電話がかかってきた。「まさか!」と思った。でもタクシーに飛び乗った。病院に駆けつけた。病室のドアを開けた。いた!本当だった。見沢知廉、本人だった。
「やぁ、邦さん。迷惑かけてすみませんでした。足を折っちゃって」とのんびりした口調で見沢氏は言う。
「てっきり、死んだと思っていたよ。マンションの8階から飛び降りたんだろう」
「でも奇跡的に助かって…。窪塚洋介の場合と同じですよ」と言う。そうか。窪塚もマンションの8階から飛び降りたが、途中の木にぶつかったりして助かった。
「あの時は、夕陽がヤケにきれいだったんですよ。不思議にスピリチュアルな力が全身に漲ってきたんです。何でも出来る。今なら、空も飛べると思ったんです。この時を逃したら、もう出来ないと思ったんです」としみじみと述懐する。
しかし、それにしても、よく助かったもんだ。まてよ、新聞も、「見沢氏自殺!」と出ていたぞ。あれはどうなんだ。「夕刊フジ」なんか1面トップ記事で出ていた。
「そうなんです。これには色々と事情もあって…。死んだことにしてたんです」
そんな馬鹿な!こうして生きてるじゃないか。足を骨折し、ギブスをはめている。でも、生きている。万々歳じゃないか。
「借金取りもくるし、ヤバイ事件にも首を突っ込んいでるんで、しばらく身を隠しておこうと思ったんですよ。心身共に健康になったら、又、復帰します。それまでは誰にも一切喋っちゃダメですよ。アッ、写真なんか撮っちゃマズイですよ!」
でも病人だから静止できない。パチャパチャと2枚撮った。時間が経ったので、もう写真を発表してもいいだろう。その「衝撃の写真」を載せる。見沢知廉氏は生きていた!どうだ。見沢氏よ。発表したんだから、もう諦めて姿を見せろよ。そして、又、小説を書いてくれよ。(「写真撮っちゃダメ!」と言いながら、瞬間的に「ピース」してるよ。天性の役者だ)。
病院で会ったのは何年前だったろう。「自殺」と報じられたのが4年前だ。その「自殺」から半年位後だと思う。私も見沢氏の懇願を受け入れて、「天才作家は死んだ」と何度も書いた。何十というマスコミの取材にも、そう答えた。「実は生きている。骨折しただけで。その写真もある」と何度言おうと思ったか分からない。でも一切、書かなかった。口にも出さない。耐えた。なんせ、私は秘密を守ることにかけては「プロ」だ。他には何の取り柄もないが、それだけは自慢だ。赤報隊事件も、それからコールド・ケース(未解決事件)のあの事件も、この事件も…。私だけが知っている。
だから見沢氏も、その点を信用してくれて私だけを病院に呼んでくれたのだ。奇跡的に命は助かったが、重傷には違いない。全身ギブスで身動きも出来ない。「足には何本もボトルが入ってるんですよ」と言う。エッ?酒のボトルが入ってんの? それとも鎮痛剤をボトルごと入れてんの? と聞いたら、付き添いの看護婦さんが、「いやーねー。ボトルじゃありません。ボルトですよ」。
そうだろうな。ビックリしたよ。
「のんびりして、ともかく体を治せよ。せっかく、それだけの才能があり、又、何万人が集まっても出来ないような体験を持ってるんだし」と言った。「そうですね。エッセイや、対談などをやって、体を慣らして行きますよ。それからですね」と本年もやる気満々だ。
それから1時間もいただろうか。病院から帰った。「くれぐれも、このことは秘密に」と見沢氏は念を押す。大丈夫だよ、と答えた。
ところが変なんだ。その後、用事があって電話をしたら、何度かけても通じない。思い切って病院に行ってみたが、そんな人は入院していないという。過去、一度も入院したことはないという。
「じゃ、この写真は何なんですか。ここの病院の病室でしょう?」と見せた。「病室はどこも同じでしょう」と言う。マズイな。証拠がない。でも写真はあるし、行った日付も覚えている。
さらに不思議なことに気づいた。この「証拠」写真にはネガがないのだ。その前後は、ネガはある。しかし、この2枚だけ、ネガはない。「ひょっとして?」と思った。最近、私はメタボが治り、身体がひきしまってきた。肉体だけでなく、精神的にも「贅肉」が取れてきた。体がとても、スピリチュアルになってきた。澄んできた。だから、「あの能力」が生まれたのか。いや、「帰ってきた」のか。
試しに台所に行ってスプーンを手にとって、数十秒、念じた。グニャリと曲がった。やはり、そうだ。「あのパワー」が戻ってきたんだ。これじゃ、「念写」だって出来るよな、と思った。今まで「封印」してきた自分のパワーだ。それが復活した。嬉しいというよりも、怖い。
