今年は三島事件から45年だ。事件を想起し、三島由紀夫氏、森田必勝氏を追悼・顕彰する集いが全国が開かれる。
11月7日(土)。三重県四日市市では、「森田必勝氏、追悼のつどい」が行われた。
四日市は森田必勝氏の出身地だ。午後2時から、四日市市民文化会館・第三ホールで行われた。多くの人が集まった。東京から来た人たちも多かった。
私らは午前中に四日市に着き、森田必勝氏のお墓参りに行き、その後、必勝氏が通った海星中学・海星高校を訪ねた。
そして「追悼のつどい」に出る。この日は最終で東京に帰り、11月10日(火)、札幌に行く。
一転、そこは冬だった。午後6時より、「鈴木邦男シンポジウムin札幌時計台」。
ゲストは蓮池透さん。テーマは「拉致問題解決への一つの提案」。
大勢の人が集まった。「拉致問題」がテーマだけに、マスコミの人も多く、始まる前、終わってからと蓮池さんは取材記者に囲まれていた。テレビ局も来ていて、この日の夜にHBCが放送していた。
又、翌日朝はNHKが放送していた。今週は四日市、札幌を中心に書いてみよう。
まず、四日市だ。三島、森田両氏が自決した11月25日とその前は、全国で多くの追悼・顕彰の集まりが行われている。憂国忌、野分祭、さらに東京、福岡などで行われている。
今年は事件から45年。そして戦後70年だ。その節目ということで、政治的に限らず、文学的な催しも多い。
ここ四日市での集まりは、今年で3回目だ。一昨年は、宮崎正弘氏、森田治さん(森田必勝氏のお兄さん)、私の3人が話をした。
昨年は、若松孝二監督の映画「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち」の上映が行われ、その後、満島真之介さんが登場した。
この映画で、「森田必勝」役で出た人だ。予定にも入ってなかったことなので、客席がどよめいていた。
一昨年も昨年も、「今年一回だけ」と思って行われた。
だから、これから定期的に続けるかどうかも決まってない。ただ。11月25日の前には全国から必勝氏のお墓参りに来る人が多い。だから、「『追悼のつどい』もやろう」ということで始まった。
今年は、評論家の宮崎正弘氏の記念講演だった。演題は「三島由紀夫・森田必勝とあの時代」。
宮崎氏は、早大で必勝氏と一緒に運動していた同志だった。学生運動を辞めてからは著作活動に専念し、実に200冊の本を書いている。特に中国問題には詳しい。
「いや、そんなに書いてませんよ。190冊です」と本人は言う。いろんな分野のものを書き、最近は中国問題でベストセラーを書いている。
又、事件の後、森田必勝氏の遺稿が発表された。『わが思想と行動』(日新報道)だ。
これは必勝氏の日記、行動記録、そして学生時代に書いた論文などをまとめたものだ。必勝氏を知る上では第一級の資料だ。
これを作ったのが宮崎正弘氏だ。事件の直後、宮崎氏は四日市の森田必勝氏家に飛び、出版の話をする。そして、必勝氏の日記を全て見せてもらう。四日間、泊まり込み、重要な部分は全て書き写した。
当時はコンビニもコピーもない。一つ一つ、ノートに書き写したのだ。大変な作業だ。そのおかげで私らも必勝氏の素顔に、又、内面に触れることが出来る。
この本を読んで、初めて知ったこともあった。
「エッ!必勝氏はミッションを出たのか!」という驚きもそうだった。海星中学・海星高校と6年間もミッションスクールに通ったのだ。
実は私も高校はミッションだった。東北学院榴ヶ岡高校だ。でも、そんな高校時代の話なんか、したことはなかった。2人とも、「あまり言いたくない」と思っていたのだろう。
必勝氏は、クリスチャンだったお兄さんの薦めで海星中学・海星高校に入ったという。
私は県立二高を落ちて、仕方なく行ったのだ。それに私は、高校3年の時、教師を殴り、一度は退学になった。
その後、教会に毎日通い、「懺悔の生活」をして、半年後、奇跡的に復学を許され、1年遅れて卒業した。いやな思い出ばかりの高校だ。
だから、〈過去〉に触れられたくなかった。
又、高校のことを聞きつけて、何度か、からかわれたことが多い。「ヘエー、ミッション出てるのか。右翼のくせに」と。
又、「ミッションって、女しかいないんだろう?」と聞く人もいる。だから、自分からは言わないことにしていた。
必勝氏にも、そんな体験があったのかもしれない。だから、お互い、言わなかったし、相手がミッション出身とは知らなかった。
知っていたら、いろんな話が出来たのに、と残念だ。
だからという訳でもないが、四日市に行った時は、必ず必勝氏の母校を訪ねている。
