日本は長寿大国だ。それも急に、そうなったようだ。
つい20年前までは100歳を超えた人なんて、あまり聞かなかった。
でも、2千人とか3千人はいたらしい。そして今は、100歳を超えた人は何と7万人もいる。
でも、回りを見渡しても、100歳を超えた人はいない。
同じ町内会でもいないし、街を歩いてもいない。
では7万人はどこにいるんだろう。大半は自宅で寝ているか、あるいは、病院、養老院かもしれない。
元気に自分で暮らしている人は沖縄にはいるが、他の地域ではあまりいないのか。だから、自ら発言し、闘っている人は目立つのだ。
私は100歳を超えた人は2人、知っていた。この2人に会い、いろんな話を聞いた。
105歳で今年亡くなった日野原重明さん。そして101歳で去年亡くなったジャーナリストのむのたけじさんだ。
日野原さんとは、月刊『創』で以前、対談している。今月号の『創』では、それを再録してくれている。ありがたい。
又、去年亡くなった、むのたけじさんの追悼の集まりが8月22日に埼玉県の与野で行われて、私も出席した。
何と、この日、むのさんを撮った映画が上映され、そのあと、むのさんの息子さんと私のトークがあったのだ。
むのさんは反戦平和の闘士だった。「それなのに何で右翼が…」と不思議に思った人がいただろう。
でも私はむのさんを尊敬していたし、わずかながらも接点があったのだ。その接点を中心にして、息子さんと話をした。
又、その中で、むのさんの日常の闘いについても聞いた。
まずは、日野原さんの話からしよう。日野原さんとはぜひ、会って話を聞きたいもんだと思っていた。
90歳を超え、さらに100歳を超えてもどんどんと新しいことに挑戦している。
自分が長年やっていたことをさらにやる、というのは、楽だ。しかし、脳の活性化にはならないらしい。
90歳を過ぎて、俳句に取り組む。舞台をやる。歌をやる。そして、何と、フィットネスをやる。
さらに、講演会で全国を回る。外国まで行く。行動的な人だ。
ある日、新幹線の中でバッタリと日野原さんに会った。ウワー!夢じゃないかと思った。すぐに声をかけた。
今年、ぜひインタビューをさせて下さい。連絡をしますのでと頼んだ。「いいですよ」と言ってくれた。
この日、日野原さんはグリーン車で、机を出して原稿を書いていた。ゲラの校正だったのかもしれない。
隣の席も買ってたのだろう。机を使って仕事している。「あれっ、大丈夫かな」と思ったが、違う。少し後ろの席に秘書の人がいて、さらに、その二つほど後ろにもう一人の秘書がいて、二人とも中年の秘書だ。二人は必要なのだ。
もし、何かあったら、一人は付き添って、一人は車掌か医者を呼びに行く。多分、そういうことになってるのだろう。
仕事の邪魔をしたのに、でも、日野原さんは、いろいろ話してくれた。「ぜひ、よど号ハイジャックの話も詳しくお聞かせ下さい」とお願いした。
そのうち新幹線は名古屋に着く。「今日は名古屋で講演会です」と降りる。
秘書の女性2人も、慌ただしく支度していて、「鈴木さんも一緒に名古屋で先生の講演を聞きませんか」と言う。
「あっ、行きたいですね。でも、私は大阪で講演なんです」と答えた。
今、考えると、大阪の仕事をキャンセルしてでも一緒に行けばよかったと思う。でも、仕事をキャンセルして、他の人の話を聞きに行ったら叱られるだろうな。
ともかく、ファースト・コンタクトは終わり、その話を『創』の編集長にした。すぐに秘書の人と連絡を取ってくれて、急に、インタビューが決まった。
病院に行った。築地の聖路加病院だ。路加とは、聖書の「ルカ伝」のルカから取っている。熱心なクリスチャンであり、病院もキリスト教の精神を出発点にしている。
他にも、キリスト教系の病院は多くある。でも仏教系の病院とか、神道系の病院なんてないですね。入ったら、「すぐお葬式」かと思われるからか。
病院の売店には日野原さんの本が随分と置かれていたし、広告塔なのだ。
インタビューは2時間ほどやった。
その間、お茶も出ないし、お茶菓子も出ない。水もないし、そのことの説明もない。こっちはいいが、日野原さんの喉が渇かないかと心配した。
しかし実は、日野原さんの健康管理上の理由なのだ。
水やお茶は、朝は飲まないようにしてるようだ。お茶と水は、決まった時間に決まった分量を飲むのだろう。
だから、お茶も水も一切出さない。出すと自分も飲みたくなる。まあ一杯くらいいいだろう、となる。
その誘惑に負けないように、インタビュー、対談の時も、相手側にも一切出さない。多分、そうだろうなと瞬間的に思った。
その時の話の内容は、また『創』の今発売中の9月号で読んでほしい。
一つだけ紹介すると、日野原さんは若い時から病弱で、「とても60歳までは生きられまい」と言われていた。
