2009/06/01 鈴木邦男

〈義の人〉泉水博さんの決起と誠

①日本赤軍の4人に面会した

野村秋介さんが泉水博氏のことを書いた「レコンキスタ」
野村秋介さんが泉水博氏のことを書いた「レコンキスタ」

 ノートパソコンを持ち込んで、今、東北新幹線の中でこの原稿を打っている。6月1日(月)、朝一番の新幹線で仙台に向かっている。元・日本赤軍幹部の丸岡修さんに面会する為だ。
 5月から6月にかけて、半月の間に4人の日本赤軍の人たちと面会している。
 5月12日(火)和光晴生さん(東京拘置所)無期懲役
 5月21日(木)泉水博さん(岐阜刑務所)無期懲役
 5月26日(火)重信房子さん(東京拘置所)懲役20年
 6月1日(月)丸岡修さん(宮城刑務所)無期懲役

 4人とも偉大な革命家だ。
 こうした人たちと同時代に生きられたことは幸せであり、誇りだ。凄い人たちだと思う。革命の為にアラブに飛び、世界を舞台に闘った。アラブ人民と共に闘い、銃を持って戦闘に参加し、ハイジャックもやった。日本の獄中にいる同志も奪還した。歴史を作った人たちだ。
 4人とも、日本赤軍の戦士たちだ。ハイジャックなど、激しい闘いはやっているが、全て、「人民のための闘い」だ。日本の法律には違反してるだろう。だが、誰も人を殺していない。政治犯だ。それなのにこの重罰だ。重信さんは懲役20年。他の3人は皆、無期懲役だ。酷い。酷すぎる。
 先日、西ドイツ赤軍の闘いを描いた映画「バーダー・マインホフ」を試写会で見た。この夏、日本で公開だ。日本の赤軍よりも徹底している。銀行強盗、要人誘拐、殺害…と、凄まじい。イタリアでも、赤軍が生まれ、こちらも同じように要人誘拐、殺害を実行している。60年代末から70年代にかけて、超過激な〈赤軍〉が生まれたのは、日本・ドイツ・イタリアの旧「枢軸国」だけだ。旧「連合国」には生まれていない。戦争に負けたこと。それもある。それ以上に戦争犯罪の問題を徹底的に考え抜いたからではないか。「贖罪」と「反省」が、より過激な闘いに走らせたのかもしれない。

ハイジャックで釈放された時の泉水博氏
ハイジャックで釈放された時の泉水博氏

 先日、イタリアのジャーナリストに会った。イタリア・ドイツでは、「赤軍問題はクリアーした」と言っていた。皆、出獄したという。でも、銀行強盗、要人誘拐、殺害…と、日本以上に激しい、残忍なことをしている。「それでも全て釈放されました」という。日本には「赤軍罪」があるらしい。何もしていない塩見孝也さんは、「赤軍派議長だった」というだけで20年も獄中に入っていた。又、人を殺したわけでもない日本赤軍の重信さんは懲役20年で、これから刑務所に送られる。和光、丸岡、泉水氏は、無期懲役だ。特に泉水さんなんて、通算で38年も刑務所に入っている。昔なら無期懲役でも20年未満で出た。つまり、無期を2人分、つとめているのだ。
 無期懲役は終身刑とは違う。昔なら20年で出られた。今は、どんどん厳罰化が進み、30年でも出れない人がいる。特に政治犯はそうだ。政治犯はすでに「終身刑」になっている。酷い話だ。それに、これだけ有為な優秀な人材を、ただ刑務所に入れておくのは「国家の損失」だ。ドイツ、イタリアにならって釈放したらいい。そして経験と才能を生かして、国家のために働いてもらったらいい。前にも言ったが、重信さんは外務大臣か、駐アラブ大使になってもらったらいい。アラブ外交は全て、うまくいく。アラブでは日本赤軍の人気もあるし、信頼もあるのだし。又、和光、丸岡、泉水さんも、外務省や文科省で働いてもらえばいい。明治の元勲たちならば、必ずそうやったはずだ。少々、国家に逆らった人間でも、国のために使った。明治国家に最後まで逆らった榎本武揚、大鳥圭介だって、ちょっと獄に入れた後に、国家の要職につけ、力を発揮してもらった。その位の英断を持てよ。二世議員ばかりの日本じゃ、どうしようもないだろう。

