今年は三島事件から45年。そして戦後70年だ。節目の年だ。
それで多くの本が出てるし、新聞、テレビでも特集がやられている。
たとえば、産経新聞では、25日の前に3日連続で三島事件を取り上げ、その後の「楯の会」を追って取材していた。なかなか、いい記事だった。
驚いたのは、11月24日(火)のテレビ朝日「報道ステーション」だ。
その中で、こんなコーナーがあった。
「あの衝撃の自決から45年…いま考える三島由紀夫が訴えていたこと」。
実にいい番組だった。元「楯の会」の本多清氏、それに伊藤邦典氏が出ていた。本多氏は奥さんと一緒に出ていた。
奥さんは、「あなたは本当は三島先生と一緒に死にたかったのよね」と慰めている。
本多氏は、結婚が決まってたんで、決起メンバーから外された、と思っている。
三島事件は1970年11月25日だ。本多氏は71年春に結婚が決まっていた。三島氏に媒酌人をお願いした。「そうか、おめでとう」と言って即座に承諾した。
11月25日に自決するんだから、三島にとって、71年はない。行けるはずがない。
ところが少しでも躊躇したら怪しまれる。それで、すぐに、「分かった。いいよ」と言ったのだ。本多氏も何ら疑わなかった。
そして11月25日に事件は起こり、本多氏は取り残された。
その直後、三島から、詫びの手紙が来る。約束を守れなかったことへのお詫びだ。
「結婚すると言ったので俺は外された」と悔やんだ。テレビに出た奥さんは、そのことを言ったのだ。
又、70年3月31日に、「よど号」ハイジャック事件が起こる。
それをテレビで見た三島が、本多氏に電話を寄越した。そして言った。
「先を越された」と。
本多氏は何のことか分からない。三島は11月25日の決起のやり方を考えていた。「日本刀による決起」しかないと思っていた。それをやられたのだ。
こんな重要なことを三島は口走っていたのに、自分は気が付かなかった、という悔いが残った。
さらに、「楯の会」の初代学生長の持丸博氏が辞めて、次に森田必勝氏が二代目学生長になった。それが大きなターニングポイントになる。
森田氏は、思い詰めていたし、焦っていた。もし、森田氏でなかったら、あの事件は起きなかった。少なくとも、もっと別の形になっただろう。
これは本多氏が一番よく分かる。だって、二代目を決める時、三島が即座に森田氏を指名したと思っていた。
ところが違う。本多氏と森田氏の2人が呼ばれた。そして、「お前たちのうち、どちらかが次の学生長になれ」と言われた。(先輩ですから)「森田さん、どうぞ」と本多氏は言った。それで決まった。
もしあの時、自分が「学生長をやらして下さい」と言って、やっていたら、2人を死なせることはなかったのに、…という悔いは残る。
でも、〈決起〉は、大まかなところは決まっていた。自分は結婚を控えていたので決起メンバーから外された。そう思って、ずっと悔いていたのだ。
このことは、若松孝二監督の映画にも出ている。「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち」だ。
今まで、いろんな本や映画などは、「三島」の側からだけ、撮っている。
しかし、これは「三島と若者」、もっと言えば、「若者たち」の側から撮っている。
若者たちが思い詰め、むしろ三島を突き上げる。そんなシーンが多い。
本多氏にとっても辛い映画だろう。自分もそこにいるはずだった。それなのに、あの日、自分は食事をしていた。そして、テレビで初めて知る。何で俺はここにいるんだ、と嘆く。そのことを映画の公式パンフの中で書いていた。
それらの全てのことが、凝縮して今年11月24日のテレビに出ていた。奥さんの言葉が、象徴的だった。
又、伊藤邦典氏も出ていた。
