「一水会43年の歴史。そして戦後70年について」。これがテーマだ。
8月10日(月)、一水会フォーラムで講演をした。
8月1日、一水会顧問を辞めた。8月2日の「生誕祭」では、そのことを発表した。
そして、8月10日、「元顧問」として自省をこめて、「一水会43年の歴史」について話をする。
一水会の歴史については、今まで、何度も話してきたし、書いてきた。
でも、この日は、思い切って、分かりやすいように10年ごとに区分して説明した。
それに、「右翼」という言葉についても。その「歴史」と、「訣別」について話しておこうと思った。
歴史学者になったようなつもりで、メモを作った。
そうだ。写真も入れて、当日は、皆に見せて、パワーポイントを使いながら説明しよう。スルスルと伸びる光の棒で、皆に説明する。
うん、格好いい。と思って、一水会事務局に聞いたら、それをやる設備がないという。
仕方がない。じゃ、ホワイトボードに手書きで書こう。
そうだ。いつもの一水会フォーラムは学者や政治家など、この国を動かしている超有名な人ばかりが講師だ。
でも今回は、「元顧問」で、「貧困老人」で、もう「終わった人」だ。
誰が行くもんか。と申し込みも全くないだろう。スタッフを含めて、5人か6人位じゃないの。だったら、近所の喫茶店で話したらいいじゃないのかな。と私は提案した。
そしたら一水会事務局の女性が憤然として言う。「何を弱気なことを言ってるんですか。もう70人以上も申し込みがありますよ。当日、来る人は立ち見です。あるいは断らなくっちゃ…と、悩んでるとこですよ」と。
「レコンを読んだ人や、『マガジン9』を読んだ人も、ぜひ聞きたいと問い合わせが殺到してます」。
あっそうか。「マガジン9」に連載を持ってるんだ。私は。
そこに「一水会顧問を辞めた」「一水会は右翼をやめた」と書いた。それがかなり反響を呼んだという。
福島、大阪、和歌山からも申し込みがあるという。
エッ、そうなのか。信じられなかった。
8月10日(月)、午後6時にホテルサンルートに行く。
7時から始まるが、少し前に行って、木村代表と1F喫茶店で打ち合わせだ。「自虐的にならずに、堂々とやって下さいよ」と言われた。
6時20分、「じゃ、行きましょう」と、会場に行く。
講演は7時からなんだが、6時半から、「事務局による活動報告」がある。
いつも報告する事務局長は、体調を崩して欠席。木村代表自らが、「活動報告」をする。私は、後ろで座って聞いていた。
入って驚いたが、部屋は満員だ。100人近くがいる。
木村代表は、衛藤晟一総理補佐官と会って、建白書を提出したことを話している。
レコンキスタ8月号の一面にもこれは出ていた。「安倍内閣は“軍旗を弄ぶな”=総理補佐官と意見交換。建白書を提出=」と題して書かれている。写真も出ている。
この衛藤晟一氏は、昔の民族派学生運動の仲間だ。
1960年代後半、全共闘と闘った。日学同。そして生学連を中心とする全国学協。
他に、日本学生会議など、右派学生運動があって、活発に闘っていた。
日学同、全国学協の中から、三島由紀夫の「楯の会」に移った者もいた。
私は全国学協の初代委員長だった。副委員長は(後に国会議員となる)井脇ノブ子さん。
そして、衛藤氏は執行委員だった。そこに長崎大学の自治会をやっている安東氏。犬塚氏などが入っていた。
ところが私は、無能で、指導力がないために、1ヶ月でパージされてしまった。そんな屈辱の歴史を思い出してしまった。
ところが、私を追い出した人たちとも今は仲がいい。それは、「三島事件」が起こり、その後、昔の仲間たちが再び集まってきたからだ。
「三島・森田のあとに続こう」。この大きなテーマの前に、かつての内ゲバや、「委員長追放」などは吹き飛んでしまったのだ。
三島事件の影響は大きい。特に、森田必勝氏だ。三島と共に森田氏が自決した。
この衝撃は大きかった。我々が森田氏を運動の世界に引き込んだ。
引き込んだ「先輩」たる我々が、何もしてないのに、「引き込まれた」「後輩」の森田氏が日本を憂い、日本青年を代表して自決した。
申し訳ないと思った。疚しかった。
その思いで、昔の運動仲間が集まってきた。
そして、1972年に一水会ができる。
初めは、運動出身者のサラリーマンの「勉強会」だった。それが、どんどん若い人たちが入り、行動的な団体になる。
1974年に私は勤めていた会社をクビになり、運動に専念する。
1975年に『腹腹時計と〈狼〉』を出し、もの書きとしてデビューする。
