藤生明さんの『ドキュメント 日本会議』(ちくま新書)を読んだ。
すごい本だ。一気に読んだ。仕事が忙しくて、他にやることが多かったが、これは読まなくちゃと思い、憑りつかれたように読んだ。
日本会議については実に多くの本が出ている。
こんなに本が出ているんだ。もう書くことはないだろう、と思われるかもしれないが、違う。
藤生さんは、日本会議には早くから注目し、調べ、取材してきた。この本は、日本会議の〈決定版〉と言えるだろう。
本の帯には、「すべて真実!」と大きく書かれている。そして、こう書く。
〈朝日新聞記者が、関係者への丹念な取材と膨大な一次資料によって、いまだ謎を残すこの組織の真実に迫る!〉。
そうだ。日本会議はいまだ謎を残してるのだ。
しかし、一つの組織について、これだけの本が出され、論じられたというのは、〈事件〉だ。
それも、新書だけで5冊も出ている。こんなことは今までにないことだ。これからだってないだろう。
菅野完氏、青木理氏をはじめ、新書が出て、売れまくっている。
国会でも取り上げられ、この二人はメディアにも出て、発言している。
「日本会議」の登場はそれだけで〈事件〉であり、同時に、日本会議をめぐる本や放送などの量も〈事件〉だ。
今、社会の動きを見ようと思ったら、新書のコーナーを見たらいい。
新書のコーナー、棚しか見ない人もいる。そこに〈現代〉があるからだ。
新書は700円くらいで、安い。それに、コンパクトで、すぐに読めそうだ。初版で1万からスタートする。
又、それだけ〈売れる〉確信のある本しか新書にはしない。
だから、どこの出版社も「新書コーナー」「新書の棚」の確保に必死だ。これはもう〈戦争〉と言ってもいい。
各出版社は月に数冊の新書を出している。
〈月に1冊〉といった決め方はしない。月に5冊くらい出る。その中で、1冊でもヒットしてくれればいい。そんな感じだ。
そして、勝ち抜いた新書だけが棚に並ぶ。
最近、ある左派系の集会に出た。日本会議の話が出た。
「鈴木さんも日本会議について、発言してますよね。彼らは学生時代に、全共闘から、そのノウハウを学んだって。だから、実務能力があるし、それ以前の右派とは全然違うって」。
はい、そう言ってますよね。
それまでの右派や右派学生運動は、「いきがり」と「決意」の運動だった。
「反日主義者を日本から追い出す!」「左翼は許さない」「我々は国のために命をかける!」と言って、決意や覚悟を大声で披瀝し合った。そういった決意といきがりの運動だった。
でも、〈実務能力〉はなかった。
自分たちが必要な言論の場を作ったり、大会を開いたり、デモをしたり、電話連絡したり…ということは苦手だった。
いや、必要性は認めていたが、そんなことは「下の者」がやることだと思っていた。
俺たちは、こんなことをやるべきじゃない。そんなことをしてたら「事務屋」になってしまう。そんな気持ちがあった。
でも、全共闘と闘い、彼らの運動を知るにつけ、こうした〈実務〉こそが大切だと思った。痛感したのだ。
ある意味で、これは、全共闘と同じ次元で勝負することになる。
集会、デモ、新聞…と、同じ分野で闘うことになる。当然だ。
でも、そんなことをしたら、「左翼に巻き込まれる」「左翼と同じ精神になる」と危惧を覚える人たちもいた。昔ながらの運動をしてきた人だ。
左翼と同じやり方で、同じ土俵でやったら、自分たちも「左翼的な精神」になってしまうぞ! とよく注意された。
でも、右派学生運動は、その危険に自ら飛び込んで、勝ち抜いてきた。
学内で左翼の攻撃と闘った。これは大変なことだった。
肉体的暴力に襲われた。脅しもある。それに直面し、闘ってきたのだ。
さらに〈実務〉をやった。それで運動は伸びてきた。
「時代」の影響もあっただろう。連合赤軍事件以降、左翼の運動は信用されなくなった。人も、集まらない。
右派は、昔ながらに、地道な運動をやってただけなのに、まわりの左翼が潰れていったので、残ったのだ。そう証言する人もいる。
「昔は、日本会議が左翼の運動を参考にしてきた。今は、我々左翼が日本会議に学ぶ時だ!」。そう発言していた人がいたのだ。
