石に命があるなんて知らなかった。でも、君達が見る道端の小石の一つ一つにも命があり、歴史があるんだ。よく石は、「つまらない物」の代名詞にされている。「石ころ」なんて、軽蔑の接頭語「ころ」をつけて呼ばれる。又、「玉石混交」という言葉もある。大切な、貴重な「玉」と、その辺の、小汚い「石」を一緒にするなんて愚かなことだ。間違っている。…そういう意味だ。
又、高橋和巳の代表作に、『我が心は石にあらず』という小説がある。石のように、つまらないもの、ではない。ということだ。我が心は熱く、気高く、成長している。という意気込みがある。
でも、違うのだ。私も勘違いしていた。「河原の石ひとつにも宇宙の全過程が刻印されている」のだ。これを聞いた時は、私はゲッと思い、のけぞりましたね。そんな馬鹿な、と思った。もののたとえだろう、と思った。しかし、違う。文字通りの意味なのだ。だって、その人は言うのだ。
〈君は普段路傍の石に気をとめることなどないだろう。庭石や石材ならばまた話は別だろうが、およそ石や岩などは詰まらない、ただ意味もなく山河野原に散らばっているもので、邪魔にこそなれわざわざ手にとって眺めてみる価値などないと考えているのだろう〉
うん、そう思っているよ。小石があると邪魔だと思って蹴飛ばしたりしている。いや、意識することもないな。ただの石じゃん。それがどうした、と思う。でも、言うんだな、このオッチャンは。
〈だがそれは違う。変哲のない石ころのひとつにも地球という天体の歴史が克明に記されているのである〉
だから、それは〈比喩〉でしょう。大昔にもこれと同じ石があった。そりゃあるだろう。いくらでもあるさ、ゴロゴロしているよ。それがどうしたんだろう。でものこの人は言うんだ。ちゃんと聞かなくちゃ。
〈たとえば君は、岩石がどうして出来るかを知っているか? 岩石はマグマから生じる。赤熱のマグマが冷え固まって岩になる。岩は地表の風化作用で細かく砕かれる。それが石である。石はやがて砂になる。砂は土になる。
石や砂や土は今度は水に運ばれ、湖沼や海底に堆積し、凝って再び岩になる。岩はまた砕かれ石になり砂になり土になり、あるいは地下深く押し込められ熱と圧力が加われば、多種多様な岩石に生まれ変わって、さらには再びマグマに溶けて元に還っていきもする。鉱物の形は一瞬も静止することなく変化している。素材は絶えず循環している〉
ヘエーッ!と驚きましたね。だって、たとえば動物は生きて動き回る。植物は動き回らないが生きている。でも、鉱物は生命もないし、動くこともない。そう信じて疑わなかった。石は石だろう。ずっとそのままだ。土は土のままだ…と。ところが、鉱物は千変万化だ。いろいろな物に姿を変えながら、生きているんだ。動物や植物とは比べものにならない長い時代、歴史を生きているのだ。知らなかったなー。この地球は、我々、人間や動物、植物のものだと思っていたが、それ以前に、石や砂や岩といった〈鉱物〉のものだったんだ。大陸も鉱物だ。地球も鉱物だ。そのおかげで我々は細々と生きている。我々は、鉱物の「余り物」なんだ。「附属物」なんだ。石についた「こけ」だよ。石ころを足蹴にしたりして申し訳ありませんでした。人類を代表して謝罪します。
その上等兵はさらに言うんだよ。そう、これを教えてくれたのは上等兵だ。大東亜戦争の真っ最中、いや、末期だ。フィリピンのレイテ島の洞窟の中で、「主人公」である私にこの上等兵は語りかけているのだ。
〈永劫不動とみえる大陸にしても僅かずつ移動しているのは君も知っているだろう。つまり君が散歩の徒然に何気なく手にとる一個の石は、およそ五十億年前、後に太陽系と呼ばれるようになった場所で、虚空に浮遊するガスが凝固してこの惑星が生まれたときからはじまったドラマの一断面であり、物質の運動の刹那(せつな)の形態に閉じ込めた、いわば宇宙の歴史の凝縮物なのだ〉
私らが気軽に蹴飛ばしている小石も、一つ一つが゜宇宙の歴史」なんだ。そう思うと、軽々しくは扱えないよ。全共闘運動が盛んだった頃、左翼学生は、機動隊に石を投げて闘っていた。「おう、やれ!やれ!頑張れ!」と思っていた。敵ながら全共闘が機動隊と闘う時は、全共闘を応援していた。しかし、あの時の石も、一つ一つが悠久の「宇宙の歴史」だったんだ。「歴史」を投げていたんだ。勿体なくも、かしこくも…。だから、あの闘いも歴史的な闘いになったんだね。
