参院選、自民党が圧勝でしたね。安倍自民の「一強多弱」傾向がさらに強まりました。
民進党は圧倒的劣勢の中、それでも頑張ったんですが、やはりダメでした。
他の野党は、もう完全にダメです。社民は党首までが落選。福島さんだけになりました。小さな野党は次々と生まれますが、大きくはならない。
流れは自民で、「改憲」なんでしょう。
ただ、今すぐはやらない。それに自分たちは「発議」するだけだ。決めるのは国民だ。と言ってます。
でも熱狂と喧騒の中で、改憲が発議されたら、投票する国民は冷静ではいられない。
トランプ現象で沸くアメリカ。一気にEU離脱を決めたイギリス。その例を見るまでもなく、「ナショナリズム」「国益」という言葉の前には、皆、ムードに呑まれてしまいます。
「これではダメだ。興奮状態の中で改憲されてしまっては大変だ」と、鳥越俊太郎さんは都知事選に急遽立候補しました。
70代後半、ガンの手術、というハンディにも負けず、立候補しました。これは立派です。
今年の5月に、札幌から帰る飛行機の中で、鳥越さんにバッタリ会いました。
その時、カバンの中から取り出したのが菅野完さんの『日本会議の研究』(扶桑社新書)でした。
「これはもの凄く売れてますね。どこにもなくて。やっとのことで手に入れました。鈴木さんのことも出てましたね」と言う。
このままでは、改憲がやられる。何か分からないが、この不安・不明な状況を打破してくれるものとして、「改憲」が考えられている。
そんな、危険性を察知したのだと思います。
そして、しばらく、日本会議や改憲の話をしました。
昔、私は「生長の家」の学生運動をやっており、その頃の仲間たちが、ずっと運動を続けていて、今、日本会議を作っています。
「じゃ、皆、鈴木さんの後輩たちですか」。
「いや、でも私は、だらしがなく、無能だったんで、学生運動から追い出されたんですよ」という話になりました。
それは、菅野さんの本にも書かれています。又、最近出た青木理さんの『日本会議の正体』(平凡社新書)にも書かれています。
両方とも、もの凄く詳しいです。もう忘れていた学生時代のことも実にリアルに書かれています。
特に青木さんの本で驚いたんですが、「楯の会」一期生の伊藤邦典氏の証言でした。
今、日本会議の政策面での責任者となっている伊藤哲夫氏のことです。
彼が新潟大学の学生だった頃、「鈴木さんと私が2人で、哲夫氏のオルグに行った」という証言でした。
ウーン、忘れていた。新潟には、こんな優秀な学生がいるんだから、オルグして東京で活躍させよう、と私が思い、邦典氏と一緒に新潟まで行ったんだそうです。
そうだったのか。じゃ、日本会議の基礎作りにも貢献してたのか。
さらに、邦典氏を「楯の会」に入れたのも私です。
他にも、何人も入れてます。
三島の「楯の会」は、初めは、生学連や日学同の活動家からピックアップして入れてました。
そのうち『平凡パンチ』などのグラビアに取り上げられて、希望者が殺到し、何百人も申し込みがあって、面接試験をしてました。
でも、初期の一期生、二期生の頃は、生学連や日学同の中から見繕ってオルグしたのです。
私も、後々、「楯の会」がああいう組織になるとは思わず、気軽に紹介したのです。
きっと三島さんのファンクラブのようなもんだろう。あるいは勉強会かな。と思って、紹介しました。
生学連(生長の家の学生組織)に入ったまま、「楯の会」にも入ってたのです。
伊藤邦典氏は私と同じ生長の家学生道場に入っており、そこに「楯の会」初代学生長の持丸博氏が良く遊びに来てました。
ある日、伊藤邦典氏を紹介したら、あとで、「あの学生の眼がいい。『楯の会』にほしい」と言うのです。
それで、「じゃ、あげるよ」と言って、話はまとまりました。
邦典氏は神奈川大学の学生でした。そこは生学連の拠点校で、古賀、小賀…といった生学連の活動家が沢山いました。邦典氏はそれらの人も「楯の会」に誘います。
そして、この古賀、小賀両氏は、あの三島事件の時、三島、森田氏と共に防衛庁に行った2人です。
その意味では、邦典氏は三島事件のキーマンです。
この邦典氏を「楯の会」に入れ、さらに2人で新潟に行って、伊藤哲夫氏をオルグし、活動の中央に連れてきた。その人が、今、日本会議の政策の中心になっている。
遠い遠い昔の思い出のようですが、今も生きてるんですね。
菅野、青木両氏の本を読んでそう感じました。〈学生時代〉のことが再び甦ってきました。
「天皇陛下生前退位のご意向」のニュースには驚きました。
山内昌之氏(東大名誉教授)は、「使命感へのこだわり」と言っていました。
