11月24日(木)、「三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼顕彰祭」の第二部は保阪正康さんの追悼記念講演だった。
演題は「昭和史と三島事件=歴史的視点からの考察」だった。とてもいい講演だった。
保阪さんは橘孝三郎さんに関心を持ち、何度も取材し、5・15事件における農民決死隊のことを書いている。
何度も通う中で、「楯の会」一期生の阿部勉氏とも知り合う。阿部氏もよく来ていた。
そして、橘孝三郎研究の『土とま心』という機関誌を出していた。
その頃の話から始め、昭和維新運動、そして三島事件について語ってくれた。
阿部勉氏は、一水会創立の時の中心メンバーである。
実は、「一水会」という名前、(三島・森田両烈士顕彰祭の前の)「野分祭」という名前、それを付けてくれたのが阿部氏だ。
『三島由紀夫と楯の会事件』(角川文庫)の中では阿部氏のことを書いている。特に、阿部氏との「最期の別れ」について書いている。
読んでいて、ホロリとさせられた。
保阪さんは、昭和史研究家としては有名だ。
特にその真摯な取材方法については定評がある。
日本の戦前、戦中、戦後を語る時、まず自分の〈立場〉を立ててから論じる人が多い。
初めから否定的に見る、あるいは(最近多いのだが)日本は悪くなかった。外国が悪いのだ。日本はよくやった。日本が悪者だったというデマに気を付けろ。と主張する人々だ。「保守派」と称している。
しかし、左から見ようと、右から見ようと、両方とも見る目が曇っている。事実そのものを見てから、考えればいい。
そういう点では、冷静に見ているのは(極端に言えば)半藤一利さんと保阪正康さん、その二人しかいないのではないか。そんな気がする。
よく街角で絶叫している保守派の人がいる。
「朝日新聞は全部嘘です。日本は侵略なんかしてません。南京大虐殺も慰安婦も嘘です。日本の軍人は世界一、倫理的で道徳的な兵隊さんです。そんなことをするはずはありません。私たちの先輩をどれだけ侮辱すればいいのでしょう。日本は悪いことはしていません。誇りを取り戻しましょう」…と。
日本が少しでも間違ってた、失敗した、と言ったら、即座に「自虐だ!」「反日だ!」と言って騒ぎ立てる。
おかしい。人間だって完全ではない。その集合体である日本は、さらに失敗も、暗い面もある。
「日本に誇りを持て」と言って、過去の失敗や暗い面を見ようとしないのは、「愛国心」ではない。ただ、歴史を見る勇気がないだけだ。そう思う。
保阪さんは、実に多くの人々に会い、取材し、そして、その事件、その時代を語ろうとする。
厖大な事実を知りながら、書く筆は非常にストイックだ。
小さな事実を見つけたら、すぐに政治的主張やイデオロギーで絶叫しようとする人が多いが、決してそんなことはしない。
保阪さんとは今年、かなりの回数会い、対談をしてきた。それは来年、本になると思う。
その中で、5・15事件、死なう団事件、2・26事件、戦争…などの話を聞いた。多くの本を読んだ。
そして、このような取材、執筆の熱意・不偏不党性はどこから来るのかを聞いた。
そして、その秘密が書かれた本に出会った。
『風来記』(平凡社)だ。「昭和史研究の泰斗による初の自伝」と本の帯には書かれている。
「自伝」だ。それと同時に、いつ頃から昭和史に関心を持ち、どうやって関係者に会い、取材してきたか…。その取材日誌でもある。
激動の時代を生きる保阪さんの戦いの日々だ。
その中で、もっと以前の戦前、戦中、戦後の激動を取材し、調べ、書く。
その「書く姿勢」「書く覚悟」が〈控え目に〉語られている。
これは、ものを書く人々の「テキスト」だと思った。
今、2巻まで出ている。さらに続くのかもしれない。
『風来記』の1巻は、「わが昭和史(1)、青春の巻」だ。
本の帯にはこう書かれている。
〈おろかな戦争の記憶、父との対立、60年安保、演劇青年、編集者としての日々。そして文筆家として世に出るまで――。
「自らの感情には逆らわない。それが運命だ」
昭和史研究の泰斗による初の自伝!〉
『風来記』第2巻は〈わが昭和史(2)雄飛の巻〉だ。
〈橘孝三郎、東條英機、瀬島龍三、後藤田正晴、田中角栄、秩父宮――。ノンフィクションを書き続ける中で出会った忘れ得ぬ人たち。昭和を見つめてきた作家は、いかにして時代と格闘したか〉
これを見ただけでも、飛びつきたくなるだろう。それだけの魅力があり、内容のある本だ。五木寛之の『青春の門』のようでもある。
自分が必死に生き、闘った時代のことをリアルの書く。
でも、『青春の門』にはない、取材があり、昭和史研究がある。