②こんな人生、ちょっとないよ

1977年、日本赤軍ハイジャック
1977年、日本赤軍ハイジャック

 さて、泉水博さんのことを今回は書く。1977年のダッカ事件(日本赤軍のハイジャック事件)で釈放され、アラブに渡った人だ。その後、フィリピンにいるところを逮捕され、今は岐阜刑務所にいる。この人、いわゆる「政治犯」ではない。「刑事犯」だ。強盗殺人で千葉刑務所に入っていた。しかし、千葉刑務所における〈決起〉が、日本赤軍に認められ、ノミネートされ、「奪還」されたのだ。
 又、千葉刑務所では、野村秋介さんと一緒だった。野村さんを凄く信頼していた。千葉刑の〈決起〉は秘密にされていたが、出所した野村さんが公表した。「レコンキスタ」(一水会機関紙)にも発表した。他の媒体にも発表した。「救対」などにも大々的に出た。それで、遠く、アラブの地にいる日本赤軍の耳にも届いた。「凄い奴がいる。こんな男は釈放し、アラブで働いてもらうおう」と奪還したのだ。明治時代の元勲らが考えたことを、彼らに代わって実行してやったのだ。
 ダッカ事件は1977年9月だ。この「レコン」が出たのは、78年1月だ。今から33年前だ。この時も泉水さんは、「義の為」にアラブに行ったのだ。左翼運動をしたことはない。だから日本赤軍のことも知らない。でも、自分が行かなければ人質の乗客は解放されない。そう思って行ったのだ。
 この時も「義の為」といったが、前回の千葉刑務所での〈決起〉も、「義の為」だった。又、千葉刑務所に入る原因になった「強盗殺人」だって「義の為」だった。「千葉刑務所内での決起は分かるが、強盗殺人は違うだろう。ただの凶悪犯罪だ」と思う人がいるかもしれない。しかし、違うのだ。「義の為」だった。別の言葉で言えば、「不運」だったのだ。数奇な運命に弄ばれたのだ。

松下竜一『怒りていう、逃亡には非ず』
松下竜一『怒りていう、逃亡には非ず』

 そのことは、松下竜一の『怒りていう、逃亡に非ず=日本赤軍コマンド泉水博の流転』(河出文庫)を読むとわかる。今は絶版だが、ネットの古本屋で手に入る。僕は昔、読んだ。そして、今再び買い求めて読んだ。さらにもう一つ、今あげた「レコンキスタ」第29号(昭和53年1月号)だ。野村秋介さんが1面で書いている。タイトルもいい。

〈君に泉水博の慟哭が聞こえるか
 =かけらほども左翼的でない彼がなぜ日本赤軍へ=〉

 一水会に言ったら、このコピーを送ってくれる。読んでみたらいい。この野村さんの文。そして松下の本。この2つを読んだら分かる。泉水博という男の〈義〉と〈誠〉が。

 松下竜一の本の表紙には、こう書かれている。

〈1977年、日本赤軍のハイジャックによってアラブへわたり、10年後、フィリピンでとらえられた「刑事囚」泉水博の数奇な人生を哀歓こめて描き出し、大江健三郎氏が「同時代史の傑作」と絶讃した感動のノンフィクション〉

