「ちょっと分かりにくい所ですから、どこかで待ち合わせて行きましょう」と快楽亭ブラックさんは言う。
当日、福岡から飛行機で名古屋に着く。だから、どこかで落ち合って…と言う。
忙しい人だ。全国を飛び回っている。
でも、それじゃ大変だ。名古屋は岩井さんを初め、何人かの人がいる。「彼らが案内してくれるから大丈夫ですよ」と言った。
12月20日(日)、名古屋の伏見区にある長円寺会館で、午後1時から快楽亭ブラックさんの落語会がある。落語のあとに、私とトークをする。
地図はナビで調べたんで分かる。岩井さんたちも大丈夫だという。
だから、20日(日)午前8時、東京駅発の新幹線に乗った。
午前10時に名古屋駅に着いた。岩井さんたちと落ち合う。
ちょっとコーヒーを飲んで出発。地下鉄に乗り、伏見で降りる。
長円寺という寺があって、その隣りに長円寺会館があって、そこで落語会をやるんだ、と思い込んでいた。
お寺はすぐに分かる。分かりやすい建物だから。
ところがない。お寺がない。でも、「長円寺会館」だけは発見した。
「あっ、ここですよ。やっぱり分かりにくいですね」と岩井さん。
そうか。寺がない。ただ、会館だけがある。
案内図を見ると、1階、2階は会館で、3階、4階がお寺になっている。
お寺がビルを造っているのではなく、ビルの中にお寺がある。「寺」だと思って探している人には分からない。
かなり早目に行ったんだが、ブラックさんはもう来ていた。そこで打ち合わせ。
1時に落語は始まる。お客さんは100人ぐらい。盛況だ。
岩井さんが連れてきたのは4人。教会に通う女性もいる。クリスチャンがお寺に行って、かなりエッチな落語を聞く。背教行為になるのか。
心配なので、皆に言った。「もの凄く危ない落語です。エロいし、いやらしいし…。でも面白いです。こんなの聞けるか!と思ったら出て行ってもいいです。でも、叫んだり、物を投げたりはしないでください」と。
それで安心して聞いていた。
ところが、大番狂わせになった。見事に裏切られた。いやらしさはない。エロ、グロもない。清らかな、心が洗われる、古典落語だった。「ウッ、凄い!」と私はうなった。
「よかったですね」「初めて落語を聞いたけど、感動しました」と皆、口々に言ってる。「どこがエロいのよ」と眼で文句を言ってる人もいる。何か期待した人もいた。
10分の休憩のあと、2人でトーク。ブラックさんは、「なぜ右翼の鈴木さんと知り合ったか」を語る。
もう30年も前、危ない、不敬な話をやった。私が行けなくて、後輩を行かせたら、彼が激怒して、喧嘩になった。それ以来の付き合いだ。私は、「竹中労に紹介された」と思っていたのに。
でも、この「不敬落語」の方が衝撃的だ。ブラックさんは、土下座して謝り、「お詫びに一席設けますので」と、酒を飲ませた。
そして、カラオケに行き、さらに、あるお店へ。そこは「女装」して遊ぶ飲み屋だ。「先生、これも遊びですから…」と、飲ませ、女装させ、写真を撮った。本人にはあげず自分が持っていて、それをテレカにした。
それ以来、何か文句が来るたびに、それを出して、脅した。
「日本を愛し、国のために死のうと言ってる人が、こういう趣味もある。週刊誌が喜ぶでしょうね」と。不敬落語も、それからはやり放題だ。
「昨日、野坂昭如さんの葬儀に行ってきたんですよ」と私は言った。野坂さんは、12月9日に亡くなった。85歳だった。19日(土)の午前11時から青山葬儀所で行われた。野坂さんは「黒の舟歌」などを歌っていた。他にも多くの歌を作詞し、自ら歌っている。その歌を流しながらの「音楽葬」だ。葬儀委員長は永六輔さん(82歳)。弔辞は、五木寛之さん(83歳)、瀬戸内寂聴さん(代読・檀ふみさん)。作家だから、文章がいい。悲しみの中にも、見事な文学作品になっている。「音楽葬」であり、「文学葬」だ。
「特に、奥さんの陽子さんの挨拶が、凄かった。
〈飲んべえ、目立ちたがり、嘘つき、いいかげん…まだまだいっぱいあります〉
「翌日の産経新聞には、「葬送」の欄に、〈昭和の才人。表現ジャンル縦横無尽〉と書かれていた。
〈文筆に歌にコマーシャルにと表現ジャンルを越境し、国政にも挑んだ昭和の才人。義理の妹を餓死させた過酷な戦争体験を核に、「火垂(ほたる)の墓」などの名作を送り出した。「焼け跡闇市派」の舌鋒にぶれはなかった〉