彼は、神奈川大学の学生だった。生長の家の学生運動をやっていた。同時に「楯の会」にも入っていた。
そして同じ学校の古賀浩靖、小賀正義を「楯の会」に誘う。
この2人は、11月25日の決起の日に、市ヶ谷に行った人間だ。邦典氏も、「取り残された」と思ったのだ。邦典氏の弟は今、一水会の事務局にいる。
実は私は、邦典氏とは子供の頃からの知り合いだ。
小学校の1年の時、秋田市にいた。邦典氏のお父さんは「生長の家」の地方講師だった。
本部講師は本部に勤めるプロの先生だ。地方講師は、自分の仕事を持ちながら、「生長の家」の運動をするセミプロの先生だ。
このお父さんにうちの母が病気を治してもらった。当時、不治の病といわれた肺病だ。
それ以来、母は熱心な信者になる。そして、私が大学に入った時に、いい寮があるからと言って、乃木坂にある生長の家学生道場に私を入れた。
そこから私の「活動家」としての生活が始まる。その後、邦典氏も学生道場に入ってきた。
3年になって、私は学生道場の自治会委員長になる。
道場を「闘う学生運動の拠点」にしようと張り切っていた。
「楯の会」の初代学生長・持丸博氏も、よく遊びに来た。
持丸氏と部屋で話をしてた時、邦典氏が入って来た。お茶をいれてくれた。
邦典氏が帰って、持丸氏が言った。「あの男はいい。目が輝いている。『楯の会』にほしい。くれ!」と。
「いいよ、あげる」と言って、決まった。
邦典氏も三島さんのことは好きだったし、「楯の会」をやってみたいと思ったのだ。
そして、古賀、小賀を誘う。古賀氏が森田氏を誘う。
そして、運命の決起へと向かう。
邦典氏にしてみれば、「自分が、古賀、小賀を誘ったからだ」という自責の念がある。
誘われた3人は現場に行き、誘った自分は呼ばれない。「取り残された」と思った。
ちょっと話が飛ぶが、今年、11月14日に、「国際三島シンポジウム」に出た。ドナルド・キーン氏や芥正彦氏とそこで会った。という話は前にここで書いた。
その時、作家の平野啓一郎さんと会って話をした。「三島の再来だ」と言われた作家だ。三島の作品は全て読んでるし、事件のことも調べている。
「持丸さんが学生長を辞めたことが一番大きいんじゃないですか」と言われた。
彼が辞めなければ、あの事件は起きなかった。そうだろう。これは当の持丸氏も言っていた。
そして自責の念を持ち、悔いていた。持丸氏が辞めないで、ずっと三島の傍にいたら、事件は起きなかった。
いや、少なくとも、ああいう形では起きなかった。三島だけが一人で自決するとか、別の形になっただろう。
だから、「2人を死なせたのは自分だ」と持丸氏は思い、自分で自分を責めたのだ。
持丸氏の奥さんは現在、杉並区議会議員として活躍している。前に聞いた時、「持丸は70年11月25日で、時計が止まってしまった」と言っていた。
「三島さんと一緒に死にたかったんでしょう」と言う。
取り残された悔いと不幸を背負った男たちの物語だ。
実は、伊藤邦典氏、そして持丸博氏の結婚の橋渡しをしたのは私だ。
2人とも奥さんは「生長の家」の学生だった。
私は生学連という「生長の家」の学生部の書記長だった。学生道場の委員長もしていて、忙しかった。
生学連の中でも美しくて、信仰的な人を2人の奥さんとして紹介した。運動に理解のある伴侶を得て、2人はますます活動ができた。
しかし、そのことで、「決起から外された」と思うことになる。私のせいだ、と自責の念を持つ。
11月24日のテレビ「報道ステーション」を見ながら、そんなことを思った。
とてもいい番組だった。御手洗さんがこの番組にタッチしていたという。ありがたいと思った。
さらに、寺尾さんも出ていた。三島に斬られた人だ。
三島、森田氏らが益田総監を縛り上げて、「全員を庭に集めろ」と脅す。
その日、寺尾氏たちは近くで会議をしていた。異変を察して、部屋に入った。
