ヨボセヨ。アンニョンハシムニカ。10月7日(火)、午後7時15分、成田に帰ってきました。5日間のハラハラ、ドキドキのドラマチックな旅でした。こんなに衝撃的な旅の体験は今までにありませんでした。これからもないでしょう。
10月3日(金)の朝、成田を飛び立ちました。中国を経て、北朝鮮への旅です。今度は、「よど号」グループと会う為です。今年の4月に、木村三浩氏(一水会代表)と北朝鮮に行きました。だから二度目の北朝鮮です。あの時は、北朝鮮の党の幹部との話し合いが主で、「よど号」グループには会えませんでした。今度は、「よど号」グループと会って、じっくり話をする。その為の旅です。ただし、今回は木村氏は国内で重要な仕事があって残り、私一人の旅でした。いや、山中幸男さんと二人でした。山中さんは救援連絡センターの事務局長で、「よど号」問題には昔から取り組んでいます。特に「よど号」の奥さん、子供たちの帰国には尽力してきました。
「よど号」グループと奥さんの間には20人ほどの子供がいます。その子供たちは、ほとんど帰国させ、残るは一人だけです。その子供も、もうすぐ帰国します。その帰国手続きは大変です。だって、1970年にハイジャックして、赤軍派の9人は北朝鮮に渡ったのです。そして日本人妻との間に子供をもうけました。法を破って北に渡り、そこで極秘裡に結婚し、子供が生まれたのです。出生届やら何やら大変です。さらに、日本人として、パスポートをとり、日本に帰国させる。気の遠くなるような困難と煩瑣な仕事です。それを山中さんはずっとやってきたのです。頭が下がります。今回も、山中さんのおかげでした。お世話になりました。
そういえば、よど号グループの田中義三さんとタイで初めて会った時も、山中さんに連れて行ってもらいました。あの時は、木村氏も一緒でした。あの時も、感動的な旅でした。「ニセ米ドル事件」でタイの刑務所にいた田中さんと会い、意気投合しました。そして、それから何と、5回もタイの田中さんに面会に行きました。
「あの時は、本当にお世話になりました」と飛行機の中で山中さんにお礼を言いました。あのおかげで田中義三さんとは終生変わらぬ友情が芽生えました。田中さんが日本に帰国してからの裁判では私も証言しました。右と左、正反対の運動をしてきた二人ですが、これからは一緒に新しい運動が出来ると思いました。12年の刑を受け、熊本刑務所に送られました。ところが、残念ながら癌を患って亡くなられました。残念です。
「13年前に僕らを招請してくれた田宮高麿さんも亡くなりましたね」と、機中で山中さんと、しんみりした話になりました。25年ほど前までは、「よど号」の人達とは全く接点がなかったのに、「ナショナリズムの問題では共に語り合える」と言われ、連絡を取り続けていました。「じゃ、一水会で訪朝団をつくって、来なさいよ」と田宮さんに言われました。田宮さんは「よど号」グループのリーダーです。それで、行くことになりましたが、直前になって何故か、僕だけビザが下りず、木村三浩氏、見沢知廉氏などが「一水会訪朝団」を作り、行きました。
「あの時は、田宮さんが呼んでくれたんだから絶対に大丈夫と思ったんですよ。残念でした」と山中さんに言いました。
それから13年。何と17回もビザ申請をしたのに、ずっと拒否され、今年の4月にやっと訪朝できました。その時は、北朝鮮の党の幹部の人と朝から晩まで話し合い、「次」は「よど号」と会えることになりました。そして、今回の訪朝です。
「長い道のりでした。やっと『よど号』の人達に会えます。山中さんのおかげです」とお礼を言いました。
1970年に、ハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍派のメンバーは9人です。でも、あれから38年。田宮さん、田中さん、岡本さん、吉田さんの4人が亡くなりました。柴田さんは日本に密入国して逮捕、収監され、今は自由の身で関西におります。だから北朝鮮にいるのは4人です。小西隆裕さん、赤木志郎さん、若林盛亮さん、魚本(旧姓安部)公博さんです。そして、奥さんが2人、子供が1人。計7人が残っております。今回、その人々と会えるのです。やっと会えるのです。
待ちに待った13年です。いや、1970年のハイジャック事件が起きた時から衝撃を受け、感動し、凄い男達だ、と思ってました。いずれ、ぜひ会いたいものだと思ってました。だから、38年前から熱烈に思っていたのです。その思いが、やっと実現します。感無量です。まるで夢のようです。
38年間、思いつめ、恋焦れた恋人に会うような気持ちでした。先週のHPでは、「自分探し」の旅と書きましたが、本当は、「よど号」探しです。いや、38年間、思い続けた人に会うのです。そんな気持ちで、ドキドキし、興奮していました。こんな自分を見るのも初めてです。「よど号」の人達と会って、何を話すのか。自分がどう変わるのか。それも分かりません。その意味では、やはり「自分探し」かもしれません。
