2017/08/28 鈴木邦男

101歳の怒り。105歳の憂い

①日野原さんに初めて会った時

井脇ノブ子さんと
井脇ノブ子さんと
「やる気・元気・挑戦」
「やる気・元気・挑戦」
「やる気・元気・思い出」
「やる気・元気・思い出」
井脇さんの支持者たちと
井脇さんの支持者たちと
内閣総理大臣賞の菖蒲みえこさん
内閣総理大臣賞の菖蒲みえこさん
「ジャコメッディ展」
「ジャコメッディ展」
撮影OKの所もありました 撮影OKの所もありました

日本は長寿大国だ。それも急に、そうなったようだ。

つい20年前までは100歳を超えた人なんて、あまり聞かなかった。

でも、2千人とか3千人はいたらしい。そして今は、100歳を超えた人は何と7万人もいる。

でも、回りを見渡しても、100歳を超えた人はいない。

同じ町内会でもいないし、街を歩いてもいない。

では7万人はどこにいるんだろう。大半は自宅で寝ているか、あるいは、病院、養老院かもしれない。

元気に自分で暮らしている人は沖縄にはいるが、他の地域ではあまりいないのか。だから、自ら発言し、闘っている人は目立つのだ。

私は100歳を超えた人は2人、知っていた。この2人に会い、いろんな話を聞いた。

「埼玉平和美術展」。8/16(水)に 「埼玉平和美術展」。8/16(水)に

105歳で今年亡くなった日野原重明さん。そして101歳で去年亡くなったジャーナリストのむのたけじさんだ。

日野原さんとは、月刊『創』で以前、対談している。今月号の『創』では、それを再録してくれている。ありがたい。

又、去年亡くなった、むのたけじさんの追悼の集まりが8月22日に埼玉県の与野で行われて、私も出席した。

何と、この日、むのさんを撮った映画が上映され、そのあと、むのさんの息子さんと私のトークがあったのだ。

むのさんは反戦平和の闘士だった。「それなのに何で右翼が…」と不思議に思った人がいただろう。

でも私はむのさんを尊敬していたし、わずかながらも接点があったのだ。その接点を中心にして、息子さんと話をした。

自らの作品の前で。青木花子さん 自らの作品の前で。青木花子さん

又、その中で、むのさんの日常の闘いについても聞いた。

まずは、日野原さんの話からしよう。日野原さんとはぜひ、会って話を聞きたいもんだと思っていた。

90歳を超え、さらに100歳を超えてもどんどんと新しいことに挑戦している。

自分が長年やっていたことをさらにやる、というのは、楽だ。しかし、脳の活性化にはならないらしい。

90歳を過ぎて、俳句に取り組む。舞台をやる。歌をやる。そして、何と、フィットネスをやる。

さらに、講演会で全国を回る。外国まで行く。行動的な人だ。

ある日、新幹線の中でバッタリと日野原さんに会った。ウワー!夢じゃないかと思った。すぐに声をかけた。

映画の前に舞台挨拶。8/19(土) 映画の前に舞台挨拶。8/19(土)

今年、ぜひインタビューをさせて下さい。連絡をしますのでと頼んだ。「いいですよ」と言ってくれた。

この日、日野原さんはグリーン車で、机を出して原稿を書いていた。ゲラの校正だったのかもしれない。

隣の席も買ってたのだろう。机を使って仕事している。「あれっ、大丈夫かな」と思ったが、違う。少し後ろの席に秘書の人がいて、さらに、その二つほど後ろにもう一人の秘書がいて、二人とも中年の秘書だ。二人は必要なのだ。

