ん
本当に11月は「三島・森田の月」だった。と思いますね。
あの三島事件から47年。47年経っても毎年のように、本が出るし、テレビ、週刊誌でも取り上げられる。
「新事実発見!」があるし、「楯の会」の人も、知られざる三島や「楯の会」の様子を書いて本にしている。
そうだ。私も週刊誌に出たな。中川右介氏、本多清氏と3人で、「週刊現代」に出た。26日(日)。仙台のコンビニで買った。
この日は、仙台で映画の上映とトークがあって行ったのだ。大正アナキズムの大杉栄の映画だ。「エロス+虐殺」。それを観て、康芳夫さんとのトークをする。
大杉栄の話をするが、どうしても三島の話に行ってしまう。康さんは『家畜人ヤプー』を発表し、それを三島は絶讃した。
三島と康さんの付き合いも聞いてみたかったし、康さんがやっている会社(出版社)には、森田必勝たち何人かがバイトをしていた。だから、「三島事件」は、かなり、近い距離から感じていた。
又、この仙台でのトークの時は、2.26事件と北一輝のことを取り上げた。三島は「北一輝のことを一番恐れていた」と言う。
ウーン、そうか。そんな視点からは見たことがなかった。だから、突っ込んで康さんに聞いた。
そして、アナキズム、ファシズム、愛国主義についても話をする。
「昨日は11月25日で、憂国忌に行ってきました。おとといは11月24日で『三島・森田両烈士顕彰祭』に出てきました」と報告した。
もう一つ、今年は特筆すべきことがあった。
11月23日には、松浦威明氏の結婚式があって、参列した。威明氏とは、「楯の会」の初代学生長・持丸博氏の息子だ。
持丸氏は5年前に病気で亡くなったが、最後まで息子のことを心配していた。
持丸氏の息子だが、息子は奥さんの松浦姓になっている。あっ、持丸博も本当は松浦博なのだ。元々お婿に行ったのだ。松浦家は娘しかいないし、だから持丸氏は、松浦姓になったのだ。
でも、でも私らは昔からの「持丸」姓で呼んでいた。本多氏、阿部氏、他にもいたな。「楯の会」の一期生は半分近くが、奥さんの姓になっている。これも変わっている。
それを見て三島は思ったのだ。自分の周りでも起こっていることは、やがて皇室でも起きるだろうと。この時は、そんなことを心配する人は一人もいなかった。
皇室は男の子が順調に生まれ、継いでゆく。いささかも不安はなかった。
ただ、一人、三島だけは、「いつか皇室も男の子がいなくなる」と思っていた。だから三島が「憲法改正私案」を作っていたが、「天皇は世襲だが、男子だけに限るものではない」と書いている。
この「威明(たけあき)」という名前は、三島の本名〈平岡公威〉から取った。持丸氏が三島に頼んでもらったのだ。
しかし、三島からもらった名前を付けているなんて…。この勲章は重かっただろう。
それに、三島はよく、許可したもんだと思う。よほど機嫌のいい時を見計らって頼んだんだろう。
それに、少し遅れたら、この名前は実現しなかった。「論争ジャーナル」グループと三島は運動の方針で対立し、「論争ジャーナル」に勤めていた「楯の会」の5人ほどの会員は「楯の会」を辞めたからだ。持丸氏も責任を感じて辞めた。
その前に、持丸氏はこの件を三島から打ち明けられていた。そして、持丸氏にだけは、「残ってくれ」と言った。
「論争ジャーナル」グループは全員辞めるが、持丸と奥さんだけは専従として残って欲しい、という。
持丸氏と芳子さんが結婚したら、新しい事務所に住んで、そこで専従になればいい。生活費は自分が出す、と三島は言った。
いい話だ。普通なら受ける。ところが持丸氏はそんな「いい条件」を断った。「論争ジャーナル」の人たちとの友情をとった。若松孝二監督の「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち」でも、この対立・別離の話が出てくる。
こんないい条件で持丸氏を引き止めているのに持丸氏は心が動かない。
「そうか、結婚すると男は変わるものなのか」と三島は呟く。「結婚すると、人間はああも変わるもんか」と三島が呟くシーンがある。
三島は思ったのだ。結婚したら、小さな幸せだけを考えて、大きなことは考えられない。結婚して、女の愛に押され、「二人の愛の生活」だけを優先したからだ。そうに違いない。あっ、ダメだな。結婚なんかしちゃうと。…と三島は思ったのだ。
しかし、それは違う。持丸氏はずっと悩んでいたのだ。特に1970年11月25日以降は、「あっ、俺がいれば…」と思い、「俺が二人を殺させてしまった!」と嘆き、悲しんでいた。これは根拠のある話だから、持丸氏が嘆くのも分かる。
確かに、持丸氏が学生長を辞めなかったら、あんな形で三島事件は終わらなかっただろう。もっと文化的な形でやったか、あるいは自衛隊を巻き込んだ形でやったのか。とにかく違う形になっただろう。
私は事件後、何度か持丸氏に会って話を聞いた。「夕刻のコペルニクス」の取材でも会ったし。
又、「ぜひ本を出すべきだ」とも勧めた。大手の出版社からいくつか依頼も来ていた。他の誰よりも、持丸氏の方が、内部の状況を知ってるはずだ。思想的な動機も。
