11月5日(土)、午後2時半。日本プレスセンター9階(日本記者クラブ会見ルーム)に行きました。
〈木村三浩君の耳順を祝い叱咤激励する会〉でした。
初め、案内状をもらった時、この「耳順」が分からなかった。
何それ? 何と読むの?。耳の病気で寝ていて順調に回復した祝いかな。
と思ったら、どうも、60才の「還暦」のことらしい。
そうか。高校の漢文で習ったな、と思った。でも初めは、これも分からなくて、たしか還暦かな、古稀かな、喜寿かな? と迷った。
活動量もそうだが、年齢においても私は超えられたのかな、と思った。
でも60才と聞いてホッとした。
『論語』によると、60才というのは、素直に人の話に耳を傾けることができる一方、どんな話が聞こえてきても動じないさまを「耳順」というらしい。
〈まさに自らの信ずるところに従い、東奔西走する木村君の境地そのものではないでしょか〉
と、「激励する会」の事務局では書いてます。
場所もいい。日本記者クラブだ。ある新聞記者が言ってたが、「昨日は、スーチーさんがここで会見したんです。その同じ場所に立って今日は木村さんが話をする。実に意義深い、歴史的なことです」と。
発起人は政界、言論界の先頭で闘っている人ばかりだ。
青木理、小林節、小林興起、清水信次、下村満子、高野孟、西部邁、鳩山由紀夫、孫崎享、八木秀次、山口敏夫、山田正彦…と、錚々たる顔ぶれだ。
その中に、私までが入っている。発起人の一人として。申し訳ないです。
「乾杯の音頭をしてくれ」と言われたので、打ち合わせもあり、少し早目に行った。
もう一水会の若者が立ち働いている。最近は人が増えて、私の知らない若者も多い。運動が大きくなり、入りたい人が増えている。いいことだ。
外国の人もいる。日本に来ている留学生だが、会員になって運動してるという。
「どこの国?」「ロシアです」。それで、「ズドラーストヴィチェ(今日は)」と挨拶しました。
私はロシアには5回も行っている(旧ソ連の時も含めて)。
そのうち、3回はハバロフスクだ。ロシアの格闘技、「サンボ」を習うために行った。そんな話をした。
又、一水会の若者の中には、女性も4、5人いる。人権運動をやっている人。映画関係の人。
そして、あれっと思ったが、男装の麗人がいる。まるで宝塚のようだね、と言った。いろんな人たちがいて、運動を推進し、支えている。ありがたい。
人もどんどん集まる。
西部邁さんは久しぶりだ。挨拶したら、ブツブツと呟いている。
「俺の時は誰も還暦を祝ってくれなかった。それなのに木村君だけ、皆が祝っている。おかしい」と。
二人はよくテレビでも共演してるし、親しい。親しいが故の小言(嫉妬?)なのだろう。
考えてみたら私だって、やってない。還暦だなんて、自分でも忘れていた。知らなかった。いや、年齢を確認する集まりなんか、やるもんかと思っていたのだ。
そうしているうちに開会だ。7時10分だ。
司会者が挨拶する。藤生さんだ。マスコミ関係者だ。
マスコミ陣に声をかけて、今日のお祝いの会をすることになった。〈本人は嫌がってたんですが、世界に飛躍する一水会の運動を見つめ、又、ヘイトスピーチや内向きの保守運動ばかりの時に、「真のナショナリズムとはこれだ!」と身体をもって示している木村さんの運動をより知ってもらいたい。その意味で、今日の「耳順を祝う会」を持ちました〉と挨拶する。
実際の会の運営はこうしたマスコミ人がやっているのだろう。ここの日本記者クラブだって、マスコミ人でなければ借りられないし。
そして、来賓の挨拶。
鳩山由紀夫さん、鈴木宗男さん、山口敏夫さん、小林興起さん、と政治家が続き、八木秀次さん、西部邁さん、富岡幸一郎さん、高野孟さん…と、評論家の人々が挨拶をする。
そして、乾杯の音頭だ。私が出る予定だったが、「乾杯は外の人が来て、お祝いするのですから、一水会以外の人がいいでしょう。だから鈴木さんは最後の締めの挨拶をお願いします」と言う。
そうか、「締めの挨拶」なら、一水会の人間が、「お礼」を言うのだ。私はまだ「内輪の人間」として理解してもらえているのだ。これはありがたい。