校門の外から見ているだけでもいいのだが、不審者と思われないように、挨拶している。
「たかじんで見てますよ。ぜひ中を見て下さい」と案内してくれる先生もいる。
去年は、校長先生がいて、案内してくれた。今年は、図書館にいた先生が、案内してくれた。
「まさかつさんのことはとても尊敬しています」と言う。
そして、『わが思想と行動』を持ってきた。又、他の人が書いた必勝氏の本も読んでるという。嬉しかった。
「学内を見せてもらうのは3回目だが、初めて来た時は不安だった。「あの事件には触れてほしくない」と拒絶されるのではないか。そう思っていたのだ。
だって、三島事件は、一般的には有名だ。しかし、「事件」だし、社会的には「犯罪」だ。
三島、森田氏は自決したが、一緒に行った「楯の会」の3人は逮捕され、裁判を受け、その後、刑務所に送られている。三島、森田氏も生きていたら、刑務所に入れられた。
だから、出身校としても、触れないでおきたい。そう思ってるのかもしれない。と、勝手に思っていた。
ところが違うのだ。3回行ったが、どの先生も、「まさかつさん」のことが好きなんだ。自分たちの学校の先輩として尊敬しているのだ。それを皆、口にする。
今年、学内を案内してくれた先生は、さらに詳しく話してくれる。学校の成り立ち。
さらに、又、この学校は新しく増築した部分が多い。「ここは1970年には、まだなかったところです」「あっ、ここはありました。まさかつさんが使ったはずです」と教えてくれる。
手洗い場、自転車置き場、近くの用水路と、そばの道。「ここを通って学校に来たんです」と。
「この校舎は昔からありました。1年は1階、2年は2階、3年は3階でした」。「まさかつさんも、ここで勉強しました。3階から見ると下の池がよく見えますね。この大きな鯉も当時からいたはずです。まさかつさんを覚えているのでしょう」と言う。
うーん、懐かしい、と私まで、懐かしくなった。
必勝氏がいた時に、一度、野球部は甲子園に行った。その時、「まさかつさんは生徒会長ですから甲子園に応援に行ったはずです」…と。今まで知らなかった高校の話をしてくれる。
お墓参りをし、学校を見て、そのあと、文化会館に行く。
広い会場はどんどん埋まっていく。昔、一緒に運動してた人。「楯の会」で一緒だった人も来てくれた。「憂国忌」を主催する三島研や日学同の人たちも東京から大勢で来てくれた。
必勝氏のお兄さんの森田治さんがまず挨拶をする。
そして、宮崎氏の講演だ。学生時代の話、必勝氏の活動について語る。又、事件後、必勝氏の『わが思想と行動』をまとめて出版した苦労話などを。
森田必勝氏は、昭和20年7月25日生まれだ。敗戦の20日前だ。でも両親は、日本の勝利を信じ、勝ってほしいと祈りを込めて「必勝(まさかつ)」と名付けた。そのことは知っていた。
でも、「いや、2つの案があったんです」と宮崎氏は言う。「『必勝』と名付けるか、『和平』と名付けるか」…と。
エッ! そうだったのか。「和平」だったら、右翼学生にならなかっただろう。我々も知り合いにならなかった。
だから、「『必勝』と名付けられた時から、彼の人生は決まったのです」と宮崎氏は言う。
その他、我々の知らなかった大学でのエピソード、闘いを紹介する。
とてもいい話だった。又、東京から来た元「楯の会」の人たちも思い出を語る。
中には、お母さんが防衛庁に勤めていた、という人もいた。
「総監室に乱入し、自決した」とニュースが流れた。後ろ姿がテレビに写り、「うちの息子に違いない!」とお母さんはビックリしたという。(本当は違ったんだが、そう思わせるものがあったのか)。
そうだ。この日、受付では、来た人に名前を書いてもらった。
「あっ! 同じ名前なんですか!」と大きな声が聞こえた。
何があったんだと飛んで行ったら、「高橋必勝」と書かれている。
まさか。でも、ここに来るくらいだから…。聞いたみた。
「森田必勝さんにあやかって付けたんですか」「そうです」と言う。
お母さんのお腹に入っていた時、三島事件は起きた。両親は感動し、「この子は必勝と名付けよう!」と思った。翌1971年生まれだ。
本当に「必勝」と名付けられた。偉い父母だ。
それに勇気がある。いくら感動したのでも、「事件」だし、警察からすると「犯罪」だ。その人間の名前を付けるなんて…。子供は悩むだろう。学校では、冷やかされるだろう。
そう思ったが、違う。それだけ、四日市の人々は優しいのだ。必勝氏を信じ、尊敬している。そう思った。
