今週も、あわただしかった。早く書け、と催促されてる原稿があるのに、じっくり書く時間がない。激動の〈昭和史〉が集中して襲ってくるようだ。
袴田事件のドキュメンタリーができて、見てきた。衝撃的だった。
48年も獄中で頑張るなんて、とても我々じゃできない。
冤罪の人を、48年も拘置したなんて、国家権力は酷い。残酷だ。
又、今、「イスラム国」の問題が世界を騒がせている。その問題をきちんと語ってくれるのはこの人しかいない。
中田考さんだ。中田さんに会って、話を聞いた。
又、「安保法制」のトークを聞きに行った。さらに、ロフトラジオに初出演し、平野さん、塩見さんたちと激論をかわした。
又、議員生活20年の辻元清美さんの会に出た。
民主は勿論、自民から共産党まで、皆が皆、辻元さんに熱い視線を送っている。この人の行動を見つめている。山崎拓さんだって、「期待している」と祝辞で言っていた。
今、国会で最も存在感がある議員だ。
去年12月、その辻元さんの選挙の応援に私は行った。辻元さん「圧勝」に少しでも貢献できたことは幸せだ。
そのパーティの写真をまず見てほしい。
そして本文は、「国際三島由紀夫シンポジウム」から始まる。「三島事件から45年」。
考えることはまだまだ多い。
〈生誕90年。没後45年。国際三島由紀夫シンポジウム2015〉で、ドナルド・キーンさんに会った。
そのことは前にも書いたし、「マガ9」でも書いた。もう一度書こう。「続き」だ。
11月14日(土)、15日(日)、22日(日)の3日間行われ、私は14日(土)に参加した。
キーンさんの他、平野啓一郎さん、芥正彦さん、四方田犬彦さん、松本徹さんなどにお会いした。
昼食休憩は12時から1時20分まで。
講師や関係者は別館で。私も昼食会に誘われ、キーンさん、平野さんたちとお話しできた。光栄だったし、嬉しかった。
キーンさんの名刺は表に、大きく、漢字でこう書かれている。「鬼怒鳴門」と。
「きど・なると」ではない。振り仮名がふってある。「キーン・ドナルド」と。
そうか、これが三島との書簡で使われていた名前か。ご本人も気に入って使っているんだ。
「三島さんとの書簡集は何度も読みました。特に最後の手紙は衝撃的でした。三島さんがあそこまで書けるのは、キーンさんを一番信頼していたからだと思います。心を許していたんだと思います。
それにキーンさんの翻訳があったので三島さんは〈世界の三島〉になったと思います。日本人の一人としてキーンさんにはお礼を言いたいです」と私は言いました。
キーンさんは大の親日家だ。
3・11東日本大震災のあと、日本の国籍を取り、日本に住んでいる。
キーンさんの名刺は表(どっちが表か分からないが)に「鬼怒鳴門」と書かれている。裏には「ドナルド・キーン」と書かれ、日本の住所が書かれている。
肩書きは、こう書かれている。「コロンビア大学名誉教授。日本文学研究者」。
三島がキーンさんにあてて出した手紙は全てが発表されている。2冊の本で読むことができる。
一つは、『三島由紀夫未発表書簡=ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社)だ。
1998年5月25日に出版されている。昭和31年(1956年)から昭和45年(1970年)までの14年間の書簡全てだ。
この時点では、これが「未発表書簡」だったし、読んだ人の驚き、衝撃は凄かった。
その後、「全集」の中に再び発表される。『決定版・三島由紀夫全集』(全42巻)の中の第38巻に収められている。
第38巻は「書簡」だ。「書簡」だけで1冊になってるし、何と、1011ページもある。
大判で表紙も硬い。重い。手に取ると、まるで、ダンベルを持ったようだ。
この「38巻・書簡」は、2004年3月10日発行だ。膨大な数の手紙だ。150人ほどに宛てた手紙だ。
キーンさん宛ての手紙は、135ページもある。この本の1割以上を占めている(319ページから454ページ)。最も多い。
と思ったら、東健(文彦)さん宛も、ほぼ同じ(189ページ)だった。昭和15年11月2日から18年10月30日という3年間に書かれたものだ。
東健(あずま・たかし)氏は、学習院時代の三島の先輩で、筆名は東文彦。三島は「無二の友」だったという。