左派の集会で、元・学生運動出身者が言っていた。勇気のある言葉だ。
まわりにいた人間に、「バカなことを言うな!」「あんな反動集団に学ぶことはない!」と反対されていた。
反対は多いだろうが、「日本会議に学ぶべきだ」と言った人間の思いは、結構、多くの人々にあるのだろう。
かつては、右派学生は〈言論の場〉を持っていなかった。又、そんな努力もしなかった。まともに相手にならなかった。
でも、連赤事件などで、時代は変わった。左派に対し、温かい、好意的な雰囲気はなくなった。
一方、右派学生運動から成長した人々は、その最も優秀な部分が日本会議として残ったのだ。
今、安倍政権を裏から支え、特に憲法改正を実現すべく、強力に働きかけている。
「今度は、我々左派が日本会議から学ぶべきだ」と言ってはみたが、本気で学ぶ気はない。
スパイを潜入させて、その秘密を探り、出来たら、組織を壊滅させようと、大それたことは全く考えてない。
特に、これからは憲法だ。「護憲」の左派にとっては最も手強い敵を迎えたということだ。
1969年に私は右派学生戦線から追放された。
もし、あの内ゲバがなくて、今も運動をやっていたら、多分、日本会議の末端で、運動を続けていただろう。
その方が、「一筋の道」を歩み、闘ったとして評価されたかもしれない。
でも、私は追放された。東京では全く運動が出来なくて、郷里の仙台に帰った。そこで、鬱屈した日々を送った。
その後、縁があって産経新聞に入った。「もう運動の世界とは切れた。
これからはサラリーマンだ」と思ったが、70年11月に三島事件が起こり、昔の仲間が集まってきて、再び、運動の世界に引き戻された。
私にとっての〈運動〉は、まさに、ジグザグだ。
登りの時もあるし、降りの時もある。いや、そっちの方が多い。
だから、こうも言える。学生時代の志を継いで、左翼と闘い、一貫して闘ってきて、日本会議を作り、政府を動かしている人々。
彼らは右派学生の「勝ち組」だ。彼らは奇跡を起こしたのだ。だから、この「奇跡の物語」について、本が次々と出されたのだ。
それに比べて、私は、右派学生運動の「負け組」だ。悪い手本だ。
負けたけど、しかし、多くのことを学んだ。
マスコミの人には、「あの時(1969年)は悔しかったでしょう。全国学協の委員長を追われたんですから」と聞かれる。
確かに、悔しかった。自分が〈全て〉をかけてやってきた運動だった。そこを追い出されたら、もう生きていけないと思った。
だから、必死であがいた。見苦しい闘いもやった。
でも、ムダだった。私には人望もなかったし、組織もなかった。支えてくれる人の力もなかった。
あの時、支援してくれた人々の好意は今になっても忘れない。
でも、どうやってそれを返していけるのか、分からない。自分はただの敗残兵だった。
〈それは、「日本を裏支配するシンジケート」なのか?〉
そんな見方もされており、陰謀論で語られることもある。
でも、そんな見方は違う。自分は長い間、見てきたから、それが分かる。そう言ってるようだ。藤生さんは。
そしてこう書く。
〈日本会議。1997年に結成され、「草の根保守主義」を標榜。会員約4万人。日本会議国会議員懇談会約290人。同地方議員連盟約1800人。全都道府県に地方本部を置き、250の地方支部を持つ保守運動体〉。
すごい。これだけ急成長を遂げた右派学生団体はかつてない。これからもないだろう。まさに「勝ち組」だ。
それはどのようにして生まれ、成長したのか。それは藤生さんの本を読んで学んでほしい。
私も、一気に読んだ。学生時代が恋しい。懐かしい。そんな気持ちになった。
それにしても、我を忘れて読む本があるというのは、ありがたい。
53人の憲法論が載っている『私にとっての憲法論』(岩波書店)もよかった。
憲法発布70年にして、最も良質な成果だろう。夢中になって読んだ。
さらに、連合赤軍事件について書いた桐野夏生さんの『夜の谷を行く』もよかった。
連赤関係の本では、これは、異色だ。フィクションでありながら、実にリアルだ。こういう形でしか書けない〈リアル〉があるのだろう。
