元・東大全共闘議長の山本義隆さんの講演を聞いた。京都・精華大学で行なわれた。素晴らしかった。
テーマは「近代日本と自由=科学と戦争をめぐって」だった。
そうなのか。聞いた後、何故このテーマを選んだのか、分かった。かつての東大闘争にも通じるテーマだ。
又、なぜ、マスコミの取材に応じないのか。対談・講演なども全て断ってきたのか。その理由も分かった。
山本さんは「マスコミ嫌い」として知られている。又、かつての学生運動についても何も語らない。取材陣は押し掛けるのだが、語らない。
今は予備校の講師をして、教えている。どこかで会える機会があると思ったが、ずっと、なかった。
対談、講演を聞く機会もない。ナマの話は聞けないものだと諦めていた。
ところがここ数年で、状況が変わった。
専門の物理の本を出した。又、(株)金曜日から学生運動の回顧を含めた本を出した。
その本を担当したのは赤岩記者だ。これは凄いことだ。
さらに、学生運動の「写真展」を各地で行なっている。特に、運動の中で亡くなった京大生・山崎博昭氏のことは忘れられないし、後に続く世代へ継承してほしいと言う。だから、その「展示監修」になっている。
又、この時代と闘いを考え、継承するため、「60年代研究会」を作り、山本さんはその代表になっている。
ただ、「写真展」では、短い挨拶だけにとどめていた。
マスコミの取材などは一切ない。断っているようだ。対談、講演もない。ましてや、テレビに出たり、討論会に出ることもない。
ところが、10月21日(金)は、京都・精華大学で講演するという。これはぜひ聞きに行かなくちゃと思った。
なぜ京都なのか。なぜ精華大学なのか。疑問はあるが、ともかく、行こうと思った。
精華大学の明窓館M-201教室だ。一番大きな教室だ。
驚いたことに、その大教室が満員だった。精華大の主催者に聞いたら、「500人入ってます」と言う。凄い。大教室が超満員だ。
東京から来てる人も結構いる。全国から来てるんだ。
開場は午後6時。6時半開演。1時間半、講演し、残り30分は質問を受ける。
講演も質問も初めてだ。学生運動をやめてからは全く初めての体験かもしれない。
予備校で話はするだろうが、それは授業だ。学生運動のことや自分の主張はしない。
1960年代後半、東大闘争で、ヘルメットをかぶり、ハンドマイクで演説していた。あの時以来なのではないか。そんな気がする。
「山本議長が何を語るのか」と500人はじっと待ち構えている。
この精華大学までは、ちょっと遠い。
新幹線で京都に降りる。そこからすぐかと思ったが違う。
地下鉄烏丸線に乗り、終点近くの「国際会館前」で下車する。地上に出て、「京都精華大学」行きのスクールバスに乗る。それしかない。
混んでるときは大変だ。10分間隔でバスは来るが、満員で何台も乗れないこともある。実際、帰りはそうだった。
午後8時半に講演・質問が終わり、懇親会に出る予定だった。そして京都に泊まる。その予定をして、ホテルも予約した。
ところが仙台の兄貴から連絡があり、翌10月22日(土)は、父親の法事だという。27回忌で、それで最後だろうと言う。
じゃ、何としても参加しなくては。21日に京都に泊まり、翌22日に、朝一番の新幹線で仙台に行こうかと思ったが、これは無理だ。
お寺は仙台ではなく塩釜にある。仙台から仙石線に乗って40分か50分はかかる。法事は午前10時からだ。
それを考えたら、22日は京都を一番で出ても、間に合わない。
仕方ない。21日の最終で帰ろう。ホテルはキャンセルし、21日夜に帰京することにした。
山本さんには、ちょっと挨拶しただけで、バスの停留所に急いだ。
しかし、長蛇の列だ。他に交通手段がないからだ。
8時30分発は満員で乗れなくて、8時40分も乗れない。やっと8時50分に乗れた。「国際会議所前」に着いてからは、走った。ダッシュだ。
そして地下鉄に乗り、京都駅へ。そして最終の8時40分発に。
ギリギリ間に合った。あとは東京まで爆睡だった。
この日は、全国から聞きに来ていた。大学の先生たちも多い。この日に帰らなくちゃならない人もいる。
そういう人たちは、タクシーを呼んでいた。会場のそばに何台も何台も並んでいる。あっ、そうか。タクシーを呼んどけばよかったな、と思った。
でも京都駅まではかなり遠い。5千円か1万円か。でも、何台もバスに乗れないことを考えたら、こっちの方が利口な選択だ。