森田治さんの家には必勝氏の写真が飾られている。そして庭には、必勝氏の銅像が建てられてる。
「あの銅像はぜひ、四日市駅前に移してもらいたい」と宮崎氏が言っていた。「異議ナーシ!」と応える人も多かった。
四日市では、とてもいい集まりになった。又、昔の活動仲間にも沢山会った。
それから11月10日(火)だ。「鈴木邦男シンポジウムin札幌時計台」だ。
ゲストは蓮池透さんだ。テーマは、「拉致問題解決への一つの提案」だ。
何故、救出が遅れているのか。蓮池さんは、問題点をズバリと言う。何が救出のネックになっているのかも、指摘する。会場の皆は、「エッ? そうなのか」と疑問に思う。私だって蓮池さんと会うまでは分からなかった。北朝鮮の首領さまが認めて、返還を言っている。だから、すぐに実現するだろうと思っていたが、実現しない。
私は、単行本と雑誌で一回ずつ、蓮池さんと対談している。その他、ニコ生などでも対談した。
単行本は、『拉致2』(かもがわ出版)だ。実にいい本だ。蓮池さんが森達也さん、池田香代子さん、そして私と対談している。
じゃ、4人の座談会か、と思うかもしれないが違う。一人一人と対談したのだ。だから、4人と話し、4つのブロックに分かれている。
〈第一章〉は「国家という怪物と拉致問題」(池田香代子氏との対談)
1.ゆがんだ軌道に乗っていく
2.民主党政権で拉致問題は変わるか
3.拉致問題と「個人と国家」
〈第二章〉は、「右も左もいっしょにやればいい」(鈴木邦男との対談)
1.違和感のなかで
2.「一時帰国」と拉致家族
3.北朝鮮とどう話し合うか
〈第三章〉は、「『拉致』解決への道を探る」(森達也氏との対談)
1.硬直状態を何とか打破したい
2.「拉致」の周辺にある北朝鮮の問題
3.北東アジアの危機を救うべき方法を考えよう
3人とも、必死になって、本書で語っている。
この本の帯には、「複眼的な対話から、解決策が見えてくる!」と書かれている。
その通りだ。時計台に行く前に、まずこの本を読み返し、その時の問題点を思い出しながら、再び蓮池さんに聞いた。
あの時とは蓮池さんは「立場」も変わり、今は、もっと自由だ。だから、思い切った発言もある。その意味では、かなり深く入り込んだ話になった。
そして、「我々一人一人は何をしたらいいのか」という会場からの質問にも、具体的なやり方をいくつか挙げていた
。多分、そうした斬新な方法論が今まで提示されてなかったからだろう。
又、今までずっと「家族会」の事務局長をやってきた蓮池さんの言葉だけに説得力がある。
抽象的な話はしない。具体的な話を、次々とする。
又、人名も出して、はっきりと断言する。拉致問題を解決するのには、これしかないと勇気をもって提言する。
この日は多くのマスコミ人も来て取材していた。そして、この日の夜のHBCのニュース、翌朝のNHKのニュースでも大きく放送していた。
こんなことは今までなかった。それだけ、この問題は、焦眉の課題だろうということだ。そして、身近な危機なのだ。そう痛感した。
6時から、札幌時計台ホールで講演。私が開会の挨拶をし、まず蓮池さんが1時間、講演。「拉致問題解決への一つの提案」。そしてトーク。又、会場からの質問を受ける。テレビ局をはじめ、取材の人も多かった。
このあと、近くの居酒屋で打ち上げ会。和歌山から下中さん。東京から寅さんが来てくれた。蓮池さんを囲んで、遅くまで話が盛り上がりました。
時間は遅れたものの、東京に無事に着く。家に帰って、たまってた仕事をする。
〈いま、最注目の政治学者が、日本の“隷従の空気”を破壊する!〉。
そして、
〈気分はもう、焼き打ち〉
凄い。「焼き打ち」か。この人は、『大杉栄伝』で、第5回「いける本大賞」を受賞した。新発田の「大杉栄メモリアル」でも講演してくれた。私も聞いた。優秀な若手学者だ。この本を生徒と読んで考える。
そのあと、平野啓一郎さん、芥正彦さんの講演を聞く。とても刺激的だし、素晴らしかった。
午後の部が終わり、3人に挨拶して、いろいろと話した。夜の部も聞きたかったが、先約があって池袋へ。
高木尋士さんが主催する「読書会」に出る。この日は特別ゲストも参加していた。『イスラエル』(岩波新書)を書いて話題を読んでいる臼杵陽さんだ。とても勉強になりました。アーチャリーも来てました。
㉓蓮池さんの対談集の『拉致2=左右の垣根を超える対談集=』(かもがわ出版)。蓮池さんが、森達也、池田香代子、鈴木邦男と対談しています。
〈複眼的な対話から解決策が見えてくる!〉と、帯には書かれています。