三島由紀夫原作の映画「美しい星」を見た。よかった。予想以上によかった。
それに、驚いた。三島の原作とは随分と違う。
三島がこの作品を書いたのは1962年。原作のままでも面白いが、「三島が今、生きていたら」という発想も加わり、三島の「憂い」を、より今日的に表現するために大きく原作を変えている。
「すごい映画だね。でも俺の原作ではないね」と三島は言うだろうか。
パンフレットの中で、吉田大八監督は、「三島さんが観たらどう思ったのでしょうか」と聞かれて、こう答えている。
〈わからないです。でも、不思議と怒られる気がしません(笑)。試写室に45歳のままの三島さんが来るのを想像することがあります。たぶん遠くから僕の顔を見て、ニヤリと笑って、何も言わないで帰るような気がするんです〉
多分、そうでしょうね。少なくとも、怒ったりはしない。
「俺の作品をこんなに変えやがって!」なんて怒ったりはしない。「うん、これはいい」「面白い!」と唸ってくれるでしょう。
そして、カラカラと笑ってくれるでしょう。
「でも、これは君の原作にしたらよかったんじゃないの。何も俺の名前を出すことはないよ」と言ったんじゃないのかな。
三島は「楯の会」を作り、その「歌」まで作っている。
ところが、それをコンドーム会社がパロディにして、自社の広告に使った。「立て、立て、立て、楯の会。使用感などさらになし!」と。
うまいけど、三島にしたら、激怒するところだ。
しかし、三島は全く怒らない。笑っていたそうだ。
三島が怒らないから「楯の会」」としても行動の起こしようがない。
もしかしたら、自衛隊以前に、このコンドーム会社が襲撃され、占拠されていたかもしれない。
岡本理研ゴムにしても「もしかしたら三島は激怒するんではないか。楯の会に襲われるんじゃないか」という不安もあったはずだ。
その時はその時だ。やってやろう。などという気があったとは思えない。
きっと、事前に三島に相談したんだろう。そしてOKをもらったのだろう。
しかし、その「合意」は秘密にした。その方が「緊張感」」が湧くし、物語はスリリングに展開する。そんなしたたかさもあったと思う。
だから、あの世から、三島も、観てるはずだよ、この映画を。そして、気に入っているだろう。
最初見た瞬間、これは、リリーフランキーが出るので、その「役」を大量に作ったのかな、と思った。
原作では父は全く影が薄い。でも映画では、「主役」だ。彼が暴れ回り、主演している。
他の地味な俳優だったら、ここまで、父が暴走する映画にしなかっただろう。
しかし、そんな営業的理由ではないのだ。
だって、吉田監督は、この小説を大学時代に読み、何とか映画にしたいと思い、30年の悲願だったという。これでは三島だって、感動するさ。
この映画パンフのプロダクションノートでは、こう書かれていた。
〈監督は、「桐島、部活やめるってよ」(12)で第36回日本アカデミー賞最優秀作品賞・最優秀監督賞を受賞し、「紙の月」(14)で第38回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を宮沢りえにもたらした鬼才・吉田大八。「『美しい星』だけは、いつか自分が映画にしたいと思っていました」と熱を込めて語る。吉田にとって、初めて読んだ大学時代から実に30年越しの悲願を叶えての映画化となった。本作の完成後吉田は「いちばんヘビーな宿題をやっと終わらせたような気がします」と語っていた〉
そして、次の見出しにはギョッとした。
〈文豪の小説をみごとに換骨奪胎—日本映画界に一石を投じる“脚色”(アダプテイション)〉。
普通「換骨奪胎」とは、いい意味で使われない。
でも、ここでは、敢えて、ダークイメージの言葉を使うことによって、吉田監督の「身の程知らず」の挑戦を表現している。
あの事件より47年だ。三島が生きていたら、あの原作じゃ、満足してないだろう。
「俺が脚色」してやる。「俺が三島にやってやる!」と思って書いたのだ。それだけの覚悟を持って書き、監督したのだろう。私は、そう思いましたね。
原作を読んだ人なら分かるだろうが、埼玉県飯能に住む、一見普通の家族の話だ。
さえない父親・大杉重一郎(リリーフランキー)。フリーターの息子・一雄(亀梨和也)。美しい娘・暁子(橋本愛)。ネットワークビジネスにはまる母・伊余子(中嶋朋子)。
でもこの一見普通の家族は大きな秘密を抱えている。皆、出身の星が違うのだ。
父は火星人。息子は水星人。娘は金星人。母だけは地球人だ。
深い記憶の中で、それを感じ取っている。まるで、星々の「合衆国」のような家庭だ。
でも、この「美しい星」=地球を愛している。偶然だが、この星に生まれ、この星を愛している。
