「僕も郡山生まれなんですよ」と言ったら、「じゃ、安積高校でっか?」と言われた。今、話題のあの人に。そう、田母神俊雄さん(航空自衛隊前航空幕僚長)だ。「でっか?」とは言わなかったかな。関西人じゃないんだから。
11月28日(金)、「そこまで言って委員会」でお会いした。「そこまで言って委員」(まあ、パネラーです)は8人。三宅久之さん、桂ざこばさん、宮崎哲弥さん、勝谷誠彦さんの4人がレギュラー。他の4人はその時々で変わる。私は、たまに呼ばれる。2ヶ月か3ヶ月に1回位だ。でも、11月は3回も呼ばれた。「レギュラーになったの?」と言われたが、ちゃいまんねん。そぎゃんこつ、なかとスミダです。たまたま重なっただけです。
「たかじん」は毎週、金曜日に2時間収録し、日曜に1時間半に編集して放送する。30分は、ヤバイ所を切ってるんだろう。毎回、ゲストがいる。普通は1人だ。だが、11月28日(金)収録・30日(日)放送分は、3人もいた。この日は「国防スペシャル」で、これだけで1本の濃い内容だった。初めの方に田母神さん1人がゲストとして登場。途中から、もう2人加わる。松島悠佐さん(陸上自衛隊元中部方面総監)と川村純彦さん(海上自衛隊元海将補)だ。陸海空と「三軍」が揃ったのだ。
普通は、「委員」とゲストは事前には会わない。終わってからも会わない。ゲストは番組が始まってから、途中から入ってきて、途中で帰る。本番中は討論するが、終わって話すことはない。緊張感を盛り上げるための演出かもしれない。
田母神さんの時も、そうだ。でも、この画期的な記念すべき日に呼んでもらっただけで私は光栄だ。だって、この収録の夜、11月28日(金)の夜だが、「朝生」はやはり「田母神問題」がテーマにもかかわらず、田母神さんは出なかった。もしかしたら、討論会に田母神さんが出るのは、「たかじん」が最初で最後かもしれない。
本番中に田母神さんと会えるだけでもいい。そう思っていたら、読売テレビのエレベーターでバッタリと会った。偶然一緒になったのだ。私は自己紹介をした。「私も福島県の郡山(こおりやま)生まれです」と言った。「たかじん」の資料に、田母神さんは「福島県郡山市生まれ。防衛大学卒業後、航空自衛隊に入隊」と書かれてあったからだ。
だから私も郡山生まれです、と言ったのだ。そしたら、「じゃ、安積高校?」と聞かれたんだ。「いえ、郡山は生まれただけです。親父が税務署に勤めていたので、福島県、青森県、秋田県と転々としました」と説明した。
「安積高校ですか?」と聞かれた位だから、田母神さんは安積高なんだろう。控え室のパソコンでウィキペディアで検索したら、やはりそうだった。やっぱり秀才だったのだ。
安積高校は福島県では一番だ。福島高よりも上らしい。数年に1人、東大に入る人がいる。でも、田母神さんは防衛大だ。僕らが学生の時は、「防衛大は東大よりも難しい」と言われた。今も難しいだろう。防衛大は倍率が高い。それに、入学すれば入学金はタダ、授業料もいらない。寮に入るが、生活費、食費全て無料だ。さらに、学生なのに「給料」が出る。だから、中には親に「仕送り」している学生もいる。
田母神さんは、だから、子供の時から神童だったのだろう。安積高校から防衛大に行き、航空自衛隊に入る。でも、どこで、今のような考えを持つようになったのか。もしかしたら、三島事件の影響なのか、と思った。
だって、今の保守派や右翼は、田母神さんを皆、絶讃し、支持している。「三島由紀夫の叫びがやっと届いた」「三島の再来だ」と言う人もいる。38年前の三島事件の衝撃が、ずっと残っていて、今、火を吹いたのではないか、と思った。