もし、何かあったら、一人は付き添って、一人は車掌か医者を呼びに行く。多分、そういうことになってるのだろう。

仕事の邪魔をしたのに、でも、日野原さんは、いろいろ話してくれた。「ぜひ、よど号ハイジャックの話も詳しくお聞かせ下さい」とお願いした。

映画が終わって、増田さん、瀧沢さんとトーク 映画が終わって、増田さん、瀧沢さんとトーク

そのうち新幹線は名古屋に着く。「今日は名古屋で講演会です」と降りる。

秘書の女性2人も、慌ただしく支度していて、「鈴木さんも一緒に名古屋で先生の講演を聞きませんか」と言う。

「あっ、行きたいですね。でも、私は大阪で講演なんです」と答えた。

今、考えると、大阪の仕事をキャンセルしてでも一緒に行けばよかったと思う。でも、仕事をキャンセルして、他の人の話を聞きに行ったら叱られるだろうな。

ともかく、ファースト・コンタクトは終わり、その話を『創』の編集長にした。すぐに秘書の人と連絡を取ってくれて、急に、インタビューが決まった。

病院に行った。築地の聖路加病院だ。路加とは、聖書の「ルカ伝」のルカから取っている。熱心なクリスチャンであり、病院もキリスト教の精神を出発点にしている。

他にも、キリスト教系の病院は多くある。でも仏教系の病院とか、神道系の病院なんてないですね。入ったら、「すぐお葬式」かと思われるからか。

②聖路加病院で対談した

打ち上げ会で 打ち上げ会で

病院の売店には日野原さんの本が随分と置かれていたし、広告塔なのだ。

インタビューは2時間ほどやった。

その間、お茶も出ないし、お茶菓子も出ない。水もないし、そのことの説明もない。こっちはいいが、日野原さんの喉が渇かないかと心配した。

しかし実は、日野原さんの健康管理上の理由なのだ。

水やお茶は、朝は飲まないようにしてるようだ。お茶と水は、決まった時間に決まった分量を飲むのだろう。

だから、お茶も水も一切出さない。出すと自分も飲みたくなる。まあ一杯くらいいいだろう、となる。

井川監督と 井川監督と

その誘惑に負けないように、インタビュー、対談の時も、相手側にも一切出さない。多分、そうだろうなと瞬間的に思った。

その時の話の内容は、また『創』の今発売中の9月号で読んでほしい。

一つだけ紹介すると、日野原さんは若い時から病弱で、「とても60歳までは生きられまい」と言われていた。

ところが、60歳になる直前に、「よど号ハイジャック事件」に出会った。

そして解放された時、地球に降り立った宇宙飛行士の心情になったという。

死ぬかもしれないと思ったのに、助かった。〈あとは、おまけだ〉と思った。その思いから、何か得した気になり、105歳まで生きたのだ。

映画「松居一代の衝撃」 映画「松居一代の衝撃」

よど号で人質になってる時、よど号をハイジャックした人たちは、本を貸してくれる。マルクス、レーニンの本。自分たちが新聞や雑誌に書いた論文。そんなものは誰も借りない。

文学書も少しは入っていて、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』もあった。

日野原さんは、死ぬまでに読んでみたいと思った大作を借りて読んでみた。

でも、「犯人は真剣には読んでなかったでしょう。読んでたら、あんなハイジャックなどするはずがありません」と言う。

この対談のあと、北朝鮮にいる「よど号」犯人とも知り合い、又、日本にいる「よど号犯」の家族とも日野原さんは知り合いになれた。

③むのたけじさんの映画を観た

こんな看板が…
こんな看板が…
「むのたけじ一周忌の集い」8/22
「むのたけじ一周忌の集い」8/22
私も挨拶 私も挨拶

では、むのたけじさんの話だ。

むのさんは文字通り、「反逆の人」「反戦平和の人」だ。

ずっと朝日新聞にいた。戦争は敗けた。むのさんは、なぜ、真実を書けなかったのかを公表すべきだと思った。

しかし、朝日への提案は受け入れられず、敗戦の日に朝日を辞めた。

そして、郷里の秋田県横手市に帰った。そこで準備をして、週刊『たいまつ』を発行した。

それを30年以上も続け、全国に読者が増えた。

「むのさんは、この事件をどう思っているのか」…と、何かあるたびに東京から取材が来る。

他の大マスコミにでも発言するのだが、自分の『たいまつ』で、どう書いているか。全国から「読んでみたい」と申し込みが来たのだ。

それにしても、むのさんが出した『たいまつ』は又、1人で闘ってきた。1人の力だ。

武野大策さんとトーク 武野大策さんとトーク

この日、上映した映画も初めて観た。むのさんを扱った映画かと思ったら、主人公は2人いて、2人とも100歳を超えて闘っている人だ。日本初の女性報道写真家の笹本恒子さんとむのさんだ。

