劇団再生の「詞編・レプリカ少女譚」。よかったですね。素晴らしい舞台でした。初め、夢野久作の『ドグラ・マグラ』のような芝居かなと思った。平成の今、高木尋士が、『あの「ドグラ・マグラ」を読み解く』。そういう野望を秘めた芝居だと思った。
しかし、違った。『ドグラ・マグラ』を超えてたね。あるいは、夢野久作が表現しようとした以上のことが、ここには出ている。「これこそが本当は俺が書きたかったことだ!チクショウ!」と夢野久作も悔しがっていることだろう。芝居を見ながら、夢野久作の叫びが聞こえてきた。
芝居は3月28日(土)の夜、29日(日)の昼と夜(マチネーだ)、計3回上演された。3回とも満員だった。特に日曜の昼の部は立ち見が出るほどの超満員。観客は皆、「再生」の不思議な、そして、詩的、思想的な〈高木ワールド〉に酔っていた。そして、28日、29日の夜の部の始まる前、私はトークの部で出演した。高木尋士氏(劇団再生代表)と、「本と読書と表現」についてトークしたのだ。芝居に負けない、いい話をしようと考え、準備した。私も、本はかなり読んでいる。高木氏は私以上に読んでいる。でも、2人の「読書論」にする気はなかった。それでは芸がない。「なぜ、言葉は出来たのだろう」「言葉を使わなくても思索は可能なのか」。そういった言葉に関する原初的なテーマに向き合ってみよう。そう考えた。観客には理解してもらえなくても、それはいいだろう。芝居と同様、安易に妥協しない。「言語にとって美とは何か」を吉本隆明は昔、考えた。それに続く挑戦をしようと思った。
そんこなことを考えながら新幹線に乗った。芝居の前の日、3月27日(金)の朝だ。「たかじんのそこまで言って委員会」に出るために、朝の新幹線に乗った。「たかじん」は天皇論がテーマで、西尾幹二さんたちとトークバトルがある。その準備もあるが、何故か、頭の中は次の日のトークのことで一杯だった。ボーッとしてたのだろう。その時、4人ほどの若い男たちがドドドーツと乗り込んできた。動きが素早い。機敏だ。サッと席を確保して座る。何気なくそっちを見たら、「あっ、鈴木さん!」と言われた。「あっ、橋下さん」。久しぶりだ。橋下徹大阪府知事だよ。じゃ他の3人は秘書か。SPか。
「がんばってますね。凄いですね」と言った。「鈴木さん、今日は?」。「たかじんですよ。橋下さんの古巣の」と言った。そうだ。先月、「たかじん」に出たら、出演者が多くて、控え室は相部屋だった。宮崎哲弥さんと一緒だ。「僕と相部屋になる人は皆、出世するんですよ」と宮崎さんは言っていた。橋下さんが、ずっと一緒だったんだ。思い出して橋下さんにその話をした。「そうですか。嬉しいですね」と思い出話になった。
橋下知事に、私の新しい本をあげた。『「蟹工船」を読み解く』だ。驚いていた。「もう、こっちまで来ちゃったんですか?」。ウーン、左翼になったわけじゃないんだけど。右翼の運動を通じて見た『蟹工船』ですね。それと、里見岸雄のことも書きたかったんですよ、と説明した。
「じゃ、じっくり読ませて頂きます。又、ゆっくり会いましょう」と知事さん。いつも謙虚で、爽やかな知事さんだ。私も席について、振り返ったら、知事さんはノートパソコンを出して、もう仕事をしている。刺激されて私もノートパソコンを取り出して、芝居の前のトークについて考えた。
トークのテーマが、「本と読書と表現」だ。言葉はいつ出来たんだろう。何故、出来たんだろう。嬉しい時に言葉は生まれたのか。驚いた時か。求愛の時か。いや、「自己防衛」の為に生まれたのだろう。お互い、知らない人間同士が出会った時、「敵ではないですよ」と示す必要がある。初めは身振りで表現した。あるいは握手、あるいは祈り。つまり、この手には何ら武器を持ってませんよ、ということを〈証明〉したのだ。見せたのだ。その時、お互いに声を出し合った。それが言葉になった。そんなところだろう。それで言葉が生まれ、どんどん増えていった。