本番中にそのことを聞こうと思ったら、宮崎哲弥さんに先を越された。「1970年の三島事件の時はどう思ったんですか」と。これについては意外な答えが返ってきた。田母神さんは、感動は受けなかったし、衝撃は受けなかったという。防衛大学長もこの事件をはっきりと否定していた。首相(佐藤栄作)も防衛庁長官(中曽根康弘)も、「気が狂ったとしか思えない」と断罪していた。今なら差別用語といわれる言葉を使って激しく批判していた。「この事件は市民社会の倫理と論理を破壊するものだ」「断じて許せない」」と言い、新聞も社説で批判した。防衛大の学長(猪木正道だったかな)も激しく批判していた。
今なら信じられないかもしれない。嘘だと思ったら、当時の新聞を見てみたらいい。批判、糾弾のオンパレードだ。今でこそ三島事件は評価されているが、38年前の事件当時は、これは「犯罪事件」であり、三島、森田らは「犯罪者」だったのだ。
佐藤首相は言った。「三島は発狂したとしか思えない。断じて許せない犯罪だ」。そしてこうも言った。「でも自衛隊は三島のクーデターの誘いには乗らなかった。これは立派だった。これで自衛隊は“平和憲法下の自衛隊”になったのだ」と。
つまり、三島の演説に対し、集まった自衛官は野次を飛ばした。「バカヤロー、何言ってんだ!」「降りてこいよ!」と。中には石を投げた人もいた。こんな連中の方が、三島よりも「偉かった」と言うのだ。「共に立とう!」との呼びかけに対し、野次で答えた自衛官の方が「健全だった」と言ったのだ。
この三島事件の時、田母神さんは防衛大学の学生だった。心は動かされなかったという。「ノンポリでしたから」と言っていた。「ノンポリ」というのはポリシーがない。あるいはポリティカルなことに対してノン(No)という人のことだ。政治に関心のない人のことだ。あるいは、「党派」に入ってない人のことを言った。でも、防衛大に入るということが、大きなポリティカルな決断じゃないのかな。この国を守るという決断をしたのだし。と思った。
ノンポリの学生だった田母神さんは、休みの日にはよく落語を聞きに行ったという。これは、『Will』(1月号)に出ていた。当日、本番で会って、なるほどと思った。田母神さんは、毅然として、近寄りがたい人かなと思ったのに、けっこう剽軽な人だった。これには驚いた。
だって、皆が緊張し、どんな発言が出てくるかと思った時、こんなことを言う。
「私は皆に気を遣ってるんです。だから誰からも愛されてます。私を愛してないのは妻だけです」
「でも、あの論文が出てからはマスコミや政治家に叩かれっぱなしです。あんまり叩かれたので、こんなに背が小さくなりました」
これにはスタジオ中が大笑い。私もビックリしましたね。たかじんさんも、「いやー、オモロイ人やな」と思わず絶句。「お笑い」の世界でも生きてゆける、でも田母神さんの側近や田母神信者は、それを許さないだろう。
本番が終わって、「たかじん」ネットテレビでも出たそうな。「でも今回の論文はちょっと慎重さが足りなかったのではありませんか」と聞かれて、「いや、足りないのは身長です」と答えていたそうな。オモロイ。天才的だ。剽軽だ。ゴチゴチの硬い人かと思ったら、なかなか、ユーモアがある。学生の時から落語好きということも影響してるのだろう。それに、いろんな「陰謀史観」も、どんどん取り入れたのも、そんな心の自由さからかもしれん。と思った。
たとえば、今まで教えられてきたのと全く違う〈歴史〉がある。〈証拠〉がある。ヘエー、これはオモロイな。うん、ありうるな。と思ったのだろう。
自衛隊の中で、どんどん偉くなった。そして、外部から、いろんな人を呼んで講演会をする。又、外部の学者や評論家と会う。そこで、今まで全く知らなかった話も聞く。「実は、こんな話もあるんですよ」「これは今までどこにも書かれてなかったことですが」…と。東北出身者は皆、真面目だから驚く。なぜこんな大事なことが隠されていたのだ。教えられなかったのだ、と思う。
