この先生の前では、私なんて〈子供〉だ。と思いましたね。日野原重明さん(97才)に、やっと会えた。「あっ。この前、新幹線で会った鈴木さん」と覚えていてくれました。「いつでしたっけ?」「12月の中旬でした。新神戸で講演だと言ってました」「あっ、あの日か。2日に1遍は地方に講演に行ってますし。外国にも研究発表や講演で年に5回は行ってます」。凄い。世界一元気な97才だ。話を聞いて、〈元気〉をもらった。というよりも、先生に比べたら私なんて何もしていない。何も学んでないと思いましたね。「よし、これからは頑張って勉強するぞ!」「大きくなったらお医者さんになるぞ!」と思いましたね。
「では、よど号ハイジャックの話を聞かせて下さい!」と、すぐに本題に入った。だって、「97才。元気の素」がハイジャック体験なんだし。1時間、その話だけを聞こうと思った。超多忙な先生だ。わざわざ、1時間とってくれた。3月24日(火)午前10時に、聖路加国際病院に先生を訪ねた。月刊「創」の対談だ。「ぜひ対談させてほしい」と「創」の篠田編集長に前々からお願いしていた。それが、やっと実現した。「対談」じゃ、おこがましいな。「インタビュー」ですよ。「よど号ハイジャック」のことを1時間、じっくり聞いた。集中的に聞いた。
先生は、若い時、病弱だった。結核だったし、徴兵検査でも撥ねられた。「60才まで生きられないよ」と医者には言われていた。そして57才の時。(1970年3月)、仕事で福岡に行く為に飛行機に乗った。そこでハイジャックに遭った。「人質」になった。「死ぬかもしれない」という極限の体験をした。無事に解放された時、悟った。ふっ切れた。これからの人生は与えられたものだ。余りだ。そう思ったら、気が楽になった。全てに感謝できるようになった。そしてバリバリと仕事をし、今年の夏で98才だ。「もう2年で100才ですよ」という。
「死ぬかもしれない」と思い、生き返った乗客は120人。皆、「臨死体験」を経て、今も元気だ。じゃ、私もハイジャックを体験してみたい。誰かやってくれよ。
「宇宙飛行士の体験と似てますね」と日野原先生が言う。宇宙飛行士は宇宙から地球を見、さらに月に降り立った。そして人生観が変わった。そうだろう。そんな体験をした人なんていないのだから、「神を見た」と言った人もいた。だから地球に帰ってきて、宣教師になった人もいた。
「私たちも同じですよ」と日野原先生は言う。世紀の体験をし、死ぬかもしれないと思った。やっと解放され、韓国・金浦空港に降り立った時、足が地面に触れ、「あっ、地球に戻ってきた」と思いました。宇宙飛行士と同じ感激です、と言う。それからは、〈神〉になったんだ。だから、長寿だ。「人質」の人は皆、今も元気だ。
神といえば、よど号の機中でも、〈神〉を見たという。「よど号」が富士山に差しかかった時、9名の赤軍派が突如、立ち上がり、「我々は赤軍派だ」「この飛行機をハイジャックした!」と宣言した。
「刀を抜いて、高く掲げたんですよ。怖くてね。だって、揺れたら大変でしょう。その時、この人たちは飛行機は初めてだと思いましたね」。
実際、赤軍派の9名は全員初めて飛行機に乗ったのだ。当時は、学生が飛行機になんて乗れなかった。贅沢だと思われていたし、金もない。東京から福岡に行くのなら、鈍行で十時間以上もかけて行くか、思い切って贅沢しても寝台車の一番安いベッドだ。
この1週間ほど前、9人が乗ってハイジャックを決行するはずだった。ところが半分が遅刻。本人たちは遅刻の意識がない。列車と同じで、5分か10分ほど前に乗り込めばいいと思っていた。だからギリギリに行ったら、「もう搭乗手続きは終わりました」と言われた。「何でしたら、次の便に変更できます」「次の便じゃダメなんだ!」と。この時点で気がつけばいいのに、搭乗係も。無理かな。
学生は皆、飛行機なんて初めてだから、こんな失敗をする。そして、3月31日に、「ハイジャック宣言」をした時も、スラリと日本刀を抜いて高く構えた。(田中義三さんだよね。これは)。でも、飛行機は揺れる。それで、よろめいて傍らの乗客を切っちゃったりしたら大変だ。その時点で殺人犯だよ。でも、初めてだから、そんなことは考えない。「危ないな」と日野原先生は、ヒヤヒヤしていた。