それまでは、犬や猫と同じように人間も、ワンワンとかニャオニャオと鳴いていた。それが、言葉を発明することによって〈人間〉になった。そして言葉を通じて、〈考える〉ことが出来た。
又、世界に対する不安もあった。見回しても、訳の分からないものばかりだ。巨大な土の塊が立っている。それが切れている。キラキラ光って、流れているものがある。いや、「流れる」という言葉もなかった時だ。とにかく、得体の知れないものが、立っている。流れている。歩いている。不安で不安で仕方がない。それで、覚えたての言葉で、レッテルを貼り付けた。これは山と名付けよう。これは谷だ。これは川だ。そして、周りの世界に万遍なく「言葉」のレッテルを貼った。そして安心して生活し始めた。
つまり、人間は第2の「天地創造」をやったのだ。第一の「天地創造」は勿論、神だ。陸あれ。海あれ…と声をかけて、陸をつくり、海をつくった。〈世界〉をつくった。さらに神は人間をもつくった。しかし、人間は、神の使った言葉を知らない。そんなことを考えながらトークは進んだ。
「そうですね。防衛本能から言葉は生まれたんでしょうね」と高木氏。神によってつくり出された人間。そして、この世界にポンと押し出された人間。しかし、不安で仕方がない。周りは不気味なものばかりだ。それで、「言葉」でレッテルを貼り付けた。これは山、これは海と。次には、私は「敵ではありませんよ」と宣言した。それが言葉だ。
この芝居の舞台は病院だ。あっ、何気なく「芝居の舞台」と書いちゃった。じゃ、「舞台の舞台」でもいいのかな。ともかく、この芝居で取り上げている〈場所〉は、病院なんだ。精神的に病んでいる人が患者だ。そう思って〈安心〉して見ていると、患者の「言葉」はやけに理屈っぽい。思想的だ。「ドグラ・マグラ」の話が出てくるし、高橋和巳の話も出てくる。だったら、「正常」で、「思想的」なのは、舞台の方かもしれない。それ見ている我々の方が「患者」かもしれない。そういえば、政界の迷走も、理由なき犯罪も、週刊誌の暴走も…。こっちの〈世界〉の方が十分に病院的だ。
さて、舞台だ。看護婦がいる。患者がいる。皆、思想的な言葉を吐く。高橋和巳の『悲の器』を思い出した。大学の教授が主人公だ。法律の専門家だ。その大先生の栄光と挫折が描かれている。難しい法律用語が出てくる。教授も難しい科白をはき、他の教授たちと難しい法律論争を展開する。家に帰ってまでも、難しい話をする。女中さん(当時は“お手伝いさん”のことをこう呼んだ)までも難しい話をする。難解な表現をする。「こんなのあるかよ」と思って読んだが、大学者にとっては、女中さんの「普通の言葉」の方が、かえって難解なのかもしれない。と、最近になって私は理解した。「『悲の器』を読み解く」だね。いつか書いてみたい。
さて、高木氏の芝居だ。登場人物は、洒落た、でも結構、難解な科白を喋る。それを病院の院長は聞く。本好きの院長だ。腕はいいのに、本ばかり読んでるから、つい、〈現実〉を忘れたりする。そう、「劇団再生」代表の高木氏だ。あるいは、本好きの君たちだ。私でもある。
高木氏は月に40冊も本を読んでいる。今度は「月1万ページ」のノルマにしようかな、と言っている。大変だ。杉浦民平は確か、その「月1万ページ」のノルマを自らに課して実行したという。「月に30キロ」のノルマでもいい。あるいは、自分の体重と同じだけ読む。というのもいいだろう。
さて、「本好きの院長」だ。これは私だな、と思った。今でも、電車の中で本を読んでると、つい、乗り過ごしてしまう。でも、「愚かだ」とか、「しまった!」とは思わない。乗り過ごせるほど熱中させる本があることに感謝している。これは幸せだ。本の方が先だ。大事だ。どこに降りるか。そんな形而下的なことはどうでもいいのだ。
