「野村秋介さんと鈴木さんには、アラブに来てもらいたいと思ってたんですよ」と丸岡修さん(元・日本赤軍)は言う。「竹中労さんが橋渡しをしたんです」。あっ、あの話か。「でも、『新雑誌X』事件でダメになってしまった。惜しかったですね」と言う。
25年前。野村さんと共にアラブに行き、日本赤軍の人々と会うはずだった。行ってみたかった。残念だ。実現していたら、大きく変わっていただろう。私らの運命も。日本も…。千葉刑務所で野村さんと一緒だった泉水博さんが、この時は、アラブにいた。1977年のダッカ事件で、日本赤軍に奪還されて、コマンドとして闘っていた。2人の感動的な再会も見てみたかった。
でも野村さんのことだ。「よし、しばらくここにいて一緒に闘おう!」なんて言いかねない。私としても、1人だけ帰る、なんて言えない。私もコマンドとして残ることになる。毎日のように戦闘がある。そこで死ぬかもしれない。あるいは、「一宿一飯の恩義」で、「じゃ、ハイジャックでもやりますよ」と志願したかもしれない。そうしたら、刑務所の中に入ってたのが私だったのかもしれない。
6月1日(月)、宮城刑務所で丸岡修さんと面会しながら、そんなことを思った。2週間の間に、日本赤軍の幹部4人に面会した。重信房子、泉水博、和光晴生、丸岡修の4人だ。「“昔の敵”に、わざわざ面会に来てもらい、申し訳ありません」と丸岡修さんは言う。「しかし、その前は同志ですよ。そして今も…」と私は言った。 丸岡、和光さんは、中学・高校時代は、むしろ右翼的な少年だったという。重信さんは、お父さんが血盟団のメンバーだ。生まれる前から右翼だ。泉水さんは、左翼とは全く縁がない。義の人、誠の人で、「むしろ、右翼的だった」と野村さんは言う。
先週のこのHPで書いたが、泉水さんは千葉刑務所に入っていたが、政治犯ではない。刑事犯だ。死にそうな囚人仲間を「医者に診せろ」と要求し、看守を人質にして決起した。その事件は秘密とされたが、出所した野村さんによって、世に知らされた。そして、アラブにいた日本赤軍の知るところになった。1977年、日本赤軍がダッカでハイジャックをした時、新左翼の仲間だけでなく、刑事犯の泉水さんも一緒に奪還した。
奪還グループのリーダーは丸岡さんだ。「千葉刑務所の決起があったんで泉水さんをノミネートしたんでしょう」と聞いた。「ノミネートと言うのかな。ともかく、野村さんがマスコミに発表しなければ分からなかったし、それで知って、凄い男がいると思ったんです」と言う。「この男は根性が違うし、実行力がある。だから日本赤軍コマンドとして使える」と思ったんですね。「いや、それよりも、もっと大きなことを考えていたんです」と丸岡さん。もっと大きく、世界大的規模で運動を展開しようと思っていた。そして詳しい話をしてくれた。 泉水さんは丸岡さんとは一番気が合ったらしい。でも泉水さんは、日本赤軍も、マルクス・エンゲルスのことも知らない。「アラブで、勉強会には出たんですが、ついて行けなかったですよ」と泉水さんは行っていた。その話を丸岡さんにしたら、「でも、彼は我々の理論機関誌の編集をやってたんですよ」と言う。エッ、本当ですかと叫んじゃった。
「編集をし、本に製本するんです。プロ的な腕前でしたよ。千葉刑務所でその仕事をしてたんですから。刑務所で習った製本技術ですから確かなものですよ」
そうなのか。製本だけでなく、銃を持って闘ったりもしたのだろう。でも、立ち入った話を聞いてはいけないのかと思い、聞かなかった。支援者のある人は、「泉水さんは手榴弾を投げるのがうまかった」と言う。「なんせ、千葉刑務所の時は、囚人の野球大会でピッチャーとして鳴らしてましたから」。