赤軍派の9人は、乗客を前に、激越な演説をする。「我々は、現体制の、反動的弾圧を乗り越え、世界革命への展望を切り拓くべく、前段階武装闘争に決起し…」とか言ったんだろう。あの活動家特有のイントネーションでアジ演説をやったんだ。「でも、何いってるか分からなかったでしょう?」と聞いたら、「いや、分かりました。だって、乗客にも学生運動出身者が多かったですから」。えっ、そうなの。そして、9人はスクラムを組んで、「インターナショナル」を歌う。すると、何と、人質の中からも唱和する声が。学生運動出身者が多いから、つい歌っちゃうんだ。「人質」だということを忘れて。ヘエー、全員で「インター」を歌ったのか。これじゃまるで、「学生集会」じゃないか。「犯人」と「人質」じゃないよ。「“ストックホルム症候群”でしたね。ただ、この時はまだ、緊張してたんですよ。乗客も。怖かったですから」
怖いけど、「インター」は一緒に歌うんだ。この時、赤軍派は言った。「何か質問があったら聞いて下さい」と。1人の乗客が手を上げた。「あのー、さっきから、何度もハイジャックって言ってるんですが、ハイジャックって何ですか?」
「バカヤロー、これがハイジャックだよ!」と言えばいいのに、赤軍派も真面目だから、ハタと考えた。どこの言葉で、語源は何だろうと。赤軍派の兵士は隊長の田宮高麿さんの方を見る。田宮さんも分からん。ウーンと言って、唸っている。見るに見かねて、日野原先生が手をあげた。「私が説明します。だから、手の縄をほどいて下さい」。そして前に行って、説明した。言葉の語源、そして外国ではこんな例もあると。「飛行機を乗っ取って相手側と交渉することだ」と説明した。そして言った。「しかし、ハイジャックする人が、ハイジャックの意味も知らないとは困ったもんですね」。それで、機中の皆が大爆笑。乗客も赤軍派も。これで、一気に雰囲気がなごんだ。凄い。日野原先生のおかげだ。
そのあと、長い闘いになるからと、乗客に「差し入れ」をする。普通は、一般の人が収監中の犯人に本やお菓子を入れることを「差し入れ」という。しかし、ここでは犯人が乗客に本を配っている。じゃ、「逆差し入れ」か。
彼らは本のリストを読み上げる。これだけの本を用意してきたから、読みたい人は手を上げて下さいと言う。何も「人質」のために持ってきたのではないだろう。自分たちが北朝鮮に行って、長い間、軍事訓練をする。その時、読むために持ってきたのだ。だから、すぐ読める「少年マガジン」や、週刊誌はない。彼らの好きな「あしたのジョー」も持っていない。思想的な本、そして、読むために時間がかかる本、何度も読み返せる本などだ。さて、そのリストだ。
赤軍派の機関紙(誰も手を上げない。本当は犯人側の心理を知るのに一番いいのだが)。
金日成の伝記。伊東静雄の詩集。親鸞の伝記。その他、2、3の単行本のあと、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』があった。
日野原先生はサッと手を上げて、『カラマーゾフの兄弟』を借りた。文庫本で5冊ほどあった。他の人は皆、追いつめられ、不安だ。とても本を読む精神状況ではなかったようだ。先生は、その点、強かったんですな。「でも、読む余裕はなかったでしょう」「そうですね。機中の空気もピリピリしてるし。昼はまだいいんです。夜は特殊部隊が突撃してくるかもしれない。だから、夜は、無理に気持ちを落ち着かせようと思って、読んでたんです」
凄いなー。困難に直面した時こそ、冷静になろう。かつて読んだことのあるこの小説に集中することで、少しでも心を落ち着かせ、恐怖心をコントロールしようと思ったのだという。
『カラマーゾフの兄弟』を受け取って、ページを開いた。そこで神に出会った。だって、本の扉には、『ヨハネによる福音書』の一節が書かれていたからだ。
〈一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる〉
ここで死ぬかもしれない。でも、死んでも実を結ぶことが出来ると感動した。又、もし、生還できたら、残りの人生は、人のために使おう。…と、そんなことを考え巡らした。そして4日後、解放された。あとは、「生かされたいのち」をどう使うかだ。
そうか。神を見たのか。じゃ、ハイジャック事件も、神聖な儀式なのだ。2千年後、この話も『新約聖書』になるだろう。
「そういえば、この病院の名前はルカ伝からとってるんですね」と聞いた。「そうです」と先生。といっても、日野原先生が作ったわけではない。初代院長はルドルフ・B・トイスラーというアメリカ人だ。
