「格闘家・田原総一朗」を発見したんだ。
凄い。それだけでも、この雑誌を創刊した意義がある。
『大武道!』は、武道の雑誌だ。「創刊号で格闘家と対談して下さい」と私は言われていた。
プロボクサーか。柔道家か。柔術家か。いいろ考えたが、分からない。
編集部の方では独自に探している。そして、「この人でしょう!」と言ってきたのが田原さんだ。
でも田原さんは格闘技をやってない。ジョギングやラジオ体操だってやってないだろう。とても「格闘」とか「運動」からは遠い世界の人だ。
そう思ったら、「いや、今の日本で一番、闘ってる人じゃないですか」と言う。
たった一人で、どこでも行く。北朝鮮にもイラクにも行って、取材を通し、ホンネでやり合っている。下手したら帰れなくなる。そんなことはお構いなしだ。
それに、「朝まで生テレビ」でも、猛獣の中に入って、猛獣を闘わせ、仕切っている。「猛獣使い」だ。
さらに、ズバズバと直言するから、いろんな所から抗議もある。左翼からも右翼からも来る。
右翼から抗議が来た時は、たった一人で乗り込んでいく。
それを見て、何百人と集まった右翼の人たちは驚いた。「こいつは凄い男だ」と感心した。「一人で来た」というだけで感心された。
この人は「覚悟」を持った人だ。
どこで、そんな覚悟ができたのか。いろいろ聞いてみた。興味のある人は読んでみてほしい。
それにしても、この本は豪華なメンバーだ。ターザン山本さん。堀辺正史先生。甲野善紀さん。旭道山。船木誠勝さん。田村潔司さん…などが出ている。
編集をやっているのは、谷川貞治さん、山口日昇さん。ターザンさんを含め皆、かつては、大きなプロレス雑誌の編集長だった人だ。
昔、プロレスが盛んな時は、月刊、週刊のプロレス雑誌がいくつもあった。
その中で、プロレスを人生に見立て、「革命軍」とか「「維新軍」などが出てきたりして、やたらと面白かった。今は、プロレスは、そんな賑わいはない。
それに代わって、〈武道〉が関心を持たれている。前に俳優の榎木孝明さんと私は『秘伝』で対談をした。
この『大武道!』も、そうした武道を見つめ、そこから日本人を、日本を考えようという。
田原さんと対談した時は、「まだ名前はない」だった。どんな名前の雑誌になるのかな。と思いながら対談した。
この『大武道!』は、大きな武道だ。「ダイブドウ』と読むのかと思ったら、違う。
この下に、「Oh!BUDO!」と書いてるから、「オー!BUDO」なんだ。それに表紙に大きなブドウ=「大葡萄」の絵が。これも凄い。
『大武道!』(創刊号)の特集はこれだ。「“恥”を知る!〜現代にとっての恥とは何か!?〜」。
第2特集は、「TATSUJIN〜はたして達人はこの世にいるのか!?〜」かな?
この雑誌、奇妙なことに、編集長が2人もいる。1人じゃ、目が届かないからか。
「編集長1号」は谷川貞治さんで、「編集長2号」は山口日昇さんだ。
「1号」の谷川さんが、巻頭で、なぜ、スポーツではなく、「武道」なのか。そのことを書く。
これは骨法道場の堀辺正史先生から教わったことだが、と断って言う。
〈明治以降、西洋から入ってきたスポーツは「ルール」が大前提にあり、「公平」なルールを設定することで、どちらが勝つかを競い合うという勝負の最終形を設定したものですが、その目的に対して、「やってはいけないこと」という「反則」を決めることで、競技を面白くしたり、安全にしたりして、成り立たせているのは、つまり、スポーツにとっての神は「ルール」であり、ルールを守ることこそが「スポーツマンシップに則り、正々堂々と闘う」ことになるのです〉。
〈一方、「武道」とは何か? 武道の原点は「殺し合い」なので、もちろんルールなんてありません。また「公平」に闘う状況なんか、ほとんどなく、むしろ「不平等の状況」の中で、いかに自分の身を守ることが武道の原点だというのです。しかも、日本人の場合、このルールの無い、何でもありの状況の中で、いかに美しく生きるか?