昭和17年には、東京帝国大学文学部学生の徳川義恭(よしやす)、学習院高等科学生の三島とともに同人誌《赤絵》を創刊したが、幼時より病弱で結核を病み、翌年、23歳で逝去した。
三島は自身の死の直前、「東文彦作品集」(昭和46・3講談社)の刊行に力を尽くしている。
この「東健(あずま・たかし)氏の紹介は、全集の「第38巻・書簡」の「解題」を見て、書いている。
書いた人は井上隆史さんだ。井上隆史さんは白百合女子大学教授で、この「書簡」をまとめ、整理したのだ。
井上さんは三島研究家として高名で、何冊も本を出している。私も、多くのことを教えてもらっている。
国際三島シンポジウムの時も、井上さんがいたので、前の方の関係者席で聞くことができたし、昼食会に誘ってもらい、キーンさん、平野さんに会うこともできた。ありがたいです。
「解題」で、井上さんはこう書く。
〈本巻は、これまでに調査・収集することのできた三島由紀夫の書簡、141名宛806通を、宛名の五十音順に収録したものである〉
大体、150人だろうなと思ったが、正確には141人なのだ。
この千ぺージ以上の本の中で、キーンさんと東さんで、2割以上を占める。
では、キーンさん宛ての三島の最後の手紙だ。
1970年11月25日。三島の自決の報を聞き、ショックを受けていたキーンさんの元に、三島からの手紙が届いた。事件の直前に投函したものだ。
いきなり、こんな言葉から始まっている。
〈前略。小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓読は学問的に正に正確でした。小生の行動については、全部わかっていただけると思ひ、何も申しません。ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思つてゐました〉
そして、こう続く。
〈今さらご挨拶するのも他人行儀みたいですが、キーンさんが小生に尽くして下さったご親切、友情、やさしさについては、ただただ感謝のほかはありません。キーンさんのおかげで、僕は自分の仕事に自信を抱くことができましたし、キーンさんとの交際はたのしさに充ちてゐりました。本当に有難うございました〉
そして、これから「豊饒の海」の翻訳についてのお願いや、事務連絡がある。
最後は、こう結ばれている。
〈この夏下田へ来て下さった時は、実にうれしく思ひました。小生にとつての最後の夏であり、心の中でお別れを告げつつ、たのしい時を過ごしました。両卒この上も御元気で、すばらしい御研究を次々と発表されることをお祈りいたします。 昭和45年11月
ドナルド・キーン様
三島由紀夫〉
何度読んでも衝撃的な手紙だ。
「小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました」には驚く。
今までは、ジョーク、ユーモアとして、「魅死魔」とか「幽鬼夫」と書いてきた。あくまでも冗談だ。
でも、それが本当になった、と言う。
背筋がゾクリとする。この3週間ほど前の手紙(10月3日)では、「鬼院先生侍史」「三島幽鬼尾」と書いている。
その前、4月16日の手紙では、「鬼韻先生」「三島幽鬼亭」と書いている。
三島は死の6年ほど前から、この「幽鬼夫」「幽鬼亭」などを使って、遊んでいる。
それだけ心を許していたのだ。こうも書けるよ、と自分の名前で遊ぶことは、我々だってあるだろう。
でも、「小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました」とは言えない。
「国際三島シンポジウム」の時、松本徹さん(三島由紀夫文学館館長)に会ったので、このことを聞いた。
「そうですね。本当に心を許していたから書けたんでしょうね」と言う。「日本人の作家に書いたら、すぐ発表されちゃうでしょうし」と言う。
マスコミに出されたら、「こんなことを書くなんて、気が違っていた」「やはり異常だったんだ」と思われる。
衝撃的な事件の直後に、こんな衝撃的な手紙を見せつけられたら、そう思うだろう。
キーンさんは、だからすぐには発表しなかった。そして、「嵐」が去ってから発表した。事件のことも冷静に見られる時になって。
時が経ってから見ると、違う。「そうか。あんな極限状況の中でも、三島はこんな余裕があったのか。ユーモアがあったのか」と思う。私らもそう思った。