③「人助け」のためにやったのに…

丸岡修『公安警察ナンボのもんじゃ』
丸岡修『公安警察ナンボのもんじゃ』

 この本と、ウィキペディアから、泉水さんのことを紹介する。1938年、千葉県木更津市生まれ、現在、71才だ。県立木更津市第二高校を2年で中退後、職を転々とする。1960年(22才の時)、仲間2人で逮捕された。泉水さんは無期懲役が確定し、千葉刑務所で服役。  松下の本では、この事件のことが詳しく出ている。兄貴分に「実は、人に預けているものがある。取りにいくので一緒に行ってほしい」と頼まれた。「いいですよ」と言ってついて行った。重役夫人の家だ。兄貴分は夫人と話をする。「隣の部屋で待っていてくれ」と言われた。そしたら急に、ドタバタと音がし、叫び声がする。何かと思って、隣室に入ったら、何と、兄貴分が重役夫人に馬乗りになって、刃物で、何度も刺している。「何をするのだ!」と飛びかかって、止めた。その時、ベッタリと血が付いた。そして2人で逃げた。
 ところが裁判では「共犯」にされた。何もしないし、むしろ止めたのに。兄貴分だって捕まったら命が惜しい。又、警察も罪を大きくしたい。泉水さんは「共犯」になった。又、この兄貴分は、逮捕後、自殺した。それで、なおさら泉水さんに罪がかぶせられた。かわいそうな話だ。
 そして千葉刑務所に入る。そこで右翼の指導者、野村秋介さんに出会う。一緒に座禅などをやり、感化される。野村さんは「河野一郎邸焼き討ち事件」で12年の刑をくらい、入っていた。
 1960年(昭和35年)の強盗殺人事件から15年。模範囚だった泉水氏は仮釈放が決定。もう出るという時に、この「決起事件」を起こす。普通ならば、こんなことはやらない。絶対にやらない。どんなことがあっても我慢する。刑務所内でどんな不条理なことがあっても、知らん顔をする。自分が出るのが先だ。そのあとで、外に出てから刑務所の問題を告発してやる。そう思う。ところが「義の人」泉水氏は、待てなかった。我慢が出来なかった。それも自分のことではない。同じ刑務所の人間が病気で苦しんでいる。刑務所側は何の処置もとらない。医者にも診せてくれない。何度も看守に言うが相手にしてもらえない。そこで決起する。看守を人質にとって、医者に診せろと要求したのだ。そのあと、本人は自決する決意だったという。そのへんのことは野村さんの文章に詳しい。

(左より)木村三浩氏、山田吉彦氏先生、鈴木(5/19)
(左より)木村三浩氏、山田吉彦氏先生、鈴木(5/19)

 この「事件」は、徹底的に秘密にされた。箝口令が敷かれた。しかし、口コミで広がり、千葉刑務所に泉水ありと、その噂が広がり、後の獄中者組合の結成につながった。この「口コミ」だが、野村さんの力が大きい。千葉刑務所から出た野村さんが、いろんなところに発表したからだ。
 そして、その2年後だ。ダッカ事件で、日本赤軍に〈指名〉される。赤軍派や〈狼〉グループと共に、刑事犯の泉水さんも「奪還」されたのだ。
 何度も言うように、泉水さんは、日本赤軍が何かも知らない。ただ、「自分が行かなければ人質の乗客は解放されない」。そう思って、行った。「奪還を拒否する」という選択肢は思い浮かばなかった。というより、あらゆる情報を遮断されたまま、「行くか」「行かないか」を聞かれた。
 もし、全ての情報を知っていて、他の人にも相談できたら、もっと別の選択肢もあっただろう。「人質の解放のために行ってやろう。そのかわり、今までの刑をチャラにしろ。今回のことも罪に問うな」と。しかし、そんなことは出来なかった。たとえ、情報があっても、泉水さんは、そんなことは要求しなかっただろう。どこまでも、「義の人」だ。無期懲役はそのままで、今も、岐阜刑務所にいる。「人助け」のための三度の事件。それなのに通算38年も刑務所にいる。

 ダッカ事件で「釈放」された時の話だ。ウィキペディアでは、こう出ている。

〈1977年9月28日に起きたダッカ日航機ハイジャック事件で日本赤軍では、強盗殺人犯で思想的背景や日本赤軍とは関係なかったが、獄中者組合の結成が反体制行動として犯人側に評価され、釈放要求リストに指名される。超法規的措置によって釈放された〉
〈刑法により無期懲役刑の時効が20年あったことから、20年逃亡すれば無期懲役刑がなされなくなる恐れがあった。しかし、釈放後から9年後の1986年6月7日にフィリピンで旅券法違反で逮捕され、日本へ送還。刑の時効は成立しなかった。1995年3月、逃亡前の無期懲役刑に旅券法違反の懲役2年が加算された〉

 有期刑では無期懲役が一番重い。それなのに、プラス2年だ。よく分からない。それに外国に行ったら時効は停止するんじゃないのかな。ともかく、凄い。人のために戦ってきたのに、義のために生きてきたのに、泉水さんは今、岐阜刑務所にいる。

④泉水さんは、野村さんの話ばかりした

一水会フォーラムで講演する山田吉彦先生(5/19)
一水会フォーラムで講演する山田吉彦先生(5/19)

