9月25日(日)、名古屋に行く。
午後1時から「牧野剛先生を偲び語る会」がある。
河合塾千種校の傍のホテル・メルパルク名古屋だ。
9月4日(日)は東京で「牧野先生を偲ぶ会」が行われた。多くの人々が集まり、牧野先生を偲んだ。
9月25日(日)、今度は、河合塾の本拠・名古屋で行われたのだ。
9月4日(日)は東京の河合塾コスモで行われたが、名古屋は千種校ではとても入りきれない。近くのホテルを借りて行われた。300人以上が集まった。
この日の「朝日新聞」には、この「偲ぶ会」が大きく取り上げられていた。
私も発起人として、挨拶をした。
牧野先生は河合塾のみならず、日本の予備校を代表する名物講師だった。
名古屋大学在学中に全共闘運動をやり、その後も、左翼運動、市民運動の先頭に立ってやってきた。
名古屋万博反対闘争などをやり、さらに知事選、市長選、衆院選などに立候補して闘った。
河合塾名古屋校に行って牧野先生の授業を見学したことがある。
大教室で教えていた。600人ほどの生徒を前にし、生徒をグッと惹きつける。一人も寝てない。皆、目を輝かせて聴き入っている。落語家でも、これだけの人を惹きつけることは難しい。
そして、授業が終わって「これから選挙運動に行く。行きたい人はついてこい!」と言う。教室の大半の生徒がゾロゾロと付いて行く。そして、選挙の演説だ。
今なら、こんなことをしたら大変だ。自分の政治運動に生徒を連れて行くんだから。
又、この先生は全てに型破りだった。
写真週刊誌に、何度もスクープされたが、「ビールを飲みながら授業をする」。それも、生徒がビールを献上するのだ。机の上にはズラリとビールが並んでいる。
又、誕生日には女子生徒からパンティを贈られ、それをかぶって授業する。
又、授業が終わると生徒を連れて、酒を飲みに行く。
今なら、そのどれだって出来ない。当時だって、高校、大学なら即、クビだ。
でも当時の予備校は大らかだった。生徒に人気があり、成績を上げれば何をやってもいい。
そういう「実力主義」があった。
型破りな先生たちが全国にいた。講師が黒板に字を書くが、(「板書」(ばんしょ)という)。自分で書かないで、水着の美女を連れてきて、板書をさせる、という人もいた。
又、自分が飼っていたハムスターを連れてきて、教壇の上で遊ばせながら授業をやる先生もいる。
又、講義もうまい。芸人などかなわない人が沢山いた。
その中でも、「河合塾の牧野」は有名だった。
私が、初めて牧野先生のことを知ったのは、『予備校に会う』という本だった。
西宮のエスエル出版会に行った時、そこで見つけた。
当時、『がんばれ新左翼』をエスエル出版会(鹿砦社)から出していた。
それで会社に行った時、奇妙な本を見つけた。
これは、予備校「革命」だ。かつて全共闘が大学で暴れていたが、今は、予備校を拠点にして暴れている。そんな感じがした。
又、完全な〈実力主義〉で、実力さえあれば、何をやっても許される。
生徒を連れて登山をしたり、飲み屋に行ったり。生徒を連れて行っちゃいけないのに。
当時は、皆、寛容だったんだ。生徒をデモや政治集会にも連れて行っている。いいのかよ。そんなことをして…と思った。
「ヘエー、凄い先生がいるんだな。予備校には」と、その時は思った。
それからしばらくして、「朝まで生テレビ」で牧野先生とバッタリ会った。世紀末大討論会だったと思う。
そこでも元気に、変わったことを言っていて、すっかり意気投合した。左右の違いなんてない。
「じゃ、名古屋校で講演してよ」と言われて行った。
「世紀末世界を生きる」というタイトルだった。サブタイトルは、「右翼人としての立場から」。まだバリバリの右翼だったのだ。
その講演は河合ブックレットから本になった。「解説」を牧野先生が書いてくれた。世の中を変えるのに右も左もないよ。といったことを書いていた。憂国の情を感じた。
さらに大阪校でやっている「左右激突討論会」にも呼ばれた。4、5回出たと思う。
塩見孝也さんや、在日の人、解放同盟の人なども出て、凄い討論会だった。
よく、予備校でやれるもんだと思った。大学だって、こんな危ない討論会は出来ない。いや、予備校だからできるのかもしれない。
この討論会は大阪校の松原先生が司会をしていた。この人も元気な人で、学生運動で逮捕されて、何年も勾留されていたというのが自慢のタネだった。ともかく、元全共闘が多かった。
そのうち、私も河合塾の講師になった。牧野先生が、必死にやってくれたのだ。本当にありがたかった。
時代は世紀末。私の心の中も世紀末だった。そんな時に、救われたのだ。
牧野先生は体制に対しては牙をむき、徹底的に闘っていたが、仲間に対しては無限に優しい。
私のような、はぐれ右翼に対しても情けをかけて、「仲間」だと思って助けてくれたのだろう。
元左翼の人の中には、逮捕歴があって、どこにも勤められない、生活出来ない、といった人が多い。そういう人をどんどん救済していた。
予備校の講師にしたり、職員、フェローにしたり。あるいは小論文の採点者にしたり。予備校当局と交渉して、のませていたのだ。これは凄いことだ。
このことは、今週の「マガ9」でも書いたことだが、仙台にいる母親が特に喜んだ。
過激な運動をし、もう「向こうの世界」に行ってしまったと思ってた息子が、ちゃんと予備校の先生になって、「こちら側の世界」に戻ってきた。そう思ったようだ。