これから死ぬんだ、という時に、よく書けたもんだと思う。
こんなに精神的に強い人はいない。当日、車で自衛隊に向かう時、これから数時間後に死ぬ。
でも、そんな気がしないな、と皆で言い合う。東映ヤクザ映画なら、ここで音楽が入るとこだな、と言い合っている。
「じゃ、歌おう」と皆で、歌う。「義理と人情をはかりにかけりゃ、義理が重たい男の世界…」と。
この「最後の手紙」は、「全集」に入る前に、中央公論社の『三島由紀夫未発表書簡=ドナルド・キーン氏宛の97通』(1998年発行)に発表された。
その時の「編集部後記」には、こう書かれている。
〈本書は、三島由紀夫氏がドナルド・キーン氏に宛てた未公開書簡全97通を、原文のまま収録したものである。三島氏とキーン氏の最初の出会いは1954年11月。場所は、その日三島氏の芝居「鰯売恋曳網(いわしうり こいの ひきあみ)」が上演されていた東京・歌舞伎座の前で、故嶋中鵬二小社前会長の紹介によるものであった。三島は29歳、キーン氏は32歳のことである〉
この時、キーンさんは京都大学で日本文学を研究していた。
〈キーン氏は当時、京都大学で日本文学、とくに古典文学の現代文学への影響を研究テーマにしていたが、戦後の状況下、両者があまりに断絶しているのに驚き、また失望していた。そのような時期に、三島由紀夫というすば抜けた才能の持ち主が伝統芸能にきわめて詳しく、かつ自らの作品に生かしているのを知って、いかに新鮮な刺激を受けたかは想像に難くない〉
〈二人の親密な交友は、以後、三島氏の自決の直前まで変わることなく続くが、それがいかに打ちとけたものであったかは、本書に明らかだろう。早くも昭和32年1月には「怒鳴土起韻様」という呼称がでてきている〉
これはその通りだ。キーンさんは、たまに日本に来るが、大体はアメリカにいる。その「距離感」もよく作用したのかもしれない。
日本人の作家に向かっては、「幽鬼夫」などというこんなジョークは言えないだろう。
距離があったが故に信頼し、心を許したのだろう。
だから、手紙の中では、仕事の話だけでなく、政治、社会など、いろんなことを書いている。
キーンさんがいてくれてよかった。そうでなかったら、三島のこうした心情も聞けなかったかもしれない。
「編集者後記」でも、こう言っている。
〈書簡の中身はじつに多岐にわたっており、文学論・演劇論から、時事問題やプライベートな出来事にいたるまで、きわめて率直に心情を吐露している。日本人にはめったに見せることのなかった素顔を、心を許した外国人の友人相手に存分に見せているのである。三島氏のイメージを一新する貴重な資料と言えよう。これらの書簡は現在すべてコロンビア大学東亜図書館に保存されている〉
では、いつか、コロンビア大学に行って、見たいものですね。
キーンさんに対しては、死の6年ほど前から、ずっと「鬼韻先生」と書いている。たまに、「鬼院」様と書いたりもしている。
自分は「魅死魔幽鬼夫」だ。中には「幽鬼尾」とか「幽鬼亭」と書いたものもある。
面白いのでは、「雪翁」というのもある。生きて、老人になったら“雪翁”と書いてほしかった。
又、中央公論社の「編集後記」にあるように、時事問題についても、「評論」や「対談」でいうのとは別に、心を許した友人だからこそ、言えることがある。三島の素顔が出ている。
例えば、昭和36年2月23日の手紙だ。
『中央公論』に深沢七郎の「風流夢譚」という小説が載った。夢の中で革命が起こり、天皇・皇后が殺されるという小説だ。
ブラック・ユーモアだと言ってはいられない。全国の右翼が中央公論社に抗議に行った。
そして愛国党の少年は、中央公論社長宅に行き、お手伝いさんを刺殺し、奥さんに重傷を負わせた。
これについて書いている。
〈小生も「風流夢譚」の推薦者だというゴシップが出たおかげで、危険が迫り、脅迫状もありがたくいただき、毎日警察のbody guardがついて、床屋へも一人で行けない有様。面白いとも何ともいひやうのない世の中ですが、護衛つきでナイト・クラブへ行ったりするのも、一寸(ちょっと)、little kingの気分でステキです〉
それと、昭和45年(1970)に入って、2月27日の手紙。こんなことを書いている。