そうそう、初めに言うべきだったな。この壮大な石の話は、奥泉光の『石の来歴』(文春文庫)に出ていたんだ。私は中野図書館にあった大活字本で何気なく手に取って、借りた。この人は読むのも初めてだ。タイトルも地味だし、何か面白くなさそうだな、と思った。でも「月のノルマ30冊」の為に借りた。動機は不純だ。でも、素晴らしい本に出会うこともある。
痴漢から知り合って、それで結婚した夫婦もいるという。動機や、キッカケは不純でも、真実の愛になることがある。何かの本にそんなことが書いてあった。
ともかく、この『石の来歴』はいい本だった。読み終わるのが惜しくて、ブレーキをかけて、あえて、読むスピードを落としながら読んだ。
上等兵はさらに言うんだな。「石は君とは無縁じゃないよ」と。これもショックだった。
〈岩石を作るのはマグマばかりではない。宇宙から飛来する隕石もある。しかしなにより重要なのは生物の働きである。風化作用を引き起こすものはなにも水や氷だけとは限らない。生物が岩石の風化に一役買うのであるし、生物の軀(からだ)そのものが今度は石に変わる。石炭が太古の樹木の化石であるのは君も知っているだろう。石灰岩やチャートなどは水底に溜まった生物の死骸が凝り固まったもので、たとえばわれわれの軀にしても、骨のカルシウムはいずれ岩になって鉱物の循環に投げ入れられる。だから君が河原で拾う石ころは、どんなによそよそしく疎遠にみえようとも、君とは無縁ではありえない。君自身を一部に含む地球の歴史の総体を君は眺めるのであり、いわば君は君の未来の姿をそこに発見するのである〉
ウッ!と思った。何気なく石ころを手にして見る。そこに私たちは自分の「未来」を見ているのだ。「未来の自分」と今、対面しているのだ。凄い話だ。こんなことは考えてもみなかった。
この『石の来歴』は小説でありながら、思想書だ。いや文明の書であり、〈ものの考え方〉の根本的変革を迫る本だ。いわば、「革命の書」だ。この本により私は、鉱物について、人間の生について、「コペルニクス的転回」をした。今でも回っている。ブルン、ブルン…。
この小説は、凄絶な戦争体験を経た主人公・真名瀬が、地獄の戦地で、玉砕しようとするが、果たせずアメリカの捕虜になる。戦後、日本に帰ってきた彼は、古本屋を営みながら、趣味で石を集める。石の標本をつくり、その道では名を知られる。なぜ、石を集めるのか。レイテの洞窟で上等兵に聞いた〈石の物語〉が頭にこびりついているからだ。
真名瀬は結婚し、子供も2人できる。長男の裕晶は彼の石集めに興味を持ち、いつもついてくる。このままいったら、その道の学者になれるのでは。と親馬鹿の真名瀬は期待する。ところが、1人で石を取りに行った長男はある日、山の採石場の洞窟で何者かに斬殺される。妻は、「あなたが、石集めなんかに連れて行ったからだ!」と毎日毎日、責め続ける。そして、発狂する。
残った次男の貴晶は、石集めとは対極の、サッカーに熱中する。そこで期待される。しかし、試合中に審判の判定に激怒し、殴る。サッカーの世界から追放された。今度は、学生運動の世界に入る。それも極左の運動に入る。「赤い悪魔たち」というから、赤軍派のイメージだ。そして、武力闘争に突入し、警官隊との銃撃戦で殺されてしまう。凄い小説だ。石の話かと思ったら、殺人事件が起き、推理小説になる。そして、革命運動の小説になる。ワクワク、ドキドキしながら読んだ。小説の冒頭には聖書の次の言葉が引かれている。
〈あなたがたに言っておく。もしこの者らが沈黙するなら、石が叫ぶであろう
『ルカによる福音書』19章40節〉
この本の「解説」は芳川泰久が書いている。「石を書く・石で書く・石が書く—解説に代えて」という題で。そこの中で芳川は言う。
〈石は絶えず生成している。何気なく手にした一個の石にしても、それは、地球の歴史とでも呼ぶべき大きな時間の流れにあって、変成し続けている。ただその時間の尺度が大きすぎるために、変化の相がとらえにくい。それは、石の時間=歴史に対して、人間の時間がありまに短く、スケールを異にしているからだ。それゆえ、人間の眼には、石は不動であるかのようにしか見えない。しかし、作者には、石の変成しつつある姿が見えている。作者の想像力がその特異性を発揮するのは、まさにその点においてなのだ〉
そうなのか。〈時間〉は皆に均質・一定のものではない。象の時間と、アリの時間は違う。そんな本を以前、読んだ。人間と同様に石も生きている。石も変転し、生成する。では「石の時間=歴史」はどうやったら見えるのか。誰に見えるのか。この作者(奥泉光)には見えるのだ。「解説」で、芳川は言う。