ともかく、遠いし、アクセスもかなり不便だ。でも、そんな不便なところに、交通費を払って行ったのだ。その甲斐はあった。
500人の聴衆は皆、そう思ったはずだ。「よかったね」「全く知らない話だった」と口々に言い合っている。
「あの質問もよかったね」「山本さん。マジに怒ってたね」…と話し合っている。
私は、「講演会」は随分と聞いている。でも、こういう講演は久しぶりだ。いや、初めてだろう。
だって、大体は、予測出来る。講師を見ると、結論が分かる。
改憲論者が話す。それは「改憲しよう」という話だ。護憲論者の話ならば、逆に「平和憲法を護りましょう」という結論になる。
でも山本さんは全く分からない。
テーマは「近代日本と自由」であり、サブタイトルは「科学と戦争をめぐって」だ。
一体どんな話をするんだろう。空疎なスローガンばっかりで「科学」的な考え方がなかったので戦争に敗けたんだ、という話かな、と思った。予測がつかない。
又、私の予測とは全く違った講演だった。
東大闘争については全く話をしない。しかし、戦争中の科学、科学者の態度を見ることで、東大闘争時の教官、学生たちの当惑、闘いを想起させる。そんな気がした。
それと、精華大学という〈主催者〉の意味も大きかったと思う。
精華大学は異色の大学だ。学長が漫画家の竹宮恵子さんだ。異色の学科があり、変わり種の学生がいる。最近、急成長した大学だ。
山本さんの講演は、「近代日本と自由=科学と戦争をめぐって」だが、その上にもう一つ書かれている。〈京都精華大学岡本清一記念講座『日本と世界を考える』〉の一環としてこの講演は行なわれる。そういうことだ。
えっ、「岡本清一って誰だ。と思ったら、山本さんの講演の前に、理事長が挨拶し、話をする。岡本さんは、この精華大学を創設した人だ。
初代学長として1968年の「入学案内」に書かれた言葉が当日、渡された。
「教育の基本方針に関する覚書」、「京都精華大学の基本理念」、(発足当時は「京都精華短期大学」といった)「京都精華短期大学の教育における責任」、「京都精華大学の経営における責任」などが書かれている。
他の大学ではない。大学側の問題点も指摘しながら、どうやって本来の大学を作っていくか。自らの覚悟と責任を表わしている。
堂々たる宣言だ。たとえば、
〈大学は学問と教育と深い友情とを発見する場所である。学生の精神を凍りつかせるような官僚主義的な規模の大学では、友情を培うことができない。学生を群衆の一部としか扱うことのできない巨大な大学においては、学生の孤独からの脱出はきわめて困難である。そして学問的にまた人間的に魅力のない教授による教育は、無意味である〉
驚いた。大学が自らの責任をこれだけ厳しく言っている。
特に、最後の言葉だ。ここまで言うのかと思う。
「魅力のない教授による教育は無意味である」。無意味な教育が、全国でなされている。
東大闘争の時にもそうだったんだろう。山本さんは、これを読んで、「精華大学でなら、講演してもいい」と思ったのだろう。そうに違いない。
又、こういう宣言もある。
〈京都精華短期大学は、人間を尊重し、人間を大切にすることを、その教育の基本理念とする。この理念は日本国憲法および教育基本法を貴き世界人権宣言の背骨をなすものである〉
〈教員の学生に対する愛情責任は、親の子に対するそれが無限であるように、無限でなければならない。職員もまた教育に準じて教室外教育の一班の責任を負う〉
堂々とした教育宣言だ。
又、この岡本清一記念講座「日本と世界を考える」の主旨も素晴らしい。
〈日本の近代化150年は、その前半は軍事大国化への道。後半は経済大国化への道であり、いずれの場合も総力戦として戦い、科学技術は一貫してその過程を支えてきた。軍事的な戦争はヒロシマとナガサキで止めをさされたが、科学技術に対する信頼は揺らぐことがなかった。フクシマの事故が経済戦争に引導を渡したのであれば、それは戦前・戦後を貫く総力戦体制の破綻を意味している。今は日本の科学技術150年を立ち止まって考えてみる時であろう。日本における近代科学技術の受容の過程を見なおし、世界の中での自由のあり方を考える手がかりにしたいと思う〉
山本さんの講演も、それを踏まえたものだった。
これは「マガ9」にも書いたが、どうも我々は、〈科学〉はいいものだ、人間を幸せにする、だが、科学者は戦争中に弾圧された。「犠牲者」だ、と思い込んでいる。