私は「朝まで生テレビ」でよくご一緒したが、いつも泥酔していた。酒を飲んで怒鳴り、立ち上がり、その辺を歩き回る。破天荒な人だった。「破天荒伝説」は新聞、週刊誌で随分と書かれていた。
でも、「落語」もやっていた、ということは知らなかった。それも、何と、「立川天皇」だという。よく、付けたもんだ。談志もよく許したもんだ。
これはぜひ、立川一門だったブラックさんに聞いてみなくては…と思ったのだ。
「それは本当です」とブラックさん。ブラックさんは65歳かな。野坂さんは85歳。20歳年上だ。先輩だ。
でも、いくら年上でも後から入った人間は「後輩」だ。それが落語の世界だ。
それに、プロの落語家〈Aコース〉と、作家、芸能人などが入る〈Bコース〉とは違うという。談志さんを慕ってくる芸能人には名前を付けてやったりした。でも、その人たちが寄席に上がることはない。
さらに〈Cコース〉があって、一般の人でも勉強し、名前をもらえる。
歌手のミッキー・カーチス。作家の景山民夫さんなどだ。
景山さんとは、よく会っていたし、この話も聞いていた。「立川八王子」という名前をもらった。「立川」は「タテカワ」と読むが、景山さんに限って例外的に、「立川」を「たちかわ」と読ませた。JR中央線で新宿を出ると中野、高円寺…と行き、「立川(たちかわ)に着く。さらに行くと「八王子」がある。だから、「立川八王子」なんだ。
ブラックさんは、立川談志に入門し、いくつも名前を変えた。毎月のように変えた。
「立川レーガン」「立川レフチェンコ」…と。でも全部覚えている人はいない。自分でも覚えてないだろう。
今は、事情があって立川門下から離れて、頑張っている。
ああ見えて、とても勉強家だ。いろんな問題に詳しい。
特に日本映画だ。年間400本以上見ている。本も出している。
この日、二次会の時も、いろんなことを教えてもらった。落語、日本映画、芸能については「生き字引」だ。私もいろいろと質問した。
そうか。本を読み、人の話を聞き、最近は私はずっと「入力」だった。
14日(月)は、宗教書68冊を読んで、高木尋士氏と対談した。
15日(火)は姜尚中さんの講演を聞いた。
19日(土)は野坂さんの葬儀。
そして3時から、「音楽寺子屋。年末スペシャル」。鶴田浩二の「傷だらけの人生」を作った白井伸幸さんと対談。あの歌が生まれた背景について聞いた。
そして、鶴田と三島由紀夫の対談。三島事件後の鶴田…のことなどを聞いた。初めて聞く話が多く、とても勉強になった。
そして20日(日)のブラックさんとの対談だ。
21日(月)は週刊「アエラ」の忘年会で、青木理さん、武田砂鉄さんたちと会った。
22日(火)は、お笑いの「ザ・ニュース・ペーパー」の公演を見に行った。前の席には漫画家の石坂啓さんがいた。少し離れたとこには辻元清美さんがいた。岡田克也さんも一緒に来ていた。民主党党首だから、SPも付いている。
「舞台も過激、豪華だが、客席も豪華だった。
話が、ピョンピョン飛ぶが、鶴田浩二と三島由紀夫の話だ。
三島は俳優・鶴田浩二が好きだった。特に、「総長賭博」は大好きで、大絶賛していた。
そして2人は対談した。気が合った。「週刊プレイボーイ」(昭和44年7月8日号)に載った。自決の1年4ヶ月前だ。
まず、三島がこう言う。
〈前からぼくは鶴田さんのファンですよ。松竹時代から見ているんですよ。ですけれども、昔のあなたより、ここ5〜6年の鶴田さんが非常に好きなんです。最近のピークは「飛車角と吉良常」だと思うが、「総長賭博」はあれよりだいぶ古いでしょう〉
「1年半ぐらいでしょう」と鶴田が言う。
三島はさらに言う。
〈あの「飛車角」なんかでも、吉良常の病床に鶴田さんがすわっているときの、万感こもごも到るという顔が好きなんです。あの感情表現は、やっぱりあなたの中にある何かの感情の深いところから出てくるのだろうと思う。ぼくはここに非常に打たれるわけだ。押さえているときの顔ね。そして、自分が行動しなければならないんだが、そこには、いろいろなシガラミがあって、まだできない。まだできない。しかし…というときの顔が実にいい。そのファンなんですよ。ぼくは、それをこの間、いろいろ書いた。(『映画芸術』3月号「“総長賭博”と“飛車角と吉良常”のなかの鶴田浩二」)〉
これはもう、ベタ褒めだ。「総長賭博」を大絶賛した。
