新幹線の中で前かがみになって懸命にペンを走らせている人がいる。原稿を書いてるんだ。ヘエー、偉い人だなと思った。ちょっと顔を上げた。「あっ、日野原先生!」とつい声をかけてしまった。聖路加病院名誉院長の日野原重明先生だ。たしか97才だったかな。
12月20日(土)のことだ。友人の結婚式に出るために早朝の新幹線に乗ったのだ。前日は朝まで原稿を書いていた。それなのに7時発の新幹線だ。眠い、眠い。乗ったらすぐに眠った。ところが車掌に揺り動かされた。「切符を見せて下さい」。普段温和な私も、ムッとした。「何も起こさなくてもいいだろう、バカ!」と心の中で怒鳴った。飛行機のように乗る時に切符を見せる。機械を通す。そうしたらいい。時代に後れてる奴らだよ、こいつらは。
大体、東京駅に入る前に新幹線の切符を機械に通す。その時点でこの人はどの新幹線の何号車に乗るのか分かる。それでいいだろう。実際、東北新幹線は、その記録が瞬時に車掌のパソコンにつながる。だから、いちいち「切符を見せて下さい」なんて来ない。これは本当の話だ。東北新幹線の車掌さんから聞いた。乗客の中には間違って、他のシートに座っている人もいる。それも車掌のパソコンで分かる。その時は、「そこじゃないですよ」と優しく知らせてあげる。
東北新幹線で出来ることがなぜ他では出来ないのだ。愚かな連中だ。大体、車掌なんていらねーよ。必要なら、シート脇のボタンを押せばいい。チケットを見せたいなら、そこにかざせばいい。文明化した日本において、唯一、石器時代が残っている。それが新幹線の車掌だよ。プンプン。
結婚式だって、この忙しい年末にやることはないだろう。それに、この日は松岡正剛さんの「連塾」がある。午後1時から8時までだ。いとうせいこう(作家)、藤原新也(写真家・作家)、川崎和男(デザイン・ディレクター)の3人が出る。3人が正剛さんとトークする。スライドを使い、パソコンを使い、トークする。「知の格闘技」だ。会費3万円の超高い講演会だが、いつも超満員だ。私も楽しみにしている。たとえ5万円、10万円でも安い。それだけの内容がある。日本でいちばん、スリリングで、知的刺激にあふれた講演会だ。うーん、もっともっと勉強しよう。本を読もう。という気になる。
それなのに神戸で結婚式だ。「いけねえよ」と言った。でも、どうしても来てほしか、と神戸弁で言う。「じゃ、次に行くよ。次は必ず行くから。それでいいだろう」と言ったら、「次なんて、ありません!」と言われた。
そんなこんなで、ブツブツ言いながら、不満タラちゃんで新幹線に乗ったのだ。そして、トイレに行く時に、日野原先生に会ったのだ。
「先生はハイジャックに遭われたんですよね。よど号の」と聞いた。1970年3月の「よど号ハイジャック事件」の人質(乗客)だったのだ。それまでは体が弱くて、「60までしか生きられない」と医者に言われていた。ところが、ハイジャックに遭って、「死ぬかもしれない」と思った。そして助かった。死線を越えた。じゃ、あとは「おまけ」だ、と思った。そう思ったら急に元気になって、90過ぎまで生きた。今も毎日のように全国を飛び回っている。そのことを本で読んで、感動した。
「あの話は感動しました」と言ったら、「そうですよ」と言う。「あとは附録だと思ったら、アクセクしない。元気で長生きできた。それにね、あれ以来、全てに感謝できるようになったんです」。エッ、そうなのか。私なんて、朝早いと文句言い、眠ってるとこを起こされたといっては車掌を恨み。いかんなー。心が狭い。これじゃ長生きできん。60までは生きられん。
「あそこで死んだと思えば、そのあとは感謝、感謝ですよ。何にでも有りがたい、と感謝できるんですね。そして元気で、長生きできるんです」と先生。
ウーン、そうなのか。「そういえば、人質になった人は皆、長生きですよね」と私は言った。「犯人側」は赤軍派の9人だ。まだ20代の若い学生だ。17才の高校生までいた(柴田氏だ)。ところが、9人のうち4人はすでに死んでいる。又、日航機「よど号」の石田機長は、最初こそ「英雄」扱いだったが、マスコミに追っかけられる中で、愛人の存在も発覚し、「堕ちた英雄」になり、会社を終われ、病気になり死んでしまった。人質の「身代り」を志願した山村運輸政務次官も死んだ。それも、何10年か後に、北朝鮮に行こうとして、その前夜に娘に殺されたのだ。「これは日朝国交回復を阻止する米帝の仕組んだ陰謀だ」と言う人もいた。塩見さんだ。アメリカは、いつでも陰謀ばかりやってるんだ。パールハーバーを日本に攻撃させて戦争の口実を作ったり、東京裁判を演出したり。
