10月15日(土)、甲府に行ってきた。甲府市の桜座で、〈竹中労 没後25年、今ふたたび〉が行われた。
竹中労にゆかりのあるひとたちが集まって、思い出話をし、ひっそりと追悼をする。そういう集まりだと思っていた。
そんな、ひっそりとした、しめやかな集まりかと思っていたら、とんでもない。凄い集まりになった。
会場の桜座には続々と客が詰めかけ、満員。
「何人くらい入ったんですか?」と劇場の人に聞いた。地方の劇場だ。40人か50人で一杯になるだろう。
そう思っていたら、何と「200人、入ってます」と言う。
驚いた。そんなに人が入ったのか。ソッと覗いてみたら、本当だった。
それに中は広い。2階席もある。昔の芝居小屋のような造りになっている。ウアー、ここでトークをやるのか! と思った。
〈竹中労 没後25年、今ふたたび〉は、二部構成になっている。
第一部は竹中さんが作った映画「戒厳令の夜」の特別上映会。(13:30~15:45)。
第二部は「労を偲ぶトークの集い」(16:10~18:30)。
私らは午前9時新宿発の電車に乗る。11時に甲府に着く。平田君や寅ちゃん、瀧沢さんなどが一緒だった。
電車に乗ったら、作家の武田砂鉄さんがいた。和歌山から来た下中さんもいた。甲府の駅に着いたら、「劇団再生」の高木さんもいた。
始まるまで2時間もあるので、まず昼食。駅のそばのレストランで信州ソバを食べる。
そして車で桜座へ。ここでは有名な劇場らしい。すぐに分かった。
小さなライブハウスかと思ったら、なかなか立派だった。大きい。毎日、芝居やコンサートが行われている。
主催者の竹中紫さんが迎えてくれる。竹中労さんの妹さんで、ここ甲府の湯村の杜で「竹中英太郎記念館」の館長をやっている。
竹中英太郎は有名な画家で、労さんのお父さんだ。その記念館には何度も行ってる。
英太郎さんの資料と同時に、労さんの資料も大量に展示されている。「竹中英太郎・労記念館」という感じだ。
そして、今日のトークの司会をやる金子望さんに会った。竹中紫さんの旦那さんだ。竹中英太郎記念館主宰だ。
トークのゲストの小浜司さん。小泉信一さんにも紹介される。
小浜さんは沖縄音楽プロデューサーで、島唄案内人だ。
労さんは沖縄には何十回も行っている。島唄を愛し、絶賛し、本土に紹介していた。沖縄は東京に次ぐ拠点だった。
そこで、労さんの活動を手助けしてくれたのが小浜さんだ。
病気の時も、看護婦をつけて沖縄に行き、そこで倒れた。寝たまま飛行機に乗せられ、東京へ。そして入院し、そのまま帰らぬ人になった。
それだけ沖縄を愛していた。沖縄についての本も沢山ある。
又、小泉信一さんは朝日新聞編集委員だ。若い時から労さんに心酔し、労さんのことを何度も書いた。
労さんは一匹狼のルポライターだった。大マスコミから見た一匹狼はどう映ったのか。それを語ってくれた。
トークのゲストの人に挨拶していると、そこへ、トコトコと入ってきた人がいる。
あっ、樹木希林さんだ。「初めまして」と皆が挨拶している。私も初対面だ。
「内田裕也さんにはよく会ってます。お世話になってます」と私は言いました。
内田さんは旦那さんだ。この前は「徹子の部屋」に2人で出ていた。面白い夫婦だ。
そうか、希林さんが来るので満員になったのか。
「では、打ち合わせをしますので」と金子さん。近くの食堂へ行く。ゲストの皆で、食事をしながら打ち合わせだ。「私は食べてきましたので」とコーヒーをもらう。他の人たちは食事をする。
第二部のトークで、どんな話をするか。大体の打ち合わせをする。
希林さんは、大女優だし、皆、初めは緊張していた。でも、とっても気さくな人だ。
労さんの思い出も楽しく語ってくれる。初めて聞く話ばかりだ。希林さんにかかっては、タブーも何もない。ズバズバと言う。
労さんとも初めは、ケンカから始まったという。
労さんが劇団に抗議してきた。劇団の人は皆、恐がって逃げてしまう。
当時、下っ端だったが希林さんが、相手をして、反撃した。恐いもの知らずで労さんとやりあった。
それが気に入ったと言って、抗議者の労さんと仲良くなった。