 野村秋介さんは、千葉刑務所での決起事件について「レコン」で詳しく書いている。「純粋で、むしろ右翼的だった泉水」と書いている。カケラほども左翼的ではなかったと言う。
 この野村さんの言葉によって、右翼の人は「泉水博」の名前を皆、知っている。「義の人」「誠の人」として知っている。野村さんから「泉水博」の名前を聞いたのが32年前だ。それから僕の胸の中にこの名前はずっと刻まれていた。だから、何とか会いたいと思っていた。しかし、刑務所では会えない。そう諦めていた時、面会が実現した。最近、刑務所の規則も変わり、親族以外の人でも会えるようになったからだ。
 半年前から手紙のやりとりが始まった。向こうも、僕のことを知っていた。「野村さんの後輩」として聞いていたのだろう。そして、やっと面会できた。面会は月に3回だけだ。だから、重ならないように調整する人がいる。その人が一緒に行ってくれた。もう1人、カソリックの司祭さんも同行した。5月21日(木)の午後だ。岐阜駅からかなり遠い。その人の車に乗せて連れて行ってもらったので、助かった。

阿佐ヶ谷ロフトで。昼間たかし氏らと(5/19)
阿佐ヶ谷ロフトで。昼間たかし氏らと(5/19)

 手紙のやりとりはあったとは言え、初対面だ。緊張して会った。71才とは思えない。若い。小柄だ。「初めまして」と言ったら、意外な言葉が返ってきた。「いやー、“たかじん”でいつも見てますよ」。エッと驚いた。「たかじんのそこまで言って委員会」のことだ。「テレビが見れるんですか」と驚いた。
 そうか。日曜などは、時間を決めて、娯楽室に皆が集まって、見せてくれるのだろう。特別に…。でも、「チャンネル争い」があるんじゃないのかな。「俺はお笑いが見たい」「いや、俺はNHKののど自慢が見たい」…と。それで乱闘になって、殺人事件が起きたりして…。それとも、刑務官が、チャンネルを「たかじん」に決めて、それだけを見せるのか。
 「いや、自分の部屋にテレビがあるんですよ。だから、チャンネル争いはありません」
 エッ、そうなの。独房にテレビがある。知らなかった。マンションのようだ。「懲役」だから、毎日、工場へ働きに出る。ツナギの服などを作っているそうだ。夜、仕事が終わって部屋に帰ってきて、消灯までテレビが見れる。「土日は仕事が休みですから、一日中、見れるんです」。そうか。じゃ、「たかじん」も心置きなく見れるわけだ。
 「この前は、メイちゃんが出ててビックリしました。大きくなって」と言う。重信房子さんの娘さんのメイさんだ。今、朝日ニュースターなどのキャスターをやっている。一度、「たかじん」にも出た。「大きくなって。きれいになって」と言っていた。「アラブにいた時は、こんなでしたから」と言って、手で示す。5、6歳だったのだろう。
 野村さんの話をした。集中的にした。「本当にお世話になりました。素晴らしい人でした」と何度も言う。「野村さんの後輩の蜷川正大さんが後を継いでやってます。伝えておきます」と言ったら、「よく知ってますよ」と言う。実話雑誌によく出てるので読んでるという。刑務所の中では、いろんな雑誌が回されるのだ。

⑤これで「ダッカ事件」も身近に感じた

東大の学生証と昼間氏
東大の学生証と昼間氏

 20分位の面会時間は、アッという間に終わる。そして帰ろうとしたら、連れてきてくれた人が意外なことを言う。「もう1回、面会して行きましょうか」。
 最初、何を言ってるのか分からなかった。面会は1日1回。それも月に3回と決められている。だったら、もう1泊して面会してくれ、ということか。
 「いや、今月はこれで2回目ですから、もう1回分、出来るのです」と言う。でも、同じ日じゃダメだろう。「特別に出来るのです」と言う。特に、遠くから来てくれた時は、許可してもらえるんです、と言う。半信半疑だった。でももう1回、面会申請をする。スンナリ認められた。
 それで、ダブルの面会だ。こんなこと、初めてだ。他の刑務所だってないだろう。そこで、又、話をする。今度は、支援者の人も、弁護士との打ち合わせの話など、事務的な話もする。泉水さんは優しい人だ。やはり、義の人だと思った。
 「頑張って下さい。又、来ます」と言って岐阜刑務所を後にした。