核実験や核戦争の恐怖からこの「美しい星」を守らなくてはならない。
このことについては一家団結し、闘う。
「こんな腐り切った星など一度、滅ぼしてしまった方がいい」という人間たちと闘うのだ。
原作では、父は講演会などを通して、その危機を訴える。
しかし、吉田の映画では、それでは、まだるっこい。テレビやネットで訴えることにする。
そして、父は、気象予報士という設定だ。これだと、毎日、ニュースのあと二「お天気」のコーナーで喋れる。
そこで、なぜこんなに異常気象が続くのか、それは地球温暖化のせいだ!と大声で訴える。それに賛同する人もいるし、反対する人もいる。
原作では仙台から出てくる教授の三人が反対する。こんな地球など、潰してしまえ、と言う。一人、父・重一郎だけは闘う。
この大闘論大会も見応えがある。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が目に浮かぶようだ。
映画も重厚で、考えさせるが、映画パンフもすごい。ついつい読み耽ってしまった。
ただのパンフではない。これ自体が一つの本だ。思想書だ。原作ともども、ぜひ読んでほしい。
そして、原作と映画、どこが違うのか。吉田監督の創意工夫はどこなのか。見てほしい。
と思っていたら、このパンフの最後はこんなページもあった。
〈映画と小説。どこが違うか? 観てから読むか。読んでから観るか〉。
これはいい。ボーッとして読み、ボーッとして観ただけでは、分からないことも、ここで整理されてるから、ありがたい。
まず、「一家の職業」だ。原作ではこうなっている。
〈重一郎:定職に就いたことのない芸術家肌の”高等遊民” 一雄:プレイボーイの大学生。暁子:孤高の美しさを持つ女子学生。伊余子:堅実な専業主婦〉
これに対して映画は、重一郎はマスコミで活躍するアクティブな男になっている。愛人だっている。
〈重一郎:テレビ気象予報士。一雄:フリーター(自転車便のメッセンジャー。暁子:美人だが友達がいない女子大生。伊余子:孤独を抱えた専業主婦〉
「ロケーション設定」は、原作では埼玉県飯能市。それに石川県金沢市、内灘町。仙台市(敵役の本拠地)。神奈川のあたり。
一方、映画では、「飯能」は全く出てこない。
〈東京郊外の国立市あたり。内灘町。都内のプラネタリウム。福島県いわき市周辺の山中〉。
娘・暁子は、自分以外にも金星人がこの地球にいないかどうか探す。SNSを使って、探す。
そして、一人だけ反応があって、それで金沢に会いに行く。金星人だから、金沢で合うのだろう。
でもそこで暁子は、妊娠する。「相手はいない。処女懐胎だ」と強く主張する。
又、石川県に行った時、内灘闘争の話も出てくる。思想的だ。その時代の政治的動きも取り入れている。
三島が憂えた「60年代の危機」は核実験、核戦争だった。
「じゃ、今は」と考える。環境破壊か、人口爆発か。「人類が直面する危機」に就いて。
まず原作だ。
〈核兵器による最終戦争〉
映画では。
〈地球人口の爆発的増加、そこからはじまるエネルギー問題。その時に起こる地球温暖化、異常気象〉。
こういうふうに対比して書いてると、分かりやすい。
三島が小説で発表した1962年当時は、まだ、問題が限られていた。
でも、今なら、核だけでなく、「温暖化」はあるし、「人口爆発」もある。
では、この地球で「闘うべき敵」は誰か。この地球を救おうとしてるのに、それを邪魔だてする人もいる。
こんな地球なんかもうダメだ。一旦破壊するしかない。そう思ってる人々だ。
その人々は仲間を増やし、重一郎たちを襲ってくる。
その「敵」だが、原作はこうなる。
〈仙台在住の3人。万年助教授の羽黒。床屋の曽根。銀行員の栗田〉。
仙台を拠点にしてるのだ。この地球を滅ぼそうとしている人たちは。
そして、歴史的な「大論争」をやる。これが映画ではどうなってるのか。
映画では「仙台在住」の悪の3人は登場しない。3人は登場しないで、その役割をパワフルな保守系大物衆議院議員の黒木一人に集約させた。かつての石原のような存在だろう。
原作だったら、仙台の3人と延々と論争をする。この地球をどうするか。人間はどうなる…と。まるでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のようだ。
しかし、キャラクター的には地味な大学の先生や床屋、銀行員といったネトウヨ的な人間が、原作ではよくても、映画にしたらちょっと映えない。
それで、ここは「絵」になる人気保守政治家にしたのだろう。
そして、この人間がテレビで気象予報士の重一郎と論争するのだ。
パンフにも、原作部分は惜しいがカットしたと書かれていた。