「じゃ、それは本番のトークの時にたっぷりと聞かせて下さい」と司会の金子さん。
「では、桜座に戻りましょう」となった時、希林さんが思わぬことを言う。
「この前、水道橋博士に会ったので、今日のことを話したら、ぜひ聞きたいって。車を飛ばして来るから、第二部には間に合う、と言ってましたよ」。凄い。「じゃ、トークにも出てもらいましょうよ」となった。
第一部の開始直前に、桜座に戻る。満員だ。
「希林さん、サインして下さい」「一緒に写真を撮って下さい」と声をかけられる。いやな顔もしないで、全て応じている。
200人も入った客席では、スクリーンを下ろして第一部の映画が始まる。
30年以上前の映画だ。五木寛之原作・山下耕作監督。竹中労監修。又、若松孝二さんも製作で入っている。豪華だ。
南米コロンビアでの長期ロケもあったし、随分と金のかかった映画だ。
又、出演者も、鶴田浩二、伊藤孝雄、樋口可南子、長門勇、伊藤雄之助、と豪華だ。
私は封切られてすぐに見た。そして今日で2回目だ。
我々ゲストは、芝居小屋とは別の部屋で、スクリーンで見た。初めて見る人もいるが、大体は2度目、3度目の人たちだ。
映画が終わり、10分の休憩のあと、16時10分からトークが始まる。
トークのゲストは5人。樹木希林さん、小浜司さん、小泉信一さん、竹中紫さん、そして私。司会は金子望さんだ。
「では始めましょうか」と金子さんが言ったところで、水道橋博士が到着。「ぜひゲストで」とお願いし、イスを増やす。
水道橋博士は、昔から竹中労ファンだ。労さんの『ルポライター事始』を読んで、「よし、俺もルポライターになる!」と決意したという。それが中学生の頃だ。
そして、労さんの本を読みまくった。労さんの思い出も語ってくれる。
博士は50才だという。「我々の世代は知ってるが、若い人たちは知らない。もっともっと知ってもらい、読んでもらいたい」「そのためには…」という話もする。博士は50才か。知らなかった。若々しいから30代かと思っていた。
武田砂鉄さんも、やはり労ファンで、労さんを継ぐ人だ。でも博士より20才下だから。
そうか、昼間たかし君もいた。彼も竹中労に心酔し、文体も真似ている。最近出した本を見ても、「竹中労だ」と思った。
武田、昼間氏だけでなく、物書きを目指す人は、皆、竹中労を読んでいる。
でも、大マスコミはどうだろう。
大新聞社では「竹中労なんか」という空気があるのではないか。「普通のルポライターとは違う」というものがあるのではないか。
でも、文章では書けないが、「竹中労が好きだ」という人は多いという。本を読んで、文体を真似たり、影響を受けてる人は多いようだ。
小泉さんも朝日に最近、「竹中労ふたたび」という記事を書いたという。
労さんは「偉い人を斬る」という連載をやり、佐藤栄作首相の夫人を斬りまくった。又、首相、共産党委員長なども斬りまくり、大変な騒ぎになった。裁判沙汰になったことも多い。
そんな札付きの「ルポライター」は、今なら、どこも使わないだろう。
まず、企画会議の段階で断られる。「何かあったら大変だ」という理屈で、まだ、「何も起こらない」のに。でも、いつか抗議が来たら困る。
それで、こういう危ないライターは使わない。
それに、こうした傾向は今の方が強い。ネットやメール、携帯で、即、抗議出来るからだ。
すぐに、自由に、自分の考えを言える。万人に通じる。これでこそ、「言論の自由」かもしれない。
でも、そのために潰されていった「言論」も多いのだ。
希林さんも、こうした芸能界、マスコミの閉鎖性についても大いに語ってくれた。
この日は、豪華なゲスト陣で、ここに集まった200人の皆も堪能していた。質問も出ていた。
又、紫さんが「労さんの同級生です」などと紹介し、話してもらった人も。労さんの子供さんも来ていたようだ。「労さんの故郷」ならではだ。
18時30分に終わり、そのまま別室で懇親会。多くの人が残って参加していた。
東京から来た人も多かった。北海道、九州から来た人も。
中には、「コロンビアから来ました」という人も。南米から、昨日までコロンビアにいたんですが、「竹中さんを偲ぶ会があると聞いて、日本に来ました」。これは凄い。大盛会だった。
