やっと行ってきました。前から、「行かなくちゃ」と思っていたんです。
でも、「明日までに〆切がある」「3日後には講演がある」…と、近くの用事に振り回されて、ずっと延びてたんです。
それに、あの本を作ってくれた人たちも一緒に行きたいと思ったので。
又、椎野礼仁さんも連れて行って、向こうの様子を書いてもらい、布清信君との対談もまとめてもらおうか。とも思ってたりして。
そんなこんなで、ずっと遅れてしまいました。
学生時代に、あんなにお世話になった大森先生と寮母さんのお墓参りに行かなくては…と思いながら、ずっと延びていたんです。
私は学生時代、赤坂・乃木坂にある「生長の家学生道場」に入ってました。寮のようなもので、全国の「生長の家」の子供たち(大学生)が入ってました。
初めは、とても自由な寮でした。ところが、時代的背景もあって、「日本を守るんだ!」「左翼と闘うんだ」という場に変わっていきます。
宗教者でありながら、闘うのです。まるで〈僧兵〉のようでした。そんな時代を過ごしました。
そこでは、闘いながらも、ものすごく勉強しました。
大学の勉強は勿論ですが、日本について、政治について、学び、先輩にも教えてもらい、先生にも教えてもらいました。
学生道場の先生は道場長といい、生長の家の本部講師が、そこに来て一緒に生活しました。
それが、大森知義先生(道場長)と、奥さまの「寮母さん」です。
他に、炊事の人がもう2人おりました。全国から集まった35人ほどの大学生はそこで住み、修行していたのです。
朝は、お祈り、講話、体操、食事。そして、あとは自由です。
各々、大学に行き、昼は学校の食堂で食べます。
夜は、道場に戻って、食べ、8時半から、又、夜のお祈り、勉強会があります。
その後も、友人と部屋で勉強。
又、仲のいい友達の部屋で集まって、話し合ったり、勉強し合ったりしました。
初め、出来た頃は、かなり自由で、お祈りは自由参加だ、と言ってました。
ところが、私が入った年にいきなり、「明日から4時50分からお祈りをする。全員参加だ!」と宣告されました。
道場長の下には、学生の自治会があり、大学生だけで決定したのです。
「谷口先生は毎朝4時50分から世界平和を祈っておられる。学生の我々が惰眠を貪っていていいのか!」と先輩は言うのです。
そして、寝ていると叩き起こされます。暴力的に起こされます。
私は5期生で、10人ほど入ってましたが、「約束が違う」と言って、ほとんどの人は出て行きました。
でも私は、せっかく入ったんだし、もう少し様子を見ておこうと思いました。そして、ずっといることになったのです。
川島先輩には、よく殴られました。
「鈴木、俺はお前に期待してるんだよ。しっかりしろ! お前がかわいいから殴るんだ」と言って、よく殴られました。
期待しなくていい。かわいいと思わなくていい。だから、殴らないでくれ! と心の中で叫んでました。
そのうちに、体も慣れて、いつしか、私も「改革派」になりました。
そして、2年生の時に自治会の選挙に出て、当選した。
2期勤めました。かなり厳しい政策をやりました。「やる気のない奴は出ていっていい。我々は生長の家を支えるのだ。この日本を支えるのだ」と意気がってました。新選組の土方歳三のような気分でした。
その時、1年生で入ってきたのが石川県出身の布清信君でした。
布(ぬの)というのは変わった苗字です。布を織ってたか、染めていたのでしょう、先祖は。
とても勉強家で、私と同室の時もありました。
部屋は全て相部屋で、9畳に3人。6畳に2人です。1、2年生は9畳に3人です。「早く6畳に2人の部屋に行きたい」と思いました。
私は、委員長になった時、かなり道場生に無理を強いました。ひどいです。
1年生には、初めの夏休みに「『生命の実相』40巻を読破しろ!」と命令しました。
生長の家の谷口雅春先生が書いていたのが『生命の実相』です。私も1年生の時、夏休みの間に読まされました。それを私もやったのです。
その時、一番早く読んだのが布君です。
そして、私も知らない思想家を次々と読み、私に紹介してくれました。
彼は石川県の出身ということもあり、大森先生とは家も近く、昵懇になった。
道場を出て、私が学生運動から追放された時も心配してくれました。大森先生が亡くなった時に行きました。