乾杯の音頭は西部さんだった。
それから、いよいよ、木村三浩氏の挨拶。
2000年に一水会代表になってから16年。実に多くのことをやり、世界を股にかけて活動してきた。
イラクには何十回となく行っている。ロシア、インドにも何回も行き、世界の愛国者たちと連帯し、日本で「世界愛国者会議」を開いている。フランスのルペンさんを初め、世界の名だたる愛国者たちが日本に結集した。
その時は、皆の希望で、皇居、靖国神社にも行っている。
日本のマスコミがドッと押し掛けた。ルペンさんに聞いている。
参拝した人は、ほとんどヨーロッパの国会議員で、愛国者だ。先の大戦では、戦勝国だ。それなのに、負けた国の指導者たちが眠っている靖国神社に参拝している。おかしいではないか、と記者たちは聞く。
「おかしくない。愛国者として当然のことだ。たとえ負けても、国のために戦った愛国者だ。その愛国者を参拝し、こうして来ている。その人たちを参拝するやり方が、神道式ならば、それに従ってやる」とルペンさんは答えていた。
そして昇殿参拝をし、宮司さんから、参拝のやり方を聞いて実行していた。
ヨーロッパの議員たちは、ほとんどがキリスト教徒だ。それなのに、ちゃんと神式でお参りしている。これは偉いと思った。
この大会が終わってからは、彼らは奈良、京都に行っている。木村代表が案内をした。
これらの運動を踏まえて、一水会を率い、闘っている。「世界の一水会」として闘っている。
今年60才だが、「これからだ」と元気に言う。80才、90才までも元気で頑張ると宣言。もう30年は安泰だ。
人によっては、息子さんが20才になったら、代表を譲り、隠居するのではという噂もあった。
しかし、そんな無責任な噂をキッパリと否定。もう30年は元気でやり、90才、100才までも現役でやるだろう。頑張ってほしい。
私は、いろんなパーティに出ることがある。最近は、左のパーティの方が多いが、右翼のパーティにも出る。きまって、「あっ、木村さん!」と言われる。
「一水会イコール木村」と、皆、思ってるようだ。右翼の偉い人から言われると、無碍に否定するのも失礼と思い、「はい、木村です。いつもお世話になって、ありがとうございます」と答える。
それだけ一水会は「木村」なのだ。木村氏が挨拶で言っていたが、2000年に代表になり、16年だ。
じゃ、その前は誰だ。私だ。それも、1972年に作ったのだ。だから木村氏の前は30年近くになる。
ずっと代表をやっていたのは私だ。それなりに、30年間の「木村以前」は完全に忘れられ、16年間の「木村以降」だけが言われている。
これは凄いことだが、前の代表としては、少し淋しい。
一水会創立のことについては、『新右翼』(彩流社)に詳しく書いた。又、いろんなとこに書いている。
ざっとおさらいをすると、こうだ。
1970年の三島事件のあと、昔の仲間が集まってきて、1972年に創った。
その時、私は産経新聞の社員だった。いわば、サラリーマンの勉強会だったんだ。初めは。
ところが74年に会社をクビになり、私は運動の専従になり、そして若い人も集まってきて、一水会は、〈運動体〉になっていった。
いろんなこともやった。危ない目にもあった。見沢知廉氏の「査問事件」もあった。
警察の弾圧を食い、「もうダメだ」と思ったことが何度もあった。
仲間たちがどんどん捕まった。そんな「冬の時代」もあった。
1972年から1999年まで私は一水会代表をやった。
厳しい時代だったが、「朝まで生テレビ」や「朝日ジャーナル」などの媒体に出て、「言論戦」に加わった。
又、左翼の人たちとも知り合い、運動の幅が広がった。
特に木村三浩氏が一水会に入ってくれたことが大きい。
2000年には木村氏に代表を替わってもらった。
30年近く私は代表をやってきて、大したことはやってない。ただ一つ、胸を張れることは、優秀な後継者に恵まれたことだろう。
こう言うと私が、後継者を育てたように聞こえるが、違う。
私が教えたとか、育てたなんて、一つもない。
