三島由紀夫の小説『美しい星』が映画化され、今年の5月公開される。
先週も少し書いたが。監督は吉田大八。主演はリリー・フランキー。共演は亀梨和也、橋本愛、中嶋朋子だ。
多分、この4人が家族になるのだろう。
父と母。息子と娘の4人家族だ。埼玉県飯能市に住む、普通の一家だ。
いや、「普通の一家」のように振舞っている一家だ。
4人は姿・形こそ「地球人」だが、本当は異星人なのだ。
それに、4人とも生まれ故郷(星)は違う。
父・重一郎は火星人だ。母は木星人。息子(兄)一雄は水星人。娘(妹)暁子は金星人だ。
飯能市は星がきれいに見える町だ。美しい星空を見上げては4人でよく語り合う。
今日は、あいにく星は見えないが、父は言う。
〈今朝は私もお母さんも、自分の故郷を見ることはできない。あの小さな一点の光りを見さえすれば、忘れていた記憶もいろいろと蘇(よみがえ)って来る筈なんだが。むかし、たしかに私は故郷の火星から、こうして地球を見ていたことがあるんだ〉
一家が語り合っているのは天覧山の展望台だ。
かつては愛宕山とか羅漢山と呼ばれていた山だ。(この山には私たちも先月、実際に行ってみた)
ただ、故郷の星を懐かしんでばかりはいられない。
今、住んでいるこの地球が危機だ。米ソは核実験を繰り返している。
何としてもこの地球を守り、地球を「美しい星」に戻さなければならない。
父の確固たる思想のもと、4人は力を合わせて、協力する。
「では、ソ連のフルシチョフに手紙を書こう」ということになり、書き、航空便で出す。フルシチョフには、ていねいに書く。
〈…まだ遅くはありません。われらの星は、天上から地球の運命を日夜見守っております。すでに半ば汚濁に染まった地球の姿を嘆きつつも、いつかはそれが太古の美しい星の姿に戻るという希望を捨ててはおりません〉
と最後には書く。手紙を出す前に父は4人の前で読んで聞かせる。
そして、皆に言う。
〈この手紙を狂信者流の高飛車な口調でなく、時には相手の顔も立ててやり、功名心もそそり立ててやるように書いたのは賢明だったね。信じる者同士の口調で語ってはだめなんだ。人間にはあくまで人間の論理と心理に従ってものを言ってやらねばならん。おろかな犬をあやして、芸を仕込むだけの忍耐が要るのだ〉
これは、まるで現代の政治家や右翼・左翼、市民運動家に向けて言ってるようでもある。
昭和37年だから、1962年だ。その年に書かれた小説だ。
50年以上前に書かれた小説なのに、〈現代〉の危機を予言し、現代のいろんな運動と運動家の思い上がりを指摘している。
「信じる者同士の口調で語ってはならない」なんて、まさにその通りだ。主義者や活動家の陥りがちな欠点をズバリと衝いている。
50年も前に、〈運動〉の欠陥を衝いている。今、ここにいて、言ってるようだ。
三島の、時代を見透す眼は凄い。と同時に、こうも言える。
運動をしている人間は、50年前も今も、全く変わってない。進歩がない。と言うことだろう。
自分たちの星ではないが、お世話になった星だ。だから一家は何とか守ろうとする。
でも父の統率のもと、皆が一致団結して、迷わず使命に邁進している、という訳でもない。時々、迷うし、こんなことしていてもいいのかと思う。
特に若い息子と娘の心は揺れる。
ある日、暁子は、兄が女性とデートしている現場を見てしまう。
〈又やっているんだわ。人もあろうに、地球人の女なんかと!〉
〈たしかに兄は、父(重一郎)の教訓を悪用していた。「凡人らしく振舞うんだよ。いやが上にも凡人らしく」という父の訓戒は果たしてこんなことを意味していただろうか〉
そして、兄に、ズバリと言う。
「お兄様は実は真赤な贋物(にせもの)かもしれないんだわ」
同郷の星の素晴らしい恋人がどこかにいる筈なのに。お兄様の心の中には、天界の清浄で高い恋愛の記憶が残っている筈なのに。それなのに地球人の女にうつつを抜かして。本当に水星人なの? そう問いつめるのだ。
ところが兄は反論する。
「君は僕まで君の流儀に引きずり込もうとするつもりなんだろう。金星人って独善的なんだな」
驚く暁子に兄は、畳みかける。
「知ってるよ。金沢に住んでる金星人の男と手紙のやりとりをしているんじゃないか。それが『天界の清浄で高い恋愛』という奴なのかい」
暁子は何も言えない。本当だからだ。金沢に行って、金星の男と会っていた。
でも、会う前は不安で一杯だ。地球の人間どもは自分を美人だと言ってくれる。
だが、金星の審美学からは、もしかしたら稀代の醜女(しこめ)ではないかという疑いが湧き、その反証を得るためならどんな犠牲を払ってもいいような気がした。
〈こうして世界中の人間が美しいと言ってくれても満ち足りない暁子の贅沢な美は、同時に、みじんも媚態を伴わない孤立した美になったのである〉
そんな孤立した美があるのか。そして二人の恋愛はどうなるのだろうか。
