この本には驚きましたね。活字が大きい。行間もあいている。余白も結構ある。読みやすい。これなら一気に読める。それに、「読書論」だ。「本を読むのは楽しい。みんな、読もうよ」と言ってるのだ。結論の分かってる推理小説を読むようなものだ。30分位で読めるだろう。そう思って、ロイホ(ロイヤルホスト)に行った。
ところが、ところが。凄い本だった。内容の濃い本だった。考えさせられた。これは、わざと活字を大きくし、行間をあけていたのだ。ちょっと「隙」を見せてるのだ。誘いだ。すぐ読めるさ、と思って、食いつくと、ウワーッと叫んで、この世界から逃げられなくなる。濃密な、高度な本だ。でも、読みやすい。3時間位かかった。でも、一気に読んだ。こんな充実した読書時間を持ったなんて、久しぶりだ。
剣豪が初めからピタリと刀を構え、一分のスキもない。これでは誰も、かかって行かない。初めから強いのは分かってる。打ちかかるスキはない。
でも、この本は違う。パラパラと頁をめくる。読みやすそうだ。スキだらけだ。表紙を見てほしい。畳の上で、ゴロリと横になって本を読んでいる。著者の牧野剛先生は、いつもこうして本を読んでいる。まるで、「ゴロニャン読書術」だ。「猫でも読める読書術」だ。それが、〈誘い〉なんですよ。「じゃ、私だって」と思って、横になって読んでみる。ヒャー、凄い。こんな本、初めて読んだよ。と思って、飛び上がるよ。そして正座して読んじゃうよ。あるいは机に向かって読んじゃうよ。
2月26日(木)、河合塾コスモの「現代文要約」の時間に、生徒にこの本を紹介した。「1500円だが、皆、買いなさい。本の読み方が分かります。勉強の仕方も分かります。どこの大学だって受かります。読んで、つまらなかったと言う人には私が1500円を返します。いえ、倍にして返します。それだけ自信を持って断言できる本です」と言った。授業で、要約してる時に、「先生、見せて下さい」と言って、生徒が隣りに座ってこの本を読んでいる。ちょっとでも読み始めたら、最後、もう離れられない。逃げられない。授業が終わるまで生徒は読みふけっていた。10代の生徒をとらえて放さない。魔力だ。そんな魔力を持った本を、私はまだ書いたことがない。本に嫉妬した。
「こんな本、初めて読みました。これから紀伊国屋に行って買います」と生徒は言っていた。この本は、2月25日、発売だ。私のところには、その前に3冊送られてきた。1冊は自分が線を引いて読んだ。1冊は、書評をしてもらおうと、友人にあげた。
26日(木)、河合塾コスモの授業の日なので、学校に行った。牧野先生に会ったので、「素晴らしい本ですね。私なんて、未熟だと思い、打ちひしがれました」と言った。正直な感想だ。「えっ、本が出たの?見して」と言う。だから、3冊のうちの残った1冊をお貸しした。そしたら、ずーっと読んでいる。著者だから当然、送られてきている。でも、超多忙な先生だから名古屋の家に帰っとらん。全国の河合塾で講義している。それで、26日に初めて目にした。「ほう活字が大きいね。余裕をもって組んでるね」と言って、本人は読んでいる。それから、ずーっと読みふけっている。よほど、面白いのだろう。私なんて、こんな体験はない。自分の本を自分で読みふける。時間を忘れて没頭する。そんな本を書いてみたいね。本に嫉妬した。こんな本を書ける著者に嫉妬した。
「家に帰ったら、送ってきてると思うけど」と言いながら、ずーっと読んでいる。「返して」とも言えなくて、「先生、それ、あげますよ」と言った。変な話だよね。本を、その著者にプレゼントしたのだ。「悪いね。こっちから、あげなくちゃならんのに」と言っていた。こんな奇妙なプレゼントしたのは、世界で私だけだろう。これも歴史です。感動です。
3時から、「現代文要約」の授業で、5時からは「基礎教養ゼミ」だ。読書するゼミだ。今週は牧野先生が担当で、別の本を用意してきた。ところが、私から、自分の著書をもらった。読んでみたら面白い。凄い。「じゃ、今日はこれにしよう」と急遽、変えて、この本の前半をコピーして、皆で読んだ。予期せぬ展開になった。