日野原先生は、「聖路加国際病院」の名誉理事長だ。この「路加」というのは「新約聖書」の「ルカ伝」のルカなんだ。イエスのお弟子さんだ。そこからとったのだ。キリスト教関係の医院は多いね。「聖母病院」「聖マリアンナ病院」とか。キリスト教は歴史も古いし、医療への貢献も深く広い。
その点、仏教や神道はないよね。「護国寺病院」とか。「靖国神社病院」「乃木神社病院」なんてないよ。「病院で、のんびりしてる場合か! 闘え! 早く死ね! 護国の鬼になれ!」と言われるようで、恐いやね。
日本人は使い分けている。初詣では神社に行く。七五三も神社だ。結婚式はお洒落に教会で。そして死ぬ時は仏教だ。
病気の時はキリスト教の病院だ。そして、中学、高校、大学でもキリスト教の学校は多い。医療、教育には随分と進出してるし、頑張っている。
ここで、インタビューの内容を全部書いたら、「創」に叱られるな。だから、「予告編」はこの辺でやめる。月末にやったので、5月号には間に合わないので、5月6日発売の「創」(6月号)に載るでしょう。又、日野原先生の最新刊『道はかならずどこかに続く』(講談社)もお読み下さい。ハイジャック体験も書かれています。
日野原先生と会った翌日、3月25日(水)、八王子に行った。今日も、「ハイジャック」「北朝鮮」の話だ。「チュチェ思想国際研究所」の理事だった井上周八さんと対談した。今は、チュチェ思想国際研究所名誉理事長だ。あの時(9年前)も、八王子で話をした。3回ほど対談して、本にした。
井上さんは、「北朝鮮絶対支持者」だ。「北朝鮮は素晴らしい国だ。チュチェ(主体)思想に基づいて国造りをしている。理想の国家だ。こんな立派な国はない」と言う。9年前、「拉致」の話を私がした時には、一笑に付していた。「あの理想の国家が拉致なんかするはずがない」と断言した。
でも、金正日は拉致を認め、謝った。「じゃ、今、井上さんはどう思っているのか」聞いてみたかった。「北朝鮮に裏切られた!」と思っているのか。あるいは、打ちひしがれているのか。それで、『マスコミ市民』に頼んで、対談させてもらったのだ。
拉致の問題についてどう考えたのか。小泉訪朝時のショックをどう受け止めたのか…。などについては、次の『マスコミ市民』を見てほしい。
久しぶりに会った井上さんは元気だった。思いのたけを話してくれた。ただ、少々耳が遠い。補聴器を耳に入れている。『マスコミ市民』の編集部も、打ち合わせが大変だったようだ。電話では用件が伝わらない。だから、FAXで送ったり、家の人と打ち合わせをしたり…。
「当日はどうしましょう」と言う。「イザとなったら筆談ですね」と私は言った。向こうの声は聞こえる。だから、こちらの「質問事項」を大きく紙に書いて出す。それがいい。「そうだ。こうしよう」と私は提案した。編集部の携帯を井上さんに渡す。メールを見れるように設定して…。私は、自分の携帯で井上さんにメールをする。それで質問する。井上さんは答える。私がメールする。それで「対談」は成立する。井上さんの声は聞こえる。私のメールだって、距離が近いからすぐ届く。これはいい。
当日は、それでやろうと思って準備した。でも、少し大きな声で話すと向こうに聞こえる。それで、携帯のお世話にならずに無事に対談できましたよ。
井上さんは今年84才。戦争中は、軍隊に行って、そして特攻隊に志願した。ところが終戦。戦後、日本共産党に入り、そこを出る。そして、「北朝鮮絶対支持」になる。もしかしたら、「天皇絶対」の時と、「金日成絶対」の考えは、深い所で共通し、結びついているのではないか。そんな点も聞いてみた。
そうだ。思い出した。先月、「和歌山毒カレー事件を考える会」の東京集会をやった。ところが場所が狭い。かなり人が来そうだ。もっと大きい部屋は今からでは借りられない。どうしよう、となった。「考える会」の代表の私は、こう指示した。入口を入った所にロビーがある。部屋に入れない人は、そこに入ってもらう。そして、我々の持ってるノートパソコンを3台ほど置く。会場ではビデオカメラか、携帯の動画装置で撮る。それをパソコンに流して皆に見てもらう。それでやりましょう、と言った。これは、「電脳キツネ目組」にヒントを得たのだ。