 それから6日後、東京拘置所で重信房子さんに会った。泉水さんの話をしたら、とても喜んでいた。「小さい時にあったメイさんが、たかじんに出ていてビックリしたと言ってましたよ」と言ったら、「とてもかわいがってくれたから」と、懐かしそうに言っていた。
 「でも、ここから泉水さんに手紙を出しても入らないんです」という。同じ日本赤軍同士だから、連絡させないのだろう。「じゃ、僕が仲介しますよ」と言った。帰ってきて、ダッカ事件の写真を探した。このHPに載せたのが、それだ。『20世紀の記憶』(毎日新聞社)だ。そこで、「日本赤軍日航機ハイジャック」では、こんな説明が出ていた。

北芝健さんの手帳。汚い。読めない
北芝健さんの手帳。汚い。読めない
〈1977年9月28日、日航パリ発東京行きDC機がポンペイ離陸直後、「日本赤軍」の5人にハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強行着陸。犯人は拘置中の同志9人の釈放と身代金600万ドルを要求。
 9月29日。政府は「超法規的措置」で赤軍の要求を受け入れ、福田法相と塩崎政務次官が責任をとり、辞意を表明。赤軍側は乗客5人を解放。
 9月30日。拘置中の連合赤軍の植垣康博(28)、日本赤軍の大村寿雄、沖縄解放同盟の知念功(27)、3人が出国を拒否。
 犯人は日本赤軍の佐々木規夫、和光晴生、丸岡修、山田義昭、板東国男の5人と見られる。
 10月1日。赤軍兵士・奥平純三(28)、城崎勉(29)、強盗殺人犯・泉水博(40)、殺人犯・仁平映(31)、東アジア反日武装戦線・浴田由紀子(26)、大道寺あや子(28)の6人と身代金600万ドル(約16億円)を日本からダッカ空港に送り、人質の一部118人の解放と交換。
 10月3日。バングラデシュでクーデター未遂事件。乗っ取り機は離陸。アルジェリアのダル・エル・ベイ空港に着陸。乗っ取り犯5人と釈放犯が投降し、残る人質の乗客12人、乗員7人全員が解放〉

 これが「ダッカ事件」の全てだ。この事件で釈放された泉水さんの面会に行ったのだ。この時、釈放を拒否した植垣さんは友人だ。大村さんにも会ったことがある。又、この事件の「犯人側」(とされる)、和光さん、丸岡さんも知り合いだ。その犯人の仲間というか、「司令塔」と目されていた重信さんとも何度も面会している。私の「左翼人脈」も広い。ともかく、〈歴史〉を作った人たちだ。そんな「歴史上の人物」に会い、話をしただけでも光栄だ。

【だいありー】
北芝健さんの手帳。汚い。読めない
北芝健さんの手帳。汚い。読めない
  1. 5月25日(月)たまってた原稿を書く。夜、対談。
  2. 5月26日(火)午前10時、小菅の東京拘置所。重信房子さんに面会。一水会の木村三浩代表と、清水君も一緒。「あら、木村さん」と重信さん。「いろんなとこで見てます」と言う。レコンキスタも送っているので、読んでくれてる。「すごい活躍ですね」と重信さんが言っていた。終わって新宿に。仕事の打ち合わせ。そして、取材。
  3. 5月27日(水)午後1時、赤坂プリンスホテル。高須基仁さんの対談集『国粋ニッポン闘議』(春日出版)の出版記念会。対談した東条由布子さん、田母神俊雄さん、花田紀凱さんも参加し、壇上で座談会を再現。前田日明さん、康芳夫さんなどにも会った。少し飲み過ぎて、フラフラした。  夕方から雑誌の対談。まだ酒が残っていて、キツかった。フラフラしながら喋った。いいのかなー。こんなことで、と反省。
  4. 5月28日(木)朝、落合駅で、民主党の人が演説していた。海江田万里さんもいた。「あっ、お久しぶり」と立ち話をした。午前10時、打ち合わせ。午後3時、河合塾コスモ。「現代文要約」。5時から「基礎教養ゼミ」。今週は私が選んだ本を読む。孫崎享さんの『日米同盟の正体』(講談社現代新書)。6月の一水会フォーラムの講師でもある。とても詳しいし、知らなかったことが多かった。勉強になる。終わって、生徒たちと食事会。やっと、カレーから解放されて、今日は大衆食堂。冷やし中華を食べる。
  5. 5月29日(金)午前中、図書館。午後から原稿。夜、柔道。ヘトヘトになった。
  6. 5月30日(土)午後1時から8時まで、松岡正剛さん主宰の「連塾」に出る。勉強会だ。品川のザ・グランドホール。萩尾望都さん、松本健一さん、横尾忠則さんが講師。エキサイティングな話だった。
     終わって、創作厨房「一瑳」で打ち上げパーティ。私も挨拶した。
  7. 5月31日(日)午後2時から東中野の骨法道場。堀辺正史先生の「平成攘夷論セミナー」。武士道、日本の歴史についての話を聞く。とても勉強になる。若い人ばかりで、ギューギュー詰めだった。
【写真説明】