殺し合い、死に合い(死合→試合)のなかでも美徳を持った生き方をしようというのが、武士道の原点だという話を聞かされたのです。これは、私にとって目から鱗が落ちる思いでした〉。
これが、『大武道!』を創刊する原点になったのだろう。
〈武道をよく知らない私でさえも、ルール(法律)に書いてなくても、「お天道様が見てるから」という感覚で、社会生活を主体的に判断し、成り立たせている日本人的なDNAを強く感じることができます〉。
ここは重要なところですね。谷川さんは更にこう言います。
〈今、日本人でも何か問題が起きたら、すぐに細かな規定や罰則で解決しようとする、そんな社会になっているような気がしています。スポーツマンシップは、言い換えれば、「ルールを守っていれば、何をやってもいい」という生き方とも言えます。しかし、日本人はもともと、ルール以前に「恥」とか「義」「仁」「誠」と言った「美徳」を重んじる国民でした。いやあ、我々のDNAに刻み込まれている「武士道とは何か?」をもっと知りたい。「武士道に則って考えてみたい」と、いつしかそう思うようになってたのです。それが今回の『大武道』発刊の動機です〉
そうなのか。そういえば私も、ルールから外れた生き方をしてる人が好きだ。
「場外乱闘」ばかりしてたり「反則」ばかりやってる人が友達に多い。
じゃ、私らも「スポーツ」ではなく、「武道の世界」に生きているのかもしれない。
そういえば、堀辺先生にこんなことを聞いたことがある。
「武士道」というのは、確かに規律はないし、どんな時でも、「恥ずかしくない生き方」をする。それに尽きると言う。
「こんな時はこう対処する」「こんなことに出会ったら、こうする」…といったマニュアルはないという。
いつ、どんなことがあるかもしれない。その時、恥ずかしくない生き方をする。それだけだという。
これは子供時代からだ。「武士だから」と育てられ、周りの人たちもそう見ている。その中で生きるのだ。
そうなのかと思った。これは結構、難しい。
そのことによって、人を斬るかもしれない。
又、誤った判断をして、腹を切ることになるかもしれない。まさに「ルールのない戦い」を強いられているのだ。
それほど大きくはないが、本当は、現代を生きる我々だってそうなのかもしれない。
〈武士道〉というものの普遍性を感じた。
『大武道!』の登場で、人々が皆、自分の生き方を考えることになるだろう。
では、話変わって〈読書〉だ。
本当はこれも「闘い」だし、格闘技かもしれない。
月に30冊読む。とにかく全集に挑戦する。これなんかも、闘いだ。孤独な闘いだ。
敵はどこにいる。多分、自分だ。「昨日までの自分」と闘っている。
あっ、これは内田樹さんの言葉の受け売りだ。内田さんは合気道の先生でもある。
合気道は戦わない。敵を作らない。あえて言えば、「昨日の自分」が敵だ。
つまり稽古して、昨日よりもグンと強くなる。その成長を言っているのだ。
勉強も、あるいは社会運動もそうかもしれない。
学生運動をやっていた時、それを痛感した。「世の中を変える」と言いながら、勿論、その「手ごたえ」も感じた。
同時に、自分が変わっていく手応えを実感した。
自分がより大きくなる。昨日の自分よりも今日の自分が大きく、新しくなる。これが「勉強」なのだろう。そんなことを感じた。
ところが、「運動」が長くなっていくと、どうも惰性が生まれてくる。「慣れ」てくる。
まあ、この辺でいいだろう、と思う。対処能力がうまくなる。自分の中で、いろんな対処法をマニュアル化してしまう。
そうなると危ない。飛躍もない。命懸けでやることもない。
〈武士道〉の精神が失われているのだ。
新しいものを学ぶとは。いや、「学ぶ」とは、人に会って学ぶ。書物に出会って学ぶ。
この2つの手段が大きいのだ。と吉田松陰は言っていた。
凄い人がいると聞くと、どこへでも行って会って話を聞いた。
今のテレビ討論のように、初めから相手を論破してやろうとして会うのではない。
松陰にしたら、そんな「会い」方は、意味がないと言うのだろう。
もう一つ、本だ。厖大な本を読んだ。又、素晴らしい本があると聞けば、訪ねて行って見せてもらい、写した。
その情熱は素晴らしい。私も、「人と本」によって学んできたことは大きい。
「鈴木さんは好奇心が強いからなー。犯罪者ともどんどん知り合いになるし」と、この前、ロフトラジオで平野さんに言われた。
自分がやってこなかった人生を体験した人は、話を聞いてみたい。皆、我が師だと思う。
又、我々が体験しなかった極限の世界、地獄を体験した人も、話を聞きたい。
連合赤軍も、オウムも。なかなか本だけでは分からない世界である。
又、自分の、小さな体験から学んだことも、言語化してみたい。それで本を乱読している。
今週は「平成の読書王」高木尋士さんの胸を借りて、「宗教書」についての読書対談をした。
『生命の実相』全40巻を読んでもらった。私は10年ごとに読んでいる。人生の指針だ。
この本については、「生長の家」の内部の人としか話したことがない。