撮ったのは河邑(かわむら)厚徳さんだ。NHK出身で、記録映画は3本目だ。

この2人は一度、対談をした。笹本さんの100歳の誕生日の時だ。

戦争の記憶が実にリアルに撮られている。そして2人の闘いがずっと描かれている。

2人を主人公にしながら、テーマは分散していない。よくこんな映画が撮れたものだと驚いた。

それに、2人とも「わがまま」な人だろう。「老人だから、控えめに」とか、そんなものはない。

やりたいことをやる。言いたいことを言う。

懇親会で 懇親会で

日野原さんだってそうだ。「わがまま」だ。でも、その裏には信念があると周りの人が思う。又、それまでの闘いの実績がある。

そんなに中味があるから、周りの人は納得するのだろう。そう思った。映画のあと、息子さんから、その辺のことを詳しく聞いた。

又、朝日新聞を辞めたが、「辞めない方がよかったのでは」と思ったこともあったらしい。

さらに、「新聞記者以外になりたいものはなかったんですか」と聞いたら、「本人は言わないんですが、外交官になりたかったんです」と言う。

東京外大を卒業したという。外交官か。これもいいですね。素晴らしい外交官になったでしょう。

④私も同じ「秋田県人」だ!

さらには秋田県人。地方の人についても話し合った。

実は私も、「秋田県人」だと思っている。

「宮城県出身だろう」「福島県郡山生まれじゃないのか」と言われるが、実は、「秋田県人」の要素が一番濃いと思っている。

親父が税務署にいたので、東北の各地を転々としていた。

2年位で変わる。地元と癒着しないように、という配慮があったのかもしれない。

だから私が生まれたのは福島県郡山市だが、そこに1年もいない。生まれただけだ。

そこから福島市、会津若松市、青森県の黒石市…と移った。その頃の記憶はない。

かろうじて記憶があるのは、横手からだ。

秋田県横手市の幼稚園に入った。さらに、横手市の小学校に入る。1年だけ。

そのあと、秋田市に移る。保戸野小学校に2、3年いた。

それから秋田県湯沢市で、小学4年から6年まで。そして湯沢中学に1、2年いた。だから5年いた湯沢が一番長いのだ。

そのあとは中学3年の時に宮城県仙台市に行き、仙台2中。そして、東北学院榴ヶ岡高校だ。

横手にいた幼稚園と小学1、2年の時に、むのさんも横手にいて、『たいまつ』を出していた。でも、子供の私は全く知らない。

親父は横手の税務署長だった。かなり後になって弟に聞いた。「実は、むのたけじさんは、何度か親父を訪ねてきて一緒に酒を飲んだ」という。

むのたけじさん、地方の主だった人々を、こうして全て顔を出して話を聞いていたのだろう。何か事件があると、すぐに取材に行けるじゃないかと思う。

だから、こんな小さな縁だが、むのさんとは繋がっている。むのさんの息子さんとは、そんな話をした。

むのさんは、100歳になっても声は大きいし、元気だった。

家の中では独裁的だったんだろう。と思ったら、違うという。

「私の方が親父に抑圧的でした」と言う。これも意外だった。わがまま一杯で生きていたのかと思ったら、違うらしい。

でも、講演してる時はどこでも大きな声で怒鳴っていた。あれも、昔の戦争時代を思い出しているからだろう。

軍の圧力や、検閲ではない、新聞の「自己規制」があって新聞は萎縮してきたという。「今も同じじゃないか」と思う。だから、「声をあげろ!」「怒れ!」と言ってるのだ

河邑監督は「赤旗」日曜版(6月4日)で、「自由でありたい」を貫き通した人だったという。

むのさんも笹本さんも。戦争中の新聞社の「自己規制」について、むのさんは言う。

 
〈検閲者の姿形は見えない。新聞社自体が自己規制していた。“見ざる 言わざる 聞かざる”で3人集まると口をきかなくなる。つまり2人だと話が漏れた時、相手だとわかるが3人だと密告者がわからない、と〉
〈むのさんは、1945年8月15日、新聞社を辞めました。そのことから、敗戦の日に唯一責任をとって辞めた伝説のジャーナリストといわれてきました。河邑さんは「戦争責任を取るというより若者らしい正義感だった」と言う〉
「朝日新聞」(8/18)1面の広告 「朝日新聞」(8/18)1面の広告