漠然と、「日本は悪い国だ。侵略国家だ」と教えられてきたのに、これらの〈新事実〉は、「それは違う!」と教えてくれた。それで隊内でも教えたし、原稿も書いた。アパの懸賞論文にも応募したのだろう。当たり前のことを言って、なぜこんなに大問題になったのか、とむしろ驚いていた。
そうだ。この日の「たかじん」の「国防スペシャル」は、ユーチューブで見れる。だから皆も見たらいい。「たかじん」はお化け番組だ。もの凄い視聴率だ。日曜の午後、テレビを見てる人は、ほとんどがこの「たかじん」を見ている。そして全国に流れる。いや、東京、関東圏だけは、わざと流さない。東京人の飢餓感を煽り、番組への注目度を高めようとする作戦なのか。それは分からん。
だから、「関西の友人にビデオを録ってもらい毎週送ってもらって見ている」という人が多かった。でも、今は、ユーチューブで見れる。便利な世の中になったもんや。「たかじん」は日曜に放送だ。水曜か木曜になると、誰かがユーチューブに流す。それで東京人も見られる。しかし、今回は「国防スペシャル」だ。だからもう次の日には、流されていた。だから東京の人も、ユーチューブで見たらよいでせう。
(ついでといってはなんですが、月刊「創」の動画サイトでは「天皇伝説」の渡辺文樹監督と私のロフトでのトークが流れてます。右翼の人々が押しかけ、大騒ぎになった時のデンジャラス・トークです。これも見て下さいな)。
さて、これからが本題だ。今まで誰もに言わなかったことだ。今日、あなただけが初めて知る。実は、私の「出生の秘密」だ。前世では枝豆だったのに、なぜか、現世では人間に生まれた。なぜか。その秘密だ。いや違います。なぜ、真面目な、エリートサラリーマンが大企業をやめて、右翼の世界に入ったか。その右翼誕生の秘密です。
「実は私も自衛隊を批判してクビになったんです。だから同志です」と田母神さんに言った。いや、そう言おうと思ったが、エレベーターで出会った時には、慌ただしくて言えなかった。じゃ、本番の時に言おうと思ったが、この時も言えなかった。皆よく喋る人たちばかりだから私のような東北人は割り込んで喋る機会はありませんがな。では、今言う。ここで言う。右翼活動家になる「出生の秘密」だ。
今から34年前のことだ。1974年(昭和49年)だ。私は産経新聞のエリートサラリーマンだった。1970年の5月に入社。販売局を振り出しに広告局に移り、4年のうちに9回も部署が変わった。「こいつは大物だ。将来産経を背負って立つ男だ。だからいろんな所を見せておこう」という配慮で、9回も変わったのだ。「なんせこの男は1人で早大ストを収拾させたのだ。左翼の過激派学生とたった1人で闘ったのだ」という〈伝説〉も流れていた。いわば「サラリーマン金太郎」だ。仕事ぶりも真面目で、それでいて読書家だ。会社の始まる2時間も前に出社し、喫茶店でモーニングサービスのパンを食べながら読書している。又、自分の信念にもとづいて、課長や部長にもズバズバと提言する。時には喧嘩する。社のOLも、出入りの広告代理店の女の子も、うっとりと見ていた。そんな、型破りな、モーレツ社員が私だった。
「今まで言っていたことと違う」と思うかもしれない。「無能で、やる気がなくて、使い物にならなくて、それで9回も社内をタライ回しにされてたんだろう」…と。それは私が意図的に流した〈謀略史観〉です。「こんなダメ社員が、右翼になったら、大活躍をした」という〈お話〉を作るために、あえて(ありもしない)「ダメ社員伝説」を作ったのです。すみませんでした。それに、東北人の謙虚さもありました。自虐史観だったのです。ただ、いつまでも、謙遜していては損だと思いました。キチンと自己を正直に話すべきだと思ったのです。だから、今、書いてるのが本当です。