そして、最終の新幹線で帰りました。希林さんたちは甲府で泊まる。
あっ、そうだ。第二部では私も話をした。
「右翼」という枠を壊してくれたのが労さんだ。労さんは文章もうまいし、話すのもうまい。両方うまい人はなかなかいない。その点、労さんは天才的だった。
左翼的な人だったが、それまで会った右翼の人たちよりも、信用出来ると思った。
文章は激しいが、本当は心の優しい人だった。そばにいてホッとする人だった。
右も左も関係ない、と言い、実際に実行している人だった。
才能がありすぎて、文章だけでなく、音楽、映画なども手掛けた。
世に受け入れられず、失敗し、大変な借金を抱えたこともある。家族にも迷惑をかけた。
そのお詫びの気持ちもあったのだろう。妹の紫さんが栄養専門学校を受ける時は、「おれが書いてやる」と、提出するレポートを代筆してくれた。
ところが、余りに文章がうますぎ、又、栄養学とは関係のない話なので、落ちてしまったという。
「竹中労の文章を落とすのかよ」と思ったが、栄養学のレポートには合ってなかったのだ。
「じゃ、竹中労全集を作って下さいよ、とお願いした。その中に、専門学校に出したレポートも入れて下さい」とお願いした。
そうだ。今も竹中労を読んでる若者は多い。
「偲ぶ会」には、こうして200人以上が集まる。じゃ、半年にいっぺんでも、「竹中労を語る会」をここでやりましょうと提案した。
皆も堪能しただろうが、我々ゲストも堪能した。私も多くのことを学んだ。30年分くらい、勉強したし、教えられた。そう思った。
それが終わって、井上淳一監督が「解説」をする。長い間、若松監督の助監督をやってきて、この2本でも実質的に監督として仕事をしている。かなり前衛的な作品で、金はかかるし、あまり、理解してもらえないし、大変だったと苦労話をする。
そして「今日は、若松監督を知る人たちが来てますので、登壇してもらい、話してもらいましょう」と言う。歌手のPANTAさん、映画監督の片嶋一貴さん、そして私が呼ばれた。
今見た映画の感想、そして、若松さんとの付き合い、苦労…などの話をする。
でも、映画が始まったのは夜9時だ。終わったのは11時半。
それからトークが始まって、終わったのは1時頃だ。もう電車はない。「じゃ、打ち上げに行きましょう」と監督たちと近くの居酒屋へ。
終わったら、3時過ぎだ。雨は凄く降っていて、タクシーを拾って帰るしかない。
ところがPANTAさんが、「車で来てます。鈴木さんは帰る途中だから、乗っけて行きますよ」という。
エッ? PANTAさんに悪いな。それに、井上監督も、「僕も中野ですから」。そして「私も近いから」と瀧沢さんも乗り込んでくる。
PANTAさんも大変だ。本当にありがとうございました。
①10月15日(土)。甲府市の桜座で、〈竹中労 没後25年。今ふたたび」が行われました。第一部。映画「戒厳令の夜」の上映に続き、第二部。「労を偲ぶ トークイベント」が行われました。左から竹中紫さん(労さんの妹さんで、竹中英太郎記念館館長)。鈴木。樹木希林さん。水道橋博士。
⑱10月14日(金)、午後4時より、『紙の爆弾』の仕事。高田馬場・喫茶店「ミヤマ」会議室で、長野から来た平田竜二氏と対談。師である見沢知廉氏(故人)に会いたくて恐山に行ってきたそうです。その衝撃の体験を話してもらいました。
㉒10月14日(金)午後6時から、辻元清美さんの出版記念ゼミナールが憲政会館で開かれました。『デマとデモクラシー』(イースト新書)の出版記念です。
何と、「かつての敵」小林よしのりさんと対談してました。「昔は、辻元さんを徹底的に批判し、馬鹿にしてたのに」と聞いたら、「進化したんですよ」と言ってました。よしりんが「進化」したのか、二人が
進化したのか。
㉖湯川れい子さんと。音楽評論家・作詞家です。「あの時はお世話になりました」とお礼を言いました。20年ほど前、ピースボートの国内クルーズの船にに乗りました。屋久島に行ったんです。その時に、四国の四万十川にも行きました。