ウーン、そうなのか。確かに、社の幹部じゃないから、責任をとるような立場じゃない。

でも、「戦争をやめさせられなかったのか」という。自責の念は持っていただろう。そして戦争の実態について、『たいまつ』にずっと書き綴ってきた。

むのさんがいなければ、私らは全く知らなかった。「新聞人は闘ったが、政府や軍の圧力で押し潰されたと思っていた。どこか自分たちを弁護していたのだ。

いや、だから、俺たちが間違っていたんだ。自己規制してきた!と、むのさんは怒って言う。それをきちんと聞くべきだと思った。

今の新聞社も同じことだ。同じことを繰り返すのか!と、むのさんの声が聞こえる。

そして、ただ1人でも声を上げられる。たった1人でも世の中を動かせる。そのことを痛感した。

息子さんとは又、ゆっくりと話を聞かせてもらいたいと思った。

【だいありー】

加藤鮎子さんと旦那さん
加藤鮎子さんと旦那さん
田原総一朗さんと
田原総一朗さんと
露木茂さんと
露木茂さんと
左上の写真に私が
左上の写真に私が
真ん中が私です。「言論の自由を考える」
真ん中が私です。「言論の自由を考える」
加藤紘一さん 加藤紘一さん
  1. 8月21日(月)今日は原稿の〆切が重なって、三つも書かなくちゃいけん。だから、一日中、家にいて必死で書く。
  2. 8月22日(火)午前中、原稿。
     午後から埼玉に行く。去年、101歳で亡くなったむのたけじさんの一周忌。
     映画「笑う101歳×2」を上映後、むのさんの息子さん、武野大策さんと私が対談。
     映画にもよく出ていたが、最後まで恐いジャーナリストだった。「たった一人でも世の中を変えられる!」と思った。
     終わって、近くの店で打ち上げ。11時近くなったので急いで帰る。埼京線の最終で東中野まで帰ってきた。
  3.  
だだちゃ豆です だだちゃ豆です
  1. 8月23日(水)午前中、原稿。
     昼、図書館。午後6時、溜池のANAインターコンチネンタルホテル。加藤紘一さんを偲ぶ、「だだちゃ豆の会」に出る。
     加藤紘一さんは去年亡くなったが、この「だだちゃ豆の会」は娘さんで衆議院議員の鮎子さんが引き継いでやっている。
  2.  

「だだちゃ豆」とは、枝豆の中でも特に最良の豆で、「山形名物」「殿様のだだちゃ豆」として、知られている。

政治家の挨拶がずっと続き、開始から1時間が過ぎ、やっと乾杯。それからは皆、ひたすら「だだちゃ豆」を食べる。時間がなかったので、私は340ヶしか食べられなかった。来年は千ヶを目指そう。

吉田剛さんと合同ゼミ。8/24(木) 吉田剛さんと合同ゼミ。8/24(木)
  1. 8月24日(木)午前中、原稿。
     今、学校は夏休みだが、吉田先生と私の「合同ゼミ」だけはある。吉田先生は英語の先生で、今日のテーマは、「俺たちに明日はないのか?」。なんだこりゃー。
     吉田さんと2人で話し、そのあと、質疑を受け付ける。
     単行本の方はお世話になってます。林宅への「犯人」も、私の原作から取ってください。
  2. 8月25日(金)午前中、原稿。
     午後6時、中野の喫茶店で、有名なダンサーの笠井叡(あきら)さんと会う。感動的だった。知らない話ばかりなので、とても興味深かった。
熱く語り合いました 熱く語り合いました
  1. 8月26日(土)午前中、原稿。
     午後1時、明治大学リバティーホール。シンポジウム「こころで見る奈良」を開く。6時から上野で快楽亭ブラックさんの落語を聴く。久しぶりに会った。面白かった。
     終わって、飲む。寅ちゃんも感動していた。
  2. 8月27日(日)午前中、原稿。
     午後6時、狛江市のM.A.P。「狛江映画祭」で映画「天皇と軍隊」を観て、そのあとトークに出る。