このエリート社員のクニオ君はこの時、31才。「次はぜひ編集部に寄越してくれ」「いや、“夕刊フジ”にくれ」と引く手あまたでした。販売、広告を経験した上で記者になる。素晴らしい記者になれるでしょう。産経の記者から大作家になる道もある。そう司馬遼太郎のように。
給料だって一杯もらってましたよ。それに夏冬のボーナスがある。ボーナスのたびに、スーツを誂えて作ってましたね。お洒落だったんですな。女子社員も、こんなエリート社員を放っておくはずはない。よく合コンに誘われてましたな。「鈴木さん、手相見てあげる。うわー、出世するわー。将来は社長だ、って出てるわー」と言いながら、体を密着させ、乳をグイグイと押しつけてくる。フェロモン攻撃ですな。うん、この巨乳女を妻にして、都心に二階建ての家を建て、ベンツで通うか。出入りの広告代理店の女を2,3人愛人にして…。と、バラ色の夢を描いていました。
そんな時ですな。あの事件が起こったのは。
事件の発端は「陸軍記念日」です。今、初めて明かす話です。「陸軍記念日なんて旧軍の時代の話だろう」と言われるでせう。まあまあ、そう焦らないで、聞いて下さいませな。
日本が大東亜戦争に負けるまでは、あったんですな、「陸軍記念日」と「海軍記念日」というのが。祝日で、国民が大々的にお祝いしていた。
陸軍記念日は3月10日だ。日露戦争の奉天会戦の勝利を記念して祝日になった。1946年(昭和21)に廃止された。
海軍記念日は5月27日だ。1905年(明治38)の日本海海戦勝利を記念して作られた。勿論、大東亜戦争後に廃止になった。
さて、その陸軍記念日だ。1974年(昭和49)のこの日、3月10日だ。自衛隊の北海道の千歳駐屯地で「駐屯地祭り」をやった。まあ、それはいい。ところが、この「祭り」に何と、あろうことか「ストリップ」をやった。屋台が出たり、歌や芝居があるのはいいが、「ストリップ」をやったのだ。これは許せん!と私は思った。実際、その場を見たわけじゃないが、週刊誌で読んだのだ。もしかしたら、「週刊新潮」だったのかもしれない。「国を護る自衛隊でストリップをやって、うつつを抜かしている。国の誇りはどうした。許せん。反日だ!」といった記事だったと思った。それで、私らは質問状、抗議文を出した。そして、防衛庁にも抗議に行った。まだ産経新聞に勤めていた時だ。会社に行く前に、朝、防衛庁に行き、ビラをまいたり、マイクで抗議した。そして、産経に出社した。新聞社は出社時間が遅いから出来たことだ。
「ストリッパーを呼んだくらいで“反日だ”と抗議することはないだろう」と今なら思う。今なら、「いいんじゃないの、ストリップ大会をやったって」と思う。しかし、34年前のエリートサラリーマンで、真面目な私には、許せなかったんですな、そんなことが。
ストリップ大会をやったということは、外部からプロを呼んだのだろう。まさか、自衛隊内にストリッパーがいたわけじゃない。まてよ、「自衛官出身のストリッパー」という人がいたな。沢口友美さんだ。開戦直前のイラクにも抗議に行った。その後、「反戦ストリッパー」になってロフトにも出ていた。皆に慕われ、とてもいい人だったのに。数年前に亡くなってしまった。
もしかしたら、千歳駐屯地のストリップ大会に出演したのが沢口さんだったのか。どうせ自衛隊をやめて、プロのストリッパーになろうと決意していた。その前に、ここでお披露目をしてやろうか…と。
でも時代が違うか。年が合わない。じゃ、風見愛さんか。この人も年が合わない。じゃ、知らない人だろう。