文科系の、科学精神のない連中が、やみくもに戦争を起こした。科学者は弾圧されたと。
ところが違うんだ。戦争中、嬉々として協力し、戦後の経済発展も、同じ人間たちがやってきたのだという。
これはあまり語られることはない。当の科学者から、これが語られるのだ。説得力があった。
出版社の人や、マスコミの人も聞きにきていたので、ぜひこの講演は本にまとめてもらいたい。
本当にいい講演を聞いたと思った。京都に行った甲斐があったと思う。
翌10月22日(土)は、朝6時の新幹線で仙台に行き、それから塩釜の東園寺に行く。
父親の27回忌だ。「これが最後だろうから、来るように」と言われていた。久しぶりに鈴木三兄弟がそろった。
仙台ではコートを着てる人もいて、かなり寒かった。
10月25日(火)は、映画監督の崔洋一さんの「おでんパーティ」に誘われて、行ってきた。
久しぶりに会った。この人は学者であり、思想家だと思った。
いろんな話を聞いた。映画関係者が多かったので、映画の話が中心になる。
27日(木)、テレビを見ていたら、「三笠宮さま薨去」が報じられた。驚いた。28日(金)の朝刊は、どこも特集していた。
昭和天皇の末弟として、大正、昭和、平成の三つの時代を生き、歴史的な局面に数多く立ち会われてきた。昭和天皇の御聖断にもお立ち会いした。
ポツダム宣言受諾の翻意を訴える者には、こう言って叱責された。
〈陸軍は満州事変以来、大御心に沿わない行動ばかりしてきた〉
又、自らが体験した軍の〈実態〉についても書かれ、批判され、波紋が広がった。
でも、勇気を持って書かれた。南京に赴任した18〜19年の体験について、著書『帝王と墓と民衆』で、こう書かれている。
〈かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった〉。
そして、
〈求めるものは、ただ平和のみとなった〉
と述べられている。
戦後間もなく、歴史研究の道に進み、古代オリエント史の研究を続け、大学でも教えられた。
又、紀元節の復活には、学術的な視点から反対の立場を取られた。
これも、右翼からも攻撃されたことがあった。皇族という立場で、これだけのことを発表し、行動されてきた。大変なことだと思う。
もっともっとさ発表して欲しかったし、聞いてみたかった。残念だ。
そのうち、あれっ、こんなとこにギターがあるよ、と発見した人がいて、「じゃ、PANTAさん、歌ってよ」となった。たった7人のために歌う。普通ならやんないよ。大ミュージシャンなんだし。
でも、PANTAさんは人がいいから、「いいよ」とやってくれた。贅沢なコンサートだ。皆、感動していた。そして、帰りに車で送ってくれた。申し訳ないです。
学校では、「ゴーギャン・せんべい」を食べながら、皆で読んだ。
終わって、新宿ピカデリー。『SCOOP』を見る。福山雅治が悪どいパパラッチを演じる。初の汚れ役だ。
とてもよかった。面白かった。
⑦成田の「世直し大集会」のポスターがありました。当日の弁士として、書かれた人が凄いです。荒畑寒村。羽仁五郎。井上清。佐多稲子。井上ひさし。小田実。凄い人ばかりですね。荒畑寒村は、歴史上の人物と思ってましたが、この時は生きてたんですね。話を聞いてみたかった。
⑪当時を知るための「歴史的資料」として、「ガリ版(謄写版セット)」が展示されてました。〈1970年代までの学生運動・労働運動・市民運動で絶大な力を発揮した」と説明文が書かれてます。今はもう使ってる人はいないのかな。昔は、「ビラまき3年。ガリ8年」と言われたもんですよ。
⑫早く京都に着いたので、精華大学に行く前に、京都現代美術館(東山区祇園町)に行きました。「木村伊兵衛展」を見たのです。写真の女性は秋田美人です。秋田では、お米やお酒のCMに、この写真がよく使われてます。秋田の米を食べ、お酒を飲むと、こんな美人になれますよ、と。
⑳この日、東園寺では、午前中にこれだけの法事がありました。30分刻みです。10時、10時半、11時で3つは「鈴木家」です。別に親類でもありません。鈴木は、日本一多い姓ですが、特に塩釜では多いそうです。
㉑塩釜で食事をして、そこで現地解散。塩釜から仙石線に乗りました。仙台駅に行く前に、「あっ、そうだ。水族館が出来たんだ」と思い出して、途中で降りました。2年前に出来たのです。「仙台うみの杜水族館」です。大きくて、立派です。