田中義三さんの裁判支援の時だから、もうかなり前だ。タイに行き、裁判を傍聴し、そのあと記者会見をした。その時、「電脳キツネ目組」のスタッフは、ビデオカメラで撮りながら、パソコンで報告文を送っている。「今、日本ではリアルタイムで、この様子を見れるのです」と言う。凄い。タイからは遠いのに、同時に、日本で動画を見て、報告文を読める。
それに比べたら、「考える会」は簡単だ。なんせ、隣りの部屋だ。近いからすぐ届く。それで、準備していた。でも、当日はギューギュー詰めで何とか全員入った。よかった。でも、私の考えたハイテク技術は披露できなかった。残念だった。
〈歯切れよく、平易で、力漲(みなぎ)る鈴木の文章は、理論で解説する研究家によるもったいぶった物言いとは正反対のものだ。自己の体験を語りながら『蟹工船』を読み砕いていく様は、時になめらか、時にゴツゴツと歯応えがあり、時にものすごく熱い。リズムがいい。目で感じる語り物芸といいたくなる〉
私なんて文章が下手くそで、コンプレックスを持ってるのに、ここまで言ってもらって、嬉しいというより、恥ずかしいですね。筆坂さんとの対談のおかげですよ。あれで、グンとよくなったし、本に対する信用性も高まったと思う。
午後2時、月島に行く。もんじゃ焼き屋さんで映画の撮影。大浦信行監督の映画『天皇ごっこ。見沢知廉・たった一人の革命』の撮影です。21日(土)に続いて2回目。21日は、渋谷、大久保での路上での撮影だったが、今日は、もんじゃ焼き屋さんでのシーン。見沢知廉には双子の妹がいて、彼女が、兄の死の謎を解くためにいろんな人を訪ねて、話を聞く。(そういう設定だ)。私も聞かれた。そこで、天皇論や、査問事件について話す。店を借り切って、撮影機材を入れて、本格的な映画撮影だ。長時間かかった。終わって、「おつかれさま」と監督に言われた。でも21日の路上撮影の方がキツかった。あれに比べたら、どんなもんじゃだった。この日は店を閉めて撮影。だから、近くの支店で、もんじゃを食べたもんじゃ。おいしかったもんじゃ。
〈オバマより凄い! 人心を揺り動かした伝説の8人。
日本人の名演説に酔う!〉
なかなかいい企画だ。トップは三島の市ケ谷自衛隊での演説。私が解説した。あとは、長嶋の「巨人軍は不滅です」演説。田中角栄の派閥緊急総会での涙の絶叫。重信房子の「さらば連合赤軍の同志諸君!」。斎藤隆夫の「粛軍演説」。さらには、池田勇人の「浅沼稲次郎追悼演説」。これは凄い。私も以前、全文読んで感涙した。政敵である社会党の議員に対する追悼を国会でやった。自民党の池田総理が。これには社会党の議員も皆、涙ぐんで聞いたという。美わしい光景だ。立派な議員が昔はいたんだ。
この日は、朝10時に、聖路加国際病院に行く。乳ガンの検査ではない。日野原重明先生へのインタビューだ。有楽町線の新富町で降りる。あれっ、昨日は隣りの月島に来たよな、と思った。2日続けて有楽町線だ。初め、新富町と聞いた時、「あっ、昔、ロフトがあったとこだ。新宿の…」と思い出した。でも、ちょっと違う。「創」の人に聞いたら、「あれは富久町でしょう。ここは新富町です」。でも、ほとんど同じだ。富は新しいのがいいのか。ずっと持ち続けるのがいいのか。富に対する心的スタンスの問題だと思う。日野原先生は、「一粒の麦もし死なずば」と言っていた。それがキーワードですよ。人生なんて、そんなもんじゃ。
聖路加国際病院は、「st RUKE'S International Hospital」という。病院の玄関に出ていた。あっ、「キリストのお弟子さんのルカか」と初めて知った。ミッションスクール出の私としては恥ずかしい。でも、「路加」なんて書くから、日本人かと思っちゃったんだよ。中国では、ルカをこう書いていた。お弟子さんたちも皆、漢字で書き、それが日本に伝わったそうな。先生からは、とても刺激的なお話を聞けました。
1時間をちょっと過ぎたら、もう次の人が待っていた。忙しい先生だ。それから私は、中野区役所に行って、3時にサンルートで仕事の打ち合せ。そして、木村三浩氏(一水会代表)と打ち合わせ。書く原稿は一杯あって、遅れてる。忙しか。でも、日野原先生は毎日、4時間しか寝とらんそうな。「今日も、朝まで原稿書いて、そのまま来ました」と言っていた。97才の先生がですよ。だったら、65才の〈子供〉の私なんて、一週間くらい徹夜したって大丈夫だ。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