私の「落ち方」については、母親は〈責任〉を感じていたようだ。
生長の家の熱烈な信者だった母は、私を生長の家の高校生錬成に行かせた。
それから私は、生長の家の運動をやることになり、生長の家の学生道場に入り、早大で左翼と闘う。さらに〈右翼〉運動に入り、過激な運動をやる。
初めは生長の家で穏やかな宗教活動だったのに、今は手を付けられない過激な世界に走ってしまった。何度も捕まっている。
そのうち大事件を起こして刑務所にぶち込まれるか、あるいは自決するか、殺されるか。どちらにしろ、末路は知れている、と思ったに違いない。
そんな時、牧野先生に救われ、河合塾の先生になった。「やっと、こちら側の世界に戻ってきた!」と喜んでいた。
それを、ひしひしと感じた。荒れすさんだ私の生活も変わった。この頃から、ジャナ専(ジャーナリスト専門学校)の講師にもなった。
又、週刊「SPA!」に連載をさせてもらった。「夕刻のコペルニクス」だ。
おかげで、月の収入も安定し、アパート代が払えるようになった。食えるようになった。
河合塾は元全共闘の先生が多い。だからこそ私のような「右翼=異分子」が一人くらいいても、皆、ウエルカムだった。私も居心地がいい。
又、周りは、いろんな分野の先生がいる。教えてもらうのには便利だ。いろんな授業に出て、勉強した。私自身が予備校生のようだった。
たとえば、「玉砕」について調べていて、よく分からない。漢文の元の意味を探す。古い時代に、一つの物語があって、そこに出てくる。でも、日本語訳には出てない。漢文の先生に聞いたら、原文を探してきて、「個人授業」で教えてくれた。
それをもとに書いたのが、『愛国の昭和』(講談社)だ。この漢文の先生のおかげだ。他にも、いろんな先生に教わっている。
私は現代文、読書ゼミをやったが、この分野でも、牧野先生に一から教えてもらった。
これまで本はかなり読んでいると思ってたし、文章だって書いている。「著述業」だと思っていた。
ところが、本の読み方、文の書き方を、一から教えてくれた。
ゲッ、私は文章を全く書けなかったんだ。本の読み方も知らなかったんだ、と痛感した。そんなことが多かった。
「読書ゼミ」は、牧野先生と私が交代で本を持ってきて、それを生徒と共に読む。
私は時局的、思想的な本ばかり持ってきて読んでいた。
ここで牧野先生は、理科系、数学系の本を見つけて読む。又、とてつもなく難しい哲学の本を読んだりする。
凄いと思った。私は、自分の理解出来る範囲の本しか読んでなかった。その殻を破れと教えられた。
9月25日(日)の「牧野先生を偲び、語る会」では、私もそうした話をした。自分の中の〈牧野体験〉を話した。
牧野先生に教えられた生徒は、全国で何万、何十万人といて、さらに講師になった人も何百人、何千人といる。私もその一人だ。
9月25日(日)の「朝日新聞」(名古屋版)には、この「偲ぶ会」のことが、大々的に載っていた。
〈「予備校に文化」足跡残し〉〈5月に他界、河合塾名物講師・牧野剛さん〉と。トップ記事だ。
この中で、親交のあった最首悟さん(駿台予備学校講師)はこう語っている。
「牧野さんは予備校に文化を根付かせた」と。
〈名古屋駅付近は、河合塾を含めた予備校が多く、浪人生が集まったため、「親不孝通り」と言われたことがある。だが、日陰者として扱われた浪人生のイメージを変えた。「人生には回り道も、崖から落ちることもある。多様な人生を体験していく場としての予備校を、エネルギッシュに展開した」と振り返る〉
この「崖から落ちる」「回り道」は大人の我々にも言える。
そんな時、ただ、呆然として絶望するか。あるいは〈愛と夢〉をもって再起するか。後者の方法を教えてくれるのが予備校だ。どう生きたらいいかを教えてくれた。
講師でありながら、我々の方が教えられたと思う。
この「朝日」には、講義する牧野先生の写真。それに、河合塾コスモで「読書ゼミ」をする先生の写真が載っている。
読書ゼミでは、畳を敷いて、そこに座り、横になって、本を読む。牧野先生は、ゴロリと寝ている。そこで皆で、本を読み、発表し、考える。大学のゼミでもやらないような高度なゼミだ。
名古屋の「偲び、語る会」では、多くの人に会った。世界史の青木先生、福岡の茅島先生…。そして、予備校以外でも、呉智英さんなどの友人たちにも会った。
又、一緒に行った岩井さんは、ずっと牧野先生に憧れていた人だ。さらに、東京からも随分と来ていた。
皆、心の中に牧野先生の思い出がある。心の中の〈牧野先生〉を大切にし、それを大きくしていこう、と思った。
「有名なおじさん」の話を聞く。世間的には、いつも怒鳴っていて、怖いイメージがあるが、由美さんは「とても優しいおじさんだった」という。子供の時から、大好きだったという。
でも下の妹は、その風貌に、泣き出していた。敏さんは、それを気にして、バナナを持ってきて、妹の機嫌をとってたという。「唯一、機嫌をとった人」が妹だ、という。その光景が見えるようだ。
そして家庭での話、思想的な話、超有名人を親類に持った困惑、苦労などを話してもらった。
終わって、居酒屋「土風炉」で飲む。
⑧9月26日(月)、文化放送に出ました。左から、大竹まことさん。鈴木。辺見えみりさん。午後2時20分からの「大竹まこと ゴールデンラジオ」です。『これからどこへ行くのか』をテーマに、詳しく聞かれました。