元「楯の会」一期生の福田俊作氏に会った。
あの事件で別れてから初めてだ。1970年11月25日、三島事件の日だ。
それまで私は福田俊作・阿部勉両氏が住む高田馬場のアパートに居候していた。学生運動から追放され、1970年4月からは産経新聞社に勤めていた。
この二人のアパートは住み心地がよかった。
そこは、「楯の会」のメンバーが集まり、毎日のように議論をし、酒を飲んでいた。昔の学生運動の雰囲気を思い出し、楽しかった。
ところが半年後、11月25日、三島事件が起きる。事態はがらりと変わる。
部屋に祭壇が置かれ、三島、森田氏の遺影が置かれる。楯の会の人たちが集まってヒソヒソと話し合っている。
外にはマスコミの人が大勢いる。警察も来る。
こりゃー、いられないな、と思った。急遽、アパートを探して、翌日に、そこを出た。福田氏、阿部氏にはとてもお世話になった。
阿部氏にはその後も会っている。彼が一水会を作ったようなものだ。
「第一水曜日に集まりましょう。とりあえず一水会という名にしましょう」と言う。彼が綱領などを書いてくれた。
三人が住んでいた高田馬場のアパートから一人、下北沢に移った。そこのアパートを「一水会事務局」にした。彼にはお世話になりっ放しだった。
福田俊作氏の方は、日本を脱出し、世界を回ったようだ。
三島事件以来、会ってない。そして、今年の5月27日(土)。その福田俊作氏と会ったのだ。
何と47年ぶりだ! 変わってない。相変わらずデカイ。
学生時代からデカかった。武道の達人だった。182センチ、90キロだ。高校時代から柔道と空手をやっていた。
どんな闘いの場でも、彼といれば大丈夫だと思っていた。弁慶のような男だった。
彼は今、長野にいる。「穂高養生園」をやっている。
病院」なのかな。「整体」か、「治療院」なのかな、と思っていたが違う。
〈ようこそ、穂高養生園へ〉と書かれたパンフレットがあるので、そこから紹介しよう。
〈ここは北アルプスの麓。安曇野の森の中にある宿泊施設。マクロビオティックをベースにしたやさしい食事、ヨーガや原生林の散歩、心身の深いリラックスによって本来、誰にでもそなわっている自然治癒力を高めることを目的としています。日常生活から少しだけ離れて穂高の豊かな自然に身をゆだね、心身の声に耳を傾けてみませんか〉
壮大な空間だった。特に、長い時間をかけて丁寧に作り上げた自然の家「新棟」がある。きれいな個室が沢山ある。集会室、セミナー室もある。いろいろなワークショップも行われている。温泉もある。
老人のための治療院かと思ったが違う。若い人たちの方が圧倒的に多いという。
芸能人も多い。ニューヨーク在住の歌手・宇多田ヒカルさんも来ていた。
実は彼女は福田俊作氏の息子と付き合っていた。このことは週刊誌やテレビでも大きく報じられていた。「天才画家で、父は楯の会」と報じられていた。
それで息子も、又この養生園も一気に有名になってしまった。
「あの時は大変だった。マスコミの人間ばかりがドッと取材に来て。どこに行ってもマスコミがいた」と俊作氏は当時を振り返る。
でも今は、静かに、自分を見つめる場所だ。
先月だったかな。美輪明宏さんのライブを聴きに行き、終わって楽屋に訪ねたら、「福田俊作さんは元気ですか?」と聞かれた。
福田氏はあまりマスコミの取材に応じない。あるいは、「宇多田ヒカル」さんのことでテレビを見て思い出したのかもしれない。「長野で治療院をやってるらしいですね」と答えた。
でも、どうして福田氏を知っているのだろう。「楯の会」の中の班長でもないし、派手な活動をしたわけでもない。
「三島さんと一緒に家に来てくれたのよ」と美輪さんは言う。三島と一緒に来た「大男」というので覚えているのだろう。
「今度、会ったらよろしく言っておきます」と言った。
福田氏にそのことを伝えたら、懐かしがっていた。
「小さな治療院」を想像していた私だったが、全く違っていた。
