一般的には三島由紀夫の代表作としてはまず最初に『潮騒』が挙げられる。高校の文学史でもそう習う。
しかし、〈三島事件〉を知ってしまった後の読者にとっては、その小説は何やら遠いものになっている。
三島の政治的主張の色濃く漂う小説の方が、〈本当の三島〉だと思うのだろう。
『潮騒』(新潮文庫)の「解説」で佐伯彰一は、こう言っている。
〈『英霊の声』や『憂国』などから三島由紀夫を読みはじめた読者は、『潮騒』に来るとびっくりなさるに違いない。いや、『愛の渇き』や『金閣寺』の愛読者すら、『潮騒』には戸惑いをおさえかねるだろう。たしかに『潮騒』は、一風変った小説である。三島の全作品のなかでも特異な位置をしめるものであり、ひろく現代小説を見廻しても、その同類が容易には見つからない。ただひとり、ぽつんと孤立せざるを得ないあんばいである〉
エッ?と思った。「孤立」した小説なのか。三島の代表作として何度も何度も映画化されているのに。
さらに、現代小説の中でも、ぽつんと孤立してるという。
〈しかもこの『潮騒』は見られる通り、いささかも難解な小説ではない。狷介(けんかい)なところなど何一つ見つからない。いかにも読みやすく、素直すぎるほど素直な青春の恋物語である〉
だからこそ、三島の代表作として、高校でも読まれている。
昭和29年(1954年)6月に書きおろし長編として刊行された作品だ。
この時、三島は29才の若さだ。
前年、28年、3月に三島は三重県の伊勢湾入口にある神島に取材旅行をし、同年8月にまた同じ場所に取材している。
この直後から、書き始められたようだ。
作中の主要な場所は、ほとんど現実の神島から取られている。
〈「歌島に眺めのもっとも美しい場所が二つある」という、「島の頂きちかく、北西にむかって建てられた八代神社」も、「島の東山の頂きに近い燈台」もともに、現実そのままである。神社の名前も同じなら、「綿津見命」(わたつみのみこと)という祭神の名までぴったりと合致している。燈台が、「伊良子水道」にのぞみ、「伊勢湾と太平洋をつなぐこの狭窄(きょうさく)な海門」をへだてて、すぐ対岸の「渥美半島の端(はな)が迫って」見えるというのも、忠実な写生であった〉
まさにその通りだ。だから現実の神島は、「小説『潮騒』の島」として知られている。
小説に出て来る神社、燈台など、全てが、そのままある。
小説の書き出しはこうだ。
〈歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である〉。
歌島は神島のことであり、全ては、忠実な写生のように書かれている。
周囲は4キロに満たない小さな島だ。
〈歌島に眺めのもっとも美しい場所が二つある。一つは島の頂きちかく、北西にむかって建てられた八代神社である。ここからは、、島がその湾口にむかって位している伊勢の海の周辺が隈(くま)なく見える。北には知多半島が迫り、東から北へ渥美半島が延びている。西には宇治山田から津の四日市にいたる海岸線が隠見している。二百段の石段を昇って、一双の石の唐獅子に戍(まも)られた鳥居のところで見返ると、こういう遠景にかこまれた古代さながらの伊勢の海が眺められた。元はここに、枝が交錯して、鳥居の形をなした「鳥居の松」があって、それが眺望におもしろい額縁を与えていたが、数年前、枯死してしまった〉
見事な写生文だ。上質な観光ガイドのようだ。
事実、神島を訪れる人は、この小説を読み、その通りの景色をこで見ることになる。
〈まだ松のみどりは浅いが、岸にちかい海面は、暮の海藻の丹(に)いろに染まっている。西北の季節風が、津の口からたえず吹きつけているので、ここの眺めをたのしむには寒い。八代神社は綿津見命を祀っていて、この海神の信仰は、漁夫たちの生活から自然に生れ、かれらはいつも海上の平穏を祈る。もし海難に遭って救われれば、何よりも先に、ここの社(やしろ)に奉納金を捧げるのであった〉
この美しい島の中で、若い男女の恋が生まれ、進む。
18才の新治はたくましい、堅実な考えの青年だ。
〈新治のまわりには広大な海があったが、別に根も葉もない海外雄飛の夢に憧れたりすることはなかった。海は漁師にとっては、農民のもっている土地の観念に近かった。海は生活の場所であって、稲穂や麦のかわりに、白い不定形の穂波が、青ひといろの感じやすい柔土(やわつち)のうえに、たえずそよいでいる島であった〉
うまい文章だ。こうやって書き写していると、文章の勉強にもなる。
さらに新治の性格だ。
〈新治はいつも着実な考えをもっていた。自分はまだ十八だし、女のことを考えるのは早いと思っていた。多くの刺戟に触発される都会の少年の環境とはちがって、歌島には、 一軒のパチンコ屋も、一軒の酒場も、一人の酌婦もなかったのである。そしてこの若者の簡素な空想は、将来自分の機帆船を持って、弟と一緒に、沿岸輸送に従事することであった〉
この小説を書く前年、三島は世界一周旅行に行っている。
特にギリシャの明るい陽光には感動している。そのギリシャの明るい太陽のような小説を書こうと思った。
モデルとして、いろんな土地、島を探した。
そして、神島は、「パチンコ屋が一軒もない」ことで選んだという。
それは、この小説にも書いている。事実そのものだ。
この島で、新治は初江と知り合い、二人の恋は燃え上がる。
八代神社や燈台は、二人の逢瀬の場所だ。初江に会う前に、新治は八代神社に昇る場面がある。
〈新治は石段の下まで来て、松影がはだらに落ちているその白い二百段の石を仰いだ。昇りだす。下駄が乾いた音を跳ね返す。神社のまわりには人影がない。神官の家もすでに灯を消している。
二百段を一気に昇っても、すこしも波立たない若者の厚い胸に社の前にあって謙虚に傾いた。十円玉を賽銭箱に投げ入れた。思い切って、もう一つ十円玉を投げ入れた。庭にひびきわたる相手の音と共に、新治が心に祈ったことはこうである。
『神様どうか海が平穏で、漁獲はゆたかに、村はますます栄えてゆきますように。わたしはまだ少年ですが、いつか一人前の漁師になって、海のこと、魚のこと、舟のこと、天候のこと、何事をも熟知し何事にも熟達した優れた者になれますように! やさしい母とまだ幼い弟の上を護ってくださいますように!海女の季節には、海中の母の体を、どうかさまざまな危険からお護り下さいますように!
