「クニオは凄いよな。中学1年の時に、アンドレ・ジイドの『狭き門』を読んでたんだからな」と言われた。
「エッ? そうなの」と思わず聞き返した。自分でも全く覚えてない。
2月24日(水)、小学校の同窓会でその話を聞いたのだ。
同窓会といっても、集まったのは6人だけの小さな同窓会だ。秋田県にある「湯沢東小学校6年1組」の同窓会だ。それも、東京にいる人だけで時々、会っている。
私はそこに4年から6年までいた。特に6年のクラスが団結力が強く、今でも、会っている。
湯沢では5年か10年に一遍、大きな同窓会をやるが、東京に出てきてる人のために、こういう小さな同窓会もやる。
その時、テルヤ君が、この話をしてくれた。彼とは、中学でも同じクラスだったようだ。
ジャッチャ先生という厳しい先生がいた。クニオは『狭き門』を読んだと皆に言ってるらしい。
それを聞きつけて、何と授業中に、クニオを立たせて聞いた。
「クニオは『狭き門』を読んだと言ってるそうだが、本当か?」と聞いた。
これはもう、尋問だ。「すみません。皆をビックリさせようと思って嘘を言ったんです」と、謝ると思ったのだろう。
ところが、反抗者のクニオは「はい。読みました」と言った。
「ほう、本当かね。じゃ、どんな内容だったのかな。ちょっと説明してくれないかな」。
「ハイ!」と言って、「クニオは、滔々と『狭き門』の話をした」。
先生もビックリして、「偉いねえ。お前は」と言った。「他の作家も読んでるのか?」と聞かれて、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』など、いくつかを挙げた。
「その粗筋も言いましょうか?」。「いや、いい。信じる。疑って悪かった。しかし、クニオは凄いなー。いつかきっと本を書くような大人になるよ」。とその先生は感動したそうな。
私は全く覚えてない。大体、田舎の小学校か中学で「外国の小説を読んでる」なんて皆の前で言い出すガキがいるなんて信じられない。先生に聞かれて、さらに、ペラペラとその筋を言うなんて。なんとも、嫌味な子供だ。
それにしても、『狭き門』って、どんな小説だったんだろう。確かに、遠い昔に読んで気はあるんだが…。
『辞林21』(三省堂)を引いてみた。
〈アンドレ・ジッド(1869〜1951)アランスの小説家。批評家。既成宗教や道徳からの人間性の解放を追求。代表作「背教者」「狭き門」「ソビエト紀行」など〉
昔の作家だと思ったが、1951年まで生きてたんだ。じゃ、中学1年で私が読んだ頃は、まだ生きていたんだ。「同時代の小説家」として読んだわけだ。
でも、どんな小説だったんだろう。「狭き門」は。
〈『狭き門』ジッドの小説。1909年刊。従弟に対する恋を犠牲にして、ひたすら禁欲的な信仰の中で短い生涯を閉じた女性アリサの魂の悲劇を描く〉
エッ? そういう小説だったのか。血闘や殺人、戦争もない。アクションのないお話を読んで、中学生のクニオは面白かったんだろうか。その筋をどうやって説明したんだろうか。聞いてみたい。
「いや、詳しくは忘れたけど、とにかく、滔々と説明してたよ。偉いなーと思った。オレたちは手塚治虫しか読んでないのに…」とテルヤ君は言う。
「『狭き門』といったら、東大のことかと思ってたから、フランスの小説だなんて、全く知らなかったし」と言う。「聖書の言葉から取ったらしいよ」と私は少し説明した。
『辞林21』には、こう出ている。
〈「狭き門」①新約聖書マタイ福音書第7章「狭き門より入れ。…生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出す者すくなし」より。天国の救いに至る道が困難であることの象徴的表現。②就職や進学などの、競争の激しい難関〉
今の人たちは、この②の意味でしか知らない。そんなことを説明し、本当は「聖書」の言葉から出たんだなどと、薀蓄を垂れたんだろうか。この中学1年のクニオ君は。
それにしても、全く忘れていた。そんな「事件」も。ジイドの小説も。じゃ、今度、読んでみるか。「ジイド全集」を。
ついでに、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だ。
〈ヘッセ 1877〜1962。ドイツ生まれのスイスの小説家・詩人。真の人生とはいかに生きるべきかを追求。小説「ペーター・カーメンツィント」「車輪の下」「シッダルタ」「ガラス玉遊戯」など〉
「ヘッセ全集」も読まなくっちゃ。そして、高木さんと「読書対談」をやらなくっちゃ。