そうだ。なぜ私に事前に3冊、送られてきたかだ。その話をしなくては。実は、この本を作ることを勧めたのは私です。半年ほど前だったかな。株式会社メディアックスの社長と会った。月刊誌を沢山出している人で、やり手の人だ。いくつもの出版社を持っている。「鈴木さんの本を出しましょう」と言う。何人かと対談し、それを出す、という。「ありがたい。お願いします」と言った。その人は、駿台予備校の表三郎さんに昔、習っていたという。「日本のマルクス」と呼ばれる凄い先生だ。「でも、河合塾には牧野剛という、もっと凄い先生がいますよ」と私は自慢した。社長も知っていた。「そうだ、牧野先生に、読書法を書いてもらったらいいのに」と私が言った。それが、キッカケだ。
でも、牧野先生は忙しい。全国の河合塾を駆け回っている。じゃ、編集者に付いて行ってもらい、新幹線の中で喋ってもらい、それをテープに録って本にしたら。と言った。でも、「忙しいから無理だ」と断わられると思った。ところが、牧野先生は、「うん、やってもいいかな」と言う。そして、9月か10月頃、そこのカメラマンが来た。表紙のための撮影だという。畳の上で、ゴロニャンと寝て、そこを撮っている。えっ、これが表紙なの?と私は驚いた。
その本がこれなんですよ。私が「計画者」だ。だから発売前に3冊、送られてきた。その1冊を、著者本人にプレゼントした。奇妙な展開だ。ところで、私の対談本の話だ。そちらは、ボツになった。「ペッ、右翼となんか対談したくねえよ」と皆、断わったのだろう。私は、人徳がない。仕方ないさ。右翼の〈原罪〉だ。でも、ちっとも残念じゃない。恨んでない。だって、こんないい本が出来たんだもん。皆さんも読んでみんしゃい。人生観が変わるよ。世界が変わって見えるよ。「つまんなかった。金返せ」という人がいたら、私が、本当に返してやります。二倍返し、三倍返しをします。それだけ自信を持って、お勧め出来る本です。
牧野先生は、いろんな人と知り合いだ。昔は新左翼の過激な運動をしてたから、左翼の人は皆、友達だ。それ以外にも、学者、評論家に知り合いが多い。網野善彦、廣松渉、呉智英、と、実に多い。その人たちの本を紹介し、さらに、人物論も書いている。なぜ、この人はこんな研究をするようになったのか、と。実に面白い。それに、牧野先生自らの「読書人生」が、子供の時から語られる。高校生の時に、「一日一冊読もうと決心した」という。凄いやね。私なんて、産経新聞に入ってからだよ、「月30冊のノルマ」を決めたのは。それなのに、牧野先生は高校生の時にノルマを決めたのか。それに、マンガ、雑誌、週刊誌などは「1冊」に入れない。これも私と同じだ。さらに、「推理小説」も「1冊」に入れないという。推理小説を読みたいのなら、本来の「読書ノルマ」を果たしてから、「自分へのごほうび」として、いくらでも読んだらいいという。
これは驚いた。ストイックだ。私は推理小説、探偵小説も「1冊」に入れている。昔、落ち込んでいた時、かたい本が読めないで、横溝正史や森村誠一ばかり読んでノルマを達成していたことがある。さらに、恥ずかしいことに、西村京太郎なども読んで、「1冊」にしていた。ごめんなさい。牧野先生の「読書道」から見たら、私なんて邪道だ。すんません。そうだ。「推理小説は“1冊”として認めるかどうか」をめぐって、対談してもいいな。でも、すぐに論破されそうだ。やめた。
牧野先生は予備校界のカリスマ講師だ。この本の帯にはこう書かれている。
〈84年の共通一次試験の問題を的中させただけでなく、京大コース、東大コースでも、試験問題を的中させてきた河合塾人気講師・牧野剛。
牧野流読書術はビジネスの現場でのあなたの評価を大きく変える!〉
そうか。『大人の読書術』と強調している意味が分かった。「予備校界のカリスマ講師」として、全国に知られている。そう知られてるから、「あっ、受験生向けの本か」と思われる危険性がある。それで、あえて、「大人の」と強調したのだろう。これは分かる。
〈ビジネスでの交渉術に強くなりたい! 仕事場でアイデアマンと言われたい! そんなあなたには牧野流読書術がピッタリ〉