【写真説明】

井脇ノブ子さんと

①8月21日(月)六本木の国立新美術館に行きました。「第64回 新美術展」を観ました。井脇ノブ子さんが理事をやってるので。又、本人自らも絵画を描いて出している。今年は2作品。その前で井脇さんと。かつて生学連の同志だった。全国学協が出来た時は、副委員長だった。無能な委員長(私です)をよく助けてくれました。

「やる気・元気・挑戦」

②これが井脇さんの作品です。「やる気、元気、挑戦」と題がついてます。河口湖から見た富士山。故郷の九州。などが描かれています。

「やる気・元気・思い出」

③こちらの方は、「やる気、元気、思い出」とつけられてます。子供の頃、見た風景、過ごした場所などの思い出が描かれてますね。いい絵です。

井脇さんの支持者たちと

④井脇さんの支援者たちが沢山観に来てました。「いい絵ですね」と口々に言い、「ぜひ次の選挙に出て下さい」と言ってました。右は、画家の菖蒲さん。オリンピック選手だった人のお母さんや、自転車の選手です。

内閣総理大臣賞の菖蒲みえこさん

⑤これは「内閣総理大臣賞」を獲った「幻想」です。隣は作者の菖蒲みえこさんです。千葉県佐倉にある樹齢1200年の梅です。何回も通い、頭に植え付け、そして家で描いたそうです。本人に解説してもらいました。

「ジャコメッディ展」

⑥実は、2日前の8月19日(土)にも来たんです。その時は井脇さんはいなくて、この日、もう一度来たんです。19日は、同じ国立新美術館で、「ジャコメッティ展」をやってたので、それも観ました。

撮影OKの所もありました

⑦「写真OK」の場所もあったので、撮りました。「見たままを描き、つくる」を実行したそうです。人間を見ても、こう思ってたんでしょう。作品にすると、人は皆、小さくなってるから、見ただけを表現してるのに、と言ってます。

「埼玉平和美術展」。8/16(水)に

⑧8月16日(水)。北浦和にある「埼玉県立近代美術館」に行きました。〈第51回 埼玉平和美術展〉を観ました。〈核兵器廃絶。平和の壁に花一輪を〉と、テーマもはっきりしています。

自らの作品の前で。青木花子さん

⑨毎年、絵画を出していた青木花子さんですね。今年は写真を3作品出していました。ライブや、定年前の役員、花を撮ってます。表情がよく出てますね。

映画の前に舞台挨拶。8/19(土)

⑩8月19日(土)。名古屋の「シネマスコーレ」に行く。映画「ベースメント」の前に舞台挨拶。そして、終わってから、主演の増田さんと対談。司会は瀧沢あき子さん。井川監督も来てたので喋ってもらいました。

映画が終わって、増田さん、瀧沢さんとトーク

⑪映画が終わってからのトーク。40分位の予定でしたが、話が白熱し、2時間半に。でも、誰も帰りません。内容の濃い、深い話になったと思います。増田さん、司会の瀧沢さんがよかったからです。

打ち上げ会で

⑫打ち上げ会で。左には平田君がいますね。長野から来てくれたんですね。悪役をやった成田さんもいます。右には瀧沢さんも。

井川監督と

⑬井川監督と。インタビューされてますね。

映画「松居一代の衝撃」

⑭これは若松監督がかなり前に撮った映画です。去年、「若松監督生誕祭」の時に観ました。ポスターを売ってたので買いました。今、上映したらヒットしますよ。「今のことか」と思って観る人もいるでしょうね。20年も前から、彼女の狂気、衝撃を見抜いていたのです。すごい監督です。

