11月19日(土)、三重県四日市市に行く。森田必勝氏のお墓参りだ。
そのあと実家を訪ね、お兄さんの治さんにお会いする。
祭壇があって必勝氏と三島さんの写真がある。お庭には必勝氏の胸像があリ、辞世の歌を刻んだ碑がある。
東京、関西から7人ほどで行った。元「楯の会」の勝又武校氏も来ていた。本当に久しぶりに会う。
それから、必勝氏の出身校を訪ねた。
不思議なことに、11月は三重県に3回も来た。
11月6日(日)は名張市に来た。50年前、「名張毒ぶどう酒事件」の起きた所だ。奥西さんが犯人として逮捕されたが、動機はないし、物証もない。
それでも死刑が確定し、ずっと刑務所暮らしで、今年亡くなった。理不尽だ。その現場を見、地元の人に話を聞こうと思っていたのだ。
第2回目の三重行きは、11月14日(月)〜17日(木)だ。14日(月)は伊勢神宮。そして鳥羽水族館に行き、「漁(すなど)り猫」を見る。
15日(火)は三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台になった神島に行く。さらに答志島に行く。
16日(水)は、松阪の本居宣長記念館。本居宣長の旧宅「鈴屋(すずのや)」に行く。
さらに「北海道」の名付け親の「松浦武四郎記念館」に行き、館長とも話をした。
松阪牛の焼き肉、すき焼きを食べた。
勉強三昧の三重旅行だった。そして3回目は森田必勝氏のお墓参りだ。
「月に3回も来るんなら、三重に住んだらいいのに」と下中さんには言われた。
でも、みやま荘は落ち着くし、勉強出来る。
長岡に行った時、山本五十六の家を見たが、「二畳の書斎」があって驚いた。本を読む以外、何も出来ない。これはいい。
本居宣長の「鈴屋」は四畳半だ。そこで閉じこもって書を読み、書いた。
どうしても用事がある時は、横にある鈴の付いたひもを引く。
カラカラと軽い音を立てる。それでも回りは静かだから、家人には分かる。
あるいは1回鳴らしたらお茶、2回鳴らしたら食事…と、サインが決まっていたのかもしれない。
本居宣長の旧宅には、他に「一畳の書斎」があった。山本五十六より、もっと狭い。本を読むしか使いようがない。
そうか、私も家を建てたら(そんなことは永遠にないが)、「一畳の読書部屋」「二畳の執筆部屋」なんて、作ってみたい。夢があっていいじゃないか。
我々が学生の頃は、アパートといったら三畳か四畳半だった。六畳に住んでる奴は「贅沢だ!」と言われた。
私は生長の家学生道場にいた。個室ではない。九畳に3人だ。あるいは六畳に2人だ。
あれはキツかった。プライバシーなんて何もない。
他の部屋にもよく遊びに行ったが、皆、勉強している。
徳富蘇峰の『近世日本国民史』100巻を全巻そろえて読んでる人間もいた。「敵を知るのだ」と言って、マルクス・レーニン全集を読んでる先輩もいた。
毎日、知的刺激を感じていた。
森田必勝氏は僕より2才下だ。二浪して早稲田に入る。
初めは全共闘に憧れていたが、現実の姿を見て失望した。
学生のことを全く考えない、思い上がった運動だったからだ。
それに反対していた右翼学生に関心を持つ。
毎日のようにキャンパスでは左翼(全共闘)と右翼学生が論争している。それを一般学生が囲んで聞いている。
「そうだ!」「頑張れ!」とお互いに声援を送る。
自分たちに声援を送る人は覚えていて、論争が終わると喫茶店に誘ってオルグした。
いつもニコニコして聞いていたのが必勝氏だ。体はガッチリしてるし、姿勢もいい。てっきり体育会の人かと思ったら、違う。
初め、日学同(日本学生同盟)に入り、後に「楯の会」に移り、学生長になる。
1970年11月25日、自衛隊の市谷駐屯地で三島と共に自決した。
だから、25日前後には、全国で追悼、顕彰の集まりが開かれている。
