「アエラ」は、凄かったですね。驚きましたね。藤生明さんの文章がうまいのです。それに時津剛さんのカメラがいいのです。自分の知らない自分を発見し、抉(えぐ)り出されたような気がしました。
4月6日(月)に発売された「アエラ」(4月13日号)の「現代の肖像」です。5ページです。ありがたいです。光栄です。私ごときが取り上げられるなんて恥ずかしいのですが…。
私なんて、普通のボーッとした人間なのに、ただ「なりゆき」で右翼になり、「なりゆき」で右翼から追い出されつつある。それだけの、何のドラマもない人間だと思ってましたが、藤生(ふじう)さんの手にかかると、かなりドラマティックな、激しいものになってるんですね。それに、いろんな人がコメントしている。私なら、面と向かっては聞けない。でも、こうして記者の取材を通じて「鈴木論」「鈴木評」が活字になる。それが新鮮でしたし、驚きでした。嬉しくもありました。
この「肖像」は、去年の秋の「ロフトの乱」から始まります。渡辺文樹監督と私がロフトに出た時です。月刊「創」が開いたイベントです。右翼の人たちもドッと抗議に来て、荒れに荒れました。この時のことについて篠田さん(「創」編集長)はこうコメントしています。
〈後で聞くと、「暴力沙汰を覚悟していた」と言うんです。絶えず覚悟を持っているというか、活動家から言論人に変わっても、活動家時代の記憶が鮮明に残っているんだなって思いましたね。想像力が乱闘、流血にいってるわけですから〉
凄いコメントだ。ロフトでは、よく喧嘩、乱闘がある。怖くなって警察を呼んだ人(新左翼の大物)もいた。私だって、怖いよ。でも、殴られてもいいやと覚悟はしていた。だって、批判は覚悟しなくっちゃ。電話だって、脅迫電話は多いし。前には、アパートに火をつけられた。さらに、警察によるガサ入れ、不当逮捕もある。そうした権力による「暴力」に比べたら、左右の「民間人」に襲われ、殴られるなんてことは大したことではない。そう覚悟してたんですよ。
本を出したり、メディアで発言したり、街宣で演説したり、とにかく、他人に向かって「発信」している。「そうだ、その通り」と思う人もいる。「違う。おまえは間違っている」と思う人もいる。「発信」により不快になり、傷つく人もいる。その人たちは、「発信者」に向かって、文句を言う権利がある。当然だ。
だから、ほんのささいな「覚悟」として、私は全ての本に住所と電話番号を明記している。不愉快な手紙、脅迫電話もある。しかし、「発信者」として、全て引き受けるべきだと思っている。だた、放火だけはやめてほしい。他の人を巻き添えにするからだ。狙うなら私だけを襲ってほしい。
この藤生さんの文には、「言論の覚悟」と共に、「右翼の原罪」というのが、キーワードとして出てくる。うーん、こっちの方が、私にとっては重くのしかかってくる。それがあるために、躊躇し、臆病になり、攻勢に出れないときがある。これからの私の〈課題〉だと思った。仙台に住んでいる兄貴のコメントも出ていた。藤生さんが、わざわざ仙台まで行って取材したのだ。肉親の発言も、こんな時でないと聞けないので、ありがたかった。
又、骨法道場の堀辺正史先生が、私の「言論戦」について話していた。なるほど、と思った。「右翼はテロだ」と言うことは勇ましくて格好いい。「牙を捨てたらもう右翼ではない」ともいう。実際、私も昔はそう言っていた。ところが、ある時から、自分で自分を否定した。テロを否定して、言論でやろうとした。
〈そう発言することで、民族派としての鈴木邦男は堕落したと言われる危険性がある。一見、逃げたようにみえるかもしれない。けれど、あえて宣言した勇気に私は敬意を表したい〉