①「レコンキスタ」第29号(1978年1月号)です。1面に野村秋介さんの「君に泉水博の慟哭は聞こえるか」が載ってます。

②1977年、ダッカ事件で解放された時の泉水博さんです。

③1977年、ダッカ事件

④松下竜一『怒りていう、逃亡には非ず』(河出文庫)

⑤丸岡修『公安警察ナンボのもんじゃ』(新泉社)

⑥5月19日の一水会フォーラムで。講師の山田吉彦先生(中央)と。木村三浩氏、私です。

⑦講演する山田先生。

⑧同じく、5月19日。フォーラムのあと、阿佐ヶ谷ロフトに駆けつけた。『マンガ論争勃発2』の出版記念イベント。昼間たかし氏たちと。

⑨何と、昼間氏は東大に入ったそうな。「学生証」を見せてくれた。本物だ。じや、オラも来年は、東大に入ろう!

⑩〜⑪北芝健さんがメモしてたのを覗いたら、キッタネー。「これは字ですか?」と言っちゃった。そうか、他人に見られてもいいように暗号で書いてんだ。それもわざと汚らしく。「違います。キチンと書いてます。ほら、読めるでしょう」と言ってたけど、読めへん。

【お知らせ】
  1. 6月15日(月)7時、一水会フォーラム。今売れている『日米同盟の正体』(講談社現代新書)の著者・孫崎亨氏が講師です。
  2. 根津のギャラリー「TEN」で6月12日(金)〜6月21日(日)。映画「実録・連合赤軍」写真展。なお、6月18日(木)は地下鉄・根津駅前の「忍ばず通りふれあい館」B1ホールで、13時半より、「実録・連合赤軍」と「赤軍-PFLP世界戦争宣言」の上映。その後、19時より同所でトークショーです。若松孝二、足立正生、鈴木邦男です。
  3. 7月11日(土)ポレポレ東中野で「台湾人生」上映後、酒井充子監督とトークです。とてもいい映画で、「ここにこそ日本がある」と思いました。楽しみです。「台湾人生」は6月27日よりポレポレ東中野でモーニングショーです。
  4. 7月19日(日)1時、大阪御堂会館。和歌山カレー事件最高裁判決について、辛淑玉さんが語ります。「あの判決って、やっぱりヘン!」。安田弁護士も話します。私も参加します。
  5. 8月21日(金)〜23日(日)。劇団再生の主催で「見沢知廉生誕50年展」が行われる。「天皇ごっこ〜調律の帝国」の舞台化。そして、トークライブとして高木尋士氏と私の「死後に成長する命・言葉・人生」があります。お楽しみに。この日、50才で誕生した見沢氏は、これから、どんどん若くなって、さらに多くの可能性に挑戦するのでしょう。
     トークには、現在、映画『見沢知廉』を撮っている大浦信行監督も3回共、参加することになりました。ご期待下さい。見沢氏本人も特別出演するかもしれません。
  6. 9月12日(土)午後2時。新潟県新発田市生涯学習センターで講演。「大杉栄と小林多喜二」です。
  7. 9月28日(月)午後7時、Parc自由学校で講演します。「天皇制と民主主義」です。
    「Parc自由学校 2009」の受講案内のパンフレットが送られてきた。「連帯のための哲学=生きる場のことばと実践から」のコーナーで私は講義します。パンフレットには、私の「天皇と民主主義」の講義の紹介が書かれている。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