目的駅に着いても、読むのをやめられない。いいとこなのに。中断したくない。そんな時は、駅のベンチで読み続ける。あっ、約束があったんだ。携帯で電話する。「今、電車の事故があって遅れてます。40分位遅れます」と言って、必死に読む。打ち合わせよりも、本を読む方が大事だ。
産経新聞に勤めていた時も「読書人間」だった。1時間前には会社に着いて、地下の喫茶店でモーニング・サービスをとりながら本を読む。昼休みも1時間、びっちり本を読む。今と違い、いい本が一杯出ていた。各出版社から思想大系も出ていたし、文学全集も出ていた。貪り読んでたね。
昼休みは外に行って1時間読むのだが、たまたま、部で1人になった時がある。よし、「昼休みだ」と、頭のモードを切り換えた、「昼休み」だから、私はもう「仕事場」にはいない。だから、自分の世界に入って読書していた。その時、電話が鳴った。でも、私は、「昼休み」だ。ここにはいない。電話なんか、勝手に鳴ればいい。
たまりかねて、他の部の課長が飛んできて、出た。「おい。鈴木。いるんなら出ろよ!」と怒鳴られた。「でも、僕はいません。休みです。いるように見えても、本当はいないんです」と、懇切丁寧に説明したが、分かってもらえなかった。ああ、読書人は孤独だ。と思った。こんなことばかりしてるから、クビになるんでしょうな。
しかし、よく怒鳴られていたな。産経では。でも、あまり、真面目に聞いてなかったな。どこ吹く風だった。この舞台の院長と同じだ。ある日、何かのことで叱られた。こってり叱られた。伝票を間違えたとか、遅刻したとか、そんな、どうでもいい事だ。それがこの地球の運行とどう関係がある。日本の政治とどう関係がある。小さなことで、コセコセする奴だ。この課長も。と思っていた。だから、神妙に聞くふりをして、頭を下げた。今朝、喫茶店で読んでいたバシュラールの本のことを考えていた。そのうち、眠くなったのだろう。コックリ、コックリやっちゃった。さあ、大変。課長は真っ赤になって怒りましたね。「何を興奮してるんだろう、この人は」と私は不思議そうに見てましたね。小さなことにはこだわらない。太か心のサラリーマンでしたね。「サラリーマン金太郎」と言われてました。(そんなことないか)。
その、「コックリコックリ事件」を見ていた隣りの部の女の子から「凄い。勇気ある!」と誉められた。「カッコいい。会社終わって飲みに行かない?」と誘われた。別に勇気じゃなくて、仕事に対する情熱の欠如ですよ。情熱は本にだけ向けとった。
多分、「読書」が主なんでしょうね。生活の中で。これがご主人様で、それに仕えるために仕事、睡眠、食事があったんですね。特に、産経時代は、販売局と広告局だから、記事を書くわけでもなく、ものも書かない。(今とは違う)。当時は、書かないで、ただ「読んでいる」。それが4年間だ。
だから、「純粋読書」の日々だ。ピュアーだった。そんな私を叱った課長は、「純粋読書批判」だ。そうだ。「純粋理性批判」という本があったな。カントだったよな。そんな本も読んどったな、当時は。
「劇団再生」の舞台には、本がうず高く積まれていた。小山のようだ。三島由紀夫、野村秋介、見沢知廉などの本がある。文学書、哲学書もある。そして、最近購入した平凡社の全集がある。『世界教養全集』(全38巻)だ。それが全部揃って、山と積まれている。実は、これは私が寄贈した。舞台装置として、あった方がいいだろうと思ったからだ。思想的オブジェだ。
この全集は、1960年代後半から70年代にかけて刊行されたものだ。当時、全巻読破した。産経の課長に怒鳴られながら読破した。そのうちの1冊、フレイザーの『悪魔の弁護人』を読み直したくて、ネットの古本で探した。あった。注文した。ところが、ネットオークションで、この「全38巻」が出ている。それも安かった。すぐに買った。たとえ、10万円でも買ったね。安い。それだけの価値はある。
