『〈愛国心〉に気をつけろ!』(岩波書店)が発売された。6月3日(金)から全国の書店で平積みされている。
「岩波ブックレット」の1冊なので、そこのコーナーにある。
ブックレットだから新書よりも安いし、手に取りやすい。定価は580円。71ページだ。400字原稿用紙で約100枚だ。
「安いからすぐ買った。よかった」「アマゾンで申し込んでいたのが届いた。よかった」とメールやFAXが来る。ありがたい。
ページ数は少ないが、かなり苦労して書いた。〆切は去年の末だったのに書けなくて、遅れに遅れた。でも、やっと出来た。ホッとしている。
岩波の担当者がうまく作ってくれた。章割りや、本の帯なども工夫をしてくれている。表紙の写真もいい。
関西の大学の先生からメールが来た。
「今日、頼んでおいた『〈愛国心〉に気をつけろ!』が届きました。表紙にハンサムボーイが載っていると思ったら、鈴木先生だったのですね。雰囲気がまったく違うので、にわかに信じがたいというか…」
そうかな。私だって、すぐに分かるじゃないか。
髪は五分刈りで、黒いトックリセーターを着て、ブレザーを着ている。精悍な顔をしている。アジ演説をしてるようだ。
後ろには垂れ幕が。「新しい学生運動の潮流」。これが演題だ。
そして、講演する人は。「全国学協委員長。早大大学院 鈴木邦男氏」と書かれている。民族派学生運動に邁進していた頃だ。
つい昨日のような気もするが、そんなことはない。もう50年近く昔なのだろう。
場所はどこだろう。多分、山形大学じゃないのかな。全国の大学はどこでも行った。
オルグのために。自分たちの考えを発表し、仲間を獲得するためだ。
でも、どこに行っても左翼学生はいる。圧倒的に彼らの方が強い。
「右翼学生を学内に入れるな!」「暴力学生・鈴木の乱入を許すな!」と立て看板が立ち、そこで激論があり、乱闘がある。
やっと学内で講演会が出来ても、その講演会が荒らされる。大変だった。
だから、いつでも闘えるようにトックリシャツかセーターだ。そして、スニーカーだった。
腕時計は外しておいた。殴り合いになった時に、飛ばされて、なくしたら困るからだ。
毎日、気が張りつめていた。よく乱闘したし、よく怪我もした。
左翼学生とはよく衝突し、激論し、殴り合いをした。
でも、今となっては懐かしい。今でも、地方に行くと、「お前とは殴り合いをした」という人に会う。〈戦友〉に会ったようで懐かしい。
思想は違い、思い切り激突して殴り合った。
しかし、卑劣なことはしなかったと思う。
当時、我々は「反左翼」の学生として、いろんな人たちと共闘した。
私らは「生長の家」の学生が中心だったが、他に、日学同、学生会議、それに自民党や民社党の学生部もいた。
又、「父が軍人で話を聞いてたので」とか、「戦記雑誌の『丸』を読んでたので」といった学生もいた。統一教会の学生部もいた。実に多くの人々がいた。
左翼学生はさらにその何十倍もいた。キャンパスの中で、左右が激論し、それを一般学生が取り囲んで、野次を飛ばす。時には殴り合いになる。
毎日、そんな闘いをやりながら、でも、結構、さっぱりしていた。
我々は、敵ではあるが左翼学生の力・熱意を認めていた。凄い奴らがいると思っていた。こんな奴が一人でも我々の陣営にいたら運動は飛躍的に伸びるのに…と思う人もいた。
たった一人で演説をし、その火のようなアジ演説で、何百人もの一般学生を動かし、デモに連れて行く人もいる。凄い力だと思った。
殴り合いをしながらも、どこか「敬意」を持っていた。
「敵」ではありながら、同じ大学の学友であり、命をかけた活動家、リーダーだと認めていた。
その反対に、我々の「陣営」にいて、「左翼学生は許せない」と言いながら、卑劣なことをする人間もいた。
我々が左翼と激論し、殴り合いしてる時、我々の後ろに隠れて、ひたすら写真を撮っている。(我々の写真も撮ってるのかもしれないが)、もっぱら左翼学生を撮っている。それを引き伸ばしていた。「敵の情報収集ですよ」と言う。
でも、本当は、警察(公安)に頼まれて左翼学生の写真を撮り、渡していたのだ。金ももらっていた。
それを知って、カーッとなって、怒鳴った。「そんなことはやめろ!」と。
そしたら、「鈴木さんは甘い」と言われた。「奴らは敵です。日本に共産革命を起こし、我々を皆殺しにしようとしてるんです。警察の力を借りるのも必要です」と言う。
「敵である前に、同じ大学の学友だ」と言ったら、笑われた。「やっぱり、甘いですよ。そんなことだから全国学協でも孤立するんですよ」と。公安情報で、こっちの事情も知ってるらしい。
『〈愛国心〉に気をつけろ!』の表紙の写真を見て、「あっ、これが三日天下の全国学協委員長の時ですね」と言う人もいた。
又、「この頃、一緒に生長の家や、全国学協で闘っていた人たちが、後に『日本会議』になるんですね」と言う人もいる。
今、「日本会議」についての本がもの凄く売れている。その中に、そんなことも出てるようだ。
自分は早大に入った時、「生長の家学生道場」に入ったし、そこの35人の学生を連れて、よく、他大学に行き、左翼と闘った。
又、生学連(生長の家の学生組織)の書記長として全国を回った。
さらに生学連が中心になり、全国の右派学生を結集し、「全国学協」を作った。
その初代の委員長になったが、たった1ヶ月で委員長を解任され、追放された。大きな組織をまとめ、引っ張っていく力がなかったからだ。統率力も人徳もなかっんだ。クビになって当然だった。