又、内部に問題を抱えながらも、地球を守るために団結して闘う一家の前に、「巨大な敵」が襲いかかってくる。さらに、公安も襲いかかってくる。
これは、〈核時代の人類滅亡の不安をみごとに捉えた異色作〉だ。
新潮文庫版の『美しい星』の「解説」を書いてる奥野健男が言ってるんだが。この「解説」が又、いい。
昔、『美しい星』を読んだ時は、軽く考えていた。ただのSF小説だと思っていた。
ヘエー、三島もこんな小説を書いてみたかったのか。作家の〈遊び〉だと思っていた。
又、2・26事件などに関心を持つ前だろう。三島が、「本当の三島」になる前だと思っていた。
ところが違っていた。これは雑誌『新潮』の昭和37年1月号から11月号にわたって連載された。同年10月に新潮社から単行本として出版された。
この時、三島、37才だ。
この年には、他にどんな作品を書いていたのか。
〈この作品の前には『宴のあと』『憂国』(35年)『獣の戯れ』『十日の菊』(36年)などが書かれ、後には『林房雄論』『午後の曳航』『剣』『喜びの琴』(38年)『絹と明察』(39年)などが続いて書かれている。今挙げた作品からもうかがえるように、この頃作者は、年毎に力のこもった長・中編小説、戯曲、評論を発表している。そのいずれもが衝撃的な内容を持ち、文壇や社会の話題を呼んだ問題作である。ある意味で作者の発想は、挑戦的、戦闘的とさえいうことができる〉
そうか。『美しい星』は、『憂国』を書いた後だったのか。今まで軽く見ていた自分が恥ずかしい。
奥野はさらに、こう言う。
〈完璧な美をめざす作者の芸術至上主義ないしは唯美主義的な姿勢は毫も変わっていないが、唯美主義にありがちな現実逃避的な傾向はない。むしろ積極的に現実の政治や経済に、そして思想にぶつかり、それらを自己の芸術的世界に引き入れようとしている。現代の現実社会と、おのれの美的宇宙との格闘をめざしている。したがってこれらの作品『宴のあと』『憂国』『十日の菊』『喜びの琴』などがジャーナリズムをにぎわす社会的、思想的、政治的な事件を、作者の意志に反して、あるいは作者の意志に即して派生させたのも故なしとしない〉
そして、こう断言する。
〈これらの作品の中でも、もっとも大胆な冒険を試みているのが『美しい星』である。この小説はきわめて政治的、思想的でありながら、きわめて唯美的、芸術至上主義的であり、もっとも社会的でありながら、もっとも反現実的である。明治以来の日本の近代文学にかつてなかった型破りの小説であり、三島文学の系列の中でも異色の作品である〉
まさに絶賛している。政治的、思想的作品なのだ。そのことを知らずに軽い気持ちで読んでいた自分が恥ずかしい。
奥野はさらに、この作品はドストエフスキーと肩を並べるものだと言う。「37才の三島」は、世界の大作家・ドストエフスキーと並べられている。
〈ぼくは現代の小説でこれほど精神的な興奮をおぼえ、感銘を受けた作品を知らない。特に大杉重一郎と、白鳥座61番星の未知の惑星から来たという羽黒一派の宇宙人たちとの、人類の運命に関する論争の場面は、手に汗を握るような迫力がある。ぼくはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章を思い浮かべた。ここで作者は核兵器という人類を滅亡させる最終兵器を自らの手でつくり出した現代という状況をふまえて、人類の存在の根源を問おうとしているのだ。それは地球人の生存と滅亡を賭けた大法廷である。この問答は、現代人に適(ふさ)わしく、意識的に軽佻化され、戯画化された言葉が用いられているが、その内容は厳しく、重い。ドストエフスキーの「大審問官」の問答に匹敵する人類の根源的なテーマが展開されているのだ〉
そんなに凄い小説だったのか、と改めて驚いた。
昔、読んだ時は、この「解説」も読んだはずなのに、気がつかなかった。
大げさに誉めてるのかな、と思ったのかもしれない。愚かだったと思う。
これは、「人類の根源的なテーマ」であり、小説において真正面から扱われるべきものだった。
しかし、そうした作品はあまりない。余りに大きなテーマであるが故に、多くの作家は、それと対決する決心がつかなかったのだ。
又、〈従来のリアリズム中心の小説方法では、このような問題を表現することは困難だ。書こうとしても現代の複雑な政治、社会状況に足をすくわれ、混沌の中に埋没してしまう。
そこから人類の根源的存在のテーマも抽出することができなくなる。
余りにスコラ的な現実の中にがんじがらめになり、究極のテーマを見失ってしまう〉
だから、多くの小説家は書けなかったのだ。この大きなテーマの前で、ため息をつき、逡巡してきた。
又、下手に書くと、どっかの政治党派のプロパガンダと思われるかもしれない。
そんな心配もあって、書けなかった。「書くスタイル」が見つからなかったのだ。