〈この間、家の門の前で、三時間立って待ってゐた未知の高校生と、五分だけといふ約束で、玄関で会ひました。澄んだ目をした少年でしたが、「時間がないから、一つだけ、何でもききたいことをききなさい」と言ったら、しばらく黙つてゐた末に、じつと僕の目を見つめて、「先生、いつ死ぬんですか」ときかれたのには弱りました〉
そしてすぐに舞台の話に移っている。
これだけ見ると、熱烈なファンが訪ねてきて突拍子もない質問をした、という笑い話だが、笑い飛ばせない。
だって、この年の11月25日に自決するのだから。
少年が「いつ死ぬのですか」と聞いた時には、既にその覚悟を決めていた。思わずギクッとしたことだろう。
しかし、このことは、どこにも発表しない。書いて一般の人が読んだら、何か気がつかれるかも知れない。そんなヒントは与えたくない。
ただ、心の許すキーンさんには手紙で、「笑い話」として紹介した。
でも、この高校生は本当にいたのだろうか。
もしかしたら、三島の幻ではないのか。
決起・自決に向けて着々と準備している。
しかし、気がくじけそうにもなる。そんな時、後戻りできないように文字に書いて、逃げられないように自分にタガをはめたのではないか、そう推測する人もいる。私だ。
若松監督とはそんな話もした。監督は、「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち」の中で、この「高校生」を「本物」として登場させている。三島は家に上げて、話を聞いてやる。
ところがこの役者を見て驚いた。映画のトップで、社会党の浅沼委員長が右翼の17才の少年(山口二矢)に殺されるシーンが出る。そして山口は自殺する。
この山口二矢をやった役者が、今度は、高校生役で出てくるのだ。
そして、「いつ死ぬのですか」と聞く。山口二矢が現れ、三島に覚悟を問うた。若松さんはそう解釈したのだ。
これには驚いた。三島の心を見抜いていた。
また、1970年の3月31日には、「よど号」ハイジャック事件が起きる。「楯の会」の倉持清氏の家に電話をかけてきて、「先を越された!」と叫んだ。
キーンさんには、この「よど号」ハイジャック事件について、こう書いている。
昭和45年4月16日の手紙だ。
〈赤軍派グループがhighjackに成功したので、われわれ楯の会も警察に追っかけまはされてをり、尾行がついたりして、かなひません。こちらは白軍派といふわけ。しかし、明治維新の武士の気分で、一寸いい気持ちです〉
政治論文や評論とは違った、本心、素顔が出ている。
手紙だからといって、手抜きをしない。字を汚らしく書き飛ばすこともない。作家には、そういう人もいる。「読めなくてもいいだろう。感謝の意さえ伝われば」と考えているのだ。
たった一人の「読者」に書くのだし、書いても原稿料は入らない。じゃ、思い切り、手を抜いて、リラックスして書こう。そう思うのだろう。
その点、三島は厳しい。そんな、妥協はない。
手紙の中なのに、本以上に、「いい表現だ」「いい文だ」と思うところがある。
例えば、昭和41年1月3日。
〈仕事は専ら、大長編の雪の玉を少しずつころがして大きくしてゆく仕事に集中してゐます〉
ほう、長編はこう書くのか。面白い表現だ。
昭和41年12月24日の手紙は。
〈2月10日の御来日を今か今かと待ってゐます。今度はぜひ一緒に神田の古本屋をブラブラしたいですね。例の右翼の本屋は、あひかはらず僕のbibliographyに夢中で、もてあましてゐます〉
この右翼の書店主は私も知っている。好意だし、商売熱心でやるのだから、文句は言えない。
でも、このことをどこか雑誌などに書くわけにもいかない。キーンさんだから、安心して、愚痴を言っているのだ。
キーンさん以外の手紙でも、素晴らしい文章は多い。これも文学だ。
例えば、松浦芳子さんに宛てた手紙だ。元「楯の会」初代学生長・持丸博氏の奥さんだ。
芳子さんは結婚する前から三島に手紙を出していたし、三島も返していた。
昭和43年3月31日、体験入隊をしていた自衛隊の中から手紙を寄越した。
芳子さんが三島の作品を読んで感想を送り、それが特に三島は嬉しかったようだ。
〈お手紙ありがとう。持丸君の話でハ、小生の一時帰京の間に、こちらにお越しになるといふ事なので、この手紙を彼に託します。ここの生活については彼から逐一おききになるでせう。彼の苦労は言語に絶します。どうか貴女(あなた)のやさしさ、天賦のやさしさで、彼の心を慰めて下さい。それが何よりもはげましになると思ひます〉