でも、「車輪の下」って、どんな内容だったんだろう。車輪に潰される、悲惨な話だろうな。
〈「車輪の下」 ヘッセ作の自伝的長編小説。1906年刊。大人たちの無理解におしひしがれ、ついには自殺する少年ハンスの悩みと感傷を描く〉
うわー、暗いな。こんな暗く、長い小説を読んでたんだ。クニオ少年は。なぜだろう。それだけ人生を真面目に考えていたのか。
「好きな女の子が読んでたからじゃないの」と他の同級生は言う。でも、そんな本好きの子がいたのかな。他に。
「そういえば、お母さんもとても勉強家だったわよね」とミサコさん。
私が病気で学校を休むと母親が来て、クニオ少年の机に座り、替わりに授業を受けてたそうだ。
「嘘だよ!」と私は言ったが、皆、「本当だ」と言う。その話は前の同窓会でも聞いたので、『通販生活』に書いたことがある。
でも、母は、そのことを息子には一切、伝えてない。
それに、本人が授業を聞いて、ノートを取って、それを息子に見せるのなら分かる。しかし、そんなことは一切やってない。
じゃ、一体、何のために学校に行ったんだよ、と思う。
自分が子供の頃、向学心に燃えていたのに、上の学校に行けなかった。中学校は、金持ちで、ゆとりのある人だけが行ける所だった。そして今、小・中は義務教育になり、誰でもが行ける。
「じゃ、私も行ってみよう」と、自らの向学心で母は行ってみたのかもしれない。
えーと。今週は、「本について」三つのことを書こうと思った。『狭き門』と、12月に亡くなった野坂昭如さんの本『絶筆』。そして、2月20日に行ってきた「菜の花忌」だ。
「菜の花忌」のことは、あとにして、野坂さんの本だ。今週の週刊『アエラ』に書評を書いた。凄まじい本だった。
野坂さんは、2003年5月に脳梗塞で倒れた。この時、72才。それからずっと闘病生活を続けてきた。
そして2015年12月9日夜に急逝した。85才だった。
この『絶筆』(新潮社)を読んで驚いたが、病床でずっと書いてたのだ。陽子夫人の手を借りての口述筆記によって作家活動を続けていたのだ。
戦争童話、時事エッセイ、文明論、回想記、往復書簡、日記…。それは『新潮』や『新潮45』に連載した。
又、亡くなる日、 ほんの数時間前まで、書いていたという。享年85。
亡くなる数時間前の日記だが、きちんと書かれているし、結構、長い。
〈12月9日 暮れというと思い出す。毎年今頃になると、飲み屋へのツケ払いに奔走していた〉
そして、この「ツケ払い」の話がずっと続く。
そして最後のところだ。
〈秋のはじめに誤嚥性肺炎とやらに見舞われ、スッタモンダ。どうにか息を吹き返したらしい。あせらない、あせらないと妻が呪文のように唱えているが、ぼくはちっともあせっちゃいません。さて、もう少し寝るか。
この国に、戦前がひたひた迫っていることは確かだろう〉
これは死の数時間前なのだ。最後の最後まで、日本の国のことを心配していた。
自分の病気の心配はしてない。病状のことは余り書いてない。それよりも、この国のことが心配だ。
病の重いのは、日本よ、お前の方だ、と言ってるのだ。
それに、ちょっと「寝るか」と思って、寝た。ちょっと寝て、起きて又、仕事をするつもりだったんだ。
病気のことは少しは書いても、いや、それ以上にこの国の「病気」が心配だ、となる。病気も国家の危機も、気がついたときはもう手遅れだ、という指摘もある。
震災、大地震について、こんなことも言う。
〈防災といえば天災だと決め込んでいるが、近頃は人災も多い。場合によっては、こっちの方が始末に困る。人災の日をつくるべきだろう〉
人災の最大のものは戦争だ。それを又、やろうとしている。これはどんなことがあっても阻止するべきだと言う。
〈夜、見事な月。月の光は今も昔も変わらない。照らされる人間はどんどんせせこましくなるばかり〉
〈人間の身体はいとも簡単に適応してしまう。若者の身体は日本列島の風土に合ったものからどんどん離れてしまっている。下らない法律は撤廃し、この列島の住民ならば、一日三合の米を食うことを義務とする。そうでもしなきゃ、よくて植民地。悪けりゃ日本はなくなる〉
食の問題は何度も何度も出てくる。そして安倍政権のもと戦争に近づいていることを批判する。どんなことがあっても戦争だけはしてはならないという。
野坂さんは、ずっと10年以上、寝たきりかと思った。
でもこれを読むと違う。よく近所の散歩に行ってたし、何と、飛行機に乗って沖縄にも行っているのだ。