まあ、山村さんの死はミステリアスな事件だが、娘は精神のバランスを崩して入院していた。帰ってきた夜の凶行だった。別にアメリカの陰謀ではないだろう。でも陰謀好きな人は言う。「いや、入院中にマインドコントロールされたんだ。帰ったら父親を殺すように脳の手術をされた」。そんなことはない。そんなことが出来るのなら、簡単にテロリストを作れる。どんどん、テロリストはを量産し、政治家を殺す。再び「一人一殺」の時代だよ。そして、殺した瞬間に、全ての記憶を忘れる。解除されるようにプログラムされているのだ。命令者は分からない。私の名前も出ない。完全犯罪だ。そんなことが出来たら、素晴らしい。でも、今はまだ出来ない。
そうだ。「よど号」の話だ。犯人は9人のうち4人が死んだ。機長も「身代り」政務次官も死んだ。(そうそう、「男、山村新治郎」というレコードまで出たんだよな。凄いね)。犯人側や機長などはどんどん死んだが、不思議なことに「人質」は誰も死んでない。全員、長生きだ。一度、「死んだ」人は、もう二度と死なないのか。あの事件を回顧する番組がテレビでやる。たまにやる。スチュワーデスが出る。当時20代だから、今は60過ぎのはずだ。でも今も、「20代」のままだ。アンチエージングだ。お肌もつやつやしている。「死の恐怖」を味わった人は、若いのだ。乗客も皆、若い。あの時のままだ。
じゃ、「よど号」グループは「人助け」をしたんじゃないか。いい人じゃないか。無罪にして、日本に帰したらいい。「長寿社会大臣」になってもらったらいい。
私は、これで「人質」に2人会った。5年ほど前、ロフトの客で、「私は人質でした。小学生でした」という人に会った。今は、地方の新聞社に勤めている。ともかく怖かったという。自衛隊機や米軍機に撃ち落とされるんじゃないかと思ったらしい。そんな怖い目にあったので、その子供も、スクスク育ち、立派に大人になった。もう死なない。うらやましい。私もハイジャックに遭ってみたい。そうしたら「不老不死の薬」を得たようなものだ。でも、ハイジャックに遭ったら、すぐ感動して、「偉いですね。お手伝いしましょう」なんて言いかねないな。この男は。乗客を縛るのを手伝ったり、見張りをしたり。そうしたら、「共犯」で刑務所行きだ。困るなー。
「ドストエフスキーの本を差し入れされたんですよね」と日野原さんに聞いた。人質も退屈だろうからと、犯人たちは、持ってきた文庫本を配ったそうな。優しい犯人たちだ。そこまで配慮して、「備品」を準備したのか。あれっ、「差し入れ」も変だな。普通、差し入れといったら、外にいる普通の人が、刑務所にいる犯人に本などを入れる。じゃ、犯人側が渡すのは、「逆差し入れ」かな。
でも、人質は退屈はしてなかったと思うよ。ハラハラ、ドキドキして、緊張感を楽しんでたと思うよ。なかなか体験できることではない。時代は1970年だ。学生への信頼も厚い。「学生さんだから変なことはしないだろう」と思っている。この人たちは私たちを巻き添えにして死ぬことはない。そう思っている。むしろ、米軍や自衛隊の方を怖がっている。犯人もろとも人質も殺すのではないか、と思っている。犯人も自分たちも一蓮托生だ。「仲間」だ。「同志」だ。そういう〈一体感〉すら生まれる。
日野原さんに「差し入れ」されたのは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だった。長い小説だ。でも、マルクスやレーニン、トロッキーではなく、ドストエフスキーだった、というのがいい。
「しかし、彼らは読んでなかったでしょう。ドストエフスキーをきちんと読んでたら、こんなことは出来ませんよ」と日野原先生。ウーン、そうか。
「明日、田中義三さんの三回忌があるので、そのことを報告します」と言った。「そうですか、田中さんの三回忌ですか。よろしく言って下さい」と言う。田中さんは、「よど号、ハイジャックの時、日本刀を携えて警備していたんだ。「よど号」は羽田を飛び立ち、一路、ピョンヤンを目指すが、一度、福岡に降りる。給油のためだ。そこで、女性や子供は解放される。ロフトで会った新聞記者も子供だったので、ここで降ろされた。(その後、謀略で韓国に降ろされ、足止めされるが、最後には北朝鮮に行った)。
その時、女性たちがタラップを下りて、こちらに駆けてくる。そんな写真があった。有名な写真だ。『戦後50年』(毎日新聞社)にあったので載せよう。その時、タラップの上で日本刀を持って、立っているのが田中義三さんだ。格好いい。その写真を三島由紀夫が見て、「日本刀による決起がいい!」と絶讃した。そして8ヶ月後、三島も「日本刀による決起」をし、自決する。もし、田中さんの写真を見なかったら、三島事件はなかった。いや、全く違ったものになっていた。自衛隊の弾薬庫を襲って、射殺されるとか。そんな展開になったかもしれない。
田中さんが三島を突き動かして、決起させたのだ。ハイジャックについては私は、田中さんと何度も何度も話した。『カラマーゾフの兄弟』の差し入れについても聞いてみた。他にどんな本を「差し入れ」したのか。乗客の様子はどうだったのか。それを聞いたら、田中さんは、「それは分かりません」と言う。エッ?ハイジャッカーなのに?