いい手紙ですね。そして、これから「楯の会」の事について書く。
自衛隊に体験入隊し、身体を鍛え、祖国の危機に備える。その目的、目指すものについて書く。
どんな具体的な計画案よりも、この三島の手紙の方が、具体的であり、表現が美しい。
〈われわれの仕事は不確実な、ふしぎな仕事です。外面は荒つぽいが、小生は、すべてが詩のやうな仕事だと思ってゐます。われわれにとっては、純粋性ほど大切な観念はありません。この兵営のなかで、フラスコの中のやうに、われわれはその純粋性の実験を、不確定な未来へ向かつてやつてゐることをどうか御理解下さい。持丸君にとつても小生にとつても、貴女の御理解が何より大切です〉
何度読み返しても、感動する。自分たちの仕事は「詩のやう」という、「純粋性の実験だ」と言う。
凄い。こう言われただげで、参ってしまう。持丸氏とは、さらに幸せになり、支えてやってくれという。本を読んでくれた礼も言う。
〈貴女への持丸君の愛情は、いつも悩まされてゐる小生が保証します。貴女の純粋な気持ちも、小生には、かたはらから察せられます。どうかむさぼれる限りの幸福をむさぼつて下さい。拙作を読んで下さつてありがたう。一生けんめい書いた作品ですから、ほめられるとやはりうれしいのです。日本語といふものを、小生はこの作品で、できる限り追究してゆくつもりです。では又、春たけなわの東京でお目にかかることになるでせう〉
いい手紙ですね。手紙の書き方の「お手本」になりますね。三島由紀夫に学ぶ「手紙の書き方」って本があったような気がする。
「むさぼれる限りの幸福をむさぼつて下さい」なんて、なかなか言えないですね。
特に右派の人は言えない。もっと、カタ苦しく書いてしまう。
私だって、こうは言えない。「お前なんか関係ないだろう」と言われるかもしれないが、違う。
「生学連」(生長の家の学生運動組織)の書記長だった私は、事務局員の松浦芳子さんを持丸博氏に紹介した。
一目で2人は恋に落ち、結婚した。私が紹介したので2人は結婚し、そして、芳子さんも三島さんと知り合い、三島作品をむさぼり読む。
そして、三島に会い、三島に手紙を書く。
そして、こんな美しい、文学作品ともいうべき手紙を三島は書く。
「楯の会」の性格も、こんなに美しく書いてくれる。
「詩のやうだ」「純粋性の実験だ」と、そう言われる運動は、その後、もう、どこにもない。
「楯の会」は一編の〈詩〉であり、「純粋性の実験」だった。松浦芳子さんに三島が書いてくれたから、こんな美しい表現が生まれた。
「楯の会」初代学生長・持丸博氏に芳子さんを紹介してくれた人がいたので、こんな美しい「手紙芸術」が生まれたのだ。
私らも生きて、闘うことで皆、〈詩〉を書いているのだ。「純粋性の実験」をしようとしているのだ。
①「辻元清美 政治活動20年へ。感謝と飛躍の集いin東京」。12月9日(水)午後4時半から。第1部は田原総一朗さんとの対談。第2部。5時半から懇親会。これは懇親会の写真です。もの凄い人でした。期待の大きさが分かります。
⑯12月7日(月)。午後7時、「学び舎・遊人」にトークを聞きに行きました。「安保法制と憲法=日本はどこに向かうのか?」。新実徳英さん(作曲家・左)と、紀藤正樹さん(弁護士・中)のトークです。聞いていたら、私も呼ばれて一緒に喋らされました。
㉑NHKテレビ、朝日新聞でも大きく取り上げられた仁藤夢乃さんです。「JK(女子高生)問題」などで発言しています。元河合塾コスモにいたんです。私の授業も出ました。「こちらで会議があったので、寄ってみた」と言ってました。「鈴木さんと一緒の写真がアップされて、ネトウヨからバッシングされた」と言ってました。だから、「エセ右翼の鈴木とも友達です」と書いてますと。ありがたいです。
㉙ところがそこに、塩見孝也さん(元・赤軍派議長)が乱入してきました。「乱入じゃない。俺は呼ばれたんだ!」と塩見さん。お互いに教えられないので、びっくり。いきなり会わせて、喧嘩させるつもりだったのかな。
㉞2月26日(金)〜28日(日)。劇団「再生」のお芝居があります。〈「英霊の声—正気」=80年目の2.26事件〉。初日、2月26日(金)の19時30分から、プレトークがあります。「三島由紀夫の2.26事件」です。劇団「再生」代表の高木尋士氏との対談です。