総監は、ナイフを突き付けられていた。突き付けていたのは森田氏だ。
寺尾氏は剣道は上段者だし、歴戦のつわ者だ。だから知っていた。
小刀を突き付けたまま、突くことは出来ない。それでは力が入らない。いったん離して、大きく振り上げてから、胸を刺す。それで初めて突き刺せる。
「近づいたら刺し殺すぞ」という森田氏の声を無視して寺尾氏は近付いた。「よし!」と森田氏が小刀を大きく振りかぶった瞬間、森田氏に飛びついた。
そしてねじ伏せ、小刀を取り上げた。その時、三島から刀で斬り付けられた。
あくまでも威嚇だ。初めは小さく、寺尾氏も木刀で殴られたのかと思った。
森田氏を離さない。三島は焦って、二の太刀、三の太刀を浴びせる。
それで寺尾氏は昏倒した。皆は、「もうダメだ。殺された」と思った。
でも、救急車が呼ばれ病院に運ばれた。奇跡的に助かった。九死に一生を得た。
本当によかった。もし寺尾氏が亡くなっていたら、この事件は、単なる「殺人事件」になる。どんなに立派な檄文を書いたとしても、「殺人事件じゃないか」と言われてしまう。
キーンさんや平野さんと会った「国際三島シンポジウム」は11月14日の他にも、もう2日開かれている。世界中から三島の研究家が集まったのだ。
今年の11月は、かなり、様変わりした。政治的なものよりも、文化的・文学的なものが多くなった。
これは、より深く広く、〈事件〉が伝えられ、理解されることになる。その意味でも今年は格別によかったと思う。
さっきも言ったように、「戦後70年」のからみで、TVなどに大きく取り上げられた。
そうだ。平凡パンチの『三島由紀夫』を書いた椎根和さんの話も聞いた。
『三島由紀夫が来た夏』を書いた横山郁代さんと銀座のACTで対談し、さらに「三島に捧げる歌」をうたっていた。
他にも、文化的な対談や、シンポジウムなどが今年は沢山あった。
三島ファンにとってはたまらない11月になった。
私だって、慰霊祭、シンポジウム、トークなど、7つの集会に出た。1ヵ月に。それぞれ今年は、数多くの集まりがあったのだ。
11月24日はずっと「野分祭」をやってきた。2年前から名称を変えた。「三島由紀夫・森田必勝両烈士顕彰祭」だ。
第1部は厳粛な式典であり、第2部は記念講演だ。
元・航空幕僚長の田母神俊雄さんが講師で、「現代日本を予見した三島の檄文と洞察力」だった。
1970年の11月25日、この時は田母神さんは、防衛大学の学生だった。4年生だった。驚いたが、すぐには理解出来なかったという。
教官たちも動揺し、あらぬことを口走る教官もいた。
自衛隊と防衛庁も、この事件を認めない。自衛隊はもはや、外部からの誘いに応じて事件を起こすことはない。完全に平和憲法に合致した自衛隊になったのだ、と言っていた。
防衛大の学生も必死に考えた。悩んだ。
確かに外部から入って総監を脅迫して、全隊員を中庭に集めさせた。
だから初めは反撥した。三島は、何ということをしたんだ! と怒った。
しかし、2人は自決した。それをテレビで見て、これは決して売名ではない。少なくとも命を懸けていた。
その訴えは聞いておくべきだと思った。
そんな紆余曲折を経て、防衛大生は必死に考えた。
そのあと、田母神氏さん悩んだ末に、自衛隊を辞めた。今はガンガンと活躍している。
翌11月25日は、「憂国忌」があった。多くの「主張」がなされていた。村松英子さん、西尾幹二さん、 玉利齋さん、ケント・ギルバートさん…等々だ。
45年前の事件のあと、三島の奥さんは重傷者を見舞った。特に寺尾さんは、もうちょっとのとこで、死ぬところだった。
又、『平凡パンチの三島由紀夫』を書いた椎根和さんは、いろんなトークに呼ばれている。
銀座では又、やるという。