まるで「最後の早慶戦」のような話だな。戦争中、野球は敵国のスポーツだからといって中止になる。何とか早慶戦をやりたいと思い、野球部の監督は軍のお偉いさんを呼んで、見てもらう。「野球は戦争に役立つんですよ。ほら、ピッチャーなんか、手榴弾投げがうまいでしょう」と〈実演〉してみせた。普通の人よりも、グンと飛距離が伸びる。スピードもある。正確に的に当たる。(つまり、正確に敵を殺せる)。
1960年代後半の全共闘運動の時だって、高校で野球をやってた人は、選抜されて、「火炎瓶投擲部隊」に入れられた。肩が強いと、コントロールもいい。ビシビシと決まった。機動隊なんて火ダルマだ。
又、高校で剣道をやった人たちは、ゲバ棒や竹槍、鉄パイプを持たされ、前面に出て機動隊と闘った。大学のキャンパスでは、よく、竹槍訓練をやっていたが、高校の時に剣道部にいた人間が指導した。剣道を基にしながら、「ゲバ棒道」「竹槍術」「鉄パイプ道」を極めていた。そうした人々も今は「アラ還」だ。還暦前後だ。「鉄パイプ道」を極めた猛者たちも、今は猛々しい闘志を失い、まるで、パイプカットされた男のようだ。
今も学生運動が盛んだったら、松坂などは、学生運動にノミネートして、「高給待遇」されていた。今、ハイジャックしたら、格闘家や野球選手をノミネートするよね。「即戦力」になるし…。
野村秋介さんが経団連事件を起こしたのは1977年3月だ。そして府中刑務所に入る。ここでダッカ事件を知る。同じ年の9月末だ。ダッカ事件で、泉水さんは奪還された。そして、1978年1月の「レコンキスタ」に野村さんは泉水さんのことを書く。野村さんは府中刑務所に6年いて、1983年5月に出所する。
野村さんはいろんな人と知り合い対談するが、左翼では、ゲバリスタ(世界革命浪人)の竹中労さんと一番、気が合った。何度も対談し、飲み明かしている。竹中さんはアラブに行き、重信さんたちと会っている。「太いパイプ」がある。「野村さん、一緒にアラブに行きませんか」「いいねー、行ってみたいね」という話になった。それで、竹中さんは、アラブにいる日本赤軍のメンバーに打診した。泉水さんの「千葉刑務所決起」で、皆、野村さんの名前は知っている。大体、野村さんが言わなければ、〈決起〉は世の中に知られない。日本赤軍は、皆、「右翼」は嫌いだ。でも、野村さんは、一般的な「右翼」ではない。そう思い、認識していた。
「それに鈴木さんでしたよ」と丸岡さんは言う。『腹腹時計と〈狼〉』(三一新書)を読んでたし、「この人は、その辺の右翼と違う」と思ってました。と言う。それで、「この2人なら大歓迎ですよ」と竹中さんに伝えた。
そうか、そんな背景があったのか、と、今やっと分かった。でも、これは実現しなかった。1984年7月に突如、「新雑誌X」事件が起こったからだ。東郷健が「新雑誌X」に不敬イラストを載せた。このことで、「新雑誌X」は、全国の右翼から攻撃された。「新雑誌X」の事務所は襲われ、メチャクチャになった。東郷健は大久保で右翼青年に襲われ、肋骨6本を折る重傷で病院に担ぎ込まれた。その事件に私ら一水会も積極的に関わった。何人も逮捕者を出した。思い出したくもない事件だ。その時、竹中さんは「新雑誌X」、東郷健の側についた。野村さんや我々は、それを攻撃する側だ。その闘いがあったので、「アラブ行き」の話は断ち切れになってしまった。残念だ。
「そうか、それでアラブに行けなかったのか」と、今、謎が解けた。25年目目にして分かったことだ。今まで不思議に思っていたのだ。私は、日本赤軍の人々に、やけに親近感を感じる。「昔の敵」とは思えない。丸岡さんの話を聞いて、分かった。私だって、かなりヤバイことをやってきた。もしかして、捕まって獄中にいたかもしれない。それなのに、人間がズルイから、逃げのびた。卑怯だった。堂々と闘い、逃げなかった人は皆、捕まっている。あるいは死んでいる。そうした「疚(やま)しさ」があるのだ。「贖罪感」があるんだ。だから、こうして、面会にも行くし、「申し訳ない」と思うのだ。