その前に、学生道場の同窓会のような集まりがあって、石川県に行きました。
私は2度行き、これまでに布君の家にも寄ってます。でも、大森先生のお宅には行ってません。
先生ご夫妻が亡くなってから、ご自宅に行かなくては、お墓参りに行かなくてはと、ずっと思ってました。布君からも手紙やメールが来ます。でも、行けなかったのです。
そうしているうちに、どんどん日にちが経ちます。
そんな時、岩井さんが金沢に転勤になりました。
彼は前は大阪の予備校にいて、大阪で私の集会をよく開いてくれた。とても事務能力のある人です。
そして、去年から金沢に転勤になったのです。さっそく布君と連絡を取り、私への橋渡しをしてくれました。
「じゃ、10月に行きましょう」と言われて、私は、無理をして、10月8日に決めました。岩井さんが全ての段取りをしてくれました。
そして10月8日(日)は、朝6時発の新幹線に乗って下さいと言う。えっ、そんなに早い新幹線があるのか! と思いましたが、席を取りました。
当日、6時に乗り、2時間半で金沢です。岩井さんが迎えに来ていました。
ここから車で1時間で七尾駅。布君の家に行き、彼を乗せて、能登に行きます。大森先生のご自宅は、2時間ほどかかります。
息子さんも亡くなり、今は、お孫さんが家を継いでいます。お孫さんといっても64歳で、早稲田の政経を出たそうです。
「では、まずお墓に」と近くのお墓に行きます。初めてです。「長い間、来れなくて申し訳ありませんでした」と、道場長・寮母さんに謝りました。
あんなに私を信じてくれ、教えてくれたのに。そして今の私の考え、生き方の全ては、あの学生道場にあるのです。それなのに、恩を忘れて、私はずっと、来ませんでした。本当にすみませんでした。
私は、学生道場で委員長になってます。かなり武断的な政治をやりました。
「寮費が安いから」「大学に行くのに便利だから」という理由だけでいる人間は皆、出ていってもらう。生長の家のために働き、日本のために闘う人間だけを置くと、そう言いました。
だから、いろんな大学のストライキにも学生を動員して、「スト破り」に行きました。
街頭演説もしましたし、新橋や上野の野外ステージを借りて、学生の演説大会をやりました。
又、35人も学生がいるので、生長の家の大会に動員され、「場内整理係」や「車の誘導係」などをやらされました。
それらを全て、やりましたし、「さすが学生道場だ」と言われました。
又、私の時(5期生)から、「幹部候補生」が生まれました。それは、生長の家本部に入り、一生、人類光明化運動をやる、という学生です。
その代わり、家賃はタダ、大学の授業料や生活費も全て、本部から出るのです。だから、生活の態度からして違います。
そんな人たちも含めて、国のために闘う集団が35人です。
そして、学生だけで、そんなことが出来たわけではありません。学生だけではタカが知れてます。そこには、道場長の存在が大きかったのです。
大森先生は、石川県出身で、長い間、海軍にいたのです。国のために戦っていたのです。
だから、毎朝、お祈りが終わると、先生の講話がありました。
何やら、特攻隊の人を前にして話しているような感じでした。いかに今が危機なのか、戦争中よりも、今の方が危うい。国民は皆、目覚めていない。我々がしっかりしなくてはダメだと毎朝、講話をします。そして、歴史の話や政治の話をします。
とても詳しいし、説得力がありました。
それに、この先生は、いろんなことが出来たのです。たとえば、「詩吟」の先生でしたし、「速記」も、「大森式速記術」を考案して、教えていました。私も話を聞きました。詩吟は何回も実習させられました。風呂場を自分で作ったり、小さな部屋などは作ります。
「海軍で習ったんだ」と言ってましたが、それだけではないでしょう。
先生のお部屋にうかがうと、いつも本を読んでました。そして、原稿を書いてました。寝たまま原稿用紙を上にして、書いてました。よく書けるものだと感心しました。
私が委員長になり、無理なことを強行した時でも、先生は、いつも応援してくれました。私は失敗も多かったと思うのですが、信じてくれました。
奥さまの寮母さんにも、とてもとてもお世話になりました。道場長と違い、寮母さんは私の欠点もよく目に付いたのでしょう。よく注意されました。