こんな看板が…

⑮名古屋駅の近くを歩いていたら、こんな看板が。「質屋の鈴木」です。それに顔が似ています。パラレルワールドで質屋をしてるんですね、私は。

「むのたけじ一周忌の集い」8/22

⑯8月22日(火)午後6時半から(埼玉県)与野本町のコミセンに行く。〈むのたけじ一周忌の集い」。主催は、埼玉市民ジャーナリズム講座実行委員会。満員でした。

私も挨拶

⑰来てすぐに、挨拶させられました。

武野大策さんとトーク

⑱映画「笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ」が上映され、そのあと、ゲストスピーチ。むのさんの息子さんの武野大策さんと私です。

懇親会で

⑲終わって、近くの居酒屋で懇親会をやりました。

加藤紘一さん

⑳8月23日(水)午後6時。ANAインターコンチネンタルホテル東京。「だだちゃ豆の会」。去年亡くなった加藤紘一さんがずっとやっていた会です。今は娘さんの加藤鮎子さん(衆議院議員)がやってます。加藤紘一さんの写真が飾られてました。

加藤鮎子さんと旦那さん

㉑加藤鮎子さんと旦那さん。

田原総一朗さんと

㉒田原総一朗さんも来てました。

露木茂さんと

㉓「あっ、テレビで見た露木さんだ」と思って駆けより、「初めまして」と言って、名刺を出そうとしたら、「あっ、鈴木さん久しぶり」。エッ、前に会ってたっけ。加藤さんがテロに遭った時、山形に行ってトークをしたんですよね。偉いです」と言われました。

だだちゃ豆です

㉔だだちゃ豆です。山形県鶴岡名産です。枝豆の中でも最高級品です。こんな山盛りの枝豆が、沢山並べられてます。そして、ひたすら食べるのです。

左上の写真に私が

㉕会場には加藤紘一さんの活動写真集が。左上の写真ですよ。

真ん中が私です。「言論の自由を考える」

㉖〈鶴岡発「言論の自由」を考える!!」〉と書かれています。緊急シンポジウムがありました。加藤さんの生家が放火された事件の直後です。私も呼ばれて参加しました。真ん中の写真です。「放火は悪い」と言いました。でも、「愛国の憂いからやったことだ。支持するのが右翼の務めではないのか!」と右翼に攻撃をされました。又、この日は東京では「焼き打ち支持集会」が開かれていました。私は「裏切り者」で「国賊」だと罵倒されました。

吉田剛さんと合同ゼミ。8/24(木)

㉗8月24日(木)午後3時から河合塾コスモ。学校は夏休み中ですが、吉田剛先生(英語)との「合同ゼミ」がありました。「PRO-UNIVERSITY(大学みたいな、コスモの授業)」です。テーマは「俺たちに明日はない…のか?」。

熱く語り合いました

㉘吉田先生は、アメリカで留学していたし、キリスト教徒でもあるし、とても勉強家です。いろいろ教えてもらいました。

「朝日新聞」(8/18)1面の広告

㉙これが朝日新聞(4月18日付)の一面に載った広告です。驚きました。

【お知らせ】

  1. 9月2日(土)午後3時、盛岡で佐高塾。
  2. 9月5日(火)。ロフトプラスワン。午後7時。上祐史浩さん(「ひかりの輪」代表)と私の特別トークがあります。そこに、元公安調査庁にいて、イスラム教に改宗して、公調を辞めた西道弘さんが特別出演します。
    今年初めの『週刊ポスト』にも、〈公安調査庁 国際テロ担当が「イスラム教に改宗」大騒動〉と出てました。 『サンデー毎日』(7月16日)には青木理さんが取材してました。テロ、宗教、右翼、左翼をめぐり、大討論が行われると思います。ご期待下さい。
  3. 9月8日(金)劇団「再生」。見沢知廉十三回忌追悼公演でプレトーク。午後6時半より。高木尋士氏と鈴木。(9月7日の予定でしたが、プレトークは8日に変わりました)。
  4. 9月11日(月)午後7時。一水会フォーラムホテルサンルート高田馬場。講師・伊勢崎賢治氏(東京外国語大学教授)。演題「主権なき平和~地位協定の国際比較と自衛隊PKOから見る日本の姿」。
  5. 9月12日(火)「グレートジャーニー」の関野さんに呼ばれて武蔵野美術大学で講演します。山本太郎さんと一緒です。午前と午後の二回、授業をします。
  6. 9月15日(金)青森県弘前市で講演です。