〈たとえば、いわゆる動体視力が、ものすごく早く動く動体を、瞬時に、不動の相において捕らえることのできる視力だとすれば、作者の想像力は、いささかも動いているとは見えない物体の静止のうちに、動の相を読み取る視線の強度としてある、と言えるだろう。いわば静体視力とでも呼ぶべきその視線の強度に触れるとき、鉱物でさえもが自らの動態を顕わにしはじめるのだ。「変哲のない石ころひとつにも地球という天体の歴史が克明に記されている」と言うときの歴史とは、だからそのような視線の強度によつて可視となった歴史にほかならない〉
そうか、「静体視力」か。と唸った。でも、その「静体視力」を持った人間は、では、石や宇宙の「歴史」と自分の歴史をどう関係づけるのか。この二つの「歴史」はどう交差するのか。あるいは無縁なのか。芳川は言う。
〈答えは簡単である。なにしろ、人間を一個の石塊とみることさえできればよいのだから。そう、人間とは死後「骨のカルシウム」に還る存在にほかならない〉
〈人間とは「骨のカルシウム」からなる鉱物にほかならない。人間は石と見ること。そう見るとき、鉱物を取り巻く時間=歴史と、人間を取り巻く時間=歴史が混沌する〉
作者・奥泉光は『石の来歴』の冒頭に、「石が叫ぶ」という「聖書」の言葉を引いている。「石」で思い出して、高橋和巳の『我が心は石にあらず』を捜してみた。高橋は、自らの小説の〈来歴〉について『聖書』ではなく、中国の古典『詩経』を引いている。
〈我が心は石にあらねば、転ばすべからざるなり。
我が心は席(むしろ)にあらねば巻くべからざるなり
—詩経・邶風—〉
私は学生時代から高橋和巳が好きで読んできた。高橋の小説・評論は全て読んだ。高橋についての「読書ノート」もつけている。だから、こうして書けるのだ。そうだ。友人で、「お母さんが高橋和巳に大学で習った」という人がいた。凄いね。うらやましい。「2人の写真は撮ってないの」と聞いたが、ないそうだ。残念だったね。私はこんなところを「高橋ノート」に抜き書きしている。
〈私たちは秩序を破壊したいために闘争するのではなく、虚偽の秩序をより本質的な秩序に替えたいために闘うのだ〉
〈議会というものは、黒い選挙によって無自覚な国民の権利を資本が買い、議会という権利の剰余価値を産む機関を媒介にして法秩序が形成され、利潤のわずか一部分が不等質交換的に地元有権者にばらまかれるものにすぎない〉
高橋和巳の小説は、表現が難解だ。でも、そこが好きで読んだ。惹きつけられた。「小説」という形でしか表わせない「思想」があるのかもしれない。と思った。思想ならば普通、「評論」という形をとって発表する。しかし、あまりに壮大で、突拍子もない「思想」だと、評論の枠には収まり切らない。「こんな馬鹿なことを考えているのか」「ありえない」と反撥を喰う。だから、「小説」という形で突きつけてみる。
高橋和巳や、三島由紀夫の作品には、そうした「小説」が多い。もしかしたら、奥泉光も、そうなのかもしれない。私もいつかこうした小説に挑戦してみたい。そうだね。勉強し、小説を沢山読み、体験を積み、大人になったら…。「石の歴史」に比べたら、人間の歴史なんて余りに短い。比較にならない。いわば皆、「赤ん坊の時」に死んでるようなものだ。よし、私は、大きくなってから書いてやる。「静体視力」を身につけてからだ。
高橋和巳の『我が心は石にあらず』には、こんなことも書かれている。感銘を受けて、前にも書いたかもしれないが…。
〈戦争中、飛行機の操縦の訓練を受けていたものの中で、現在も民間航空機のパイロットになっているものはいる。だが敗戦末期に〈死の操縦〉を学んだものの中で、いまも操縦士であるものはいない。それは航空時間が乏しく、操縦技術においておとるからだけではない。一つの意図のもとに修得したその同じ技術を、他の目的に転用することは、別の職種に転ずることよりも心理的に困難だからだ〉
特攻隊に志願したが、だが、終戦を迎えた。あるいは出撃しながらも、エンジントラブルなどで体当たりできなかった人。心ならずも生き残った人々だ。その人々は、戦後、決して、民間航空機のパイロットになってない。自衛隊のパイロットにもなってない。「操縦」したことすらも忘れたいのだ。その「技術」を生かそうなどと考えもしない。確かにそうだと思った。
でも、その「呪い」を超えた人もいる。連合赤軍事件の植垣康博さんだ。連合赤軍事件では、「死の総括」に加わり、9人の死刑に参加した。つまり、9人を殺したのだ。それもアイスピックで心臓を刺して殺した。