と堀辺先生は語っている。ありがたいですね。堀辺先生には、武道のこと、日本の歴史のこと、身体のこと。多くのことを教えてもらっている。
そうだ。「闘い」について、かなり書かれているな。自分としては、「活動家」から転身し、もう、「闘い」の場からは脱したと思っていた。ところが、ロフトにせよ、「言論の覚悟」にせよ、ずっと、〈闘う姿勢〉を持ってるんですな。それを感じた。昔のように「狂暴」になるかもしれない自分。それをどう押さえ込むか。今の「自分」が「昔の自分」と闘い、押さえ込んでいる。そんな感じだ。
講道館でも、2時間、写真を撮った。稽古風景。外人と闘ってる姿。そして、フラフラになって、畳に大の字になってぶっ倒れた。その瞬間をとらえたんですな。カメラは。うまいものだ。そして藤生さんはコメントを書く。
〈「自分の中の狼封じ」だという毎週の柔道。活動家から言論人へ変わる中で、くたくたになるまで稽古し、内なる闘争心をコントロールしていった〉
そういえば、私のデビュー作は『腹腹時計と〈狼〉』(三一新書)だったな。生涯にわたるキーワードが〈狼〉かもしれない。自分で自分が分からない。何をするか分からない。今でも、「内なる狼」が怖くて、ハラハラしている。そうなんだよ。又、この男の中には〈狼〉と〈羊〉が共存しているのかもしれない。(ひつじ年だし)。庄司薫の小説に『赤頭巾ちゃん気をつけて』というのがある。映画にもなった。〈狼〉に気をつけて、ということだ。これは軟派な小説かと思ったら、学生運動を扱った小説だった。三島由紀夫も絶讃していた。〈狼〉とは「暴力」なのか。「学生運動」なのか。又、考えてみたい。
『腹腹時計と〈狼〉』が出たのが、1975年か。産経新聞をクビになった次の年だ。そして、内なる〈狼〉を脱却する「大きな転機」になったのは、「若者たちの神々」だ。筑紫哲也さんのインタビューだ。(1984〜85年)。野田秀樹、椎名誠、村上龍、桑田佳祐ら、錚々たる面々と共に私も出ている。私が出たのは、1984年4月10日号の「朝日ジャーナル」だ。25年前だ。しかし、私などをよく出したものだ。「やめろ」「まずいよ」という反対の声もあっただろう。筑紫さんも、『朝日ジャーナル』も大変な勇気だ。蛮勇だ。決断だ。だって、この頃は、私の中にはまだ〈狼〉がいた。一水会としても、過激な闘いをしていた。
そんな人間を「朝日ジャーナル」は載せた。「運動で捕まるのならまだいいが、破廉恥罪とか、殺し、企業恐喝、詐欺なんかで捕まったら筑紫さんの立場がない」と私は言っている。本音だ。「だから右翼なんか載せるなと、反対したじゃないか」「こいつらは言論を否定しているんだ。相手にするのがおかしい」と筑紫さんは言われる。
勿論、そんな話は当時、一切しない。でも、無言の中に私は、プレッシャーを感じた。「右翼は発言の場がないから、テロをやって発信するという。じゃ、〈場〉を提供しましょう。それでもテロをやるのは卑怯じゃないですか」と筑紫さんに問い詰められている。そんな感じがした。言論の「リング」に押し上げられ、「そこで闘え!」と言われたのだ。これは私にとり大きな挑発だった。転機になった。
さらに、この6年後の、「朝まで生テレビ」だ。1990年だ。19年前か。「日本の右翼」に出て、テロを否定した。それで、決まった。今の自分が始まった。
「非公然の部分を残していては、絶対に言論の場では戦えないと思ったんですよ」と、その時のことを思い出して私は語っている。
実は、この話は、今まで何十回となく、してきた。
でも、「週刊新潮」に赤報隊事件の〈実行犯〉が告白した時だ。「東京新聞」から取材された。「朝日ジャーナル」「朝生」など、言論の場が出来、それで「テロを否定」する路線になった、と言った。そしたら、記者の質問が鋭かったね。思ってもみない質問がきた。