それに凄い人たちに会ってきた。これは保阪さんにとっても幸せだったろう。
たとえば橘孝三郎。5・15事件に参加した、農本主義者、右翼テロリストと呼ばれるかもしれない。
しかし、そんな言葉では収まらない人だった。思想がある。哲学がある。
保阪さんが取材のために水戸の橘さんの家に通うと、橘さんの方から取材者に注文をつけたそうだ。
〈当時82才の橘は、私のどのような質問にも答えてくれたが、ときに「君の質問は戦後民主主義に毒されているな」と息をつき、「来月に来るときは、フランスのベルグソンの哲学を読んで、その意味を含んで質問してほしい」とか、「君らの世代は天皇についてほとんど知識がない。さしあたり私の農本主義の著作を読んで、そして天皇にアプローチする方法について、どう考えるのかの視点で質問をしなさい」との忠告を発する〉
取材者に、こんな注文を付ける橘も凄い。橘は一高の秀才だったし、もの凄く勉強していた。
その頃からの勤勉的性格が出ているのか。ベルグソンを読み、「エラン・ベタル」などと口ずさみながら、次の訪問に向かう。
その取材を通し、世間に言われているイメージとは違うものを感じ取る。
やはり、『風来記』からだ。
〈私は今でも農本主義者の橘孝三郎に対して畏敬の念を持っている。歴史上では「右翼の理論家」「昭和初期のテロリストの頭領」といった見方までされるのだが、私はまったくそうは思わない。「博識の農本主義者」「日本的共同体の守護者」といった語がもっともふさわしいのではないかと思う〉
私も何度も橘さんに会いに行った。又、靖国神社で行われた勉強会にも何度か行った。
「右翼」「テロリスト」ではない、大思想家であり、哲学者だった。「日本的共同体の守護者」はいい。
さて、阿部勉氏のことだ。『三島由紀夫と楯の会事件』(角川文庫)の最終章に詳しく書かれている。
保阪さんは『五・一五事件―橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』を昭和49年2月に出した。それから間もなく橘さんは亡くなる。
その橘の志を継ぐ意味で、阿部勉氏は『土とま心』を刊行する。
保阪さんも寄稿を頼まれ、応じる。
その『土とま心』は、5、6年の間に10号ほど刊行したが自然消滅になった。
阿部氏とはお互いに思想も生き方も人脈も、まったく異なることを理解した上で、時々会って、話したという。
〈それは平成11年秋に阿部氏が肝臓がんで53才の人生を閉じるまでの20数年間続いた〉。
最後に会った日のことだ。
〈平成11年8月の終わりであったが、阿部氏と一献傾けることになった。細部にわたっては省くが、今生での別れの酒と私は覚悟した。高田馬場の阿部氏の行きつけの店で、彼の子息と彼に私淑する青年の4人で、夕方から午後11時頃まで飲んだ。「先輩、今生ではいろいろありがとうございました」と阿部氏は言い、何杯目かの杯を干したとき、不意に私は涙が出た。そうか、あんたは死ぬのか、とつぶやいた〉
そして三島の話や、息子の話をする。
〈終電の時間が来た、と私が立ち上がると、阿部氏は大通りまで共に出て来てタクシーを止めた。私が車に乗こむと、阿部氏は丁寧に一礼し、握手を求めた。痩(や)せた手であった。私は車の中から振り返って阿部氏を見つめた。和服姿の阿部氏が、手を振り、そして軽く一礼した。笑顔であった。風が吹いて和服が少しはだけた。阿部氏のその姿が闇の中に浮かんでいるように私には思えた。それから1か月ほどあと、阿部氏は静かに逝ったと聞かされた〉
ここのところは、何度読んでも涙が出る。
阿部氏は保阪さんのことをとても尊敬していて、好きだった。
これほどいい付き合いをしてもらい、お世話になった。ありがたいと思う。
保阪さんに会うと、いつも「阿部氏がお世話になりまして」と礼を言っている。
それだけ保阪さんを好きで尊敬していたんだ。
だったら、保阪さんのアドバイス(提案)を受けて、やったらよかったんだ、と思う。
このことは保阪さんと会うたびに、悔やんでいる。
保阪さんは書いている。
〈阿部氏のとぎすまされた感性は私にはすぐれているように思え、「あなたは運動家かもしれないが、文筆をおやりになったらどうですか。小説など書けばいいのではないか。そういう方面で必ず一人前になると思うけれど」となんども勧めた。「だめですよ。机にむかうというのはできませんから」と苦笑いを浮かべたりもした〉
これは本当に残念だった。私も何度か言ったことがある。
『土とま心』や、『青年群像』『レコンキスタ』などに、たまに書いていたが、文章はうまい。
どんどん書いて、それを仕事にしたらいいのに、と思って勧めた。