壮大な空間だ。山一つある。そこに宿泊施設、集会、セミナーの施設、温泉などがある。
周りは雪を頂いた山々だ。川が流れ、滝もある。昔ながらの大きな釜があり、ご飯を炊いている。何か、別の世界に来たようだ。
「武道場を作ったらいいのに」と思った。
昭和21年生まれというから私の3才下だ。今年70才か。
ちょっと組んでみたが、体が頑丈で、とても投げられない。柔道3段というから私と同じだ。
でも、全然違う。「最強の70才」だろう。
山を歩いて、説明してくれる。三島事件以降の人生も話してくれる。
「電話した時、鈴木さんと声が似ていて、ビックリしました」とあさ子さんが言う。
「やはり東北ですか?」「いえ、大阪です」。
そうか、そんなことも知らなかった。
学生時代は、全共闘と闘う「今」しか考えてない。それに「これから」だ。
皆、「過去」は語らない。どこ出身で、高校時代は何をしたかなんて、全く話さなかった。聞きもしなかった。
福田氏の過去は、ここで初めて聞いた。そして、三島事件以降の話も。
自転車で世界を回り、日本に帰って来て、会社に入り、マクロビオティックに出会い、目覚める。
だからこの養生園の食事は、野菜を中心とした玄米菜食のマクロビオティックの食事だ。
全国から多くの人が来る。お世話をするスタッフは30人もいる。その人たちと共にこの養生園をやっているのだ。
すごいね。大企業の経営者だね、と言った。
そして、学生時代の話をした。47年ぶりとは思えない。次々と人の名前が出る。事件の話題が出る。
実は、福田氏との再会のセッティングは瀧沢さんやあさ子さんが全てやってくれた。私は何もタッチしてない。
瀧沢さんは三島由紀夫研究家としても有名だ。若松監督が三島を描いた映画は30回も見たという。三島についての勉強会もやっている。
7月10日には高円寺で元「楯の会」一期生・阿部勉氏についての集まりをやる。阿部氏が出演した映画も紹介するという。
阿部氏についての伝記も全て読んだ。山平重樹氏などが書いている。
その中で、阿部氏の親友・福田俊作氏がよく出てくる。
興味を持って調べたら、長野で養生園という施設をやっているという。どうも鈴木とも知り合いのようだ。
行ってみようと思い、調べて電話した。
「いいですよ。ぜひ来て下さい。鈴木さんと会えるのは楽しみです」と福田氏は言ってくれた。
それだけの段取りをした上で、「だから行きましょう」と言われた。ありがたい。
こっちは何もしないのに、昔の仲間と再会出来るのだ。
午前8時に落合に迎えに来てくれた。高木あさ子さん、塩田祐子さんも一緒だ。
瀧沢さん運転の車で一路、長野に向かう。
安曇野、穂高はとてもきれいだった。山が美しい。空気もきれいだ。外の景色を見ながら、ウトウトと眠ってしまった。
「さぁ、着きましたよ」と言われて目を覚ました。
福田氏が出迎えていた。やはりデカイ。全く変わらない。感動した。
47年ぶりか。そんなに昔か。
「久しぶり。あの時は本当にお世話になったのに何も出来なくて…」と言った。半年以上も居候してたのに、下宿代も払ってない。
そうか、なぜ福田氏、阿部氏と一緒に生活したのか。それも書いておこう。
私は、大学に入り、「生長の家学生道場」に入って、学生運動をした。一生懸命やった。
「生長の家」の学生組織である「生学連」を中心にして全共闘と闘った。
又、生学連を中心にして全国の民族派組織をまとめる「全国学協」を作った。1969年だ。その初代の委員長に私はなった。
だが、人望がなく、ただの暴力学生だった私は、すぐに追放されてしまう。
一時は郷里の仙台に帰ったが、縁があって産経新聞社に入れてもらった。
1970年4月からの入社だ。じゃ又、東京での生活が始まるんだ。アパートを探さなくては、と思い、上京した。
アパートを探す前に都内をうろついた。渋谷を歩いていた。そこで何と、阿部勉氏にバッタリと会ったのだ。
「先輩、お久しぶり。どうしてたんですか」と言う。近くの喫茶店に入って話をする。