11月は「三島事件」の月であり、「慰霊」の月でもある。
今、手元にこの本がある。森田必勝『遺稿集 わが思想と行動』(日新報道)だ。
これは実にいい本だ。大変な苦労をして作った本だ。
基本的には、必勝氏の日記を中心にしてまとめた。
特に中学、高校時代の日記は貴重だ。
これは日学同の宮崎氏たちが森田宅に行き、泊まり込んで日記を読み、これはと思ったところを全て書き写し、本にしたものだ。
当時は、コピーが普及してなかった。大企業にはあったかもしれないが、町のコンビニにコピー機がある時代でもない。大体、コンビニもなかった。
だから、ひたすら書き写したという、気の遠くなるような作業だ。だからこの本は貴重だ。
必勝氏は、元々が右派的な人ではない。中学、高校時代は、むしろ左派なのだ。
そこは、1960年の右翼による浅沼委員長刺殺、風流夢譚事件でも、その傾向は示されている。
だから、この日記は貴重なのだ。早大に入りたくて、二浪する。早大は浅沼稲次郎さん、河野一郎さんが出た大学だ。だから入りたいといって、強烈に願った。
又、早大を出た後、どうやってこの日本を変えてゆくか。そのプランも書いている。
実際は25才以後の人生はなかった。だからこそ、痛切な気持ちで僕らは読む。
この本(=日記)は今まで何度も読んだ。又、時々、パラパラとページをめくって、気になったところを読んでいる。
だから少し、抜き書きしてみよう。
〈昭和35年(1960年)10月12日(水)晴 (この時、中学3年生だ)
今日、僕が政治家で一番好きであったところの社会党の浅沼委員長が、十七歳の山口二矢という暴漢に刺殺された。本当に可哀想だ。日比谷公会堂での出来ごとー〉
〈同 12月2日(金)晴
……。ぼくもあと十年たったら、四日市市議になり、四日市の発展と国民生活の向上、すみよい町にするために立候補しようと思う。〉
〈昭和36年(1961年)(高校1年)2月2日(晴)
嶋中事件の犯人小森一孝捕まる。中央公論が天皇の悪口を書いたので、(社長宅で)留守をしていた女中の丸山かねさんと、奥さんが刺され、女中さん即死、奥さん重体、なお小森は右翼である。ぼくは左翼だから小森がにくい〉
〈同 3月22日(木)晴
肇と宣治とおれの三人で、四日市の三重劇へヒットラーの「わが闘争」を見に行った。残忍そのもので、なぜあんな人間が地球上にすんでいたのかと思うと恥ずかしくなる〉
〈昭和40年(1965年)二浪。1月6日。
大隈重信ー河野一郎ー森田必勝。この三人は日本近代史上に残る人物になると確信する。いずれも早稲田大学出身だから俺もなんとかして通らなければならない。この日本が俺をほおっておいたらかわいそうだ。日本のために俺を通せ〉
〈同 5月30日(火)雨
(全略)俺としては25歳で卒業して、3年間新聞記者をやり、三年間誰かの秘書をやる。そして市長になり、二期務めて、こんどは39歳で衆議院に立つ。そして三期務めて外務大臣になる。50歳だ。15年間、日本のために、そして、あとに続く日本民族のために、ゆるぎのない日本の地位をつくってやる。70歳以後は完全に引退だ。そのときは女房と二人きりで、静かな生活を送りたい。まあこれが俺の設計図だ。勿論、こんなにうまくいかないことは百も承知だ。でも俺がやらなくて誰がやる。持つべき当然の夢だ。夢に終わるか否かは、俺の努力にかかっている。今は静かにしっかり学問的な基礎を身につけよう〉
大学に入ってからは日学同(日本学生同盟)に入って活動する。
三島との出会いはこうだ。
〈昭和42年(1967年)4月 大学二年
M氏から三島由紀夫さんが、民兵組織を作るので日学同、とくに早大国防部から選抜して協力してもらいたいと言ったという。民間防衛隊は大いに結構だし、俺はいつでもやる覚悟はあるけれど、あのキザな三島さんが、それをやるというのは何かチグハグな感じだ〉