「国の護りをする自衛隊が女の裸を見て喜んでいる場合か! 日本の危機をどう考えているんだ! 国賊どもめ! 非国民め! 反日め!」と怒りに燃えて私は抗議に行ったのだ。さらに、週刊誌には、駐屯地の責任者のコメントが載っていた。これを読んで、さらにカーッとなったのですよ、私は。
「陸軍記念日にこんなことをしていいんですか」という記者の質問に答えて言ったんだわ。
「私たちは平和憲法下の自衛隊です。戦前の陸軍とは全く関係ありません」
「この野郎! 許せない!」と私は思いましたね。怒りで全身がワナワナと震えましたね。
70年の三島事件の時、首相が言ったことと同じだ。「三島のクーデターの誘いにも応じなかった。平和憲法下の自衛隊になった」と。
それで、怒りの街宣になったわけだ。
1974年3月25日のことだ。陸軍記念日(そして千歳駐屯地祭り)の15日後だ。何度目かの抗議で、六本木の防衛庁に行った。「防衛庁長官を出せ!」「中曽根のアホに会わせろ!」となった。職員は慌てて鉄の扉を閉めた。「会わせないのなら、こっちから会いに行ってやる」と叫んで、高い門扉によじ登り、乱入した。カーッとなると、何をやるか分からん。恐ろしい男だ。短気な男だ。
そこで警務隊と乱闘になり、逮捕、そして赤坂警察署にぶち込まれる。4日後、出てきた時は産経新聞社はクビになっていた。そして、エリートサラリーマンは終わり。仕方なく、「右翼青年、鈴木君」が誕生したわけだ。
だから、田母神さんとは似ている。いや同じだ。「福島県郡山生まれ」が同じ。「自衛隊に抗議してクビになった」のも同じ。「落語好きで、剽軽」なのも同じ。こんなに似ている2人だ。じっくり話をしたいですな。そうだ。川本三郎さんとは「似た者同士」で朝日新書で対談させてもらった。「似た者同士対談」第二弾で田母神さんとどうだろう。あの時、編集をしてくれた椎野礼仁さん、考えて下さいましな。
そうだ。『レコンキスタ縮刷版』第1巻(1号〜100号)を見れば、この事件について詳しく出てるはずだ。そう思って調べてみた。ところが出てない。だって、この事件の1年後に、レコンは創刊されていたからだ。昭和50年(1975)8月号が創刊号だった。ただ、この創刊号の3ページに、「一水会小史」が載っていた。昭和49年3月25日、私が逮捕されたことが載っていた。ところが奇妙なことに、出所して1ヶ月後、何と又、防衛庁に行っている。「お礼参り」なのか。いや、誰かが仲介してくれたのだろう。防衛庁の幹部と会って話しているのだ。防衛庁としても疚しさを感じたのだろう。自分たちが悪いのに、「正当な抗議」に来た愛国青年を逮捕し、会社をクビにした。申し訳ないと思ったのだろう。違うかな。あるいは、あの時は、カッとなって門扉を乗り越えて捕まったが、「憂国の情」「国防論」はキチンと聞いてもらい、自衛隊に伝えたいと思ったのか。右翼の先輩がセッティングしてくれたのだろう。そんな〈歴史的会談〉が行われている。「レコン」(創刊号)にはこう出ている。
〈昭49・4・26 防衛庁抗議(3・25不当逮捕)の件について一水会代表者と防衛庁側(陸幕第一部次長、警務隊長、防衛庁職員)と面談〉
どんな話をしたかは書いてない。又、「3・25不当逮捕」と書いてるよ。いわゆる「政治的機関紙」の悪い癖だね。全ては権力が悪いと。逮捕されても、全ては「不当だ」と、つい言っちゃう。でも、あん時はこっちが違法行為をしたんだ。「正当逮捕」だよ。誰だ、「不当逮捕」なんて書いたのは。あっ、私かもしれん。
そして、この時会った防衛庁の幹部が実は何と、田母神さんだったんですよ。(となったら面白かったけど、そんなに偶然は重なりません)。