大変責任感と義務感の強い方であり、それで老いにより、課せられた職務を全うできず、不十分な結果になることを何よりも恐れられたのだろうと言います。(産経新聞7月15日)。
ご公務が多く、それを全うできないことへのこだわりもあるのでしょう。
ただ、山内氏は、こうも言ってます。
「ご自分の課題への達成感や満足感による生前退位のご意向ではないか」と。
これは、陛下は、我が国にとって大事な日を四つあげておられた。
広島・長崎への原爆投下、沖縄戦終結、そして終戦の日だ。
〈陛下は長年、先の大戦で犠牲になった人々を悼む慰霊の旅を続け、昨年はパラオ、今年はフィリピンを訪問された。戦後の歩みのなかで、海外で慰霊の旅を実現された達成感による退位のご意向であり、むしろ前向きにとらえるべきだ〉。
うーん、そうなのか。そこにメールだ。
〈そういえば、今回の天皇陛下のご意向のニュースを見て、久々に『天皇家の掟』を引っ張り出して再読してます。最後の章で、陛下ご自身による生前退位の可能性も想像しなければ、という話が出てきますが、やはりそうなりましたね〉
あれっ? 聞いたことのある本だ。あっ、私の本じゃないか。正確には佐藤由樹氏と私の共著だ。
『天皇家の掟=「皇室典範」を読む=』(祥伝社新書)だ。
本の帯にはこう書かれている。
〈人権のない御一家を弄んでいるのは国民だ!〉
〈「お世継ぎ問題」の核心となる法律(典範)を誰が、どう変えるつもりなのか!〉。
発行は2005年8月10日だ。もう11年前じゃないか。
これは、かなり勉強して、2人で書いた本だ。
「〈第8章〉日本国憲法と象徴天皇制」。ここで佐藤氏はこう書く。
〈また、皇族の方々を不自由にしているのは誰か、という問題を考えなければならない。戦後、象徴天皇制という制度で日本はなんとか機能してきたが、それは「象徴」というあいまいなものを国民が天皇に負わせている側面があるのではなかろうか。
そして、象徴天皇制について議論する上で、「天皇がいなくなる日」を想像すべきではないだろうか。それは国民の側から天皇制をなくすということではなく、天皇が自らの意志でいなくなってしまう時のことである。もちろん現行の制度ではそんなことはありえないだろう。しかし、退位の自由がない天皇陛下の存在によって、象徴天皇制が成り立っている事実を意識すべきだろう〉。
これは凄い。11年前に、今日あることを予言していたのだ。
佐藤氏はそれについて書き、私は、「あとがき」でこう述べている。
〈「天皇がいなくなる日」を想像すべきではないかと、佐藤氏は8章の最後で書いている。それは国民の側から天皇制をなくすということではなく、天皇が自らの意志でいなくなってしまう時のことだ、という。皇室のことを調べれば調べるほど、そのお仕事は大変であり、それを痛感したからこそ、佐藤氏はこうした結論というか不安を感じたのだろう。実は僕も同じことを考えていたので驚いた。
「天皇制擁護」や「天皇制打倒」といったふうな論争が、かつてはあった。今は、「打倒論」はない。どうやったら続けられるか。何とか護っていこう。そのためには女帝を認めるか、旧宮家を皇族に戻すか。どちらにしても『皇室典範』を改正しなくてはならない。つまり、われわれが主体になっている話だ。われわれが傲慢にも天皇を守り、皇室の将来を考えていることになる。しかし、実は、天皇によって守られているのはわれわれのほうだ。このままでは、天皇のほうから愛想尽かしをされるかもしれない〉。
さらに、こうも書いた。
〈この本を読んでもらえばわかるが、僕らはあまりに多くのことを天皇に期待し、無理強いをしてきた。そのことを痛感する。今こそ、皇室と国民のよりよい関係を必死で考えるべきだろう。この本は、そのためのいい叩き台になると思う。僕にとってはハードな仕事だったが、知的冒険心に満ちた楽しい仕事になった〉。
目次を見て、本当にハードだったと思う。
世界の王室、日本の皇室の歴史。そして、今まで起こっている問題。あらゆることについて考えた。
たとえば、目次だ。
第1章 現代の皇室問題と『皇室典範』
第2章 『皇室典範』を読む
第3章 明治以前の皇位継承と八人十代の女帝
第4章 旧『皇室典範』の成立過程
第5章 現『皇室典範』の成立過程
第6章 海外の皇位継承
第7章 新『皇室典範』と皇位継承のゆくえ
第8章 日本国憲法と象徴天皇制
よく書いたもんだ。11年前は気力が充実してたんだろう。
それに佐藤由樹氏の問題提起がいい。
本の扉にはこう書かれている。