「では、本当にテロが悪いと思って否定したのではなく、否定すると言った方が〈言論の場〉が広がるから言ったわけですね」
「本当は今でも、テロは必要だと思っている。しかし、それを言うと〈言論の場〉がなくなる。だから、その本心を隠したんですね」
ゲッと思った。思ってもみなかった。「そんなことはありませんよ。テロはいけない。許せないと思い、反省し、自己批判して、その路線をやめたんです」と急いで言った。
言いながら、俺はヤケに慌ててるな、と思った。もしかしたら、〈図星〉だったのかもしれない。そこを衝かれて、うろたえ、慌てて、動揺したのかもしない。正直に言うが、「朝日ジャーナル」「朝生」の時は、そんな気持ちもあったと思う。もしかしたら、「テロ否定」は、「仮面の告白」だったのかもしれない。でも、「仮面」は長く付けていると、〈肉体〉そのものになる。それが私だ。
だって、一時期、中核派、革マル派のような組織を目指したことがある。つまり、新聞を出し、公然とデモをやり、集会をやり、選挙にも出る。同時に、もう一つの面では、非合法活動もやり、〈実力〉を見せつける。それが車の両輪になる。そんなことを考え、「一水会改造法案」を考えた。だから、そんな昔を思い出して、東京新聞の質問にうろたえたのだ。
この「アエラ」の文だが、写真は3枚だ。本当は何百枚と撮っている。しかし、文章を沢山入れたくて、写真は少なくなり、小さくなったのだろう。柔道の写真、野分祭の写真がある。そしてトップは、「みやま荘」だ。畳の部屋で、机に向かって原稿を書いている。スチールの机だが、椅子は壊れたので、近所の古道具屋で買った木の丸椅子を使っている。粗末だ。コタツやテレビがあり、本がある。殺風景だ。部屋も暗い。人間も暗い。ただ、机の上にはペットがいる。と思ったら、ペットボトルの水だった。写真説明はこうだ。
「自宅アパートに足を踏み入れると畳が沈んだ。鈴木のストイックさが伝わってきた」
いやー、ただ、貧乏なだけですよ。甲斐性が無いんですよ。「ストイック」というと、そういうポリシーを持って、毅然として生きてるように見える。でも、そんな格好いいものではない。生活力がないんですよ。落伍者ですよ、人生の(だから落語も好きらしい)
「ストイック」というより、「いじめられっ子」なんでしょうね。失敗の連続ですよ。『失敗の愛国心』という本を書いたけど、それを外のライターから見たらこうなるというのが、「肖像」なんでしょうね。「失敗とクビ(リストラ)」の連続。それだけが私の人生でしたよ。「失敗だけが人生だ」。
高校受験で失敗し、高校を退学になり、やっと早大に入ったら全共闘に殴られ、右翼になっちゃった。その右翼学生も、いいとこまで行ったら、解任。追放。そして産経新聞に入って、社会人として出直そうと思ったら、無能で使い道がなくて、9回も部署をタライ回し。あげくはクビに。仕方なく、街の右翼になる。ところが赤報隊の容疑者にされて、ガサ入れ、逮捕の連続。全く、いいこともなく、六畳一間のアパートで死んだ。かわいそうな一生だ。
あっ、まだ生きとったか。でも、こう見てくると、ただ、坂道を転げ落ちてるだけだ。ドラマもない。夢もない。希望もない。とても「現代の肖像」になんかならないよ。でも、藤生さんは、しっかりと、その裏を見、私ですら知らない〈私〉を見て、書いてくれたんですよ。ありがたいですね。
でもね。やっばり、「いじめられっ子」ですよ。「公安のブラックリストに載ったら一生逃れられない。まるで、『レ・ミゼラブルの世界だ』と、私は自嘲的に呟いている。