〈(仙台の)3人が重一郎の自宅応接室に乗り込んで来て操り、“破滅に自ら向かう人類を救うべきなのか、早々に破滅させたほうがいいのか”という大討論はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」と並び称される原作屈指の名場面。映画でそれは、テレビ局での謝罪番組収録の大討論シーンに置き換えられている〉
さて、皆さんはどう見るか。ぜひ観てほしい。勿論、「原作」は読んでほしい。
そして、今の大問題にどう取り組むのか、考えてほしい。
皆が〈三島〉になって考えるのだ。三島もそれを欲しているよ。
実は、この日は、もう1本観た。「君のまなざし」という映画だ。「幸福の科学」が作った映画のようだ。
私は、今までかなり観ている。昔は〈宗教色〉が強かったが、今は、内容で勝負している。
時空を軽々と飛び越えて、物語は展開する。
そして、なぜ〈憎しみ〉の政治は越えられないのかを考える。
これは大きなテーマだ。「愛国心」を強制しながらも「愛」がないし、外国への憎しみの心だけだ。
謙虚に自国を愛し、外国を尊重する。そんな当然のことがなぜ出来ないのか。
多分、政治運動や市民運動で人を多く集め、一つの方向に運動を持って行こうとすると、「愛」よりも「憎しみ」「怒り」の方が力があるのだろう。
「あいつをやっつけろ!」「こいつが敵だ!」という方が、人々がまとまりやすい。
左右の運動は、今ほとんどないので、その運動の中から、悪い遺伝子だけを引き継いでいるようだ。そんなことを考えた。
景山民夫さんが生きていたら、いい脚本をいっぱい書いてくれただろうに。
この世から、ヘイト、憎しみの心をどうやったらなくせるか。それを書いてもらいたかった。
ともかく、いろいろと考え抜いた一週間だった。
映画2本続けて観たのは、最近はない。とても考えさせる映画だった。
それに、今、上野でやってるブリューゲルの「バベルの塔」展もよかった。
人間が思い上がって天まで届くような塔を建てる。神は怒って人々の言葉を通じなくした。それで、仕事は進まないし、塔も建てられなくなった。
人間は「共通の言葉」を持ち、一つの方向に進んでいる。そして、天まで届く塔を建てようとしている。
そうか。「同じことを考えてる集団」だけだと危ないんだ。違う考えの人や、違う民族や、違う思想の人々…。そうした人々がいて、まとめて人間なんだ。
それをどこかでまとめて、そこだけ〈共通の言葉ができたら、あとは暴走するしかない。
それでは、まさに今のアメリカであり、今の日本じゃないか〉…と、そんなことを考えた。
午後7時からTBSへ。テレビ出演ではない。局の人たちとの会合に呼ばれて話をする。
「出演」以外でテレビ局に来たのは初めてだ。出版、報道の「自由」などについて話をする。
そして3時、「現代文要約」。
5時「読書ゼミ」。今日はこの本を皆で読んだ。柳澤協二、伊勢崎賢治、加藤朗の『新・日本安保論』(集英社新書)。皆で考える。とても面白いし、スリリングな本だった。
午後1時から、「元楯の会・阿部勉氏を語る会」。日野繭子さん(女優)。小川晋さん(映画評論家)。鈴木邦男。日野さんとは久しぶりに会いました。
又、この日は阿部氏が出演した映画も紹介しました。懐かしかったです。因縁のあの映画でした。そんな裏話もしました。「この前、福田俊作氏のとこに行ってきたんですよ」という話もしました。楽しかったです。
①6月6日(火)。東陽町の「ホテルイースト21」で「JR総連結成30周年記念レセプション」が行われました。国鉄が民営化になり、JR総連が出来ました。又、JR東やJR西なども作られました。民営化から30年です。大勢の人がお祝いに駆けつけました。
はじめに、「鏡割り」です。私も呼ばれて、上にあがりました。全く初めてです。思い切って叩いたら、酒が全身にかかるんじゃないのかな、と心配してたら、「大丈夫です。中には余り入ってませんから」と教えられました。
⑥JR総連の支持者の舩井さん。私の名刺を見て、「私も、このみやま荘に住んでたんだ」と言います。50年前、学生時代だそうです。私は、まだいません。ここに来て25年です。でも、みやま荘はあったんですね。今の大家さんのお父さんお母さんが大家さんだったんです。ウーン、すごいですね。
⑦オープニングは何と、「寒水・能見ダンストゥループ」による華麗なダンスでした。「えっ、労働組合でそんなことやっていいのか」という人もいたのでしょうが、「これこそがJR総連です」と委員長は挨拶してました。
⑱今月は、TBSテレビに2回も出た。「報道特集」と「サンデーモーニング」だ。電話があった6月1日(木)、又、「出演」かと思ったら、若い人たちに講演してくれとのこと。三島のこと。今の安倍政権のこと。などについて話をし、記者さんたちと話し合いました。