6月1日、(月)、丸岡さんと面会した後、兄貴の家に寄った。「丸岡さんはどこの大学だったの?」と聞く。日本赤軍の幹部だから、東大か京大だろうと思ったが、よく分からない。持参したノートパソコンで見たら、「高校卒業」になっていた。ヘエー、高卒で日本赤軍コマンドか。「叩き上げのコマンド」なんだ。家に帰ってから、丸岡さんの本を取り出して見た。『公安警察ナンボのもんじゃ』(新泉社)という挑発的な本だ。日本に帰ってきて、捕まった後に書いた本だ。この本の「著者略歴」には、こう書かれていた。
丸岡修(まるおか・おさむ)
1950年10月 徳島県生まれ
1969年3月 大阪府立清水谷高校卒業、その後京都市内のネクタイ製造販売会社に勤務。
1972年4月 ベイルートへ。
1987年11月 東京シティ・エア・ターミナルにて逮捕され、現在、東京拘置所在監中。
この本は1990年に出た。だから、東京拘置所にいた時だ。そこで書いた本だ。裁判中だから、ダッカのハイジャック事件などには触れてない。ハイジャック事件の写真を見ると、ハイジャッカーは皆、覆面をしている。誰がやったか分からない。裁判の時も、わざわざ、「自分がやった」とは言わない。だから、「略歴」にも書かれてない。他のメンバーもそうだ。
ハイジャッカーは丸岡さん、和光さんだ。と先週はそう書いた。毎日新聞社の『一億人の昭和史』にもそう書かれている。『でも、あの時、和光はいませんでした』と丸岡さん。エッ!そうなのか。これも知らなかった話だ。
丸岡さんは1950年10月生まれだから、今年の10月で59才か。高校を出てネクタイ会社に勤めたのか。意外だ。でも、どんな仕事をしてたのだろう。販売のセールスか。あるいは、ネクタイの絵柄を描くのか。裁縫するのか。あるいは、ネクタイのデザイン、機能を考えていたのか…。毎日毎日、モデルの人間の首にネクタイを締めて、「うん、もっと強く締めた方がいいな」「これ以上、首を絞めたら死んじゃうな」と言いながら、「絞める練習」をやっていたのだろう。連合赤軍に行ったら、「総括」の時に、この技術は、もっと有効に使えたのに、残念だ。
ついでだから、「ウィキペディア」で丸岡さんを引いてみた。
〈清水谷高校卒業後、大阪浪共闘やベ平連で市民活動家として活動した〉
と出ている。「浪共闘」というのは、浪人の共闘組織だ。高校を出て、予備校に行ったのだろう。河合塾かな。大学受験を目指して、浪人をし、闘争もしていた。でも、大学に行くよりも革命の方が大事だと思い、日本赤軍に入ったのだろう。あるいは、浪人としての闘いっぷりが認められ、日本赤軍にノミネートされ、オルグされたのかも…。その後は、「ウィキペディア」ではこうだ。
〈その後、日本赤軍メンバーとして1973年のドバイ日航機ハイジャック事件、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件に主導的立場で関与したとして国際指名手配を受けた〉
〈1987年11月21日に東京で警察に偽造パスポートを所持ししていたため逮捕された。指紋の照合で丸岡修であることが確認される。この逮捕によって、丸岡が翌年に迫ったソウルオリンピックを妨害工作するためにソウル行きを計画していたことが明らかになる〉
うーん、これは違うだろう。「オリンピックの妨害」なんて考えていないだろう。その後だ。
〈ドバイ・ダッカの両ハイジャック事件に対するハイジャック防止法違反と、偽造旅券で帰国したとする旅券法違反の罪に問われ、1993年12月、無期懲役の判決を受けた。1997年4月に控訴を、2000年3月に上告をそれぞれ棄却されて無期懲役が確定。宮城刑務所で服役中〉
