7月6日(金)から日本列島はもの凄い豪雨でした。
そして西日本は大きな被害を受けました。特に広島、岡山などです。
長い間、雨は降り続き、川は氾濫し、山は崩れ、多くの人が亡くなりました。その数日間で200人以上の人が亡くなったと報じられました。
新聞はどこも、「平成最悪の水害」と書き立てました。もうすぐ平成は終わります。だから「平成最後」だし、「平成最悪」なのです。
私は、その平成最悪の風水害の中を新幹線に乗りました。この日、7月6日(金)、岡山で「一水会岡山レコン読者の集い」が執り行われたからです。
夕方から始まるので、昼の新幹線で来てくれ、と言われ、昼に乗りました。
でも大変な雨です。「今出る新幹線は全て新大阪までです。そこからは引き返します」と放送されてました。
どうなるか分からないが、とにかく行こうと、乗りました。
新幹線は新大阪までは大丈夫でした。カーッとなって、キレて、刃物を持ち出す人間もいないし。
もし、そんな人間いたら、闘わなくちゃ。悩んで、どうしようと心配してた。雨だったのでカサだけは持ってましたし、それで闘うしかないか。そんな悲壮な覚悟をして、乗ってました。
しかし、そんなトラブルもなく、新大阪に着きました。ここまで来て、東京に引き返すのもシャクだなと思ってました。
長野から来た平田君も同乗してました。「ここからバスかなんかないか?岡山に行くのは」と聞きましたが、ないようです。普通列車もない。
ただ、岡山、広島まで出ている新幹線はたまにあるという。ほんの少しだが、それに飛び乗った。幸い、岡山まで行ってくれた。
ありがたい。そして無事、岡山に着いた。
ただ、新幹線には、ただボーッとして乗っていたわけではない。平田君の携帯やメールを通して岡山一水会とは常時、連絡を取っていた。
随分と申し込みがあったが、この豪雨で、とても来れないと思い、一旦は「中止にします」と発表した。でも講師の木村氏は私たちの1本あとの新幹線に乗って岡山に向かっている。私も向かっている。平田君たちも向かっている。
「じゃ、その人間たちだけでもやった方がいいだろう」と私も打診して、遅れてやることになった。
6時から始まる予定だったが、一旦は中止。会場には行かず、集会のお店に行く。二次会(懇親会)の会場として借りていた店だ。
そこで木村氏を待ち、合流し、「読者の集い」を始めた。
人数は少なかったが、地元の代表、幹部連中が参加してくれた。
木村氏は「せっかくだから」と、今日やる予定だった講演を少し短くして、やる。一水会の歴史から、日本が当面している対アメリカとの闘いなどについても語る。
そのあと、私も講演した。学生時代の「憲法改正運動」に燃えた日々について話し、そのあと、24条を書いたベアテ・シロタ・ゴードンさんに会って、「日本側の責任」にも気づかされた。
そして今は、着々と日本の安倍政権のもとでの「改憲」運動が進められている。その間違いについて話をした。
さらに、岡山一水会の代表の番家誠氏が話す。岡山一水会は初めての支部として発足し、活動してきた。集会をやり、機関紙を出し、合宿をやり…と。又、岡山空港反対闘争などもやった。それらについて話す。
発足時は、皆、大学生だった。大学生が中心になって岡山一水会は出来た。
そして、岡山は、昔から維新運動の拠点でもあった、という話を私もした。番家氏もした。
岡山の日本原というところに、維新運動の原点とも言うべき所があり、そこを拠点に運動を始めた。又、「維新運動」の拠点にもなり、全国から多くの人が集まった。その中心が岡山県の奈義町だ。ここの町議会で、「明治憲法復原決議」をやった。
これは驚いた。私も学生の時だったし、東京の新聞でその「事件」を知った。「一体、これは何だ!」「何が起こったんだ」と思った。
昭和も随分と進んでるのに、大正でもなく、明治」だよ。奈義町の人たちだって驚いたことだろう。岡山は昔から、真面目に運動をしてきた人たちが多くいた。日本原で住んで運動をしてる人の中には奈義町町会議員もいて、そして決議したのだ。これは凄い話だ。
又、現行憲法が米国に押し付けられたのだから、これはやめる。そこには明治憲法が生きているから、そこに戻し、そのあと、全面的に、あるいは部分的に変えたらいいという理屈だ。法律的には筋が通っていると思う。正当な法律論の問題だ。でも、「岡山は明治にいるようだ」と言っていた奈義町の人々もいた。新聞にその声が出ていた。