大体、一水会に来たときは、木村氏はすでに立派な活動家だった。むしろ、私を初め、一水会の皆は、木村氏によって育てられたのだ。
木村氏は、慶応大学を出て、その人脈も広い。
それに、根っからの活動家だ。一水会に来る前は、尖閣に渡り、実効支配をしていた。人間だけでなく、ヤギも連れて行き、今はそのヤギが増え、尖閣を〈実効支配〉している。
又、いろんな非合法闘争もやった。彼は何度も捕まった。
でも、どんな時でも、じっと耐え、被害を最少でとどめ、拡大させなかった。
彼が一言、いえば、私も捕まっていた。警察も必死になって言わせようとした。
「あれは鈴木がやらせた」「これも鈴木の命令だ」と言われたら、私はすぐに逮捕され、長期間、ぶち込まれただろう。今も入っていたかもしれない。そんな大きな事件の「嫌疑」をかけられていた。
しかし、木村氏は一切、口を割らなかった。
彼のおかげで、私は生きているようなものだ。
そして、1999年、この年も一水会は危機だった。
「失言家」の私が一番悪いのだが、この年は、日の丸・君が代の法制化がはかられた年だ。
私は反対して、いろんなメディアで喋りまくった。法制化なんて、とんでもないと。
ある野党の人から誘われて、国会で証言する予定だった。「ほら見ろ!長年右翼運動をしてた人でも日の丸・君が代の強制には反対している!」と、私は〈生き証人〉になる。その予定だった
。実現してたら大パニックになり、右翼に殺されていたかもしれない。
しかし幸か不幸か、審議時間が足りなくなり、この〈国会証言〉は実現しなかった。
ただ、「愛国心はいらない」という発言は、いろんなとこに流れた。
「何なら、国民投票したらいいじゃないか」とある新聞で言った。
「国民投票の結果、国旗が赤旗になり、国歌がインターになったら、我々はそれを認める」と言った。
そんなことは、ありえないと思い、ハッタリで言ったんだが、これだけがドッと流された。
公安も新聞記事を持って、右翼団体を回り、「こいつはもう国賊ですよ!」と言って回った。「国旗は赤旗でもいい」なんて言ったんだし…。
私へのバッシングはあったが、それ以上に一水会の若者へのバッシングも大変だった。
街宣などで他の団体と共闘することがあるが、そのたびに、「おたくの代表はダメだね」「国旗は赤旗でもいいって言ってるし」「国歌もインターでいいって言ってるし」。「もう、そんな団体とは一緒にやれませんね」と、批判の嵐だった。
これじゃ、マズイ。運動ができなくなると思い、一水会を全面的に変えることにした。
まず初めは、私が代表を辞めることだ。それで木村氏に頼みこんで、代表を引き受けてもらった。
事務局も移り、勉強会、レコン、そして運動も一変した。広く世界に飛び出す一水会になった。私は顧問としてついて行った。
2003年にはイラクに行った。
それから、フランスに行った。国民戦線の大会に招待され、木村氏と一緒に行った。
そして、北朝鮮にも行ったし、アメリカにも行った。ベアテさんたちと憲法改正問題でトークした。又、脱原発運動にも取り組んだ。
運動の質も変わり、量も変わった。
木村氏も大変だったと思うが、でも、彼は、根っからの活動家なのだ。常に全力で活動する。凄いことだ。
今年は「耳順」で60才だ。90才、100才まで現役で闘うと宣言していた。頼もしい。
又、後輩たちも随分と育っている。この日も「スタッフ」の腕章をつけて、20人ほどの若者が立ち働いていた。
そして今、アメリカはトランプが大統領になった。日米安保も見直すというし、いい機会だ。応じたらいい。
「アメリカからの脱却」「対米自立」を掲げる木村代表の思う方向だ。
基地問題も大きく変わる。沖縄も変わる。木村代表の時代だ。
多くの人が集まり、期待した木村代表の「耳順」を祝う会だった。
事前に電話がきて、乾杯の音頭をやってほしいと言う。エッ? 政治家のパーティでしょう、そんな所で私のような者が…と断ったんです。
でも、「初めてですし、まあ20人か30人位のささやかな会です」と言う。一つのテーブルを囲んだ、「お誕生会」のようなものか、と思ってました。20人のお誕生会ならいいか、と軽い気持ちで引き受けました。
