それから、3時、北海道新聞社に行く。取材の約束をしてたので。5時まで、インタビューに応じた。
すぐに柏艪舎に行って、今日のゲスト・杉村さん、司会者と打ち合わせ。
6時から始まる。「鈴木邦男シンポジウムin札幌時計台」だ。初め私が10分、挨拶。(新選組・永倉新八のひ孫)杉村和紀さんがゲストだ。
杉村さんが、1時間講演。スライドを使いながら、自分のルーツ。そして、今の新選組の子孫たちの話をする。
又、全国で行われている「新選組まつり」「新選組サミット」の現状を話す。
さすが、ひ孫だけあって、新選組については詳しい。永倉だけでなく、一人一人の隊士の生き様の話をする。
その後、2人でトーク。とても楽しかったし、勉強になりました。
「福原ホテル」にも絵があるというので、行く。車で1時間半。福原ホテルを見る。
ホテルの中に、立派な美術館がある。神田の作品もあった。近くの然別湖(しかりべつ湖)を見る。今日は、「美術館鑑賞」デーでした。
夜、東京に帰る。
10時頃まで、熱い討論が闘わされた。私は、後半の部に参加した。
出演者は…。香山リカ(精神科医)。佐高信(評論家)。雨宮処凛(作家)。安田浩一(ノンフィクション・ライター)。山田健太(専修大学教授)。有田芳生(参議院議員)。小林健治(にんげん出版)。綿井健陽(ジャーナリスト)。そして私だ。
山本太郎さんも突如、指名されて、挨拶してました。
各パネラーが発言し、それを巡っての激論になったりし、大いに沸いた。
終わって、駅近くの居酒屋で飲む。
午後6時、浦和に行く。東口・パルコの9階会議室。「9条の会さいたま」で講演をする。
〈憲法改正と集団的自衛権〉。
学生時代から読んでいて、感動した。学生時代から、ずっとカミュを読んでた。『ペスト』『異邦人』…と。それで、カミュの原作が映画化され、嬉しかった。「ありがとうございます」と言っちゃった。
この後、5時半。早稲田奉仕園に行く。「東アジア反日武装戦線と私たちの来た道、行く道」。5年連続で、今年は第3回〈「狼」の誕生〉。超満員で、立ってる人が大勢いました。
終わって、打ち上げ。
①6月7日(日)午後2時から、「前田日明ゼミin西宮」。いつもの会場では入り切れないので、その4倍の人が入るホテルで行われました。ゲストは田原総一朗さん(ジャーナリスト)です。
2人は初対面だそうです。一体どんな話になるのか、興味があって、私は西宮まで聞きに行きました。朝の新幹線で行きました。
⑥前田さんに、サインを求める人や、握手を求める人で、長蛇の列でした。私たちも並びました。
あれっ、左の人は同じ町内の寅さんですね。私の傍の、中野区上高田5丁目に住んでるそうです。
でも、東京で会ったことはありません。大阪、姫路、札幌などで会ってます。遠くまで、私らの話を聞きに来てくれるんです。ありがたいです。今度、対談したいですね。
⑪「新選組ひ孫」の奥さんです。美人です。お母さんは、「ミス北海道」です。「新選組・ひ孫の愛と結婚」という本を出せばいいじゃないか。と皆に言われてました。
杉村和紀さんが柏艪舎から『新選組・ひ孫が作った永倉新八の本』を出しました。そこに勤めていた「ミス柏艪舎」を見そめて、結婚したそうです。
⑰このあと、鹿追町の展望台に行ったら、何と、キタキツネが近寄ってきました。何も食べ物を持ってなかったので、すみません。
このあと、子ギツネも現れました。サファリパークのようです。いいですね。さらに、然別湖(しかりべつこ)に行き、ホテル福原に行きました。そこにも、神田日勝の絵がありました。
⑱6月10日(水)は、夜9時発の飛行機で帰京しました。今回は、札幌時計台で新選組の話をし、神田日勝美術館に行き、とても充実した2日間でした。
「頑張ったね」と言って、ごほうびをあげました。私が私に。空港のレストランで、3800円の「函館丼」を食べました。ビールも飲みました。一人で。
㉚講演の後、ご挨拶しました。「昔、産経新聞社に4年間お世話になりました。ご迷惑をかけて本当にすみませんでした」と謝りました。「あっ、鈴木さん」と覚えてました。社長さんは1971年入社。私は1970年入社です。
㉝増田都子さんの衝撃的な本が出ました。6月15日発売です。『昭和天皇は戦争を選んだ!』(社会批評社)。私は推薦文を頼まれ、帯に書きました。怖い本ですが、頑張って書きました。
これからの日本にとって、改憲問題にとって避けて通れない問題です。又、日本の歴史、これからを考える上での「教科書」になるでしょう。