このことは当時、私らもよく知っていた。それだけ鶴田が好きだったのか、と驚いた。
でも今読むと、別のことを思う。自決の1年前だ。やることは決まっていた。でも、どこを、どういう風に攻めるか。いろんなことで悩んでいた。
「自分が行動しなければならないんだが、そこにはいろいろなシガラミもあって…」と鶴田に言ってるが、実は、これは自分に対して言っているのではないか。映画の中に、「自分」を見て、感情移入し、なり切っているのだ。そんなことを感じた。
「大絶賛された鶴田は感激して、こう言う。
〈恐縮でございます。あの文章は、何度も何度も繰り返して読ませていただきました。ぼくら役者の場合、表現といってもいろいろな条件や制約があるでしょう。自分でこうだと思っても、そうじゃないといわれればそれまでです。それが一人でも二人でも、きっちりそれがわかってもらえたという喜びです。ぼくは〉
初めから、意気投合している。戦争の話、日本人論になる。
三島は、〈広島の「この過ちは繰り返しません」の原爆碑。あれを爆破すべきですよ〉と、過激なことを言う。
「鶴田は「三島さんとは考え方のコースは違うかもしれないけど、結論は同じですよ」と言い、さらにこんなことも言う。
〈でも三島さん、むずかしい理屈はよくわかりませんが、日本がおかしくなれば、ぼくはもういっぺん飛行機に乗って飛んでやるという気概だけはありますよ〉
もう一度、アメリカと戦ってやるという。三島も大いに喜んで、こう言う。
〈アメリカ人が日本の全学連を銃剣で突き刺したとしたら、オレ飛んでいってアメリカ人をぶった斬るという気持ちになる。全学連に断わっておくが、お前たちの主義主張に共鳴してこんなことをやるんじゃねえぞ、お前たちが日本人だからオレはやるんだ。しかし、テメエら、日本人だということを自覚してないんじゃないか。オレがこれをやれば、お前ら自分が日本人だということがわかるだろう。こういうふうにやるしか考えようがない〉
二人の話は熱を帯び、どんどん過激になる。「鶴田さん、極端だがね、ぼくはそういう時、日本人としてどう処すべきかということをよく考える」。
そして対談の最後の部分だ。
〈鶴田 ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものがちゃんとあると思うんです。人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。
三島 そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。
鶴田 昭和維新ですね、今は。
三島 うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。
鶴田 三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって。ぼくもかけつけるから。
三島 ワッハッハ。きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな〉
なんとも凄い対談だ。三島が激しいことを言うので鶴田も三島の世界に巻き込まれて、過激なことを言っている。
まさか、三島が本気で「昭和維新」「決起」を考えているとは夢にも思わない。
三島は、自衛隊に体験入隊した時は、もっと凄いことを言っている。自衛隊員も、「こんな有名な作家がまさかクーデターを考えている」なんて思わない。
三島が「憲法改正だ」と言えば、「そうですね」。「自衛隊が立ち上がるべきだ」と言えば「そうです。分かってくれてるんですね」と言う。リップサービスだ。でも三島は本気だったのだ。
この三島と鶴田の対談は、「週刊プレイボーイ」の昭和44年7月8日号に載っている。「刺客と組長=男の盟約」というタイトルだ。
さらにこれは、対談集にも収められている。昭和45年9月23日に出た。自決の2ヶ月前だ。『尚武のこころ=三島由紀夫対談集』(日本教文社)だ。
この本では、他にも高橋和巳、石原慎太郎、林房雄、野坂昭如、村上一郎、寺山修司…などが対談している。三島の対談集の中では最高だ。いや、日本の対談集の中でも最高だと思う。
この時は、三島も凄い人たちと対談してるよな、と話題を呼び、売れた。
そして2ヶ月後、三島事件が起きる。それで、この本は、「事件を予告していた!」と言われ、爆発的に売れる。なんと、事件後2週間で5版を重ねた。