この本が機縁になって、左の人たちとも知り合う。
太田竜、平岡正明、竹中労、遠藤誠、千代丸健二…といった人々だ。
その中で、「もう、これは旧い右翼とは違う。“新右翼”と呼ぶべきだ」とライターの猪野健治さんが言い出して、「新右翼」と呼ばれることが多くなる。
そして、野村秋介さんと知り合い、「新しい日本を創る青年集会」運動をする。
しかし、2年後、野村さんは経団連事件を起こし、全国に衝撃を与える。
8月10日(月)の一水会フォーラムでは、この頃を、こう説明した。
1960年代は、「準備期。でも躍進期」だ。民族派学生運動を思い切りやった時代だった。この闘いが後の(1972年)一水会結成を準備した。
そして、「1970年代」。これは、「三島由紀夫と野村秋介の時代」だ。二人の思想戦争に導かれて闘った時代だった。
そして、「1980年代」。これは〈嵐の時代〉だ。左翼との接触の中で、我々も反体制・反警察的闘志が漲り、かなり危ない闘いに突入した。
右翼の決起も多発し、日本民族独立義勇軍などの火焔瓶闘争も続いた。
そして、朝日新聞社が襲われ、記者が殺される事件が起こった。
〈赤報隊事件〉だ。「犯人はこいつらだ!」と我々は特に警察に目をつけられた。
又、見沢知廉氏らを中心にした「スパイ査問・リンチ殺人事件」も起きる。これで我々は徹底的に弾圧された。
「一水会はもう終わった」と思ったこともあった。冬の時代だったし、嵐の時代だった。
そして、「1990年代」。「朝生と言論闘争の時代」だ。
昭和から平成に替わり、その初めに、本島長崎市長が右翼の人に襲われる事件があった。
「天皇に戦争責任がある」と語った本島市長に怒っての行動だった。「右翼テロを許すな!」の声がマスコミに溢れた。
その中で、「朝まで生テレビ」は、「日本の右翼」を特集した
テロをやる右翼を呼び、その言い分を聞く。そして、左翼、学者と論争させる。
右翼にとっても〈生〉で、国民に喋るというのは全く初めてだった。
この歴史的な場に私も出た。木村代表、四宮氏も出た。他に4人。計、「7人のサムライ」が右翼として出演した。
これが、「言論」としての右翼のスタートだった。
それから、いろんなテレビ、新聞、週刊誌で取り上げられるようになる。
〈1990年代〉の闘いが、「今の一水会」を作り上げていった。
そして、「2000年代」。これは「木村新体制の時代」だ。
前年、1999年に私は一水会代表を辞めた。国旗国歌論に関連して、いろんな失敗があり、失言があり、それを右翼の人々に責められた。
その責任を取る意味でも、私は代表を辞め、木村氏に替わってもらった。
そして、「2010年代」は、「国際的飛躍の時代」だ。
10年ごとに一水会も大きく変わり成長してきた。そのことを説明したのだ。
私は、1972年から1999年まで、一水会代表だった。27年間だ。
さらに、2000年から2015年までは一水会顧問だ。そして今は、肩書きはなしだ。
8月10日に講演し、その後、質問を受けた。
かなり突っ込んだ質問もあった。
「毎月の一水会フォーラムには出てくるんですか?」というのもあった。それは出ますよ。顧問を辞めただけで、一水会を辞めたわけではない。一会員として、毎月、参加します。
又、「一水会の方向転換」について、他の会員たちは皆、納得してるんですか? 反対し、分離独立する人はいないんですか?」という質問もあった。
これは全く予想外の質問だったので驚いた。
つまり、木村代表は、「脱右翼宣言」をして、これからは「右翼」と名乗らないと言った。「独自活動宣言」だ。
それに対し、若手会員たちは納得してるのか。「冗談じゃない。そんなら一水会を辞める。自分で右翼団体を作る」。「他の右翼団体に移籍して活動をする」という人はいなのか。
これは「元顧問」ではとうてい分からない。木村氏に答えてもらった。
「反対はあるかと思ったが、全くありませんでした」と木村氏はキッパリと言う。
又、この日、参加していた一水会の幹部、若手にも発言してもらったが、皆、「木村代表の決定を支持してます」と言う。
木村代表の「独自活動宣言」が出るまでには、一水会の幹部、若手の間でかなり話し合いが行われたのだろう。そのことが感じられた。
又、ある一水会幹部は、「今、船戸与一の対談集を読んでます」と報告していた。
冒険小説を沢山書いているし、「ゴルゴ13」の原作もいくつか書いている。文化・文明史に斬り込む角度や、深い洞察を持った小説を書いている。