又、丸岡さんは他にもいろんな事件の関与が噂されている。それだけ大物なのだ。「三井物産マニラ支店長誘拐事件」で犯人側に渡された身代金と丸岡さんの所持していた紙幣の番号が一致した、と新聞に報道され、この新聞社を丸岡氏は訴え、勝った。その他、こんな記事もある。
〈岡本公三によるとテルアビブ空港乱射事件は当初の計画では、丸岡を含めた4人で行う予定であったが、丸岡が別行動を取ったため3人で襲撃したと供述している〉
いろんなことがあったんだ。常に死と隣り合わせだったんだ。今度、面会に行った時に又、詳しく聞いてみよう。
「篠田さんにもよろしく言って下さい」と言ってた。去年、丸岡さんの病状が悪化した時、八王子医療刑務所に移されてきた。その時、月刊「創」の篠田さんに誘われて見舞いに行った。ところが私はOKなんだが、篠田さんはダメ。以前から面会、手紙のやり取りがなければダメなんだ。さらに今は、免許証やパスポートなど、住所を堪忍できる証明書のコピーを刑務所に提出する必要がある。「そのことも伝えて下さい」「はい、分かりました」「木村さん、高木さんにもよろしく。早見慶子さんからは本を頂きました。ありがとうございました」と言っていた。だから、ここで伝えます。
「鈴木さん、新しい本は、もうそろそろでしょう」と言われた。「エッ? そんな予定はありませんけど」と言った。
そういえば、5月12日(月)に和光晴生さんに面会した時も、同じようなことを聞かれたな。「新しい本、もうそろそろ出るんでしょう。〈反米論〉を書いてるんでしょう」と言う。
ギクッとした。『反米論』は、ぜひ書いてみたいと、ずーっと思っていたからだ。どうして日本赤軍の人は人の心を読めるのだろうか。勘が鋭い。日本赤軍の「赤」は共産主義だ。いや、それ以前に、〈誠〉だ。日本でも、「赤」本来は「天皇への忠誠」を意味した。赤子、赤誠…と。それなのに、大正時代からは、「アカ」は蔑称だ。
元共産党の活動家・樋口篤三さんに電話して聞いたら、神山茂夫などは「アカ」といわれることに〈誇り〉を持っていたという。「日本では、赤子、赤誠…と、昔から『赤』はいい意味だった」と言ったそうだ。これは新発見だ。
じゃ、そういうことも考えてみたい。時間はかかるだろうが。その前に、『反米論』は思い切って書いてみたい。
②康芳夫さんとも久しぶりに会いました。猪木vsアリ戦を仕掛けたり、「オリバー君」を日本に呼んだり。ともかく怪人です。「鈴木君のことを左傾した、と言う人がいるけど、どう思う」と聞かれました。「光栄です。進化だと思います」と言った。
⑤⑥⑦6月1日(月)宮城刑務所に丸岡修さんの面会に行き、その帰り、兄貴の家に寄りました。「実家にお前の日記があったぞ」と渡されました。1964年ですから、大学1年〜2年にかけての日記です。何と「英文日記」です。凄いですね。英語で日記をつけてたんですね。ビックリしました。
⑩松林要樹監督の『花と兵隊』です。国のために闘った兵士たちが、なぜか帰国を拒否します。何故なのか。大切なのは国家か。個人か。戦争とは何か。松林監督は長期ロケでその謎に挑みます。
今夏、シアター・イメージフォーラムでロードショーです。
⑪酒井充子監督の「台湾人生」です。51年もの間、日本の統治下にあった台湾。この時代を経験した人々は日本語を話し、日本の童謡も歌える。「私たちこそ本当の日本人」と言う。弾圧もあり、苦しみもあった。悲しみもあった。しかし、日本への眼は温かい。ここにこそ〈日本〉があると思ってしまった。6月27日より、ポレポレ東中野でモーニングショー。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