「無駄遣いをしてはダメだ」「本を読みなさい」。そして、「女の人とは付き合ったらダメです」と言われました。
私にだけでなくて、全員にそうでした。電話も女性からかかってきたら、取り次がない。
手紙も、女性からのものは、封を破って、皆の前で本人に読み上げさせます。
ともかく、本を読むか、勉強するしかないのです。
夜、仲のいい友達の部屋に集まっても、皆、真面目な話ばかりしてるんですよ。
徳富蘇峰の「近世日本国民史」百巻を買って、読んでる人もいた。
又、先輩の中には、マルクス、レーニンの全集を読んでる人もいた。
「どうして読んでるんですか。敵でしょう?」と聞いたら、「敵だからこそ、論破するために読んでるんだ!」と言ってました。
知的刺激がありました。メシは食わなくても本を買う、という人もいました。
「鈴木さんは、いつも金に困って、ピンク電話から家に電話してましたよ」と布君は言う。
そうだったっかな。「じゃ、いくら送ってもらってたんですか?」と布君に聞いたら、「鈴木さんの仕送りは2万円でした」と言う。「当時の平均ですね」と布君。
道場の費用(寮費)は6,500円だ。そこで朝と夜、二食たべられる。あとは、自分で食べる昼食代、交通費、本代などだ。
布君などは、ほとんど本代に使っていたようだ。酒タバコは禁止だし。遊ぶとこもない。残りの1万4千円位で十分に生活出来たんだろう。
ともかく、貧乏でも、心は豊かだった。
沢山の本を読み、先生や先輩たちに教えられ、又、自ら、修行し、自己の能力を高めていた。何でも出来ると思った。
その生活があったので、その後の激動の生活を耐えられたのだと思う。
これは布氏も同様だ。自分たちにとって、「最も貴重な学生生活」だったと思う。
①10月8日(日)、石川県に行ってきました。学生時代、私は乃木坂の「生長の家学生道場」にいて、修行しました。その時、お世話になったのが道場長の大森知義先生と寮母さんです。お二人のお墓参りに行ってきたのです。大森先生の息子さんも亡くなり、今はお孫さんの代です。お墓の前で。右は大森先生のお孫さんです。左は学生道場の後輩・布(ぬの)清信氏。
⑪どうせ分からないと思って聞いたんですよ、岩井さんに。「石川県にはモーゼの墓があるそうだけど」。「あっ! 知ってますよ。じゃ、来た時に案内しますよ」と言いました。さすが、世界史の先生ですね。
大森先生のお墓参りをして、帰る途中、寄ってくれました。竹下内閣の時、「ふるさと創生」で、1億6千万円かけて造ったそうです。お墓だけでなく、だだっ広い「モーゼパーク」です。それで「町おこし」をしようとしたらしいです。「伝説のモーゼパーク」と入り口に書かれてます。
⑮これは石川に行く前です。10月4日(水)。福島みずほさんのパーティに出ました。午後2時、平河町の都市センターホールで。〈福島みずほ 未来をつくり、希望をつなぐパーティ」。ものすごい人でした。こんな時だからこそ、福島さんへの期待が強いのでしょう。部屋に入りきれない人が外に溢れてました。福島さん(左)が、選挙に出る人を紹介してます。
㉑パーティが終わって、劇団の人や出版社の人に「二次会に行こう」と誘われました。近くの居酒屋に行ったら、すでに、同じパーティの出席者がいました。さらに、福島みずほさんも入って来ました。「福島パーティ」のそのまま再現。延長です。
㉒10月7日(土)朝10時に行きました。カメラマン・福田文昭さんの写真展です。最後の日でしたが、行きました。総武線の平井駅から歩いて7分でした。田中角栄の法廷写真をスクープした人です。政治家、芸能人の人とは交流が多く、いい写真が沢山ありました。
㊱月刊『創』11月号のグラビアです。この号には、連合赤軍事件で取り調べた検事さんと、被告の連合赤軍兵士たちの歴史的なトークが載ってます。これは『創』でなければ出来ない企画です。私も特別に参加させてもらいましたが、本当にすごいトークでした。これはぜひ読んでみて下さい。
㊲『マスコミ市民』(10月号)では、『マスコミ市民』の編集委員会顧問の川崎泰資さんと対談をしました。川崎さんは元NHKの政治部記者です。長年、政界を見てきた体験を活かして語ってくれました。この日のテーマは〈特集 政治・外交とメディア。愛国心、安倍政治、そして安倍外交を問う。=三島由紀夫なら今の改憲運動には反対しただろう〉