最近、亡くなったが、最後は『満州国演義』という長大な小説を書いている。最後のライフワークを完成してから亡くなった。これは、ぜひ読んでみようと思っている。
この一水会幹部は、この船戸作品が好きで、かなり読んでいる。
特に好きなのは、1990年代にいろんな人と対談している『諸士乱想』だ。「その中で、鈴木さんとも対談してます」と言う。
「今日の話とも同じですし、昔から考えは一貫しています」と言う。
エッ? そうだったのか。どんな話をしたんだっけ。でも、船戸与一さんを読んでくれてるのは、嬉しい。
実は、船戸さんが入院してる時、「話があるので来てくれ」と言われていた。
すぐ行くつもりだったが、容体が悪化して、見舞いができなかった。
側近の人に聞いたが、次の作品の話だったという。
『満州国演義』を書き上げ、次は天皇制について真正面から向き合って考え、書いてみたい。それを最後の作品にしたい。
「そのため、第1回に鈴木さんと会って対談したい」と言う。
私ごときでいいんですかね、と思いながらも快諾した。
退院したら、すぐに取りかかろう。と言っていた。
でも、その対談は実現されなかった。残念だ。
船戸さんは、膨大な量の小説、ノンフィクション、紀行文を書いている。
ペンネームをいくつか持って、各分野ごとにペンネームを使い分けて書いている。
アメリカの成り立ち、インディアンへの侵略の歴史を書いた『叛アメリカ史』などの根元的な文明史もある。
「これは凄い」と昔、太田竜さんなどか絶讃していた。
それで私も読んだことがある。
対談集では、他に若松孝二さん、(グレートジャーニーの)関野吉晴さん…などとも対談している。
では、一水会フォーラムの報告はこれで終わりだ。
そうだ。フランスが作ったドキュメント『天皇と軍隊』を記者クラブの試写で見たという人がいた。
いろんな人が出て、インタビューに応じている。
ジョン・ダワー、ベアテさん、中川昭一さん、そして、木村代表、私も出ている。私は三島事件についてコントしている。
「それが、とても短くて断片的で、言いたいことがあったんだろうが十分に伝わってない」と言う。
インタビューなんだから、そんなことはいくらでもある。一時間取材されても、「どこをとるか」「どこを流すか」は、向こうの裁量だ。それは仕方がない。
「十分ではない」「言いたいシーンが削られた」といった不満はいつだってある。それは覚悟しなくてはダメだ。
その上で、こちらが喋る工夫をしなくてはならない。木村代表も、そう言っていた。
又、「今度、その上映会で監督と対談してますので、不十分なところは、その時に補足しておきます」と言った。
その『天皇と軍隊』だが、8月8日からポレポレ東中野で絶讃上映中だ。これこそ、「絶讃」上映中というのだろう。
「一週間限定上映」だ。毎日、1回、3時40分から上映。上映後、1時間のスペシャルトークがある。
ところが、この1週間分が、全て完売なのだ。
私はDVDをもらって事前に見ているが、フランスで上映されたものだ。フランス語のナレーションで、日本語の字幕はない。
当日、トークの前に、見たらいいやと思っていた。
でも、数日前に電話したら、「もう席がありません」。「えっ、トークに出るんですけど」と言って、配給会社に掛け合ってもらい、ようやく、席を確保できた。
他に行く予定だった人は、「立ち見も含めてありません」と断られた。
当日、8月12日(水)、行って驚いた。もの凄い人だ。
何人かに声をかけられた。「満員で入れないと言われたんですが、何とかなりませんか」。「無理ですよ。トークする私でも、やっと入れるんですから」。
随分と多くの人が入れなくて帰った。何十人といる。
1週間のトークは、渡辺監督と、7人のゲストが話す。高橋哲哉、小森陽一、小熊英二…などだ。
他の有名な人たちの日はすぐに完売だ。「鈴木の出る日は空いてるだろう」と、二次、三次の希望の人が申し込んだんじゃないのか。
そのあおりで、私の日も即、完売になった。通路にも座り込んでいる。スクリーンの直前にも座っている。
凄い。こんなに混み合ったポレポレは初めてだ。
フランスから見た日本の戦後、再軍備、天皇制が残った日本の戦後。再軍備、天皇制の変遷が描かれる。そして内外の学者、活動家などが取材に応じる。
とてもいい映画だ。考えさせられる。〈天皇制〉の問題を、これだけ真正面から捉え、論じる映画は、日本では、なかなか作れない。又、作ってもそれを紹介、論評する場も少ない。躊躇する。
実は、これは6年前に作られた映画だ。フランスを初め、ヨーロッパなど全世界で上映された。
