名古屋で「死刑執行停止を求める諸宗教による祈りの集い 2018」が行われている。これは何としても参加したいと思い、4、5人で行ってきました。
昼に一水会の若者が迎えに来てくれ、地下鉄で大手町に行き、そこから東京駅に行き、名古屋に行く。そこから会場の聖マルコ教会に行った。
日本聖公会名古屋聖マルコ教会だ。カソリックが中心になってこの集会をやっている。
聖マルコ教会はイギリスの国教会だ。さらに他の宗教の人々も集まり、死刑廃止を訴える。これは凄いと思った。奇跡だ。こんなことはなかなか出来ない。
さらに東本願寺の人、天理教の人、大本教の人たちが出た。各自のお祈りをし、祭文を読む。それもカソリックの神の前でだ。そして、死刑廃止を求める。
さらに宗教ではなくて、民間の市民グループや、個人のアピールもある。私も発言させられた。光栄だ。
大体、右翼の人で「死刑反対」と言ってるのはほとんどいない。私一人だけだ。
それは多分、高校時代の宗教体験が大きかったからだと思う。仙台のミッションスクールに通っていた。人の命は大切だと教えられ、人を殺してはいけない。自分の命は神から与えられたものだから勝手に捨ててはいけない。と教えられた。
なるほどと思った。私は、学院高校の1期生だった。もう卒業してから50年以上になるが、人を殺した人は誰もいない。勿論、病気で亡くなった人はいるが、自殺した人は一人もいない。素晴らしいことだ。
だから、私も死刑制度については疑問に感じてきた。吉田松陰は、親からもらった身体を傷つけたりしていけない。それが親孝行の基だと言っている。又、死刑を廃止したフランスの元法相の話を聞きに行った。
フランスは長い間、死刑を存置してきたが、30年ほど前に廃止した。かつて世界で一番初めに死刑を廃止したのが日本だ。それを聞きいて、エッ? そんなことがあったのかと驚いた。
平安時代には、人を殺すと、その霊が祟って、地震や津波などの自然現象を起こすと思われていた。菅原道真を左遷したのち、災害が相次いだという。だから死刑をやめて島流しにした。ところが武士の世になったところ、死刑は復活した。どんどんやられた。
フランスのバダンテール元法相は言っていた。「日本は世界で一番初めて死刑を廃止していた国です」と。これは凄いことを言うと思った。
そこで、死刑のことを知ろうとし始めた。死刑反対の集会にも随分と行った。今回の名古屋の聖マルコ教会の牧師さんは私の高校の後輩だ。
5時から8時まで集会があり、そのあと、場所を移して、懇親会があった。多くの人たちに話を聞いた。
又、仏教や神道の人たちは自らの祈りをし、自らの祭文を読む。これは凄いと思った。
又さらに、個人の人たちにも勝手に話をさせる。これも凄い。
さらに、「我聞」というグループのコンサートもあった。面白い。
会場になった聖マルコ教会の後藤さんにも、いろいろと話をした。
この日は、名古屋に泊まった。そして、次の日に帰ってきた。
体の調子は悪いが、行って本当に良かったと思う。行った甲斐があった。
この「死刑執行停止を求める諸宗教による祈りの集い」は、全国でもやっている。去年は四谷の教会でやった。初めて参加した。凄い。こんなことが出来るのか、と思った。
そして今年は名古屋で、来年は名古屋の中村教会でやるという。森達也さんが講師だ。
そうだ。当日は、参加した各宗教、団体の人たちのパンフが随分と配られていた。熱心に読んだ。
その中に、カソリックの死刑に関する「カテキズム」の訳があった。
〈実際、今日では、国家が犯罪を効果的に防ぎ、償いの機会を罪びとから決定的に取り上げることなしに罪びとにそれ以上罪を犯させないようにすることが可能になってきたので、死刑執行が絶対に必要とされる事例は、「皆無ではないにしても、非常にまれなことになりました〉
こう書かれていた。
しかし、その後、改訂された。
〈しかし今日、たとえ非常に重大な罪を犯した後であっても人格の尊厳は失われないという意識がますます高まっています。加えて、国家が科す刑事制裁の意義に関して、新たな理解が広まってきています。最後に、市民にしかるべき安全を保障すると同時に、犯罪者から回心の可能性を決定的に奪うことのない、より効果的な拘禁体制が整えられてきています。
したがって教会は、福音の光のもとに「死刑は許容できません。それは人格の不可侵性と尊厳への攻撃だからです」と教え、また、全世界で死刑が廃止されるために意を決して努力をします。〉。
ともかく、素晴らしい集会でした。