ところが、60歳になる直前に、「よど号ハイジャック事件」に出会った。
そして解放された時、地球に降り立った宇宙飛行士の心情になったという。
死ぬかもしれないと思ったのに、助かった。〈あとは、おまけだ〉と思った。その思いから、何か得した気になり、105歳まで生きたのだ。
よど号で人質になってる時、よど号をハイジャックした人たちは、本を貸してくれる。マルクス、レーニンの本。自分たちが新聞や雑誌に書いた論文。そんなものは誰も借りない。
文学書も少しは入っていて、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』もあった。
日野原さんは、死ぬまでに読んでみたいと思った大作を借りて読んでみた。
でも、「犯人は真剣には読んでなかったでしょう。読んでたら、あんなハイジャックなどするはずがありません」と言う。
この対談のあと、北朝鮮にいる「よど号」犯人とも知り合い、又、日本にいる「よど号犯」の家族とも日野原さんは知り合いになれた。
では、むのたけじさんの話だ。
むのさんは文字通り、「反逆の人」「反戦平和の人」だ。
ずっと朝日新聞にいた。戦争は敗けた。むのさんは、なぜ、真実を書けなかったのかを公表すべきだと思った。
しかし、朝日への提案は受け入れられず、敗戦の日に朝日を辞めた。
そして、郷里の秋田県横手市に帰った。そこで準備をして、週刊『たいまつ』を発行した。
それを30年以上も続け、全国に読者が増えた。
「むのさんは、この事件をどう思っているのか」…と、何かあるたびに東京から取材が来る。
他の大マスコミにでも発言するのだが、自分の『たいまつ』で、どう書いているか。全国から「読んでみたい」と申し込みが来たのだ。
それにしても、むのさんが出した『たいまつ』は又、1人で闘ってきた。1人の力だ。
この日、上映した映画も初めて観た。むのさんを扱った映画かと思ったら、主人公は2人いて、2人とも100歳を超えて闘っている人だ。日本初の女性報道写真家の笹本恒子さんとむのさんだ。
撮ったのは河邑(かわむら)厚徳さんだ。NHK出身で、記録映画は3本目だ。
この2人は一度、対談をした。笹本さんの100歳の誕生日の時だ。
戦争の記憶が実にリアルに撮られている。そして2人の闘いがずっと描かれている。
2人を主人公にしながら、テーマは分散していない。よくこんな映画が撮れたものだと驚いた。
それに、2人とも「わがまま」な人だろう。「老人だから、控えめに」とか、そんなものはない。
やりたいことをやる。言いたいことを言う。
日野原さんだってそうだ。「わがまま」だ。でも、その裏には信念があると周りの人が思う。又、それまでの闘いの実績がある。
そんなに中味があるから、周りの人は納得するのだろう。そう思った。映画のあと、息子さんから、その辺のことを詳しく聞いた。
又、朝日新聞を辞めたが、「辞めない方がよかったのでは」と思ったこともあったらしい。
さらに、「新聞記者以外になりたいものはなかったんですか」と聞いたら、「本人は言わないんですが、外交官になりたかったんです」と言う。
東京外大を卒業したという。外交官か。これもいいですね。素晴らしい外交官になったでしょう。
さらには秋田県人。地方の人についても話し合った。
実は私も、「秋田県人」だと思っている。
「宮城県出身だろう」「福島県郡山生まれじゃないのか」と言われるが、実は、「秋田県人」の要素が一番濃いと思っている。
親父が税務署にいたので、東北の各地を転々としていた。
2年位で変わる。地元と癒着しないように、という配慮があったのかもしれない。
だから私が生まれたのは福島県郡山市だが、そこに1年もいない。生まれただけだ。
そこから福島市、会津若松市、青森県の黒石市…と移った。その頃の記憶はない。
かろうじて記憶があるのは、横手からだ。
秋田県横手市の幼稚園に入った。さらに、横手市の小学校に入る。1年だけ。
そのあと、秋田市に移る。保戸野小学校に2、3年いた。
それから秋田県湯沢市で、小学4年から6年まで。そして湯沢中学に1、2年いた。だから5年いた湯沢が一番長いのだ。
そのあとは中学3年の時に宮城県仙台市に行き、仙台2中。そして、東北学院榴ヶ岡高校だ。
横手にいた幼稚園と小学1、2年の時に、むのさんも横手にいて、『たいまつ』を出していた。でも、子供の私は全く知らない。
親父は横手の税務署長だった。かなり後になって弟に聞いた。「実は、むのたけじさんは、何度か親父を訪ねてきて一緒に酒を飲んだ」という。
むのたけじさん、地方の主だった人々を、こうして全て顔を出して話を聞いていたのだろう。何か事件があると、すぐに取材に行けるじゃないかと思う。