最後に本の紹介だ。岩波書店から全9巻の「ひとびとの精神史」が出ている。戦後70年を考える戦後の歴史だ。
11月25日にちょうど第5巻が発売された。第5巻は「万博と沖縄返還=1970年前後」だ。
これは特に人物にスポットライトを浴びせ、そこから〈歴史〉を書いていく。三島由紀夫、山本義隆、岡本太郎、田中美津、川本輝夫さんなどだ。
全体は三章からなっている。編集した吉見俊哉さんの「プロローグ」があり、Iは、「劇場化する社会」。Ⅱは沖縄=「戦後」のはじまり。Ⅲは「声をあげたひとびと」
Ⅰでは5人の人が取り上げられている。
1.三島由紀夫-魂を失った未来への反乱……鈴木邦男
2.山本義隆-自己否定を重ねて……最首 悟
3.岡本太郎-塔にひきよせられるひとびと……椹木野衣
4.牛山純一-テレビが見た「夢」……丹波善之
私の文章がトップだった。何か申し訳ない気持ちがしたが、光栄だ。
こうした歴史的な全集の中で、書かせてもらった。緊張し、頑張って書いたつもりだ。
これはとてもいい「歴史全集」になっている。第1巻から買って、読んでいる。とても勉強になるし、刺激される。
もう1冊は、北海道新聞社が59人の人々を訪ねて話を聞き、まとめて出した本だ。『私の戦後70年』(北海道新聞社)だ。
王貞治、日野原重明、ちばてつや、浅利慶太、安彦良和、アグネス・チャン…などだ。実にいい。そこに私も入れてもらった。
全国に記者が飛び、記事を書き、まとめた。これだけのものは全国紙でもなかなかやれない。
それを北海道新聞がやった。全国紙に対する挑戦でもある。
取り上げる人を59にしたのは、誰が決めたのか。編集長か、キャップだろう、と普通は思う。それが違うんだ。
こう書いている。
〈連載に向け、北海道新聞社の本社、支社、支局に、「記者として自分が取材してみたい」という候補を募ったところ300人にも達しました〉。
実に民主的なやり方だ。こんなことをして取材対象を選んでいたなんて、他ではない。凄い。
そして、そこから詰めて、100人に絞り、そして〈59人〉になった。
〈記者が思いを込めて取材した文章はもちろん、カメラマンが取材相手のバックグランドや雰囲気に合わせて撮影した写真も見どころです〉
まさに、そうなっている。「自分が取材したい」と声を上げた人が取材するんだ。やる気が違う。そんな画期的な本に入れてもらい、私も光栄だ。
私のとこの写真もいい。タイトルは〈「憎悪が生む『愛国』に怖さ〉だ。三島由紀夫の言葉を中心として話をした。うまくまとめてもらって幸せだ。
他にも書きたいことは沢山あるが、今回はこの辺でやめよう。
ともかく、今年の11月は、三島、森田の豊饒な月だった。素晴らしい企画があり、多くの人の話を聞き、とても勉強になった。
衝撃的であり、スリリングだった。精神的、文化的に、実に贅沢な1ヵ月だったと思う。
6時半から、ホテルサンルート高田馬場。「三島由紀夫・森田必勝両烈士顕彰祭。記念講演会」が行われました。
斎主・島田康夫さんの下で厳粛に顕彰祭、そして、第2部は田母神俊雄さん(元航空幕僚長)の記念講演。「現代日本を予見した三島の檄文と洞察力」。
1970年の三島事件の時、田母神さんは防衛大学の4年生でした。その時の衝撃。そして教官たちの動揺。又、学生たちはどう受け止め、どう変わっていったか。などについて話してくれました。貴重な講演でした。
終わって、近くの店で直会(なおらい)。ここでも田母神さんは大いに語ってくれました。熱烈な憂国の講演の中にも、持ち前のユーモアが出てきます。とても楽しかったです。とても勉強になりました。
㉑人間国宝の志村ふくみさんの展示会「あめつちの詩(うた)」が、浅草「茶寮一松」で行われました。11月21日(土)、行ってきました。素晴らしい作品でした。着物のこと、日本文化のことをいろいろと教えてもらいました。