彼は生学連、全国学協とは違う。日学同にいた。そこから「楯の会」に入った。でも出身は秋田県角館だ。だから「同じ東北人」ということで仲がよかった。
全国学協を追い出され、仙台に帰り、縁があって産経に入った。だから今、アパートを探しに上京したんだ。という話をした。
「じゃ、アパートが見つかるまで僕の家にいて下さいよ」と言う。
高田馬場に福田俊作と二人で六畳二間のアパートを借りてるという。広いし、先輩も寝れますよ、と言う。
「じゃ、頼むよ」と即答し、その日から、居候した。そこから産経新聞に通った。
昼は、サラリーマン。夜帰ってくると、学生が集まっていて、討論している。酒も入る。その雰囲気が嬉しかった。
全国学協を追放され、もう二度と学生運動の世界には戻れないと思っていたので、運動の雰囲気は楽しかったのだ。
それに皆、勉強家だった。よく本を読んでいた。阿部氏も吉田松陰全集をそろえて、原文で読んでいた。彼は、旧漢字、旧仮名で日記もつけていた。
又、字がうまい。休みの日には、近くのスナックのお姉ちゃんたちを集めて習字を教えていた。
和服を愛し、正座し、背筋を伸ばして、教えている。凛々しいと思った。
ここにはちょっといて、アパートを探すつもりだったのに、居心地がいいので、つい延び延びになった。
食事も二人が作ってくれる。私は宿代も払わずにずっと居候していた。
楯の会の学生が毎日のように来ていた。楯の会のたまり場になっていた。
歌手になった三上寛さんも来ていた。最近、テレビの仕事でバッタリ会った。
「あの時は、ご馳走になりました」と言う。「鈴木さんがいると今日はご馳走だ」と思ったと言う。
サラリーマンは私だけだから、私がいると、皆におごってやったらしい。「そうだっけ?」と聞き直した。
大した金ではないが、彼らは覚えている。
こうした話をしてるとキリがないな。あとは、7月10日の高円寺で話そう。
あの半年間の生活があったので私は「再生」出来たのだと思う。
私にとっては、あの場所が「養生園」だった。あれがなかったら、たとえ産経に行っても、「落伍者」の意識のままだったろう。
昼は会社で仕事をし、夜帰ってきて「楯の会」の学生たちと討論し、酒を飲む。そこで皆、雑魚寝(ざこね)だ。朝、
私だけが一人、起きて、背広を着て、会社に行く。「楯の会」の人たちは皆、寝ている。
目を覚ました学生が言う。「ほう、鈴木さんも今じゃ、サラリーマンですか。学生の時はあんなに暴れてたのに」。
ムッとした。「じゃ今、暴れてみようか」とも思った。
いやいや、その時代は終わったのだ。〈次〉のことを考えなくちゃと思った。
福田氏は〈次〉のことを考えていたのだろう。そして日本を脱出して、世界を回った。
その頃の気持ち、そして三島事件で感じたことなどを書いたらいい。椎野礼仁さんに頼んで、本を作ってもらおうか、と言った。
その前に、〈対談〉をしよう。そんなことを考えながら、「穂高養生園」を後にした。ありがとうございました。
夜、遅く帰ってきて、家で仕事。
次の日、5月28日(日)は朝8時に家を出る。羽田発10時の飛行機で札幌へ。
姉が病気で入院している。その見舞いだ。息子の康二君と一緒に行く。
姉は口も利けない。食事も喉を通らない。点滴だけだ。
「俺のこと、分かるかな」と心配だったが、分かって笑顔でうなづいていた。「とても喜んでましたよ」と康二君は言う。
長野で福田氏に47年ぶりに会い、翌日は札幌で姉と会った。又もや、慌ただしい週末だった。
㉓5月31日(水)は午後7時から、紀伊国屋書店で、立川談慶さんの新しい本『なぜ与太郎は頭のいい人よりうまくいくのか=落語に学ぶ「弱くても勝てる」人生の作法=』(日本実業出版社)の刊行記念の落語、トーク、サイン会。我々もたっぷり楽しみました。
談慶さんの本は今まで全部読んでるが、面白いし、人生の知恵が溢れている。慶応を出たインテリだし、とても勉強家だ。頭もいい。