と強調している。
ところで、「84年の共通一次試験」の問題を的中させた、といっても一般の人はよく知らないだろう。当時、写真週刊誌でも大々的に紹介された。又、カリスマ講師ぶりを紹介された。たとえば、生徒たちが、ビールを持ってくる。そのビールを演壇に並べて、それを飲みながら授業をする。何をやったっていいんだ。共通一次を的中させたんだから。当時は、生徒も多いし、予備校はどこも盛況。人気講師のところには生徒がドッと押しかける。プレゼントもある。モテモテだ。
牧野先生は実力で、カリスマ講師になったが、そうではない人は、派手なパフォーマンスをやって人気を取ろうとする人もいる。たとえば、女装をして授業をしたり。たとえば水着の美女を「助手」にして連れてきて、板書をさせたり。(うーん、これは出てみたかった)。
そうだ。「共通一次」的中のことがこの本で詳しく書かれている。これは、法政大学名誉教授だった藤田省三さんの文章だったという。
〈僕が彼の著書『精神史的考察』(平凡社)から抜き出した「或る経験の喪失」を使って河合塾共通一次試験(現センター試験)用の模試を作成したところ、寸分たがわぬ問題が翌年(1984年)の大学共通一次試験一日目国語の一番に出てしまったのだ。いわゆる「的中事件」である。
そのことで僕は一時、大学受験界の寵児ともてはやされることになったのだが…〉
凄いねー。単なる「ヤマカン」ではない。たとえば、今の時代は、この思想家、学者の言ってることに近い。あの人のことが妙に思い出される。そういった、知の巨人たちの「予兆」「予言」を牧野先生は感じるのだろう。その感じるアンテナが、共通一次の問題をつくる人にも共振するのだろう。今の時代は、小林多喜二の『蟹工船』と同じだ。そう喋った人がいて、ドッと売れた。まァそれほど分かりやすいものは試験に出ないが、もっと奥深いところで、病んでいる時代の病理を感じている思想家の予兆などが出るのだろう。小林秀雄がよく出されたのも、その時代だからだ。
牧野先生は、河合塾の横浜校が出来た時、「東大コース」を受け持った。その頃、牧野先生が関心を持っていた精神現象学者である木村敏氏の『異常の構造』(講談社)の感想を書かせた。そしたら何と、その年の東大の入試にこの『異常の構造』が使われた。異常なことだ。これで、牧野先生のクラスの生徒が又、異常に急増した。
ところで、共通一次を的中された話だ。藤田省三は僕らも昔、よく読んだ。この人の『原初的条件』という本がある。そこに〈天皇とテロ〉のことが書かれていた。右翼はテロに訴えても、天皇を護るという。しかし、「血塗られた刃」によってしか護れない天皇なら、何の価値があるのだ、と。これにはガーンと頭を殴られたと感じたね。確かにそれは言える、と思った。僕らが武装闘争を放棄する原因にもなった。このことは『若者たちの神々』の中で筑紫哲也さんにも話をした。
その藤田省三と牧野先生は友達だったのか。私も会いたかったな、と思った。又、網野善彦、中川久定、廣松渉にしろ、紹介してもらいたかった。残念だ。
この本を読んで、新しい発見がいくつもあった。「日本文学のここがけしからん」では、志賀直哉の『小僧の神様』や森鴎外の『高瀬舟』を取り上げている。しかし、これらの小説には広がりがない。社会性がない。日本の多くの小説は物語性が存在せず、話が広がっていかない、という。芥川龍之介の『みかん』にしてもそうだ。本当は、その先を、その結論を考え、社会を考えるべきなのにやってない。そこまでやると、「プロレタリア小説」になるというおそれがあるからか。
『みかん』では、二等車に肺病を患った男が乗っている。そこへ、貧しい女が乗ってきて、汽車の窓からミカンを投げる。外で、弟たちがそれを拾う。しかし牧野先生は言う。
〈僕は、これを読んで様々な疑問と憤りを感じた。
時代はいつか? どうしてこんな階層性があるのか? なぜ肺病を患っている男が二等車に乗る金を持っていたのか? 女性は都会のどこで働くのか? その後の弟たちはどうなったのか?