その他にも、岡山ではいろんな運動があったし、続けられてきた。そのことが、いろんな本にも書かれている。今度、じっくりと取材し、話を聞いてみたいと思っている。
それと、この日、つまり7月6日(金)は、もう一つ大変なことがあった。新幹線の中でオウムの処刑を知った。新聞を買い、ネットやメールで情報を集めた。
オウム真理教の麻原たち7人が突然、死刑を執行されたのだ。何の予告もなく、トップから7人が殺された。「これでもうオウムの論議は必要ない」と言わんばかりのやり方だ。
死刑を宣告されてるんだ。文句はないだろう、と政府や法務省は考えがたのか。「お前たちがあんな集会をやるからだ」と言う人もいる。
前にこの欄でも書いたが、麻原をこのまま死刑にしていいのか、という問題だ。今、麻原氏は、刑を受けられる状況ではない。精神のバランスは崩れ、今、自分が何をしているか。何をされようとしてるかも分からない。面会しても、誰と会ってるのか分からない。これでは、刑の執行は出来ない。
でも、オウムの麻原を殺さない限りオウムは終わらない、と思う人がいる。だから大量処刑したのだ。
「これはおかしい」「精神科の医者に診せろ」と我々は言って集会を開いた。論議があるのは当然だ。でも、「これは面倒なことになった」と思った人々がいた。
そして台風、豪雨で日本列島が分断され、機能してない時を狙ってやったのだ。処刑はこの2日前に急に決まった。
さらに、この大雨では抗議も来れない。と思ったのだろう。実際、テレビや新聞でも「麻原処刑」は大きく出たが、すぐに終わった。「もう終わったことだから」と言わんばかりだ。岡山一水会では、そんな話も出ました。
そして、翌日7月7日(土)は、実は函館で唐牛健太郎さんの墓前祭がある。それに参列することになっていた。
唐牛さんは60年安保の時の全学連委員長だが、国会に突入し安保と闘い、華々しい闘いをしました。私たちにとっては、レジェンドです。
全共闘の人々は、「敵」として学園で闘った。論争し、殴り合いをした。
でも、唐牛さんや当時の学生たちはずっと前だし、右や左を超えている。日本のために闘った人々という意識だ。
ある集会で唐牛さんに会い、一水会のフォーラムにも出てもらい、講演してもらった。
亡くなってからは、この函館山の墓地は毎年来ている。
でも今年は豪雨だし、行けないかな、と思った。でも途中からでも行こうと、出発した。
岡山空港から羽田までは順調だ。羽田から函館も順調に飛んでいた。凄い。
そのあと、函館山に急いだ。午後3時から墓前祭は始まっていた。
元赤軍派のキムさんもいる。
又、昔、一緒にサンボでロシアの格闘技をやった西村君も来ていた。今は『東洋経済』の編集長だ。懐かしくて、格闘技の話をしていた。ロシアに一緒に行ったし、毎週、大久保の道場で稽古していた。唐牛さんとも縁があって、今日、来たという。
他にも、多くの人々と会った。
唐牛さんが亡くなってもう30年以上になる。奥さんは健在だったが、病気のため亡くなってしまった。
お葬式にも出たが、「唐牛の墓に入れて欲しい」とのことで、函館山でお墓に入れた。「唐牛氏二人、函館に帰る」と地元の新聞には大きく出ていた。
墓前祭が終わり、市内のお店で懇親会をやる。随分、人が増えた。100人以上はいたようだ。私も話をした。
終わって、9時過ぎだ。そして函館山の展望台に行った。タクシーに乗って。いつも必ず来ていた。
でも今日は荒れていて、霧が出ている。夜景は見えない。いつもは見えるのに。日本で一番美しい夜景だと思う。私はそう思っている。
⑭函館空港から、お墓に行く途中にありました。「哀愁テーマパーク」と書かれています。でも、「土方・啄木浪漫館」ですよ。ジャンルがあまりにも違うんじゃないかと思いますが、武人と詩人が「哀愁」で括られてます。
⑯7月10日(火)。「ザ・ニュース・ペーパー」に行きました。30周年記念です。ご苦労様でした。「ザ・ニュース・ペーパー」の人たちと。そして左は声優の神谷明さんです。一緒に「ザ・ニュース・ペーパー」に出たことがあります。