「スプーン曲げ」の写真も紹介しよう。第三者の立会人がいた方がいい。学校に行った時、生徒の前でやってみせた。写真を撮ってもらった。上下にポキリと折るのは簡単だ。だから、難易度の高い、「横ねじり」に挑戦した。念じた。グググーっと、スプーンの頭が曲がる。それにつれて徐々に、その下の胴も曲る。「エエー!」とか、「キャー!」とかいう声が聞こえる。「どうだ、私を見直したか」「尊敬したか」と思ったら、「気持ち悪い」「こわーい」といって、皆、逃げ去ってしまった。何をやっても人気がないんだ、こいつは。不幸な奴だ。
そうだ。母親も、こうした現象に興味があったんだ。能力もあった。私が病気で寝ていると、「手のひら療法」で、どんな病気も一瞬にして治してくれた。手を当てるだけで治る。そのことを思い出した。これは母の遺伝だ。母が生長の家に入ったのも、「心霊現象」に関心があり、そこから進んだのかもしれない。あるいは逆かな。「生長の家」を知って病気が治った。そのあとに、いろんな「心霊現象」にも興味を持つようになったのだろう。「ここ仙台には福来博士というとても偉い先生がいるんだよ」とよく言っていた。中学、高校の時だから、僕には全く分からない。「福来(ふくらい)博士」って何だろう。科学者か、医者か。名前も変わっている。
仙台には、福来研究所があり、そこで、いろんな集会も開かれていた。「福来博士」の名を本で実際に目にするのは、それから何十年か経ってからだ。「千里眼」「透視」「念写」などの「心霊現象」「超常現象」を、日本で初めて「科学」として公認した人なのだ。いや、公認できたと思ったんだ。大きな社会問題になり、これは「科学ではない」とされて、東大を追われた。そして仙台に来て、福来研究所をつくる。又、生まれ故郷の飛騨にも、記念館がある。歴史上の人物を「念写」した写真や、月の裏側を「念写」したものもある。特に、月の裏側など見ることの出来なかった時代だ。それが、今では月に行けるようになり、写真も撮れる。そして、「念写」の写真と全く同じことが分かった。一躍、福来博士の名が轟いた。
では、福来友吉博士の略歴をざっと紹介しよう。これだけ有名な人だから、大きな辞書なら載ってるはずだ。『辞林21』(三省堂)を引く。載ってない。エッ? 変だな。よし、これだったら載ってるだろうと、『広辞苑』第6版(岩波書店)を引く。ところが、これにも載ってない。おいおい、と思った。そーか、あれがあったな、と思った。こういう時には絶対に便利な本だ。『民間学辞典・人名編』(三省堂)だ。これだけは、どこの電子辞書にも入ってない。この本の帯には「在野の学をひらき、伝えた『民間学者』960名を収録!」とある。凄い。暮らしの学、歩き旅する学、異端の学、こころの学、など「国家の学」「アカデミズム」に入らない民間学者を取り上げている。うたごえ運動、反戦運動、左翼、右翼も入っている。「異端」であり、「こころの学」であり、「癒しの学」なのだろう。赤尾敏、里見岸雄、葦津珍彦、谷口雅春など右翼・宗教運動・思想家も出ている。これは空前絶後の本だ。『民間学辞典』は「人名編」と「事項編」の2冊ある。各々7600円だ。2冊で1万5千円ほどだが、これは100万円以上の価値がある。騙されたと思って買ってみたらいい。その凄さが分かる。
では、『民間学辞典』に描かれた「福来友吉(ふくらい・ともきち)」だ。変わった名前だ。縁起のいい名前だ。「福が来る」なんて。そして「友」も来るんだ。でも、その人生は波乱に満ちた激動の生涯だった。この項を書いたのは、津城寛文さんだ。
〈福来友吉 1869(明治2)〜1952(昭和27)。心理学者・心霊研究家。飛騨高山に生まれる。仙台の二高から東京帝国大学哲学科にすすみ心理学を専攻。催眠術ブーム、神通力ブームのなかで、催眠を「変態心理学」(現在でいう異常心理学)の一環として研究、1906年(明治39)には「催眠の心理学的研究」により文学博士号を授与された〉
そうか、心理学、催眠学の研究で博士号をもらったのか。東大の先生だし、日本のフロイトになれた人だ。仙台二高から東大、そこで博士号だ。まさに「国家の学」「アカデミズムの権威」ではないか。それが何故、〈民間学〉になったのか。それは、自分の学問を、もっともっと世間に知らせたいと思い、奇抜な実験をやったからだ。それが、「東大の先生らしくない」と思われた。又、全国の「心霊学者」「超能力者」は、福来博士の「お墨付き」が欲しくて、自ら、「実験台」になる。今だって、いろんな小説や映画に「千里眼」が取り上げられている。その時、必ず東大の先生が出てくる。全て、この福来博士がモデルだ。