外の人は、読んでどう思うのだろうか。それが知りたかった。
入信しなくてもいい。「読書」として読んだら、どう感じるのだろうか。
仏典や聖書だって、そういう読書はされている。それも勧めてみたい。
だから高木氏に読んでもらい、大いに話し合った。
又、前に読んで、大いに感動した本がある。
芹沢光治良の『人間の運命』だ。全16巻だ。
芹沢は日本が誇り、世界に通じる文学者だ。日本ペンクラブの会長も務めた。
この全16巻の本は、いわば、日本の「聖書」のようだ。信仰についての喜び。疑問。批判など…。いろんなことが書かれている。
高木さんも読んでくれた。さらに高橋和巳の『邪宗門』だ。文庫で2冊だ。
文体は硬いし、今の人には少し読みにくいだろう。
でも、アサ子さんを初め、「読破した!」「面白かった」という人もいた。
高木さんも、かなり前に読んでいた。人間にとって〈宗教〉とは何か。究極の問いだ。
これは大本教がモデルだ。人々が幸せになることを願って布教活動をしていたのに、国家のあり方について語りだすと、途端に国家によって弾圧される。最後は皆で死ぬ。
私は「生長の家」の運動をやっている時にこれを読んだ。
信仰を持ち、この国を救おうと思って自分たちは運動をしている。
しかし、いつ、国家によって弾圧されるかもしれない。その時は、この小説の主人公のように、自決できるのだろうか。と思いながら読んだ。
芹沢の『人間の運命』もそうだ。こんなに愛深く、人は生きられるのだろうか。
今は、自分の主張をする時は、必ず他人の例を出して、「こいつらはダメだが、オレは頑張っている」「オレは国を愛しているが、こいつらは違う」…と、他人をダシに使って自分の正当性を主張しようとする。
しかし、この本の人たちは違う。他人を批判して、自分の〈正しさ〉を主張しようとしない。そんなことを感じた。
『生命の実相』40巻。『人間の運命』16巻。『邪宗門』2冊。合計で58冊だ。
この58冊の中に、〈全て〉がある。と今は思う。高木さんと話していて、そのことを感じた。
来年初め、テープ起こしをして、このブログに載せるつもりだ。
最後に、ダイアモンド社から出ている『本棚が見たい』は、凄い。今頃、再読して、そのことを改めて痛感している。
全3冊だと思うが、これは〈宝の山〉だ。1冊は1500円位だが、これが1冊、2万円でも高くない。多くのことを学んだ。
これは又、ゆっくり書いてみよう。
本を読むというのは「旧い自分」との闘いだ。「旧い自分」をどうやって打倒するのか。その格闘技だ。
例えば、「格闘技としての読書」もいいな。こんなタイトルで本を書くのも。
「武士道」について本を書いた人はかなりいる。でも、「武士道としての読書」について書いた人はいない。
ノルマを決めて読む。自分を追い込んで読む。むやみやたらと読む。「全集」を読む。
…これらも命がけの闘いだ。武士道だ。ぜひ、書いてみたい。
終わって、近くの居酒屋で忘年会。今年読んで感動した「1冊の本」を各人に発表させる。これも面白い企画だ。勉強になりました。
さらに、一水会の二次会に行きました。今日は一水会フォーラムで清水雅彦さん(日体大教授)が講師。そこには間に合わなかったが、二次会の方は間に合って、いろいろと話しました。
④天皇を中心とした日本の近代史が描かれています。そして、映画の中では、こういう人たちが取材されて、「天皇と軍隊」について語ってます。高橋哲哉さん、ベアテ・シロタ・ゴードンさん、鈴木邦男、葦津泰國さん、福島みずほさん。さらに、木村三浩氏も語っています。
⑨朝日新聞で夏目漱石の「門」が再び連載になりました。なぜ、今、漱石なのか。この開始を記念して、姜尚中さんの講演が行われたのです。「姜尚中さんと夏目漱石『門』を読む」「孤独な時代の愛とは」。こう書かれています。
〈不義の愛によって叶えられた夫婦の交わり。隠花植物のように生きる二人の男女の抱えた孤独と、それでも灰の残り火のように燃えている愛。小説『門』は、彼らを通じて孤独な時代の愛の形を浮かび上がらせる。孤独と煩悶の中に静かに脈打つ夫婦愛。それは、時代の激動の中でも人と人を結びつける最後の砦に違いない。(姜尚中)〉
15日(火)、午後6時より、朝日新聞社内の浜離宮ホールで行われました。それを聞きに行ったのです。とてもいい講演でした。改憲、戦争、右傾化…といった政治的な言葉は一切出てきません。漱石の文学をひたすら解説する。その中で、「人間の生き方」「世の中との関わり方」が問われる。感動的な話でした。私も漱石は「全集」を読んだ。「門」は忘れてたので、もう一回、読んでみようと思いました。
⑲対談が終わって、居酒屋で。「では、今年一番感動した本を発表して下さい」と高木氏。岩波書店の『人々の精神史』の第5巻「万博と沖縄返還」が良かった、とアキコさん。「鈴木邦男さんが巻頭で、『三島由紀夫・魂を失った未来への反乱』を書いてます。これは是非読んでみてください」と言ってました。ありがたいです。