話したいことは一杯あります。聞きたいことも一杯あります。感極まって、「ここに残りたい。私も『よど号』グループに加わりたい!」などと言い出すかもしれません。全く、予測不能の旅です。予測不能の私です。だから期待に大きく胸ふくらませて、向かいました。
では、北朝鮮で撮った写真を紹介しましょう。写真は沢山撮りました。又、直前に買ったビデオカメラでも長い時間、撮りました。「よど号」の人達は皆、元気でした。又、ピョンヤンも平穏でした。金正日さんの健康については、国内ではニュースが流れていません。それどころか、サッカーの試合に現われ、元気な姿を見せたとのことで、北朝鮮の人々は感激し、大喜びしていました。
ビデオにも写ってますが、小西さん、魚本(旧姓安部)さんが元気にボートをこいでます。山中さんもおります。赤木さんは、事務所でお留守番です。子供達がサッカー・ゲームに興じてます。又、アリラン祭に出席した様子も収められています。「世界一のマスゲーム」もきれいに写っております。
これは貴重なビデオです。「よど号」の人達が写っている。そして、北朝鮮の一般の人々が写っている。街の様子、アリラン祭の様子なども、リアルに写っています。ちょっとないでしょう。やはり、直前にビデオを買っておいてよかったと思いました。それに、「よど号」の4人が全員で写っている写真もあります。貴重な写真です。歴史的写真です。
では、「北朝鮮レポート」は終わります。次週に又、詳しく書きます。「よど号」の皆の元気な姿も写真で紹介できました。又、皆は、「必ず日本に帰る」と言っておりました。
しかし、これじゃ、不十分かな。北朝鮮レポートとして。ここまで読んだ人は気付くでしょうね。「38年間、思い焦がれた『よど号』と再会したのに、その〈感動〉が伝わってこない」と。
「それにお前の写真がないじゃないか」と。金正日さんの前で撮った写真はあるが、「お前1人じゃないか」。「よど号の人達と一緒に撮った写真がないじゃないか」…と。
ウーン、鋭いですね。気が付きましたか。本当を言うと、迷ったんです。「よど号グループと会った。感動した!」と書いて、それで終わりにしようとも思ったんです。私が写ってないのは、「私がカメラを撮ったからです」と強弁しようとも考えました。「ちゃんと、よど号の人々の写真はあるじゃないか!」と。何なら、得意のパソコン技術で、よど号の人々と私が一緒に写っている写真を作ってアップするとか…。さらに小西さん達と握手してる写真でも作れるかもしれません。でも、そこまでは、やり過ぎでしょう。
はいはい。正直に言いましょう。今回、私は北朝鮮には行けませんでした。「じゃ、このレポートは嘘か!」と言われるかもしれませんが、嘘は書いてません。全て本当です。10月3日(金)、北朝鮮に行くべく、成田から北京に向かいました。そして、「よど号」の人達の写真やビデオを撮りました。ただし、私は北朝鮮には行けませんでした。では、説明します。
今、考えても悔しいし、認めたくないのですが、今回は、大丈夫のはずでした。だから、北京からピョンヤンまでの飛行機の切符も買えたし、ホテルも予約できたし、アリラン祭も予約できたのです。ところが、ところがですよ。北京にある共和国の大使館でビザが出なかったのです。入れることになっていたのです。だから、ここまで来たのに。ガーンと丸太で殴られた気分でした。もう目の前が真っ暗になりました。
「そんなはずはない」「おかしい」「何かの間違いだ!」と山中さんは北に電話し、日本の関係者にも電話してくれました。でもダメでした。直前のドタキャンです。よど号の人も電話してくれ、「全く申し訳ない」と言ってました。゛ても、彼らのせいではありません。「外国人は一切、入国出来ない」ということでした。「鈴木さんの個人的な問題ではない」と言ってました。あるいは、日本で伝えられてるように、政治的な理由かもしれません。
でも、山中さんにはビザが出ました。山中さんは「よど号」家族の帰国に長い間、携わり、日本の国家が出来ないことをやっているのです。だから、特別です。「例外中の例外」として、1人だけ入国出来たのです。
10月3日(金)の10時35分に成田を発ち、北京には13時25分に着きました。それからすぐに、北朝鮮大使館に向かい、〈衝撃の事実〉を知らされたのです。
何かの間違いだろう。事務的なミスだろうと初めは思いました。だって、初めからビザが下りないなら、東京で分かるはずですし、北京まで来ません。初めは大丈夫だったのです。「何か」があったのです。私のせいかもしれません。北の国内事情かもしれません。あるいは、4月に訪朝した時とは、ルートが別だったからかもしれません。ともかく行けませんでした。いろいろ、手段を考えました。でも全くダメでした。