「飛騨高山に生まれ」と書いている。そうか。だから、そこに記念館があるんだ。かなり前、河合塾コスモの合宿で飛騨高山の白川郷を見に行った。その帰り、トボトボと歩いていたら、この記念館があった。「あっ、母親がいってた先生だな」と思って入った。透視、千里眼、念写の「証拠写真」が所狭しと貼られていた。一体、これは何だと思った。元々の民間人なら、「トンデモ本の人か」で済ませる。でも東大の先生だ。じゃ、これは「科学」なんだろうか。頭が混乱した。分からなかった。
福来は、仙台に移り、二高に入る。私が受験して落ちた二高と違い、旧制二高だろう。今の東北大学だ。東大を追われてからも仙台に帰ってきたのか。だから、仙台市に福来研究所があるのだろう。私たち家族が仙台に移ったのは中学3年の時だ。16才だ。昭和34年だ。その時はもう博士は亡くなっていた。研究所だけはあり、母はそこに行ったのだろう。好奇心の強い人だ。
でも意外だったな。私はずっと、こう思っていた。私らが仙台に移り住んで、母はよく福来研究所に行き、先生の教えを受けたのだと。だから、「福来先生という立派な人がいるんだよ」と教えてくれたのだと。謎だった。でも、実際には、この時はもう博士は亡くなっていた。母にキチンと聞いておけばよかった。博士のことも、もっと調べてみよう。
さて、『民間学辞典』に載っている福来博士の記述だ。続きだ。東大で博士号を取り、いよいよ、「フィールドワーク」に打って出るのだ。
〈1910年(明治43)から翌年にかけて、千里眼能力をもった二人の女性を被験者として、錚々たる学者の立ちあいのもと、数度の透視実験をおこない、新聞で大評判となったが、学界では中傷と醜聞を引きおこした。13年(大正2)、その後の新たな実験もくわえた著書『透視と念写』を刊行した。この著書が問題となって、福来は東京帝国大学助教授を辞任することになる〉
東大助教授だったのか。東大の先生というから、てっきり教授だと思っていた。でも、勇気のある人だ。「知行合一」の人だ。知ったのなら行うべきだ。疑問を持ったら調べるべきだ。その結果は厳粛に受け入れるべきだ。それが学問だ。と思った。ところが東大の同僚からは、バカにされる。「こんなのが学問か!」と。「東大の権威が落ちる。お前は利用されてるだけだ!」と。
今だったらどうだろう。かえって、「サブカルの寵児」として、テレビで人気沸騰だろう。その点、生まれた時代が悪かったのか。又、福来博士も、あまりに真面目すぎたのだろう。では、「その後」はどうなったのか。
〈そののち高野山での修行や四国遍路も実践し、26年には高野山大学教授となる。28年(昭和3)にはロンドンで念写実験をおこない、30年、三田光一を被験者とする念写実験をおこなう。31年には英語版『透視と念写』刊行。32年、それまでの全研究を仏教的立場からまとめた『心霊と神秘世界』を刊行した。〉
うーん、どんどんと宗教的世界に入り込み、宗教家になってしまうのだ。これは惜しい。あくまでも「学問」「科学」の立場から、千里眼、念写を研究してほしかったと思う。
さて、福来博士の話も終わりだ。福来博士から私の母へ。そして私へ。「念写」は引き継がれたのだ。だから、普段はボーッとしているが、ここ一発の時にはこうして、「念写」が出来る。見沢知廉氏の「念写」が出来る。
皆の夢を砕くようで申し訳ないが、やはり見沢知廉氏は死んだのだろう。私は葬式にも行った。火葬場にも行った。しかし、顔は見なかった。骨も拾わなかった。「死を確認」したくなかったのだ。「いや、本当は生きている」「これは嘘だ」と思いたかった。それから、ずっと、そう思ってきた。自分に信じさせようとした。その「念」が、この奇跡的な「念写」を生んだのだ。死んだんじゃない。骨折しただけだ。病院にいるよ…と。その念の強さがこの写真を写させた。
見沢知廉は、今も生きている。そう思ってる人もいるだろう。こんな「念写」は他にも出てくるだろう。「見沢伝説」だ。今年は、「劇団再生」で、新たな見沢伝説に挑戦するという。本当に、見沢氏は「降臨」するのかもしれない。「念写じゃないよ。本当に病院に来て写真を撮ったんじゃないか。おかげで、ほら、こんなに元気だよ」と。颯爽と見沢氏が登場するかもしれない。そうなることを最も願っているのがこの私だ。