〈同 5月6日(土)晴 (前略)夜、矢野先輩と人生の話をする。その中で徳富蘇峰の歌 俺の恋人、誰かと思う。神のつくりし日本国。これがたいへん気に入ったので、すぐ覚えた〉
〈同 5月19日 晴
茗荷谷の教育大学への結集、家永三郎弾劾のビラまきと集会。参加人員23名。
戦果報告。午前11時頃から、ゲリラ戦法が功を奏す。民青の足並みが乱れ、屋上から「早大の暴力学生云々」のスピーカーだけが教育大生を煽ったようだが、それもSさんやMなどが屋上へかけあがって粉砕〉
Mは日学同の人間だから、呼び捨て。Sは一応、他団体の人なので「さん」を付けている。実は、私だ。
この日は、初めから殴り込みのつもりだった。
どうせ静かに情宣なんかやらせてはくれない。乱闘になる。そう思って、時計や学生証などは家に置いて、身軽な格好で出かけた。
スピーカーを取り付けてある屋上へ、一気に駆け登り、スピーカーを叩き壊し、そこにいた人間を殴り飛ばした。完全な暴力学生だった。
この日の日記はさらに続く。
〈結局、教育大学では午後の授業は中止された。わずか23名の同志は、正門前で記念撮影に肩をならべるゆとりすらあったのに!〉
この写真はほしい。でも、ないのかな。あるいは、殴り込みをかけた暴力学生の「証拠写真」でもある。
でもいいね。〈勝利〉の写真なんて、なかなかない。探してほしいね。
あっ、大変だ。今週は、本の紹介だけで終わっちゃうよ。
11月19日(土)は、森田必勝氏のお墓参りをして、実家に寄り、お兄さんにお会いして、お話をしました。
庭には必勝氏の胸像があり、辞世の歌碑がありました。
そして、必勝氏の出た海星高校を見て帰ったのです。
1年に1度はお墓参りに来ています。
46年前のことが、つい昨日のように思い起こされます。〈これでいいのか〉という気持ちにさせられます。「どこへ行くのか」と自問自答しています。
11月24日(木)は「三島由紀夫・森田必勝両烈士顕彰祭」に出ました。翌、25日は「憂国忌」に出ました。厳粛な中にもこみ上げてくるものがあり、感動的で、考えさせられる集まりでした。
そのことは又、来週に報告しましょう。
「三島vs東大全共闘」の時も、その場にいて聞いていたという。うらやましい。
「著書は200冊位ですか?」と聞いたら、「その近くですね」という。凄い。皆、分かりやすいし、面白い。とても勉強になりました。
〈三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼顕彰祭〉
第1部 顕彰祭。斎主・島田康夫(譲葉神社禰宜)
第2部 追悼記念講演。講師・保阪正康(作家)
演題「昭和史と三島事件=歴史的視点からの考察=」
第3部 直会(なおらい)会場・祭ばやし
全国から多くの人たちが集まりました。保阪さんは「楯の会」の阿部勉氏をはじめ多くの人たちとも知り合いでしたし、楯の会事件や又、昭和維新運動についても詳しいです。とてもいいお話でした。
直会も、全国から来た人々の活発な意見発表がありました。
㉑11月22日(火)「のりこえねっとテレビ」の生放送に出ました。午後8時〜10時。「とことん ノーヘイト! 高江特派員報告」です。沖縄では機動隊が「土人」発言をし、高江での不当逮捕も続いてます。これらを徹底的に糾弾し、「反レイシズム」の叫びをあげる。
場所はお茶の水のデモクラTVスタジオでした。放送が終了した後に写真を撮りました。出演中の辛淑玉、宇都宮健児、前田朗、中沢けい、鈴木…などです。
㉒「朝日新聞」では「日本会議をたどって」という連載が載ってます。詳しいです。1976年の私の写真が載ってました。一水会代表の時ですね。若いですね。これは私も持ってない写真です。ほしいですね。右は全国学協の事務所ですね。原宿にありました。