〈(2013年)11月某日 重装備で沖縄へ着いた。すでにクタクタである。車椅子に杖、念には念をと酸素ボンベまで機内へ運び込んだため、乗り降りが大変。この手続きたるや、まことに煩雑で時間がかかる〉
大変だ。そこまでして行くのか。という気持ちだ。でも砂浜を素足で歩くのは実に快適だった、という。
又、沖縄問題、特定秘密保護法、国益とは何か…と、政治的問題が多い。
自分の病気どころではない。国家の方が病んでるんだ。これを何とかしなくては。近づく〈戦争〉を阻止しなくては…という思いが強い。
「食品偽装」が問題になるが、政治も「偽装」ではないか…と怒る。
あとはぜひ、この本を買って読んでほしい。
それと最後に、司馬遼太郎没後20年の「菜の花忌」だ。あらかじめ申し込んで出席したが、よかったですね。
司馬は随分と読んでいる。40冊か50冊。もっと読んでるかな。
「街道をゆく」は全巻読破したし、ビデオも全巻見た。主要な作品は読んでいるから、多分、100冊位読んでるだろう。でも、これでも司馬のほんの一部にしか過ぎない。
シンポジウムで司会をした古谷和雄さんが言ってた。「では、司馬作品はどれくらいあるのか?」と。
小説は短編、長編を含めて400冊位ある。対談、座談会も300冊位ある。エッセイも200冊…と。
そうすると、1000冊位あるのかもしれない。だから「全集」も作れないのか。ウーン、「司馬を全巻読む」というのはかなり難しい。
東大阪市にある司馬遼太郎記念館には以前行ったことがある。司馬の書斎、本棚を再現していたが、とてつもないものだった。
この「菜の花忌」の第2部には、片山杜秀さんが出ていた。2月29日(月)に私は対談する。だから「司馬の読み方」を教えてもらおう。
そうだ。片山さんは小学生の時から司馬を読んでいた、という。凄い。とてもかなわない。
私なんて司馬を読んだのは大学生になってからだ。それも「竜馬はゆく」から入った。あまりに平凡だ。
でも小学校や中学校の頃に、アンドレ・ジイドやヘルマン・ヘッセを読んでいたというし、(自分では記憶にないが)。だったら片山さんとも少しは文学の話ができるかもしれない。
司馬作品は膨大だ。又、読み方によって、どんな風にも読める。「そうだ! 今は幕末と同じだ。オレたちも命をかけて闘わなくては」と思い、非合法運動に入る人もいる。「坂の上の雲」を読んで、「サラリーマンなどはやってられん」と運動に飛び込んだ人もいる。
「一億総活動家」計画を煽ったような作家だ。
右や左の活動家は皆、司馬を読んでいる。そして、影響を受けている。
司馬は、「国民作家」と言われるが、実は、かなり「危険な作家」かもしれない。
司馬を読んで、ヤバイ方向に突っ走った人たちだけを集めて、「司馬文学の魅力について」座談会をやってみたい。
その時は又、よろしく、高木さん。お願いします。
①2月20日(土)午後1時より、日比谷公会堂。司馬遼太郎没後20年〈第20回 菜の花忌〉に行ってきました。事前に往復ハガキで申し込んだのです。大阪と東京で毎年、交互にやってます。
3階まで超満員でした。「司馬遼太郎賞贈賞式」。そして、シンポジウム「司馬遼太郎を語り合う--今の時代を見すえて」。パネリストは4人。辻原登さん。片山杜秀さん。磯田道史さん。東出昌大さん。司会はNHKの古屋和雄さん。とても良かったです。
④終わって恵観さんと。「清原が出てきたら、引き取って、治してやって下さいよ」とお願いしました。スポーツ新聞に、「怪僧が身元引受人に」と出てたので。恵観さんは桑田、清原はじめ、面倒見たスポーツ選手は沢山いる。
⑦この本の中で、白井聡さんと私が対談しています。白井さんは、『永続敗戦論=戦後日本の核心』(太田出版)で注目された政治学者です。京都精華大学専任講師です。2人の対談は3時間におよびました。
〈永続敗戦レジームとしての原発=自己改革能力を失わせる差別の構造〉です。
⑨2月25日(木)、学校の「読書ゼミ」で、この本を取り上げました。島田裕巳さんの『八紘一宇』(幻冬舎新書)です。国会で自民党の三原じゅん子議員が発言して、一挙に有名になった言葉です。 「八紘一宇」は。
⑱三島の自決シーンです。映画のラストです。三島は緒形拳がやりました。残念ながら、この映画は日本では上映されませんでした。アメリカにいる友人が、DVDを送ってくれました。だから字幕が付いてます。
それと、板坂剛さんと私が対談した『三島由紀夫と1970年』(鹿砦社)では、この映画についても詳しく話しています。最後の章は、〈貴重な資料3篇と幻の映像を見ながら〉です。もしかしたら、「幻の映像」が、チラッと見れるかもしれません。