だから、こんな小さな縁だが、むのさんとは繋がっている。むのさんの息子さんとは、そんな話をした。
むのさんは、100歳になっても声は大きいし、元気だった。
家の中では独裁的だったんだろう。と思ったら、違うという。
「私の方が親父に抑圧的でした」と言う。これも意外だった。わがまま一杯で生きていたのかと思ったら、違うらしい。
でも、講演してる時はどこでも大きな声で怒鳴っていた。あれも、昔の戦争時代を思い出しているからだろう。
軍の圧力や、検閲ではない、新聞の「自己規制」があって新聞は萎縮してきたという。「今も同じじゃないか」と思う。だから、「声をあげろ!」「怒れ!」と言ってるのだ
河邑監督は「赤旗」日曜版(6月4日)で、「自由でありたい」を貫き通した人だったという。
むのさんも笹本さんも。戦争中の新聞社の「自己規制」について、むのさんは言う。
〈検閲者の姿形は見えない。新聞社自体が自己規制していた。“見ざる 言わざる 聞かざる”で3人集まると口をきかなくなる。つまり2人だと話が漏れた時、相手だとわかるが3人だと密告者がわからない、と〉
〈むのさんは、1945年8月15日、新聞社を辞めました。そのことから、敗戦の日に唯一責任をとって辞めた伝説のジャーナリストといわれてきました。河邑さんは「戦争責任を取るというより若者らしい正義感だった」と言う〉
ウーン、そうなのか。確かに、社の幹部じゃないから、責任をとるような立場じゃない。
でも、「戦争をやめさせられなかったのか」という。自責の念は持っていただろう。そして戦争の実態について、『たいまつ』にずっと書き綴ってきた。
むのさんがいなければ、私らは全く知らなかった。「新聞人は闘ったが、政府や軍の圧力で押し潰されたと思っていた。どこか自分たちを弁護していたのだ。
いや、だから、俺たちが間違っていたんだ。自己規制してきた!と、むのさんは怒って言う。それをきちんと聞くべきだと思った。
今の新聞社も同じことだ。同じことを繰り返すのか!と、むのさんの声が聞こえる。
そして、ただ1人でも声を上げられる。たった1人でも世の中を動かせる。そのことを痛感した。
息子さんとは又、ゆっくりと話を聞かせてもらいたいと思った。
「だだちゃ豆」とは、枝豆の中でも特に最良の豆で、「山形名物」「殿様のだだちゃ豆」として、知られている。
政治家の挨拶がずっと続き、開始から1時間が過ぎ、やっと乾杯。それからは皆、ひたすら「だだちゃ豆」を食べる。時間がなかったので、私は340ヶしか食べられなかった。来年は千ヶを目指そう。
①8月21日(月)六本木の国立新美術館に行きました。「第64回 新美術展」を観ました。井脇ノブ子さんが理事をやってるので。又、本人自らも絵画を描いて出している。今年は2作品。その前で井脇さんと。かつて生学連の同志だった。全国学協が出来た時は、副委員長だった。無能な委員長(私です)をよく助けてくれました。
⑦「写真OK」の場所もあったので、撮りました。「見たままを描き、つくる」を実行したそうです。人間を見ても、こう思ってたんでしょう。作品にすると、人は皆、小さくなってるから、見ただけを表現してるのに、と言ってます。
⑭これは若松監督がかなり前に撮った映画です。去年、「若松監督生誕祭」の時に観ました。ポスターを売ってたので買いました。今、上映したらヒットしますよ。「今のことか」と思って観る人もいるでしょうね。20年も前から、彼女の狂気、衝撃を見抜いていたのです。すごい監督です。
⑳8月23日(水)午後6時。ANAインターコンチネンタルホテル東京。「だだちゃ豆の会」。去年亡くなった加藤紘一さんがずっとやっていた会です。今は娘さんの加藤鮎子さん(衆議院議員)がやってます。加藤紘一さんの写真が飾られてました。
㉓「あっ、テレビで見た露木さんだ」と思って駆けより、「初めまして」と言って、名刺を出そうとしたら、「あっ、鈴木さん久しぶり」。エッ、前に会ってたっけ。加藤さんがテロに遭った時、山形に行ってトークをしたんですよね。偉いです」と言われました。
㉖〈鶴岡発「言論の自由」を考える!!」〉と書かれています。緊急シンポジウムがありました。加藤さんの生家が放火された事件の直後です。私も呼ばれて参加しました。真ん中の写真です。「放火は悪い」と言いました。でも、「愛国の憂いからやったことだ。支持するのが右翼の務めではないのか!」と右翼に攻撃をされました。又、この日は東京では「焼き打ち支持集会」が開かれていました。私は「裏切り者」で「国賊」だと罵倒されました。
㉗8月24日(木)午後3時から河合塾コスモ。学校は夏休み中ですが、吉田剛先生(英語)との「合同ゼミ」がありました。「PRO-UNIVERSITY(大学みたいな、コスモの授業)」です。テーマは「俺たちに明日はない…のか?」。