本当はこれから様々な事柄が絡み合い、物語が展開していくのではないだろうか。それなのにこの小説は、そこでプツンと、話を終わらせているのである。
ちなみに、ミカンが冬空を飛ぶ美しさのみを、昭和の初期、川端康成や横光利一は「新感覚派」として固定し、この社会の貧しさや姉弟の貧しさ、いたわりを、「プロレタリア文学」として、小林多喜二たちは作り上げることになる。
その点で、この両派の「親」は大正時代の芥川だ〉
そうだったのか。芥川から生まれて、「新感覚派」と「プロレタリア文学」に分かれたのか。これは私も理解が未熟だった。こうしたことも踏まえて、今年中には、牧野先生は「文学史」についての本も出すとという。
他の予備校の先生のことも書いている。たとえば駿台予備校の表三郎氏。「日本のマルクス」と言われてる人だ。英語を教えているが、本来の専門である 経済学や社会思想史に関する論文を多数発表している。牧野先生の本の出版社のメディアックスの社長を予備校で教えた表さんは、10万冊以上の本を読んでるという。私なんて、1万冊読んだかどうかだ。凄いね。しかし、その本をどこへ置くのだろう。と、我々貧乏人は考え、心配する。しかし、心配は無用なので、表さんは、予備校のカリスマ講師で、収入も半端じゃない。だから、本のために隣りに一軒、家を建ててやったのだ。考えることが違うね。そこに、本をお世話する奥さんや、メイドもいる(そんなことはないか)。
表さんは、『日記の魔力』『問いの魔力』『答えが見つかるまで考え抜く技術』(いずれもサンマーク出版)もある。なかなか面白いし、考えさせられる本だ。
又、駿台予備校の最首悟さんだ。この人は私も知っている。今は、和光大教授だ。東大全共闘で闘った、東大闘争の記録が出ると、必ず名前が出る。珍しい名前だ。何でも、先祖が江戸時代に百姓一揆の首謀者として連座し、最初に首を斬られたことに拠るという。
この本の、「生まれて初めて手に入れた本」の章では、「カバヤ文庫」について書いていた。うわー、こんなのがあったな。と、40年ぶりに思い出した。誰も覚えてないよ。カバヤの「キャラメル」のおまけとして、発刊していた。キャラメルの中に入っている文庫券を50点集めて、カバヤ食品に送るとカバヤ文庫と交換してくれる。そんなに集めるのか。50ヶもキャラメル食って、虫歯になって、その価が文庫1冊か。だったら最初から文庫を買った方がいい。と、今の私なら思う。ところが牧野少年は、必死に集めた。
お金がないから本が買えない。1個10円のキャラメルもしょっちゅう買えない。お小遣いは1日5円だ(よく覚えてるね!)。ある日、カバヤの宣伝カーがきた時、車に乗せてもらった。ところが何と、50点券が落ちていた!(1個に1点だが、こういう当たり券もあったのだ)。宝だ。すぐさま足で踏んづけて、いかにも物を落としたフリをして拾った。さらに芸が細かい。そこで、キャラメルを買い、「うわっ!50点券が出たぞ!」と、大声で周りにアピールしてから、本をもらった。「それが、僕が生まれて初めてやった『悪いこと』だと記憶している」
と、謙遜して書いてるが、他にも一杯やったんだろう。悪知恵の回るガキだ。
その時、50点券で交換した本は、『ノートルダムのせむし男』だった。
「醜い行為を犯して、もらった本の主人公が醜い男…。こんなことまでして本を読むことはいいことなのか悪いことなのか、子供心に僕は迷った」。
本当は後悔なんかしなかったんじゃないのかな。と私は意地悪く思ったりする。そうそう、私のことも出ていた。「本はどこで読むか」というところだ。
〈同じ河合塾の講師に鈴木邦男さんがいる。彼は新右翼の論客としてテレビの討論番組などに数多く出演しているので、ご存知の方も多いだろう。彼の場合、読書する場所は徹底的に喫茶店だ。食事をして、コーヒーを飲みながら、新書版や単行本を四時間ぐらいかけて一冊読み切るそうだ〉
新書は、今なら、2時間もあれば読める。1時間程で読破できる新書もあり、最近はこんなのが多い。私と違い、川本三郎さんは電車に乗って読む。東京から一番遠くまで行く在来線に乗って終点まで行き、そこからまた戻ってくる。その間に何冊かを読む。たとえばJRの千葉から高尾まで行く。あるいは青梅線に乗る。そして帰ってくる。その話をコスモで紹介してたら、「じゃ、何時間乗っても、130円ですね」という生徒がいた。鋭い!
でも川本さんは、高尾とか、青梅では、一度降りて、散歩して、お茶を飲んだりして、それが、切符を買って、乗るんだと思うよ。きっとそうだよ。
こんな調子で牧野先生の本を紹介していたら、いつまで経っても終わらんな。そうだ。牧野先生は「毎日1冊」読む。廣松渉さんは、「月に1万ページ」読んでいたという。300ページの本なら30冊以上だ。月30冊よりキツイ。「劇団再生」の高木氏は、じゃ、私は「月30kg」に挑戦しようかな、と言っていた。30冊で10kg位かな。そんなにないかな。ともかく、大変だ。
この本には、他にも紹介したいとこが一杯ある。「父親が持ってたヘンな本」「反権力の原点は『カストリ雑誌』」「親の権威を刷り込む方法」「松本清張から受けた衝撃」「疑問が解決する瞬間」…などだ。
ともかく、「負けた!」と思いましたね。私の「お師匠」さんだから当然だ。でも、何をやっても勝てない「お師匠さん」がいるということは幸せです。私は「現代文要約」の授業を持ってるが、自分でも「要約」をして、それを牧野先生に見てもらい、直してもらっている。今でも生徒だ。文章の書き方、読み方を厳しく教わっている。ありがたいと思っている。