「だって、僕は客室係じゃなかったから」。あらあら、ホテルのボーイのようなことを言うよ。客室で「人質」を扱う係。操縦席に入る係、警備する係。…と、いろいろ役割分担があったんだ。田中さんは福岡で人質を解放する時、タラップの上で見張る係だったんだ。
そこで又、日野原さんの話だ。新神戸で一緒に降りた。少し離れた所に女性が2人いて、近寄ってきてカバンを持つ。秘書の人だ。原稿書きの邪魔にならないよう、少し離れた所に座っている。心憎い気配りだ。
「これから神戸で講演会なんですよ。一緒にいらっしゃいませんか」と秘書の方が言う。「じゃ、行きます」と言おうと思ったが、結婚式がある。残念だけど、別れた。日野原さんは驚いたことにエスカレーターなんかに乗らない。階段を元気に下りる。「お元気ですね」と言った。「ぜひ、又、お話を聞かせて下さい」とお願いした。実は、月刊『論座』(朝日新聞社)に対談させてくれと頼んでいた。話は進んでいた。でも、『論座』は潰れてしもうた。どっかで、やってくれんかな。頼んます。
新神戸で下りて、私はタクシーで結婚式場へ行く。11時半から始まる。1時半に終わる予定だが、終わらん。「すみません。途中ですが」と中座した。「政治家みたいだね」と隣りの人に冷やかされた。でも、2時の新幹線なんだし。そんで5時に東京に着いて、6時から赤坂の火鍋屋さんで姜尚中さんの忘年会に出る。姜尚中さんの女性ファンが何百人と集まって大々的な忘年会をやるのかと思ったら、姜さんを囲んで、5人だけの会だ。贅沢な忘年会だ。申し訳ない。久しぶりに姜さんと会い、いろんなことを話し合った。教えられることが多い。
「写真を撮りましょう」と言ったら、「じゃ、握手しましょう」と姜さん。まるで政治家みたいだな。会う早々、「来年はどんな年になりますか?」と聞かれた。メルマガの「マガジン9条」でも同じことを聞かれた。「清貧の時代になりますよ」と答えた。このあとは、「マガジン9条」を見て下さい。http://www.magazine9.jpをクリックすると、すぐにリンクします。飛びます。ジャンプします。
それから、又、「よど号」の話になった。「人質」の日野原さんに今日、会ったんですよと興奮して話した。話しながら気が付いた。「あっ! 姜さんは田中義三さんの妹さんと同級生だったんですよね」。「そうです。熊本です。よく知ってますよ」。明日、田中義三さんの三回忌なんですよ。と言ったら、「じゃ、よろしくお伝え下さい」。明日は、日野原さんと姜さんの話を田中さんにしなくっちゃ。
姜さんとは9時半までお酒を飲み、楽しくお話をしました。日本論、天皇論、左翼論などを話した。こんな少人数で話を聞くのは勿体なかった。
それから原宿に行く。松岡正剛さんの「連塾」は午後1時から8時まで。その後、二次会をやる。それだけでも出ようと思った。「連塾」の今回のテーマは「JAPAN DEEP2」。川崎和男(デザイン・ディレクター)、いとうせいこう(作家)、藤原新也(写真家、作家)、そして松岡正剛さん。「浄土に焦(こ)がれて、羅刹(らせつ)に遊ぶ」と謳っている。二次会も超満員だった。藤原新也さんの写真集は買ってよく読んでいた。挨拶した。いとうせいこうさんも初めてだ。挨拶したら、「やあ、鈴木さん久しぶり」と言われた。「あの時のシンポジウムは楽しかったね」と言われた。そうですね、と言いながら、記憶を検索した。頭の中のパソコンがうまく働かない。ドット来むしてこん。
『女装の日本史』(講談社現代新書)を書いた三橋順子さんも来てたので挨拶した。「面白かったです。教えられました。河合塾コスモでテキストにして読書会をしました」と言ったら喜んでいた。「鈴木さん達にこそ読んでもらいたいと思ったんです」。ありがたいです。