その全38巻を、高木氏の家に送ってもらった。私は読んだからもういい。中には、もう一度、読み返してみたいものもある。その時は、高木氏に借りればいい。又、刊行から40年経って、高木氏は、今、どう読むのか。それを聞いてもみたい。何なら、この全集をテーマにした芝居をやってもいいね。「世界教養全集殺人事件」とか。〈教養〉に取り憑かれ、〈教養〉に殺された哀れな中年男の物語ですよ。
芝居が終わって、本の山を見た。乱雑に重なっている。日本の本も、世界の本もある。統一性はない。秩序もない。でも、山になり、さらに上を目指している。この「本の小山」、それ自身が私だ。と思った。舞台の左隅にこの「本の小山」がある。あるいはこの山が、芝居の〈主人公〉かもしれない。何も言わないが…。
そうだ。「本が読者を選択する」という科白があった。いいなーと思った。人間は傲慢だよ。本屋に行って、棚を見て、「うん、これは面白そうだ」と手に取って、レジに行き、金を払う。一方的に読者が本を選択する。でも、その逆もあっていい。と、お芝居の中で言うんだ。ハッとしましたね。うん、これはいい。でも、「2人」の出会いはどこでするんだ。本屋か、ネットか。
でも、私が「勝手に」「自由意志」で本を選んだと思っているが、本当は、本が私を選んでいるのかもしれない。きっとそうだろう。そういえば、本屋を歩いていると、「おい、鈴木、これを買いなよ」という声が聞こえる。ネットの古本屋でも、「ねえ、スーさん。私を買っておくれな」という声が聞こえ、つい申し込んでしまう。それで、ついつい金を使ってしまう。本との「出会い系サイト」で、やたらと金を使っている私です。
舞台に山となった『世界教養全集』だが、見てると懐かしい。『魔法—その歴史と正体』『ロダンの言葉』『芸術の歴史』『キリスト者の告白』『三太郎の日記』『ファーブル昆虫記』『ビーグル号航海記』『哲学物語』『神秘な宇宙』『地球の起源』『微生物を追う人々』…などだ。自然科学の本が随分とある。うーん、こんな全集だったのか。タイトルは分かるが、今、読み直せと言われても大変だ。20代、30代だから、いろんな「思想全集」を読破できたんだ。若さゆえの「暴挙」でしたね。「暴走」でしたね。(こんな暴走ならばいいだろう。でも、体制内暴走だな。いかんのかな)。
…と、いろんなことを考えましたよ。2日間、高木氏と、「読書」「表現」「言葉」について、必死に考えながら、私らも「表現」しました。いつか、このトークを本にしたいものですね。2日間のトークを終わって高木氏は言っておりました。
〈トークでは、多分、僕自身が一番楽しかったのではないかと思っています。お客様に対しても、何がしかの問題提起ができたと思っています。「言葉」というものを、「記号論」という立場から離れ、人間という個人との関係に置き換えていくということは、「言葉」を現代・近代という時代から切り離し、新しい観念を創造することではないかと思っています。その観念的創造は、とても険しい道だと常々実感しながらも、一歩一歩思考をまとめて行きたいと考えています〉
「劇団再生」の皆さん、本当にお疲れさまでした。いい芝居を、いい夢を、見せて頂き、ありがとうございました。次は8月の「見沢知廉生誕50年祭」ですね。アッと驚く、サプライズも計画しているようです。トークには、映画「見沢知廉物語」を撮っている大浦監督も参加します。この舞台も、映画の中の劇中劇として登場する予定です。乞うご期待。
〈「検証・週刊新潮の「本社襲撃犯」本社取材〉の特集。32面を全面使って書いている。「放置できない虚報。訂正・謝罪を!」と迫っている。
午後から新橋で取材。そのあと図書館。
⑤国際労働総研が出している『われらのインター』に松崎明さんが「銀河蒼荘—野村秋介獄中句集にふれて」を連載しています。松崎さんはJR東労組の元会長です。その松崎さんが野村秋介さんの句に感動し、毎月、書いてます。驚きました。嬉しかったですね。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