植垣さんは獄中に27年いて、今は出てきて静岡でスナックをやっている。中国人の美人で気立てのいい奥さんと息子の3人暮らしで幸せな「戦後」を送っている。スナックには私もよく行く。前に行った時、1人で黙々と氷を割っている。アイスピックで。ギクッとして、「アイスピックなど握ったら、あの時のことを思い出しませんか」と聞いた。「このアイスピックで9人の同志の命を奪ったんだ…」と。普通なら思うはずだ。もう、アイスピックなど一生、握らないと思うはずだ。ところが植垣さんはケロリとして言っていた。
「思い出しませんね。だって、用途が全く別ですから」
ウーン、凄い人だ。でも「用途」が違うといってもなー。あの時は人を殺した。今は客のための氷を作っている。だから、こだわりはないという。「そんなことを気にする鈴木さんこそ変です!」と言われた。植垣さんは、「特攻の生き残り」よりも凄い人かもしれない。私はそう思いましたね。
「石の話」もここで終えよう。しかし、その辺の小石を手にとって、「うん、これが私の未来か」と思う。哲学的な光景だ。石だからといって足蹴にしてはいけない。これは「未来の私」だから。機動隊にだって石を投げてはいけない。「私自身」を投げていることだから。血盟団の人々は自分達は革命のための「捨石」だと言っていた。うん、石なんだ。歴史的な石だ。「人間やめて石になれ」という歌もあったな。あれも「悠久の歴史に生きろ!」ということか。
昔、お坊さんは子供が亀や犬をいじめてるのを見つけると、こう言って諌めた。「いけないよ子供達。その亀は、亡くなったお父さんかもしれないよ。お母さんかもしれないよ」。子供はギクッとして、やめる。人間は死んでも死なない。生まれかわる。人間としてあるいは動物として。特攻隊で死んだ人は蛍になって帰ってくる。その辺にいる蛇や蜥蜴だって、亡くなった親や親類かもしれない。だから殺生はやめませう。という説教だ。
動物だけでなく、植物も「命」あるものだ。学校の生徒で「前世占い」をしたら、「ホウレン草」と言われた人がいた。昔々は人間だったのに、悪いことをして、前世はホウレン草だ。でも、その時にいいことをして(何をしたんだろう。何ができるんだろうホウレン草に?)。今度は人間に生まれかわった。だから、この「人間の生」を大切にしなさいということだ。私も前世は枝豆だった。その時よい行いがあったので、この世は人間だ。ありがたい。そして前世の私(枝豆)を毎日食べている。申し訳ない。
そうか。犬に生まれかわった人もいる。ソフトバンクの白犬だ。でも、亀や犬や枝豆といった「生まれかわり」なんて、余りに「短いターム」でものを見てたのだ。「静体視覚」で見たら、もっと長い。悠久の〈歴史〉が見える。そう、私らは鉱物なんだ。石なんだ。「我が心は石にあらず」にあらず、だ。
10月初め北京に行った時、明の十三陵に行った。万里の長城にも行った。両方とも、石で出来ている。一つは石で作った巨大な「お墓」だ。もう一つは、レンガを積み、石を敷きつめて作った壮大な砦だ。その石を踏みしめるたびに、中国4千年の歴史を踏んでいるのだと思った。私は歴史になった。歴史に溶け込み、石になった。
1奥泉光の『石の来歴』は文春文庫で読めます。これは大活字本です。『明の十三陵』で「石の歴史」を体感しました。
2群青忌(10月21日)は素晴らしい大会でした。実行委員の皆さま、お疲れ様でした。蜷川正大氏と写真を撮りました。
310月14日(火)大きな騒ぎの中、横浜で「天皇伝説」の上映会が行われました。私も見に行って、抗議に来ていた右翼の人々に批判、糾弾されました。その上映会の様子が「北海道新聞」(10月18日付)に載ってました。朝日新聞神奈川版にも載ったようです。
4「FLASH」(11月4日号)に載った「皇室のタブー」の特集です。木村三浩氏らが発言しています。
510月17日(金)江戸川区スポーツセンターで「チャリティ・ボクシング・フェスティバル」が行われました。元東洋ジュニアライト級チャンピオンの勝又行雄氏とお会いし、感激しました。木村氏と3人で写真を撮りました。又、ご子息の勝又洋氏とも。洋氏は、以前、民族派の活動を一緒にやっていました。さらに大きくなり、今回の大会のプロモートをやっています。
610月19日(日)SWA(サブミッション・アーツ・レスリング)の大会に行きました。SWAの代表・麻生秀孝さん、それにSWA大会顧問の神取忍さん(闘う国会議員)と一緒に撮りました。