桐野作品に感動した。今まで読んでなかったので、今、手当たり次第、文庫を買い、図書館で借りて読んでいる。
『東京島』『ナニカアル』『ジオラマ』『冒険の国』など、10冊ばかりを読んだ。
出ている本は全部読もう。もう50冊くらいかな。
7月15日に連合赤軍を考えるイベントがある。そこに桐野さんも来るという。会うのが楽しみだ。
それまで、読めるだけの本を読んでおこう。今まで自分が考えられなかった方法で書いている。こんな書き方があったのか、と新たな発見がある。
講師は、舟坂誓生氏。立石晴康氏。「今夏の都議選を控え、都政の諸問題を語る!」。満員だった。
客席にいたNHKの人に聞かれた。「5月6日のNHKスペシャル見ました?」「見てません」「この前、取材したでしょう。みやまで。あれが流れたんです」「エッ? 知らなかった」。「忘れたんですか。じゃ、ゆっくり見て下さい」と言って、DVDをもらった。
5月6日(土)「NHKスペシャル・日本国憲法 70年の潮流―その時、人々は―」だった。自分で出たのを忘れてる。いかんねー。
①5月7日(日)午後1時半から。肥田舜太郎さんのお別れ会に行きました。満100才でした。広島で自らも被爆しながら、軍医として、多くの被爆者を治療し、反核・反戦運動を貫いた人です。多くの人が集まってました。
⑨この本を読み終わった時に、一水会フォーラムがありました。5月11日。そして偶然、著者の藤生さんが来てました。「今日、読み終わりました。いい本でしたね」と話しました。日本会議についての新書だけでも5冊も出ている。この本が〈決定版〉ですね、と話しました。そして、取材中の苦労話を聞きました。
⑩私の家の近くに「林芙美子記念館」があるのです。だから、時々、行ってみます。〈花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき〉と書いてました。又、自ら、「プロレタリア作家」と称してました。だから、私と同じ貧乏だと思ってました。
⑪書斎ですね。書斎がいくつもあり、客間、茶の間、母の部屋、編集者の控え室などもあるんです。大きな家です。庭には美しい花々が。「今だったら、豪邸ですよね」と記念館の人に言ったら、「そうですね」と言ってました。「放浪記」を読み、「プロレタリア作家」だと思ってた人が来ると、イメージが違うと思うようです。
⑬小間。こんな説明が書かれてました。
〈奥の棚に小さな仏壇が置かれたこの部屋は、芙美子の母・キクが住んでいました。しかし、男性の書生がいるときには、その寝室にもなりました。また、客間が一杯になったり、ひき会わせたくない客がぶつかると、客間としても使われてました〉
すごいですね。お客同士が会わないように、いくつも部屋があったんですね。
⑭三島由紀夫も林芙美子の作品を高く評価してたそうです。彼女の家(今は記念館になっている、ここの家)にも訪れたことがあるそうです。こんな書評を書いてます。
〈氏の短編小説は人生の一断層を立体的に構成するという行き方ではなしに、多くは人生の流れを一つの窓から覗かせる仕組みになっている。人生はこの短編という器の一端から流れ入って流れ去り、読後ほとんど堅苦しい形式感を残さない。残るものは一種異様なほどの強烈なリアリティーである。われわれはこれらの短編を通じて、他人の人生に恰かも食器や靴や林檎に触れるように親しく手を触れえる喜びと、その触覚だけが手に痛みのようにして残る悲しみとを、同時に味わうことを強いられるのであるが、男女の別れを細やかに描いて、この作品そのものに動かしがたい別離の形式を与えるように思われるのである〉(『晩菊』『水仙』他)
⑳あれっ、稲田朋美さん、小林よしのりさんと一緒に座談会に出てますね。さらに森達也さん、富岡幸一郎さんもいます。パラパラと雑誌を見ていて、発見したのです。月刊『わしズム』(小学館)でした。「真の不安。偽りの不安」というテーマでした。2006年11月18日号でした。もう11年前なんですね。稲田さんも初々しかった。こんなに偉くなるとは思わなかったでしょう。