〈ところが、三島由紀夫は現実の泥沼をとび超え、いきなり問題の核心をつかむ画期的な方法を、視点を発見したのだ。それが『美しい星』の空飛ぶ円盤であり、宇宙人である。つまり地球外に、地球を動かす梃子(てこ)の支点を認定したのだ。宇宙人の目により、地球人類の状況を大局的に観察し得る仕組みを得た。人間を地球に住む人類として客観的に眺めることができる。そこから自由に奔放に地球人の運命を論じることができる。問題の核心に一挙にして迫ることができるまことに能率のよい仕掛けである。これはまさにコロンブスの卵と言えよう。書かれてみると、今まで誰も気付かなかったことが不思議にさえ思えるが、事実は誰もが、三島由紀夫より前に行う先見の明と大胆さを持ちあわせていなかったのだ〉
そうか、「コロンブスの卵」か。でも、これでも理解できない人々がいた。
かつての私もそうだ。何だこのSFは。こんな「軽い」ものは読む必要がないや、と学生時代は思っていた。
本当は、「軽い」表現手法を借りて、重い、深刻な人類の根源的テーマに取り組んでいたのに。そのことには気付かなかったのだ。
なぜ、こうした表現方法を三島だけが発見したのか。奥野は言う。
〈こういう発見は偶然のことではない。発見し得たのは、三島由紀夫が、人類の滅亡について、美の本質について、たえず心の底で反芻(はんすう)し、深めていたためにほかならぬ。二十歳という自己形成期に、原子爆弾の投下を知り、敗戦に遭遇した三島由紀夫はその目で世界の崩壊、人生の終末を見たのだ。戦争下二十代での死を宿命として感じていたこの世代は戦争とは何か、人間とは何か、美とは何か、生とは何か、死とは何かを、終末の目で問い続けた。その圧縮状況が敗戦により、粉砕される。一切の秩序が崩壊し、尊厳な思想が喜劇化される。三島はその時、世界の涯(は)てを、人間のからくりの虚しさを、見るべからざる何かを見てしまった。その時から世界崩壊と人類滅亡は作者のゆるがぬ堅固な妄想となり美の中核となる。『仮面の告白』『愛の渇き』『青の時代』『沈める滝』『禁色』『金閣寺』などにもその原体験が濃密に塗りこめられている。この世の現実を確固不動のものと信じることができず、世界崩壊だけが確かに感じられる〉
そうか。これは全く気がつかなかった。
学生の頃、「三島さんも『憂国』などのようないい作品だけ書いてくれりゃいいのに。『仮面の告白』『禁色』『愛の渇き』…なんて、やめてほしいよな」なんて言い合っていた。
「左翼と闘う知的武器」として三島を見てたのだ。それ以外の部分は「邪魔」であり、「困ったこと」と思ったのだ。愚かな学生だった、と思う。
じゃ、切り捨ててきた、こうした作品も、もう一度、読み直してみよう。
又、別なことを発見するだろう。『美しい星』は、三島再発見の小説だった。「三島生誕祭」で、この本について話をする。椎根さんなどからも、話を聞きたいと思う。
さて奥野の「解説」だが、とてもいいもので、全文を引用したいくらいだ。でも、それはぜひ読んでほしい。
ただ、最後の言葉だけを紹介しておこう。
〈思想と美、この二つの主題がフーガのごとく協奏され、作品の緊張はたかまり、ついに大杉一家は緑色に、又あざやかな橙色(だいだいいろ)に息づく円盤とともに、昇天して行くのである〉
〈『美しい星』は、日本における画期的なディスカッション小説であり、人類の運命を洞察した思想小説であり、世界の現代文学の最前列に位置する傑作である〉
絶賛だ。この「解説」が書かれたのは昭和42年10月だ。三島事件の3年前だ。でも、かえってそれがよかったのかもしれない。この「解説」を書く上では。
そんなふうにも思える。
とげを刺したりする人が今じゃあまりいないからか。「とげ抜き」は抜かれてます。
でも、心にグサッとくるとげを発せられる人は多いでしょうし、今の方が必要なのかもしれません。
真珠湾なら、「やっつけた!」とは言えませんよね。日米安保もなくなります。
東郷神社の帰り、「生長の家」の本部跡を見ました。今は公園になってます。
「遅歩庵」といいます。コーヒーを飲んで、そのあと聞いたら、何と、ここのご主人は「伊能家の末裔」だそうです。それも「本家」です。だから、やはり伊能さんです。いろいろと話を聞かせてもらいました。
⑯近くに、不思議な喫茶店がありました。「遅歩庵」という名前からして、伊能忠敬的です。「忠敬ファン」のマスターかな、と思ったら、違いました。「忠敬の子孫はいないの?」と聞いたら、「沢山いますよ」。「私の家が実は伊能家の末裔です。本家です」。「ゲッ? じゃ、伊能さん?」「そうです」。凄いですね。〈歴史〉に向き合ってる感じです。
⑳これは1月1日(日)です。飯田橋の東京大神宮に行きました。1日から4日まで、毎日、神社に行くと、知ってる人にも会いますね。集会でよく会う人に会いました。「あれ? 鈴木さん、どうしたの。一人で」。「しょうがねえだろう。友達がいないから一人で来てんだよ」。