……それから筋違いのお願いのようですが、いつかわたしのような者にも、気立てのよい、美しい花嫁が授かりますように!……たとえば宮田照吉のところへかえって来た娘のような……』
風がわたって来て、松の梢はさわいだ。社の暗い奥にまで。そのとき吹き入った風が森厳な響きを立てた。海神は若者の祈りを嘉納したように思われた。新治は星空を仰いで深い呼吸をした。そしてこう思った。『こんな身勝手なお祈りをして、神様は俺に罰をお下しになったりしないだろうか』〉
そして、「宮田照吉のところにかえってきた娘」初江との恋物語が始まるのだ。
しかし、八代神社の二百段の階段を一気に昇ったんだ。新治は。
でも、新治の厚い胸は少しも波立たない、と言う。
三島だって、取材のために何度も来て、何度も昇って、平気だったんだろうか。
三島はまだ28才から29才で、大丈夫だったんだろう。
いやいや、なだらかな階段ではない。かなり勾配は急だ。
端の手すりに掴まらなくては昇れない。後ろを振り向くことも出来ない。恐い。私は、ヘトヘトだった。
「厚い胸」が「波立たない」どころではない。薄い胸は、ゼエゼエ言い、足は棒になり、何度も何度も休みながら昇ったんだ、私は。
11月15日(火)。突如、思い立って、神島に来たのだ。
三島全集を全巻読破しながら、小説の舞台はあまり行ってない。よし、神島に行こう。と思ったのだ。
名古屋まで新幹線、そこから近鉄で鳥羽へ。そこの港から船で30分。神島に着く。
周囲4キロだというし、すぐに周れる。『潮騒』に出てくる八代神社も燈台も…。すぐに見て回れると思った。
小さな島をちょっと歩けば、八代神社に行けるし、燈台にも行けると思った。
船のターミナルには『潮騒』の写真や説明文が書かれている。
三島文学ファンのためにあるような島だ。そう思っていた。でも、甘かったんだ。
4キロの道が、なかなか進めない。
さらに、どこに出るにも山を登らなくちゃダメだ。膝が痛い。
それに、鳥羽港に帰る船の時間が迫る。本数があまりない。
3時40分を逃したら、もうない。だから、慌ただしく見た。でも神島に来て、『潮騒』の舞台を見た。この感動だけは残った。
今度来た時に、ゆっくりと見よう。
「来年、フランス大統領選挙でルペンさんが大統領になるかもしれませんよ」と及川さんが言う。トランプ現象が波及しているのか。
宮台真司さんや、NHK打倒で都知事選に出た立花孝志さんなどにあう。
⑫お目当は、これです。「漁(すなど)り猫」です。川に入り、魚をとって食べます。テレビでやってました。これは凄いと思い、出かけました。でも、日本の猫じゃないですね。フィリピン、インドネシア、中国にいる、野性の山猫です。沼沢地に住み、他に、食べ物がなくて、魚を食べてるようです。猫というよりは、「ネコ科」のトラ、チーターに近いです。
㉑大道塾主催の「北斗旗・全日本空道無差別級選手権大会」を見に行きました。11月12日(土)。国立代々木第二競技場です。右の野村選手が優勝しました。強かったです。それに、すべてレベルの高い、いい試合でした。
㉒大道塾塾長・東孝先生と。東先生は宮城県出身で、高校時代、三島由紀夫の「楯の会」に入りたくて手紙を出したそうです。「高校生はダメ。大学に入ってから」と言われたそうです。大学(早大)に入ったら、極真空手で忙しくて、行けなかったそうです。
㉔大道塾で、長くチャンピオンだった長田賢一さんと。今は仙台で道場をやってます。前に空手の演武をやってました。暴漢に襲撃されて、全て、空手で撃退します。バットで殴りかかった人間は、軽くかわし、そのバットを脛で折ります。凄いですね。「バット折り」の演武も入ってます。
㉖同じ日、同じ川越で開かれてました。〈「NPO・中帰連平和記念館」10周年。戦犯裁判。戦犯帰国60年記念集会。「いま戦争と平和を考える」〉。満員でした。これはシンポジウム「負の連鎖を絶ち切るために」です。