こんなに短時間に売れた本は他にない。「初版 昭和45年9月20日」。「5版発行 昭和45年12月5日」と本の奥付には書かれている。
この初版が出た時、編集部がこんな「解説」をつけている。
〈肝胆相照らして、いささか興奮の面もちの鶴田氏は、対談が終わってから、夫人同伴で三島邸を訪問。さらに深夜まで憂国の論議をつづけた。三島邸辞去のとき、門前の三島夫妻は、鶴田氏の車が見えなくなるまで、雨の中に立ちつくして見送った。鶴田浩二は、車のなかで夫人につくづく述懐した。「だから俺はたまらないんだ。こうしてまで、俺を見送ってくれる。あんなキチンとした日本人はだんだんいなくなっちゃう〉。
やはり、最高の対談だし、最高の対談本だと思う。
さらに鶴田は、「傷だらけの人生」を歌って、大ヒットを飛ばす。「右も左もまっ暗闇じゃございませんか」というやけに「政治的」な言葉が入る。歌謡曲にこんな政治的な言葉が入ることはない。
一体、どうしたんだろう。鶴田、あるいは作詞家の意図ではなく、どうも、当時、ビクターレコードのディレクターだった白井伸幸氏の「意図」だったようだ。
だから、当の白井さんに会って聞いたのだ。その歌を作った意図を、そして「鶴田vs三島」の対談の影響はあったのか。
白井さんの話は、実にショッキングでスリリングな話だった。
「傷だらけの人生」は大ヒットした。しかし、1970年(昭和45年)11月25日、三島事件が起きると、マスコミはドッと鶴田邸に向かった。
1年前に「プレイボーイ」で対談している。出たばかりの三島の対談集にも載っている。
三島は「昭和維新をやる」と言い、鶴田は、「そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって。ぼくもかけつけるから」と言った。
マスコミは鶴田に問いかけた。「三島は起った!でも、あなたは軍刀持って駆けつけなかったじゃないか!」…と。
「さて、鶴田はどうしたのか。長くなったので、その続きは来週だ。あっ、もう来年か。では、よいお年を。
7時、銀座博品館。辛口お笑い集団「ザ・ニュース・ペーパー」の公演を見る。面白かった。さすがだと思った。
舞台も凄かったが、客席も凄かった。民主党の辻元清美さんが見に来ていた。それに岡田克也さんも。野党の党首なので、SPが付いている。それに、漫画家の石坂啓さんも…。いろいろお話ししました。ザ・ニュース・ペーパーの人たちとも、終わって話しました。
又、来年はフィリピンを訪問されるという。本当に大変だと思います。好戦的な政府とは反対に、ひたすら「慰霊の旅」を続けられている。本当に申し訳ないと思います。
この日は、一日中、家で仕事をしてました。亡くなった阿部勉氏の言葉が思い出されます。
「“天皇制を守る”などというのは傲慢だ。不遜だ。天皇によって我々が守られているんだ」と。その通りですね。
私は、高木彬光は好きで、ほとんど読んでいる。とてもよかった。まだ読んでないのが少しある。「全集読破」しなくっちゃ。
午後から上野。国立西洋美術館に行く。「黄金伝説展=古代地中海世界の秘宝」を見る。
夜、雑誌の対談。
作家の本間龍さんに久しぶりに会った。2年前に一緒に本を出した。『だれがタブーをつくるのか』(亜紀書房)だ。
本間さんは元博報堂社員であり、広告、原発のことについては詳しい。現政府の右傾化にどれだけ広告代理店が絡んでいるのか。いろいろ教えてもらった。
㉙「産経新聞」(12月12日)に、蓮池透さんのことが書かれていました。蓮池さんが新しい本を出しました。『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な仲間」(講談社)。凄い題名です。その「犯人」を挙げています。でも、最後には、自分のことも。
〈拉致問題が膠着(こうちゃく)状態となる原因にかかわった「冷血な面々」には、自分自身も含まれると考えている〉。自己批判も含めて、客観的に書かれている。
㉚8月21日、蓮池さんは、日本外国特派員協会で講演。拉致問題について熱く語った。衝撃的な新著のことも。「産経新聞」(12月22日)に載ってました。そして、1月16日(土)は「座・高円寺」で、さらに、これらの真相を語ってくれます。ぜひ、ご期待を。