〈「女帝を認めるべきだ」「否、天皇は男系男子でなくてはならない」。皇位継承をめぐって百出する議論を眺めて著者・鈴木邦男は思う。それが善意や好意から出た愛国者による提言であっても、この過熱ぶりは当事者(天皇家)にとって、もはや〈脅迫〉ではないかと。〈日本人の生活感、家族観からかけ離れた旧態依然とした価値観を皇室だけには押しつけている〉(本文より)。そして、どの意見を採ろうと天皇・皇室を規定する法律『皇室典範』を改変しない限り、遠からず「天皇」は絶える。ならば、その『典範』とは何なのか。何が書かれているのか。いつ、どのように作られたのか…。本書は『皇室典範』とその歴史的背景を著者とともに読み解き、「天皇」の将来をさぐる。はたして、鈴木邦男氏の結論は?〉。
なかなか刺激的で、挑発的なメッセージだ。
又、私にも大いなる決意と覚悟が要求されたと思う。
お父さんが政治家の渡部恒三さんだ。「鈴木さんも会津出身でしょう。私もそうです。だから今日も会津のつながりで、ぜひ行かなくちゃと思ったんです」と言う。ありがたい話です。「この前も会津若松で講演してきたばかりです」と言いました。
二次会でも、ずっと会津の話をしてました。
②投票の前日、7月9日(土)。「初期社会主義研究会・7月例会」。「大杉栄ほかの住居跡を訪ねて」に参加しました。新宿・大久保地区をひたすら歩き回ります。ここは昔は、「豊多摩郡淀橋町角筈・柏木/大久保村(町)、大久保百人町です。昔の地図と今の地図を持って、歩きます。
③初めに都庁展望台に昇り、そこから、大まかな説明を受けます。案内し、解説してくれるのは手塚登士雄さん(エスペランティスト)です。私の近くの新宿に、こんなに多くの社会主義者、アナキストが住んでいたとは驚きです。
⑦大杉は50回も転居してたそうです。新宿だけでも、10回以上、引っ越してます。町を歩いていて、少しでも安いとこがあると、その日のうちに大八車に荷物を積んで、引っ越したそうです。ここは、最後の住居跡です。今の北新宿1の16です。ここに住んでた時に逮捕され、二度と戻ることはありませんでした。家の塀には、幸福実現党、公明党、日本共産党、社民党などの選挙ポスターが所狭しと貼られてました。ここの元住人を知ってるんでしょうかね。
⑧伊藤邦典氏(「楯の会」一期生)と対談しました。『紙の爆弾』で。そこに私の弟の宏三氏も参加しました。宏三氏の『三島由紀夫 幻の皇居突入計画』(彩流社)を読んで、邦典氏が、「ぜひ話しをしたい。実は…」と言ったのです。どうだったのか。そんな計画もあったのかと、驚きました。
邦典氏は青木理さんの『日本会議の正体』(平凡社新書)の中でも取材を受けてました。日本会議の政策責任者の伊藤哲夫氏を、「鈴木さんと二人で新潟まで行ってオルグした」と言ってます。私なんて全く忘れてました。全国学協を追われた時は、私は暴れて、邦典氏を壇上から突き落としたことがあります。「あの時は、ゴメン」と謝りました。こんな貴重な証言をしてくれたんです。
⑨伊藤邦典氏は「楯の会」一期生です。実は、「生長の家学生道場」にいた邦典氏を「楯の会」に紹介したのは私です。私は、ボーッとしていて無能で、やる気がない、リーダーだったので、全国学協の委員長をすぐクビになったと思ってました。ところが、邦典氏の話によると、哲夫氏のオルグだけでなく、全国をオルグし、優秀な人材をピックアップし、いろいろ考えていたんじゃなですか。
⑫実は、伊藤邦典氏とは60年以上前からの知り合いです。邦典氏のお父さんは「生長の家」の地方講師で、私の母が病を治してもらい、私もとてもお世話になりました。もう60年以上、昔ですね。その頃の写真です。
右の父母が邦典氏のお父さんお母さんです。写真前列。左は弟。私。邦典氏です。私はクマか猫のお面をかぶってます。後列、左は私の姉です。そして邦典氏の父母です。お母さんが抱いているのは、邦典氏の弟で邦明氏です。それにしても、私は何を食べてるんでしょう。リンゴかな。
㉔7月13日(水)。「笑の内閣」のお芝居を見ました。駒場東大前のアゴラ劇場で。高間響作・演出の「ただしヤクザを除く」。暴対法、暴排条例などを皮肉った芝居です。日本国憲法では、第14条に「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と書かれている。
しかし、暗に、「ただしヤクザを除く」と書かれているのではないか。そう告発しています。とても面白いし、思想的な演劇でした。終わって、高間響さんと私のトークがありました。そこにアーチャリーも特別参加して、体験を語ってくれました。