終わったのが10時40分。そうだ、渋谷で岸田秀さんの忘年会をやってるんだ。二次会は11時まで続いてるそうだ。とても出れないと思って「欠席」の返事をしたが、もしかしたら、まだいるかもしれん。そう思って行ったら、おりました。岸田先生も喜んでくれた。和光大は定年で辞め、その後は、どこの大学にも行かない。家で本を書いている。いつも本を送ってもらっている。申し訳ない。教え子が一杯いた。女性も多い。女性が先生に抱きついている。「オッパイ、もんで」とねだっている。「よしよし」と先生はもむ。ゲッ!と驚愕した。でも、セクハラではない。生徒が望み、先生が(いやいや)、応じているのだ。うらやましい。「じゃ、僕も」なんて言ったら、きっと「セクハラだ!」と怒鳴られるんだろうな。ズルイ! そんで、ただ、指をくわえて見てました。「チチも幻想ですよ」と岸田先生はおっしゃっていた。さすが「唯幻想論」の先生だ。感動しました。
オワリ。じゃ、いいお年を。今年はお世話さまでした。年末年始は必死で原稿を書かなくっちゃ。仕事が遅れてる。焦る。
そうだ。翌日、12月21日(日)のことも少し報告しなくっちゃ。田中義三さんの三回忌だ。12時からだ。その前に、上田哲さん(元社会党議員)の葬儀が11時からあったので行ってきた。自宅だ。若い時の写真も沢山あった。凄い仕事をした人だ。何とも残念だ。上田さんのこともきちん書かなくちゃ。
それから遅れて田中義三さんの三回忌に。驚いたことにお墓の向かいは遠藤誠弁護士だった。こんな偶然があるのか。遠藤先生は帝銀事件の弁護士で、極左だ。でもとてもいい人で、本当にお世話になった。「右翼や左翼じゃない。要は人間だよ」と私が達観するキッカケを与えてくれた人だ。
そのあと、近くのおそば屋さんに行く。店内に書道の賞状が掛けられている。龍馬君というんだ。凄い名前だね、と叫んだら、「僕です」と、そばでソバを運んでいた少年が言う。じゃ、兄弟は隆盛、晋作、篤姫か。「いえ、一人っ子です」。お父さんは明治維新が好きなんだね。「いえ、ただの競馬好きです」。
「鈴木さん司会をやって下さいよ」と田中さんの奥さんに言われ司会をする。でも酒が入り、うるさい。勝手に各自で喋っている。分派活動をしている。「静粛に!」と言おうとして、「粛清!」と言ってしまった。私の頭の中は、もう赤軍モードよ。「朱に交われば赤くなる」という諺はこれだったんだね。
「では皆さん、田中さんの思い出を。それに今年の総括を」と言った。私も、日野原さん、姜さんに聞いた話を紹介した。「よど号グループは人助けをした」という話はウケた。皆、田中さんの思い出を語った。田中さんはここで聞いているだろう。弁護士さんも来ていた。私は頼まれて、田中さんの裁判で証言した。こんな立派な人を長期間、刑務所に入れるなんて、“国家の損失”だ、と言った。愚かな国家だ。勿体ない。そう言ったら、隣りの、赤軍崩れのオッさんが、「チクショー、復讐してやる」と呟いていた。
オワリ。ではよいお年を。
②その三島に続いて決起しようとしてるのが鳥肌実です。九段会館を一週間も満員にしました。私も、「玉砕」Tシャツと竹槍ストラップを買いました。12月18日(木)の夜ですね。終わって、いろいろとお話をしました。写真を撮ったので、「携帯の“待ち伏せ”に使います」と言いました。「待ち受け」じゃないの。「待ち伏せ」は鈴木さんたちが左翼を襲って、埋めた時の話でしょう、と言われた。そうか。「待ち伏せ」も、しばらくやってないな。きっと腕も落ちただろうな。トレーニングしなくっちゃ。
12月18日(木)は、昼は「ザ・ニュース・ペーパー」の公演に行ったんだ。麻生、オバマ、小泉の真似をして、急にブレイク、毎日、テレビに出ているよ。結成20周年にして…。よかった、よかった。おめでとうございます。