〈過去に罪を犯しはしたが、更正し一般市民に戻ったジャン=バルジャンを刑事がどこまでも追いかけ、ワナを仕掛け、犯罪をしろと願う。日本の公安も同じだ、という〉
そうだよね。公安は言うんだよね、「他の右翼は、“鈴木は口だけだ”と言ってますよ。日教組や共産党に突っ込んで男を上げませんか。さすが鈴木だ、と皆、絶讃しますよ」と。悪魔の誘いだ。その誘いに乗って、突っ込んだ右翼も、かなりいるんだ。公安は「犯罪を防止」してるのではない。犯罪を作っているのだ。
その「誘い」には乗らなかった。だから、「鈴木の野郎は臆病者だ」「左翼に転向した」と、さんざん言われた。公安が、そう言いふらすんだ。ジャン=バルジャンか、「レ・ミゼラブル」か。「あゝ無情」だよ。「肖像」の初めのところで藤生さんはこう書く。
〈安全圏にいて、弱いものイジメしている現下の保守派文化人とは、覚悟が違う。
全盛期の左翼と激突し、連日袋だたきにされながらも、発言を続けてきた。そんな男が今や国賊扱いだ。まるで、昔の自分に責め立てられているかのように〉
皆に、いじめられ、「昔の自分」に責め立てられ、復讐されている。まるで「嫌われクニオの一生」だね。
そうだ。この「現代の肖像」は、去年の10月に話があって、取材が始まったから、丸々6ヶ月かかった。長期間、取材し、じっくりと話を聞き、そして、関係者に何十人と取材する。右翼関係者、左翼関係者、早大、産経時代の同僚など、30人以上だろう。厖大な数だ。ところが紙面は限られている。それで貴重な証言を、涙をのんで割愛したという。勿体ない。私が紹介した人も多い。この点は申し訳なかったと思います。又、何らかの形で生かせるかもしれない。たぶん、一冊の本になる位の取材をし、原稿を書いたのだろう。私にとっても、いい記念になりました。ありがとうございました。そうだ。全体の取材分を生かして、いつかは、一冊の本にしてほしいですね。
〈鈴木邦男氏の『「蟹工船」を読み解く』は面白かった。ただし「反日」という言葉の解釈が違う。わしは「反日」を使う。我々の祖父や先祖を悪人に仕立てる勢力は「反日」。冤罪は晴らす。先祖の名誉は守る。英霊には感謝する。ちなみにわしも里見岸雄は数冊読んでるし、『天皇とプロレタリア』は読みました〉
里見についても書いている。ありがたい。里見は素晴らしい思想家だ。もっともっと多くの人に読んでもらいたい。
家に帰ったら、ロフトで出している『Roof Top』(4月号)が送られていた。店長の平野悠さんが、私の本を大きく取り上げていた。ありがたい。内容を詳細に紹介した上で、こう書いている。
〈この本は鈴木邦男ワールド満載なのである。「蟹工船」が書かれた時代や小林多喜二を解き明かす方法論を筆者は自分の過去の右翼活動や当時の全共闘のあれこれをベースにしながら解説しているのだ。小林多喜二の周辺や当時の変な右翼『天皇とプロレタリア』を書いた里見岸雄の「天皇奪還論」の話も面白いし意外と理解しやすい。相変わらず鈴木さんの書かれる文章は誰にでも読みやすい〉
元新左翼運動活動家の平野さんに、こう言ってもらえて嬉しいです。
夜の7時から、中野ZEROホールに行く。「週刊金曜日」と「月刊日本」の共同講演会だ。「左右共闘」の画期的なジョイント・イベントだ。テーマは、「貧困とテロ、クーデター」。パネラーは、雨宮処凛、佐高信、佐藤優、山崎行太郎の各氏。司会は青木理氏。なかなか緊迫した討論会だった。終わって打ち上げに参加した。佐藤優氏などと話し込んだ。佐藤さんは忙しいのに、よく本を読み、原稿を書いている。凄い。〈最強の勉強法〉をいろいろ聞いた。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