保阪さんと最初に会った時、「先輩、今生ではいろいろありがとうございました」と言った。
「今生では」なんて、とても言えない言葉だ。少しでも長く生きたいと思う。ずっと「今生」だと思いたい。それなのに、生き方にも諦観があったのだ。
多分、この頃だと思う。高田馬場で、仲間たちを集め、「阿部氏の快気祝い」をやった。
でも本当は、もうダメだ、と皆、知っていた。病院から抜け出して、やったのだ。
その時、雰囲気を察したある女優が、いきなり泣き出してしまった。
大声で泣いている。座が白けた。
阿部氏は近づいて、慰めていた。「何も今すぐ死ぬわけじゃないんだから…」と。
普通、言えないよね、こんなこと。精神的に、とてつもなく強い人だと思った。
今、秋田県角館市で、ひっそりと眠っている。又、会いに行かなくちゃ、と思っている。
そのあと、串八珍で飲む。
大賞は「神ってる」。
PANTA、レーニン、アーチャリーがいた。
そのあと、皆で渋谷へ。居酒屋「バッハ」で飲む。
⑧翌、11月26日(土)、午前10時より。「ルノアール」新宿区役所店。前日の「憂国忌」に出席し、今日、松山に帰るので、その前に対談しました。三島についてはとても詳しいし、3冊、本を出してます。『三島由紀夫が愛した美女たち』。『三島由紀夫の源流』(新典社)。『三島由紀夫外伝』(彩流社)です。
どれも、教えられることの多い本です。
⑬これは、11月24日(木)の「三島由紀夫・森田必勝両烈士顕彰祭」の時です。保阪正康さんが記念講演をしてくれました。「昭和史と三島事件=歴史的視点からの考察」です。今週は保阪さんの話と本を中心に書いたので、又、載せました。
⑮保阪政康さんの『風来記=わが昭和史(1)青春の巻』(平凡社)。とてもいい本です。保阪さんの自伝ですが、取材のやり方、原稿の書き方なども教えられます。とても勉強になりました。この次の2巻まで出てます。
⑰長野から来た平田君は、11月24日(木)の顕彰祭。25日「憂国忌」。26日の岡山さんの対談…に参加しました。ここで第3のミッションです。第1は「恐山で見沢知廉に会う」。第2は、バンジージャンプをやる。この2つは実行し、「第3のミッション」がこれです。寅次郎さんのアパートに泊まる、です。
本が多くなり過ぎて、もう2部屋、アパートを借りたのです。大変な出費です。でも、部屋は散らかしっ放し。3部屋ともゴミ屋敷です。足の踏み場もありません。
㉓11月30日(水)午後2時から、鴻上尚史さんの芝居を観ました。「サバイバーズ・ギルト&シェイム」です。「生き延びた人」の罪悪感と恥です。仲間がどんどん死んだのに、自分だけ生き残ってしまった。戦争でも、東日本大地震でも。学生運動でも、ありますよね。私にもあります。そんな気持ちを表した芝居です。「身につまされました」と話しました。
㉕11月30日(水)は忙しかったです。11時半に祥伝社の人たちと打ち合わせ。それから鴻上さんの芝居。1時半集合。2時から4時まで。それから、レーニンさんたちと飲み会。そして、講道館へ。村田直樹先生(7段)の主催する「武道懇談会」に出ました。「柔道論ーー合理的説明のために」「嘉納治五郎師範の成果と今日的○○」などについて。7時から、串八珍で飲み会。その時、村田先生と一緒に撮りました。
㉖水道橋で見かけました。「読書週間」なんて会ったんですね。10月27日から11月9日まで、2週間です。「いざ、読書。」はいいですね。「電車の中では携帯をやめましょう。本を読もう!」という運動をやればいい。「喫茶店では話をするな!本を読め」とか。しかし、この2週間だけでも本を読もうというんです。いいですね。私なんて、1年中、「読書週間」ですよ。
㉗12月1日(木)学校が終わって、急いでタクシーで駆けつけました。ほとんど終わる寸前でした。帝国ホテルで行われた「流行語大賞」の発表・表彰パーティです。「聖地巡礼」「アモーレ」「トランプ現象」「ポケモンGO」「盛り土」などのライバルを蹴落として、「流行語大賞」は「神ってる」でした。広島カープの監督、選手が表彰されてました。「現代用語の基礎知識」を出している自由国民社が主催です。人気のない会場で、写真を撮りました。○○、PANTAさん。鈴木。松本さん。○○、自由国民社の○○○です。
㉙渋谷で、「バッハ」という居酒屋に行きました。でも何故、「バッハ」なのかな? 地下に、○○○○もあり、○○○○「バッハ」です。他の店は「ショパン」「マーラー」「ベートーベン」にでもすりゃ、いいでしょう。ミュージシャンが集まるから「バッハ」にしてるのかな。それとも、IOCのバッハ会長にちなんで付けたのでしょうか。2020年東京オリンピックに向けて。