この時、持丸氏は茨城県の土浦市に住んでいた。私は何回か土浦まで行き、話を聞き、出版を説得した。
何ヶ月か経ち、「やっと今、書き始めました」と言っていた。
でも事件のことになると筆が進まないという。自己弁護にならないように、必死に客観的に書こうと思ってるが、それが難しいという。「あの本が出来ていればな…」と思った。
でも今年の11月23日は息子さんの結婚式だ。本当に出たかっただろう。でも、とても嬉しそうな顔が眼に浮かぶ。
威明氏は、三島事件のことも、父親のことも一切、話さない。二人のなれそめにも出てこない。
でも、11月23日にしたのは、11月25日を意識してたのだ。又、24、25は三島・森田の追悼の会がある。だから避けたのだろう。
仙台で康さんとそんな話をしてたら、「持丸君はよく知ってるよ」と言う。エ? 知ってたのか。「そこまで苦しんでいたとは」と驚いていた。
最も優秀な人から先に亡くなってゆく。三島は勿論のことだが、「楯の会」の森田必勝、阿部勉、持丸博…と。なんとも残念だ。
そうだ。今年も11月上旬には四日市に行ってきた。森田必勝氏のお墓参りだ。威明氏にも、その話をして、「四日市に行きましょうよ」と誘った。
その時、彼は意外な話をした。
事件後20年経った頃、いきなりお父さんから、「四日市に行こう」と言われて付いて行った。
墓参をし、お兄さんの家に行き、会うなり、「ここにくるまでに20年もかかってしまいました」と言う。
来なければ…と思いながらも、来れなかった。悩みながら、20年も経ってしまったという。
そして、「弟さんを殺したのは私です。申し訳ありませんでした」と言って号泣し、土下座したという。
息子さんとしてはただただ驚くばかりだ。それで三島事件のことも研究し、「自分のこと」として勉強し直しているという。これは初めて聞く話だ。
三島事件から今まで47年。3年後には「50年」だ。追悼祭をやってる人も、又、マスコミも、50年の時には〈特集〉を考えている。又、三島の本を誰でもが出せるようになり、ドッと出るだろう。
三島、森田だけでなく、去年は「阿部勉を語る会」が行われた。来年は、さらに「持丸博を語る会」をやってみてもいいな。と思っている。あの頃を生きた雄々しい男たちのことをもっともっと語っていい。
11月は、やはり「三島・森田の月」だ。「三島事件の月」だ。
11月に四日市に行き、「週刊現代」に出て、23日は威明氏の結婚式に出て、24日は二人の顕彰祭に出て、25日は憂国忌に出て、26日は仙台だ。
27日は青葉城趾や八木山に行き、私が出た中学校を訪ね、私が住んでいた家(今はマンションになってるが)を訪ねた。
「ここに2階建の古い家があって、その2階に私の勉強部屋があって…」と平田君に説明した。
そうだ。菅原文太さん(俳優)も仙台出身だ。「9条の会」だったかで会った時に、文太さんに会ったので、「私も仙台です」と言ったら、「あっ、じゃ一高ですか」と言われた。
宮城県で一番いい高校だ。一高、二高がずば抜けて優秀だった。文太さんは一高を出て、早稲田に入ったのだ。すごい人だ。
私は二高を受けて落ちた。東北学院榴ヶ岡高校に行った。その話をした。
文太さんにも、もっともっと聞きたかったのに。何とも残念だ。
話が飛んで、まとまりがなくなるが、前・湖西市長の三上元さんに会った。菅直人さんも来ていた。
その時、三上さんが「東京新聞で鈴木さんと小林よしのりさんのことが大きく出てましたよ。二人が立憲民主党を持ち上げて、それで立民ブームが起きている」。
そう言われたので、探していたが、どうも見つからない。図書館にも置いてない。見たけど分からない。
ところが、やっと見つかった。学校のフェローが見つけてくれたのだ。朝、夕、東京をとってるし、前の新聞を丹念に読んで探したという。そして見つけて、「ウワー、こんなに大々的に取り上げられたのか…」と驚いた。
このことについては、じゃ、来週だね。では、さようなら。
①11月23日(木)午後3時より明治神宮で。「楯の会」初代学生長・持丸博氏 の息子さんの松浦威明(たけあき)さんと増田祐希子さんの結婚式が行われました。お父さんは5年前に亡くなってますが、今日の日をとても喜んでいると思います。
㉑11月26日(日)は遅くなったので、仙台のビジネスホテルに泊まりました。翌、27日(月)。朝9時に平田君たちと待ち合わせて、まず青葉城趾に行きました。高台ですし、仙台市内が見渡せます。又、伊達政宗の銅像もあります。政宗の前で、平田君と。
㉓仙台市内が一望できます。向こうに立ってる白い像は観音様です。そこは内部に入ってう上まで昇れるそうです。「じゃ、行きましょう」と私は言ったんですが、「近くに見えるけど、ものすごく遠いですよ。帰りの汽車に間に合いませんよ」と平田君に言われ、あきらめました。
㉙「週刊現代」(12月9日号)を仙台駅の売店で見つけて買ったら、出てました。私たちの座談会が。本多清さん、中川右介さん、そして私です。「週刊現代」熱討スタジアム第263回。〈三島由紀夫・自決を語ろう〉です。