しかし、日本では上映されなかった。TBSで夜中に、短縮して放送されたという。
今回、完全版が上映だ。「6年前に作ったものだし、派手な映画でもないし」と思い、そんなに人も来ないだろう。と思ったようだ。宣伝もしてない。
しかし、「この映画は凄い」と認める人も多く、又、1週間の豪華なゲストも興味をひいた。それで、即、完売になった。毎日、大変らしい。
又、映画のあとのトークも、監督と2人で1時間、じっくりと話をする。
普通、映画のトークといったら、15分か20分位だ。次の上映の邪魔にならないように、コンパクトにやる。
しかし、ここでは、1時間だ。こんな長いのは初めてだ。
監督はフランスに今は住んでいる。「フランスではどう見られたか」など、私からも質問をした。
監督はからは、右翼の「天皇観」「愛国心」などについて、聞かれたので話をした。
監督とは6年ぶりだ。「この映画に出てもらった時です。あの時はフランス人のクルーだったと思います」。
そして、この日は、打ち合わせもなく、すぐに壇上でトークだった。
映画館のトークというよりも、大学の授業か、ゼミのような感じだった。
今のフランスの政治情況や日本の「右傾化」を含め、かなり、詳しく話をした。とても勉強になった。
今月は、23日(日)に、もう一つ映画のトークがある。
「ひとりひとりの戦場」だ。元・ゼロ戦ファイターの話が中心だ。今だからこそ、聞くべき、貴重な証言だ。
18日(火)には代官山で、GHQのフィルムを見ながらのトークもある。
26日(水)は、『ふしぎな君が代』をめぐるトーク。
29日(土)は見沢知廉についてのトークだ。アーチャリーも見に来るというから、一緒に話をしてもらおう。
9月12日(土)は新発田で大杉栄メモリアル。
又、9月19日(土)は大西巨人の『神聖喜劇』をめぐるイベントだ。
全5巻のうちの、まだ1巻の半分しか読んでない。早く、読まなくちゃ。
でも、いいですよね。こうやって本を読み、人の話を聞いて勉強できるのは。と思います。
何度も引用しますが、ガンジーは言ってます。
「明日死ぬ覚悟で今日、生きなさい」「永遠に生きるつもりで勉強しなさい」。
そうですね。何才になっても「小学校1年生」だ。と思い、勉強しますよ。
最後にちょっと付け加えるが、8月13日(木)のロフトプラスワンは、よかった。「高須基仁プロデュース」だが、とても真面目だし、真剣に、平和と戦争について考え、議論した。
〈戦後70年。今こそ新渡戸稲造を語る!〉だ。新渡戸の『武士道』はよく知られている。しかし、まだまだ評価が低い。もっともっと論じられるべきだ。
それに、新渡戸の国連時代の話や、台湾時代のこともしらない。最近、テレビで、「新渡戸稲造の台湾」を作り、放送されたその映画の主演をやった城戸裕次さんがロフトに出た。それに、新渡戸の子孫のアクア新渡戸も出た。
これはぜひ聞きに行かなくちゃ、と行ったら、私も壇上に上げられた。
ゲストだが、私も、一生懸命に質問した。とても勉強になった。〈武士道〉について、もっともっと勉強しなくっちゃ。
そして、本を書こうと思っている。その意味でも、とても勉強になったロフト集会だった。人は少なかったが、本当にもったいない話だ。
でも、別に多くの人に聞かせなくていい。関心のある人、勉強したい人がいればいい。
こんな有意義な集まりは、又、やってほしいと思った。
新渡戸の映画は、8月22日(土)午後2時からBSフジでやる。ぜひ見て下さい。私は少し見たが、実に感動的な映画だ。
新渡戸について全く知らなかった。と反省した。
途中から私も呼ばれて壇上に。皆で、『武士道』や平和の精神について話をした。とても勉強になったし、有意義だった。
⑫8月13日(木)午後7時半。ロフトプラスワン。「戦後70年。今こそ新渡戸稲造を語る!」。第1部。(左から)アクア新渡戸さん(新渡戸稲造のご子孫)。城戸裕次さん(俳優。新渡戸稲造映画で主演した)。TVプロデューサーの工藤哲人さん。高須基仁さん。
⑲では、これからは「生誕祭」(8月2日)の時の写真です。カメラマンの平早勉さんが撮ってくれたものです。先週のとは違って、迫力があるし、とてもきれいですね。中に入るとこです。ロフトの入り口には、こんな看板も…。
㉖アーチャリー。パンタさん。赤軍派の金さんです。金さんは大事件を起こし、指名手配になったのですが、全国を逃げ回り、何と「15年の時効」を逃げ切ったのです。そして今は堂々と社会復帰しています。偉い人です。世界遺産にすべきでしょう。