でも、あの時、クビにならずに、ずっと運動をやっていたら、今頃は「日本会議」でやっていたかもしれない。安倍さんを支え、改憲に向けて、頑張っていたかもしれない。
最近は、よくマスコミに取材される。日本会議のことについてだ。
彼らは真面目で、能力もあり、何よりも全共闘と闘って、自治会を取ったりしてたんだ。
今までの保守とは全く違います。実績があり、実務能力があり、信用があります。だから安倍さんたちも信頼するんですよ。と言っている。
でも、それだけだとマスコミは不満らしい。
「昔の鈴木さんの仲間や後輩なんでしょう。その人たちに鈴木さんは追い出されたんでしょう。もっと厳しいことを言って下さいよ」と。
彼ら、マスコミは勘違いしている。何か私が、個人的恨みを持って、今も運動してるように思っている。
そんなものはない。皆、優秀な人たちだ。だから改憲の機運だって出来ている。
改憲や安倍政権に対する考え方は違っても、それだけで「日本会議」を批判しようとは思わない。
昔、全国学協から追われたのは事実だが、それは私が悪いのだ。無能で、無力で、人望もないのに、ただ「年長」だからといって、委員長になった。その時点で断るべきだったんだ。そんな器ではないと。
それなのに、長い間、必死で闘ってきた。その闘いの実績があると、自分で自分を誤解したのだ。
それに、あの時クビになってよかったと、今では思っている。負け惜しみではなく、そう思っている。
自分の無能に気づかず、ずっと一緒に運動をやり、「日本会議」について行き、今頃になってクビになったら大変だったと思う。もう、やり直しもきかない。
それもこれも〈愛国心〉の引力のせいかもしれない。正しいことをやっている、その満足感、充足感がある。だから、その〈立場〉をやめられれない。
私だって、自分の力ではとてもやめることは出来なかった。「他人の力」「解任」という形をとってしか、離れることは出来なかった。
岩波のブックレットを読み直しながら、そんな昔のことを思った。
名誉や金や人間関係ならば、そんなことにはならない。
でも、「愛」「正義」そして「愛国心」だと、皆必死になる。私もそうだった。
勿論、それは素晴らしい。だが、時として、「正しいことだから」とさらにエスカレートし、暴走することもある。
素晴らしさと共に、怖さをも持つ。それが〈愛国心〉だ。
特に今は「左右激突」といった、大きな闘いはない。
左翼は滅んだ。左翼だというだけで「犯罪者」扱いだ。
あとは今、保守派・右派の天下だ。皆、〈愛国心〉を言い、〈愛国者〉を自任する。
でも、闘ったこともなく、口先だけで「国を救う」などと大言壮語する人間が多い。他国に対する敵愾心だけを煽る人も多い。
ネトウヨは、右翼でも何でもない。学生時代、私らの傍にいたのも、思えば「ネトウヨ」のような連中だった。
自分では闘わず、我々の後ろに隠れていて。それで左翼の顔写真をとっては、公安に流してたような連中だ。
左翼のまいているビラを集めて、それも公安に渡していた。
「左翼を打倒するために」「共産革命を阻止するために」と言っていた。〈愛国心〉からやっていると言っていた。
しかし、そんなものは愛国心ではない。
そうだ。それらニセモノではない、本当の愛国心とは何か。それを言いたくて、この本を書いたのだと思う。
この本のカバーにはこう書かれている。
「〈愛国心〉を強調する安倍政権のもと、体制への批判は「反日」と攻撃され、人種差別や排外主義も横行している。しかし、こうした風潮こそ、日本の価値を貶めているのではないか。長年にわたり、『愛国運動』に身を投じてきた著者が、自らの体験を振り返りながら、〈愛国心〉が煽られる日本社会に覚悟をもって警鐘を鳴らす」
これは岩波の担当者が書いてくれたのだ。ありがたい。
今の〈右傾化〉〈愛国心ブーム〉の中では、この立場は、厳しい生き方かもしれないが、頑張って、覚悟をもって進んで行きたいと思う。
さっそく、守屋さんの『日本防衛秘録』(新潮文庫)を買った。著者紹介を見たら、「1944年生まれ」だという。あれ、私とほとんど同じだ。それに、「宮城県塩釜市生まれ。東北大学法学部卒。71年、防衛庁入庁」となっている。
エッ? 塩釜か。同郷じゃないか。あとで聞いたら、「塩釜一中」から「仙台一高」に行って、東北大学に行ったという。「僕は仙台二中です。仙台二高を受けて落ちて東北学院榴ケ岡に行きました」と言いました。同じ時期に仙台にいたわけだ。直会の席でも、仙台の話で盛り上がりました。
「あれ、ここのギャラリー、来たことがあるぞ」と思い出しました。帝銀事件のことで針生一郎さん、平沢武彦さん、私でトークをしたようです。その時、来た人が教えてくれました。
ここでのパーティのあと、「車屋」で二次会。皆、学生運動出身者ばかりだ。だから、「全国の学友諸君!」なんて演説を始める人もいる。「学友なんかいないぞ!」「老人ばっかりだ!」と野次が飛ぶ。時間を忘れる、楽しい会でした。
㉔「ベトナム反戦闘争とその時代展」です。根津の「ギャラリーTEN」で。6月7日(火)、この展示会のオープニングパーティ。この写真展の監修をやった山本義隆さんが挨拶しました。山本さんは、かつての東大全共闘の議長でした。「10.8」闘争は権力に山崎さんが虐殺されたのです。その追悼も兼ねてやったのです。