ところが、会場に行ってビックリ。20人、30人どころか、その10倍以上いる。満員だった。それに国会議員、都議会議員、区議会議員…と、沢山の議員さんがいる。
私のような変な人間の乾杯の音頭じゃマズイでしょう。今からでも考え直して下さいよ」と言いました。でも、「いいんです」と言う。
8年前、文化放送で一緒に勉強していた。それが政治家を目指す契機になったという。その体験を大切にしておきたいと思って。
だから、その話をして、乾杯しました。文化放送の「夕やけ寺ちゃん活動中」で、私は水曜日のコメンテーターだった。政治家や小説家、評論家などに来てもらって話を聞いた。
その時、脚本を書いてくれたのが塩村さんだった。とてもお世話になったし、勉強になった。
それで、いろんな問題があって、考えていた。「政治が解決しないといけない問題が多い」と思ったようです。
それで、維新やみんなの党の政治塾に行き、都議会議員に挑戦して、見事、当選した。
そして「セクハラ野次」の厳しい洗礼を受ける。しかし、めげずに頑張っている。
私の「乾杯」の前だが、7時から開会。まず、「オープニング動画」で塩村さんの活躍を振り返り、その後、塩村さんの挨拶。それからご来賓、各級議員の紹介があり、そして私の「乾杯」だった。
そのあと、少し時間をおいて、「女性政治家のリアル対談」。塩村あやかさんと、松尾貴史さんの対談だ。これは楽しかった。楽しい中にも、政治はこれでいいのか。皆、頑張ろうと思わせる話だった。
このパーティ会場は43階。夜の新宿が一望できる。その眺望を楽しみながら、日本の政治について考える。そして、飲み、食べる。そこで、いろんな人たちに話しかけられました。
私も、都議会のこと、国会のことを考えました。とても有意義な時間でした。
この日は午前と午後と2回行われ、トークもある。午前中のトークは孫崎享さん。でも私は午後の部を見る。
上映は2時から4時半。そこから伊勢崎賢治さんのトーク。
そして、懇親会。早く着いたので、まだ孫崎さんのトークをやっていたので聞く。
終わって、楽屋に行ったら、「あっ、鈴木さんどうしたの?」と聞かれた。松井久子監督とも会う。
「初めまして」と言ったら、北海道の革新候補を激励する会で会ったという。その時、名刺交換したようだ。「だから、案内状を送ったんですよ」と。
そんな話をしてるうちに第2回目の上映だ。真剣に見る。
今まで、憲法についての映画は全て見てるが、これはいい。それ以上に圧倒的な迫力があって、考えさせられる。全国各地で活動している人々の声が直に伝わってくる。
大体、「不思議なクニの憲法」というタイトルもいい。おしゃれだ。〈憲法には、“私がどう生きるべきか”書いてある〉という。これもいい。私も知らない憲法の魅力を知りました。
懇親会の時、驚いたが、全国で上映会をここ数か月で700回もやってるという。
知らなかった。そこで知り合った人たちが、働き、上映会をやっている。「だって4人か5人でもやってます」と言う。個人のアパートでもやったのだ。
じゃ、「上高田上映会」でもできる。いや、「みやま荘上映会」でもできる。うん、これはいい。
監督の松井さんは、経歴を見たら、早大出身だ。私のずっと下の後輩だが、「ユキエ」「折り梅」「レオニー」「何を怖れる」などのドキュメンタリーを撮っている。
これは皆、社会派のドキュメンタリーだ。最新作は、ウーマンリブの運動というか、女性解放についての映画だ。田中美津さんが出ているという。
あれっ、田中さんとは前に会ったな、と思ったら、当日、来てました。挨拶しました。
「去年、福島菊次郎さんの写真展で初めてお会いしました」と挨拶したら、「その前にも会ってますよ」と言われた。
又、憲法について、お茶を飲みながら話す「ママカフェ」の集まりもあるそうだ。
じゃ、私らは、「パパカフェ」の会をするか。寅ちゃんと。でも、子供がいないとパパと言わないのか。今まで接点のなかった多くの人たちと知り合えて幸いでした。とても勉強になりました。