じゃ、どうする。悩みました。このまま北京から帰るか。いや、山中さんに頼んで、カメラとビデオだけでも撮ってもらおう、と思いました。それで使い方を説明しました。でも、ここで大問題です。ビデオは北京に来る3日前に、新宿のヨドバシカメラで買いました。私もよく使い方が分かりません。山中さんは私以上に機械オンチです。「分からない人」が、「さらに分からない人」に操作を教えるのです。不安です。まァ、ダメで元々と思い、頼みました。「一応、説明書も渡しました。「俺は出来ないけど、よど号の人なら出来るだろう」と山中さんは言ってました。そして、その通りになりました。帰国して、見て、ビックリしました。鮮明に写ってました。貴重な資料です。歴史的な資料です。
10月3日(金)は、中国で「何とか手がないか」と2人で夜を徹して相談し、電話をかけまくりました。「こんな手はどうか」という危ない手段も、考えましたが、やめました。ビザがなければ、どうにもならないのです。翌、10月4日(土)、11時55分北京発の飛行機で山中さんだけかピョンヤンに向けて飛び立ちました。私もホテルをチェックアウトして、荷物を持って、飛行場に行きました。前夜、電話をかけまくり、それで「もしや」と思ったのです。しかし、その期待も空しく裏切られました。私だけ、トボトボと北京市内に戻りました。
しかし、北京の王府井(ワンフーチン)にあるホテルも驚いたでしょうね。4日(土)の朝にチェックアウトした日本人が、その2時間後には再び戻り、再びチェックインしたのですから。まるでアホですね。そして、4日(土)、5日(日)、6日(月)と三泊したのです。3日(金)も泊まってますから、計、4泊ですね。このホテルで。
どうせダメなら、帰国してもよかったんですよね。でも、「もしかしたら」という期待がまだありました。それで、北京のホテルで待つことにしたのです。又、カメラとビデオを山中さんに預けてあるし、7日(火)には成田に迎えに行かなくてはならない。又、チケットも往復だから安くなっている。そんなこんなで、考えて、北京に留まることにしました。
北京にいる新聞社やテレビ局の人には大変お世話になりました。案内してもらったり、食事をごちそうになったりと、お世話をかけました。そして、あとは1人で、見て回りました。この機会だから、北京を歩き回りました。天安門に行ったり、故宮に行ったり、デパートを見たり、書店を見たり。それに、せっかくだから、北京動物園にパンダを見に行きました。又、思い切って、万里の長城にも行きました。明の十三陵にも行きました。思ってもいない空前のバカンスでした。
北京へは、去年の8月に来たし、今年の4月に北朝鮮に行く時に寄りました。それに、25年前には、一度来てるんですね。2週間ほど。その時は、万里の長城も行ってますし、北京動物園にも行きました。でも、大きく変わっていました。その変貌ぶりも驚きでした。あの時は、高速道路もなかったので、北京から長城のあるところまではバスで3時間半でした。だから、行くだけで1日かかります。又、登るのも大変でした。長い長い階段です。急斜面です。45度位あるんじゃないの、と思いました。
でも、今はロープウェイが出来て、頂上のすぐ手前まで行けます。だから、昔は行けなかったのに、今回は頂上まで行けました。「うわーい!長城の頂上に登った!」と叫んでしまいました。
でも、こんなことをしていていいのかな、と思いました。国家的なミッションがあったのに。今頃は、北朝鮮で、「よど号」の人達と話し合ってたはずなのに…。そう思うと、悔しさで胸が一杯になりました。「ここまで来て、それはないだろう」と何度も何度も思いました。小西さん、若林さん達と電話で話しました。「申しわけありません」と何度も言ってました。あきらめずに、私も又、挑戦します。
10月7日(火)北京空港にピョンヤンから帰る山中さんを迎えに行きました。話を聞こうとマスコミの3社も一緒です。9時55分に着き、合流しました。「これ、アリラン祭のポスター」と山中さんにもらいました。あーあ、見たかったのにな。世界一のマスゲームを。「これは小西さんからの手紙」と、受け取りました。小西さん達にもご迷惑をかけ、心配をかけました。申しわけありませんでした。やはり、私のせいでしょう。すみません。山中さんは向こうでよど号のメンバー、家族の「帰国」問題について毎日、話し合い、仕事してきたというのに…。私は北京で、長城に登り、パンダと会話してただけです。又、街をうろついて、肯徳基(ケンタッキーフライドチキン)や麦当労(マクドナルド)を食べ歩いていただけです。すみませんでした。日本に帰ったら、「何だ、行けなかったのか!」「嘘つき!」なんて言って、馬鹿にされるんだろうな。イジメられるんだろうな。そう考えると又、悔しいし、愕然としました。
全く、北朝鮮は、何が起こるか分かりません。ハラハラ、ドキドキの旅でした。「よど号」への道程は遠かった。さて、これからどうなるのでしょうか、私は。オワリ。